薬師寺氏は、因幡薬師堂を建立し祀った橘行平の子孫とされていますが詳しくは判っていない。摂津を基盤とした一族で、薬師寺公義の頃から足利幕府の要職に就き、細川惣領家の被官として文明年間以来、摂津国の守護代を継いだ。本拠は摂津国上郡の守護所であった芥川城。
薬師寺公義は後年元可と名乗り、歌を詠んでいる。細川勝元に仕えた薬師寺元長、その子薬師寺与一元一、細川澄之を擁立した元一の弟薬師寺長忠、細川高国に属した薬師寺国長、細川晴元に近侍した薬師寺元房がいる。三好長慶に芥川城を奪われた後、没落した。
<新庄・森岡>
新庄氏は、橘致範を家祖として陸奥に定着した一族である。橘氏と陸奥の関係は深く、清少納言の夫であった橘則光が陸奥に赴任しており、その際、砂金収集を行ったことで、後任の平孝義が苦情を申し立てている記録が残っている。当時の東北地方は、開発が進んでいない土地で、古くから清原氏、安倍氏など俘囚の豪族が依然として力を持っており、武力衝突が起る状況であった。陸奥守としては橘則隆、橘成任、橘以綱が就き、橘致範の父である橘好則は陸奥住人となって基盤を作っている。橘則季の孫の橘清則は出羽守として赴任するなど、橘則光以降の一族と陸奥、出羽の関係が深い。新庄信春は津軽大浦氏の家祖となった金沢光信(南部氏)の信任を得て次嗣を、金沢光信の養子として大浦城に移した。これが大浦盛信である。その子は森岡為治で盛岡氏として継続する。大浦盛信の後を、金沢光信の子、大浦政信が継ぎその孫が津軽氏の祖となる津軽為信である。
新庄信正
生没年未詳。新庄信之の男。妻は藤崎季元の女。藤崎氏は津軽藤崎に拠点を置いた安藤氏の一族であり、新庄氏の基盤が津軽にできていたことが推察される。
大浦盛信(1483~1538)
新庄信春の次男。金沢光信の養子。文亀2年(1502年)金沢光信の命で、新しく築城された大浦城に入る。大永6年(1526年)に金沢光信が死去すると、大永8年(1528年)には菩提を弔うために、西津軽郡に長勝寺を建立している。天文2年(1533年)には南部安信に攻められるが撃退し、その後和睦を結んでいる。金沢光信の男である大浦政信が後を継ぐ。
森岡為治(1500~1541)
津軽氏の家臣。大浦氏一門の家老として3000石を領した。天文10年(1541年)6月9日、主君・大浦政信に従い、和徳城攻めに参加した。その際、岩木川畔の三味線河原で戦いとなり、和徳城主・小山内満春が討ち取られたが、満春の子・永春が加勢すると戦況は逆転し、大浦政信と共に討ち死にした。
森岡信元(1546~1600)
森岡信治の男。父の森岡信治は大浦為則の後見役にあたり、父の跡を継いで為則の婿養子・津軽為信に仕えた。元亀2年(1571年)5月5日、津軽為信によって石川城や和徳城が落城すると和徳城主となった。天正3年(1575年)の大光寺城攻めでは泥に馬の足を取られた為信の窮地を救い、天正7年(1579年)の茶臼館戦でも夜襲をかけて敵勢を壊走させるなど、為信の戦国大名としての独立に大いに貢献し、兼平綱則、小笠原信浄らと共に大浦三老の一人にまで列せられた。しかし後に為信と対立し、慶長5年(1600年)5月7日、梶仁右衛門によって久渡寺で暗殺された。
森岡信年(1594~1651)
森岡信元の男。慶長5年(1600年)、父信元が久渡寺で殺害されると、その死を病死として届け、母と共に小沢の館より追小野木に移住した。慶長14年(1611年)に城下の馬屋町に移住し、元和7年(1621年)300石を与えられた。後に500石に加増となり、寛永17年(1640年)には家老となった。同17年には700石となり、慶安4年(1651年)、死去した。
森岡元長(1647~1699)
森岡信安の男。万治3年(1660年)、証人役になり、寛文4年(1664年)家督700石を継いで、延宝4年(1676年)には家老となった。貞享3年(1686年)には城代となり、1000石に加増された。元禄3年(1690年)、再び家老となると、元禄12年(1699年)6月14日、死去した。
森岡元隆(1680~1710)
森岡元長の男。才気煥発で主君・津軽信政からの信任が厚かった。元禄15年(1702年)9月、家老となると、200石加増され、1200石になり、宝永3年(1706年)700石、同5年(1708年)600石の加増で2300石となった。翌6年(1709年)、将軍・徳川家宣が全国の大名に鶴の献上を命じると、諸大名は生類憐れみの令を気にしてなかなか献上しないところ、将軍の命であるとして反対派を抑え献上し、家宣から称賛された。翌年、信政の霊廟建築の惣奉行となった。正徳2年(1712年)、高照神社の遷宮挙式を前に死去した。実はこの死は信政を追った殉死で、信政が死去した宝永7年(1710年)の12月には自宅で切腹しており、当時殉死が禁じられていた為、2年後に届けたという。
森岡元徳
森岡元隆の次男。宝暦元年(1751年)4月に兄元生が死去、家督と寄合格1000石を継いだ。同2年(1752年)大組武頭、同4年(1754年)表書院大番頭となり、同7年(1757年)参政となる。同9年(1759年)、祖先森岡信元の所持品「来金道の脇差」を信元が殺害された久渡寺に寄贈し、通称を信元と同じ金吾に改名した。明和8年(1771年)に家老となるも、飢饉の連続に対して庶民の救済をせず、藩主に虚偽の報告をして特定商人と結び、贅沢にふけっていた。そして天明4年(1784年)、家老を免職となり、知行を300石に減らされ、蟄居させられた。翌5年(1785年)、罪を詫び、自宅の物置で自害した。現在、久渡寺の現存する円山応挙の幽霊画は、元徳の娘、もしくは京都で死亡した元徳の愛妾を描いたものであるといわれている。
<井手・井出・鷹野・高見澤・油井・山宮>(信濃橘氏)
信濃橘氏は橘廣房の孫である橘満定(鷹野満定)が弟の井手右京進以重・高見澤刑部諸以・油井兵衛以近とともに、保元の乱の後に信濃国佐久郡に落ちたのが始まりとされる。保元の乱では崇徳上皇の側に立ち敗れたと推測されるが、首謀者の藤原頼長は、橘以長を学館院別当に推挙するなどし、橘以長は藤原頼長の近く仕える関係であった。また、橘廣房も大江氏との関係が着目されるが、信濃守として信濃の地に関係が深く、源為義の郎党とともに、源明国に殺された経緯からも、源為義とも関係が深い状況にあった。この関係から、保元の乱においては、崇徳上皇の側に与し敗れて、信濃の地に逃れたと考えられる。鷹野氏は佐久に定着し、そこから「新海三社神社」の神官となった山宮満頼(山宮氏)につながる。この地域は伴野庄と呼ばれ伴野氏(小笠原氏)の所領地であり、武田晴信の侵攻に対して伴野氏と運命をともにしていく。
信濃橘氏にはもう一つの系統があり、薄以實の子で井手以親である。信濃に住んだとあるが甲斐国巨摩郡の井出に住んでいたが、海尻へ移動したとの説もある。姓の井出もそのためとされるが、祖父の薄以基が橘家の再興を図った人物であることから当初は橘諸兄の井手左大臣から井手姓を名乗り、その後佐久の井出氏と一体化したとも考えられる。この一族は海尻の地で武田氏との関係を深め、武田家の家臣として定着したと考えられる。
井手知季
生没年未詳。井手以親の男。兵部大夫、長門守。信濃国佐久郡海尻城城主。
井手知興
生没年未詳。井手知季の男。土佐守。葛尾城主村上義清の家臣。村上家の勘気を蒙る。その後海尻は番城となる。
井手知次
生没年未詳。井手知興の男。縫殿尉。嫡子とともに甲斐国の武田晴信に仕え、戦功を挙げる。天文12年、17年に感状を賜る。
<頼>
頼氏は代々小早川家に仕えて三原に住んでいたが、慶長2年(1603年)小早川隆景が没する時、頼正茂は三原付近の頼兼に退き、その後竹原に移住、屋号を頼兼屋と称し海運業を営んだ。竹原頼家第3世である頼善祐に薄氏の庶流である橘惟格の女が室となり、頼氏とつながる。
頼惟完(頼春水)
安芸竹原(現在の広島県竹原市)の紺屋を営む頼惟清(亨翁)の長子。4歳から5歳頃より京坂の学者平賀中南や塩谷鳳洲に就いて学問に勤しむ。19歳のとき病を得て大坂にて医師を探すうちにそのまま留まり、片山北海に入門し経学・詩文を学ぶ。また同じ頃、趙陶斎に就き書と篆刻を学ぶ。明和元年(1764年)、師の北海を盟主に混沌詩社を創立されこれに加わる。詩豪と呼ばれるほど才能が開花した。大坂の文人墨客と交流したが、特に7歳年上の葛子琴と深い友情で結ばれている。安永2年(1773年)大坂江戸堀北に私塾青山社を開く。弟の杏坪、春風らも儒者となり三頼と称される。翌年に広島藩7代藩主浅野重晟に藩儒として招聘され、一家は安芸に移る。藩内に学問所を創立すると天明3年(1783年)江戸勤番となり、春水は単身で赴任し世継ぎの教育係を務めている。天明5年(1785年)、自らの信ずる朱子学をもって藩の学制を統一した。寛政9年(1797年)に松平定信が老中となると朱子学を幕府正学とすることに成功する。また林家の私塾を官学化し昌平坂学問所とした。いわゆる寛政異学の禁にはこのような背景があった。その後も隠然とした影響力を持ちつづけ寛政12年(1800年)には昌平坂学問所に召されて自らも書の講義を行っている。この寛政異学の禁は多くの学者(冢田大峯や赤松滄洲など)から徹底批判され、定信の退陣を早める一因にもなった。寛政8年(1796年)次男大二郎が病没し、寛政12年(1800年)には長男山陽が藩を出奔するという大事件を起す。4年後に山陽を廃嫡し、弟春風の子景譲を養嗣子として迎えている。享和3年(1803年)に任を解かれ帰国する。文化10年(1813年)、長年の功績により家禄300石を給せられる。文化12年(1815年)養子景譲が病死。翌年、春水死去。享年71歳。
頼襄(頼山陽)
安永9年(1780年)、同地で誕生。母は飯岡義斎の長女で梅颸の雅号を持つ文人であり、その妹は尾藤二洲に嫁いでいる。天明元年(1781年)12月、父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町で育った。父が江戸在勤となったため叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛するも、追跡してきた杏坪によって京都で発見され、広島へ連れ戻され廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。なお、『日本外史』の初稿が完成したのもこのときといわれる。謹慎を解かれたのち、文化6年(1809年)に父の友人であった儒学者の菅茶山より招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任した。文化8年(1811年)に京都へ出奔し、洛中に居を構え開塾する。文化13年(1816年)、父・春水が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年(1818年)には九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。文政5年(1822年)上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付けた。この居宅にて営々と著述を続け、文政9年(1826年)には代表作となる『日本外史』が完成し、文政10年(1827年)には江戸幕府老中・松平定信に献上された。文政11年(1828年)には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」とした。山陽の周辺には、京坂の文人が集まり、一種のサロンを形成した。その後『日本政記』『通議』などの完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年(1832年)に死去。享年53歳。
頼醇(頼三樹三郎)
頼山陽の三男として京都三本木に誕生。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の父・山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者・後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。1853年にアメリカ合衆国のペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜(一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の福山藩邸において幽閉される。父・山陽の愛弟子である福山藩主の侍講・石川和助は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。墓は京都円山公園の裏にある長楽寺と松蔭神社にある。
<信濃小路>
信濃小路氏は九条家諸大夫の家柄で、醍醐源氏盛明親王流とされている。橘氏唯一の堂上家で、代々橘氏長者となった薄家は、山科言継の子で薄家に養子入りした薄以継(諸光)の死により、16世紀後半に断絶したため、元和6年(1620年)、信濃小路宗増が関白・九条幸家の命令により醍醐源氏から橘氏に改姓し、橘氏の嫡流を引き継ぐこととなった。
信濃小路長可(橘長可)(1694~1761)
江戸時代の人。非参議。元禄7年(1694年)生まれ。宝暦11年(1761年)従三位に叙される。同年9月22日没。
<橋本・深井・八木・服部・山口>
薄家の断絶後、地下人として存続した家系で、橋本氏は梅宮大社神官、上北面(いわゆる北面の武士であるが、上北面は諸大夫の官人であり文官が多く、そこから堂上へ任用される前の身分の者が多かったが、承久の乱以降は縮小され継続していた)の家系として継続する。系図では定かでないが橋本経亮は梅宮大社神官であった。深井氏は薄家の直系として継続し賛者(即位や朝賀の式で典儀を補佐した職)となる。服部氏、八木氏も薄家断絶後に分かれた。
深井林矩(1647~1705)
橘重久の男。薄以継の末裔。深井定成の養子。宝永2年4月19日(1705年)58歳で卒す。末裔は八木氏。
橋本正光
薄以継(諸光)の男。薄以清の養子。室町時代中期の人物。大内弘直聟。大内持世に仕える。
橋本盛正
橋本正光の男。文明6年卒。文明年中にあった火災で熱田の亀井山圓福寺炎上後、再建を行う。(「圓福寺縁起」)
橋本正吉
橋本盛正の孫。永正16年卒。永正年中にあった火災で熱田の亀井山圓福寺炎上後、再建を行う。(「圓福寺縁起」)
橋本盛延
橋本盛以の男。橋本盛光の養子。慶長18年卒。
橋本以延
橋本盛光の男。鳴海外記。前田利家に仕える。
橋本盛次
橋本盛延の男。橋本盛以の家督を継ぐ。
山口光以
橋本盛延の男。山口修理亮の食客。妻は山口盛政の女。寛永8年卒。
山口重好
山口光以の男。牛久藩藩主山口弘隆の従弟。家老職。
山口重富
山口弘隆の四男。山口重好の養子。
橋本盛清
橋本盛延の男。東基山盛清寺開基。寛永19年7月10日卒。妻は佐橋広正女。
橋本経亮(橘経亮)(1755~1805)
梅宮大社社家橋本昆亮の男。有職故実家。本居宣長の友人。宝暦5年(1755年)2月3日京都で生まれる。正五位下、肥後守。号橘窓、香果堂。父の後を継ぎ京都にある梅宮大社の神官を勤め、また宮中に出仕して非蔵人となる。師は高橋図南、小沢蘆庵。上田秋成、滝沢馬琴、谷文晁、伴蒿蹊とも親しく交友する。詩歌にも優れていた。文化2年(1805年)6月20日死去。著書には「橘窓自語」「梅窓筆記」等がある。宮中に至る途上も読書にふけり、田畑に落ちて着物を汚しても平気だったと言う話が伝わる。また羽倉敬尚氏は「古いことを好む虫のような人物」と評している。
橋本以行(1909~2000)
梅宮大社社家。子は橋本以裕。大日本帝国海軍の軍人、第二復員省および復員庁の事務官。最終階級は海軍中佐。戦後は梅宮大社名誉宮司、大神宮社宮司。潜水艦『伊58』艦長時、原子爆弾をテニアンまで運搬したアメリカ海軍の重巡洋艦『インディアナポリス』を撃沈したことで知られる。『インディアナポリス』は広島・長崎に投下された原子爆弾をテニアン島に輸送したのちに、レイテ島に移動中に撃沈されたため、アメリカ軍は原爆の輸送情報が事前に日本軍側に漏洩していたのではないかと疑い、戦後アメリカに呼んで数日間に渡り尋問を行った。回天特攻隊員を運送する任を負っていたこと、回天搭乗員を出撃させ戦死させたこと、もっと早く哨戒海域に着いていればテニアン島入港前の『インディアナポリス』を撃沈できたのではないか、インディアナポリス撃沈後に海上捜索していれば、捕虜から原爆存在の秘密が聞き出せたのではないかと云う様々な自責の念から、太平洋戦争で亡くなった全ての御霊の鎮魂を祈る日々を送ったと云われる。
山中氏は、伊勢神宮祭司によって伊勢神宮柏木御厨の地頭職に補任され、幕府からも公卿勅使「儲役」、「鈴鹿峠警固役」を公認されていた。「儲役」とは朝廷が伊勢神宮に特別なことを祈願する勅使である公卿勅使を接待する役であり、「鈴鹿警固役」とは公卿勅使を近江・伊勢国境附近で警護する任であった。山中氏は鈴鹿山麓の山中村を本拠としていたが、やがて、惣領家は柏木御厨に移住したため山中氏は二流に分かれた。柏木に移った山中氏は、柏木御厨五郷(本郷・酒入郷・上山村郷・中山村郷・下山村郷)を領して、戦乱を生き抜き甲賀郡屈指の国人領主に成長していった。
橘盛宗(山中盛宗)
橘義清の孫。橘俊清の男。近江国甲賀郡柏木郷の摂関家庄園庄官。山中家祖。
岩室能俊
山中盛宗の未孫。山中頼俊の男。近江国甲賀郡岩室の地頭。
岩室邦俊
岩室能俊の玄孫。岩室藤俊の男。左近将監。六波羅引付衆。
山中重尊
山中盛宗の玄孫。山中宗俊の男。山中俊直の養子。公卿勅使を近江・伊勢国境附近で警護する鈴鹿警固役を勤める。
山中俊信
山中重尊の男。中務丞。嘉禄2年(1226年)北條氏の命により鈴鹿山の賊を退治した功によって、山中地頭、山村上郷下司に任じられる。
山中秀俊
山中俊信の未孫。山中頼俊の弟。正平12年(1357年)南朝に仕え、楠正儀と伴に賊軍を討つ。
山中俊定
山中俊信の玄孫。山中実秀の男。大和守。近江甲賀郡、宇田村、上村、酒人村を領する。
山中長俊(1547~1607)
山中石見守為俊の男。山城守。豊臣秀吉の臣。代々、近江の佐々木氏に仕え、六角義賢の臣となるが、後に柴田勝家に属し三千石を知行。鉄砲同心五十人を預けられて家老に列す。天正11年(1583年)勝家の没落後は丹羽長秀に仕え、その後、堀秀政のもとに寄寓していたが豊臣秀吉に召しだされて右筆を勤める。天正18年(1590年)の小田原征伐に従い、鶴岡八幡宮の再建工事に関わる。文禄2年(1593年)に従五位下山城守に叙任。慶長5年(1600年)関ヶ原の役では西軍に属し、所領没収。京都に住み、慶長12年12月24日没す。著書に「中古日本治乱記」がある。
山中幸俊
山中長俊の養子。山中信俊の長男。紀伊守。豊臣秀吉と秀頼に仕え、元和元年(1615年)大阪落城により没落。後に許されて京都に在住。その後、浅野長晟に仕える。
山中宗俊
山中信俊の二男。徳川家康に仕え、慶長14年(1609年)伊勢国一志郡美濃田、安芸郡野崎、山田井に千石賜る。大阪両陣に永井直勝の組に属し出陣。元和2年(1616年)御書院番となり采地を近江国蒲生郡に移す。正保2年(1645年)6月5日卒す。
山中本俊
山中宗俊の男。寛永7年(1630年)徳川家光に拝謁す。同17年(1640年)御書院番に列し、正保3年(1646年)遺跡を継ぐ。寛文3年(1663年)徳川家綱に従い日光山に詣で後番を辞し小普請となる。元禄15年(1702年)8月21日卒す。
山中釿俊
山中本俊の男。萬治2年(1659年)徳川家綱に拝謁す。寛文7年(1667年)11月小姓組の番士に列し、元禄5年(1692年)家を継ぐ。同12年(1699年)12月従五位下丹波守に叙す。享保9年(1724年)4月9日卒す。
山中鐘俊
山中釿俊の曾孫。山中保俊の男。元文2年(1737年)遺跡を継ぎ、延享2年(1745年)西城の御書院番となり、同3年中奥の番士に転じ明和3年(1766年)小十人の頭にすすむ。安永5年(1746年)徳川家治に従い日光山に詣で、西城御先弓の頭にすすみ寛政7年(1795年)7月老いを理由に務めを辞す。この時、時服3領を給い寄合に列す。
田中氏は近江国高島郡田中から戦国期に活躍し、当初は六角氏に属していたが六角氏没落後、田中吉政の時に宮部継潤、豊臣家、徳川家と仕え、筑後柳川城主となる。その後子の田中忠政の時に継嗣がなく廃絶となっている。
橘重信(田中重信)
橘義清の末裔。民部大輔橘親信の男。近江国高島郡田中を領して田中を称したとされる。
田中重政
田中重信の玄孫。田中重寛の男。近江佐々木六角氏に臣従する。
田中吉政(1548~1609)
近江国高島郡田中村より出身。はじめ宮部継潤、ついで豊臣秀次に仕え五千石。天正16年(1588年)、叙位・任官し近江国で三万石。同18年、三河国で五万七千四百石を領し、文禄3年(1594年)、三河国に隠居分四万石を加え、また豊臣氏直料三万石の代官となった。慶長元年(1596年)さらに加増され、息子の吉次(長顕)の分と合わせて十万石となった。関ヶ原の役では東軍に属し、佐和山城攻撃に参加し、9月23日石田三成を逮捕した。戦後、その功により筑後国柳川城主で三十二万石与えられた。領内の産業振興に努め、自らキリスト教に帰依し、領内キリスト教徒を保護した。慶長14年2月18日没す。妻は国友与佐衛門の娘。
田中長顕
田中吉政の男。豊臣秀吉の臣。秀吉の馬廻として天正12年(1584年)小牧山合戦に従軍。文禄4年(1595年)に父の所領を継いで三河国岡崎城主六万石。慶長5年(1600年)の関ヶ原の役では父とともに東軍に属し、岐阜城攻撃に参加。その後、父と不和となり家を出て、元和3年(1617年)7月3日、京都で没す。
田中元陳
田中信之の養子。元は長崎氏。正徳元年(1711年)12月はじめて徳川家宣に拝謁し、同5年7月に家督を継ぐ。享保3年(1718年)3月大番に列し、同8年4月御馬預となり、同11年4月から西城に候す。延享2年(1745年)息子の堯陳が出奔したため、小普請に貶される。寛延3年(1750年)12月死去。
田中忠政(1585~1620)
田中吉政の四男。兄長顕が父吉政と不仲になり家を出た後、嫡子となり遺領を継ぐ。従四位下、侍従、筑後守。筑後柳川藩第2代藩主。元和6年(1620年)8月7日36歳で卒す。継嗣がなかったため廃絶となった。
田中吉官(1600~1658)
田中吉興の養子。菅沼定盈の八男。慶長11年(1606年)徳川秀忠に召され御近習となる。同16年正月従五位下主殿頭に叙任。大坂の陣に参戦し功あり。元和8年11月に吉興の養子となる。萬治元年(1658)正月死去。
田中定賢
田中定格の男。寛文5年(1665年)12月初めて徳川家綱に拝謁し、同11年12月に従五位下出羽守に叙任する。元禄5年(1692年)9月死去。
田中政昌
田中定堅の男。寛延2年(1749年)12月、家督を継ぎ、同3年3月、徳川家重に拝謁する。宝暦4年(1754年)西城の御小性組に列し、天明2年(1782年)職を辞す。同3年11月死去。
橘島田麻呂の男である橘眞主が熊野連多賀志麿の養子となり熊野国造家を嗣ぎ、その曾孫の熊野廣方が橘良殖の猶子となり橘姓へ復して橘廣方となった。この廣方の子孫が和田庄に移り和田家の祖となる。和田良成の代に伊都郡橋本庄に住し、その地を本願地とする橋本家がはじまり、後裔は楠木一族として活躍する。酢屋家は和田良成の子の酢屋二郎兵衛が最初で、その子孫酢屋与市正高は河内石川郡弘川に拠点を持ち奮戦するも討死し、一時酢屋家は絶えるが、楠木右近将監正忠の子の蔵人将監正幸が名跡を継ぎ隅屋正幸として存続し楠木一族の筆頭となる。
和田良冬(橘良冬)
熊野国造家橘廣方の玄孫。和田庄司となり和田家の祖となる。和田庄は日高郡和田と考えられる。
和田良村
和田良冬の来孫(5代後)。和田庄司大夫。娘が湯浅宗季に嫁す。湯浅家は熊野八庄司の一つで紀伊国在田郡湯浅庄発祥の大族。後白河院御幸の行宮を竹坊と号し、良村を以て之を司しむ。との記録がある。
和田良成
和田良村の孫。和田良正の男。橘成氏の父。伊都郡橋本庄に住す。
佐備正岑
和田良成の兄和田荘下司良永の孫。河内国石川郡佐備郷に住み、佐備を称する。忌部氏の流れを汲む佐味氏の一族が佐備郷に居住しており、正岑は佐味の一族に婿入りしたとされる。また、正慶元年に龍泉寺城が楠木正成に築かれ、佐備氏が守将となる。
橋本成友
和田良成の男。伊都郡橋本庄の地名をとり橋本を名乗る。子孫は和泉国日根郡橋本、摂津国西成郡に広がる。
橋本正員
橋本成友の曾孫。橋本成忠の男。楠木正成に仕え、建武3年(1336年)湊川の戦いにて戦死。
橋本正茂
橋本正員の弟。楠木正成の一族として、後醍醐天皇の死後,楠木正行を補佐した。
橋本正高
橋本正茂の男。楠木正成の一族。検非違使。楠木正儀とともに北朝軍とたたかい功をたてる。正儀が北朝に投降したのちも和泉土丸城によって抗戦するが、天授5年(1379年)山名氏清らに攻められ落城。その後も土丸城の奪還を試みる者の成功せず、天授6年に北朝方と高名里(現在の貝塚市海塚)で戦い、討死した。顕彰碑は、大正15年(1926年)に地元の有志によって海塚に建てら、昭和30年代に海岸寺山へ移され現在に至る。上善寺(貝塚市南町)には正高の位牌や墓石が残されている。
酢屋正高(隅屋正高)
橋本成友の弟酢屋次郎の玄孫。楠木正成の一族として南朝に属す。南河内の弘川寺近くに築城し、奮戦するも敗れ、弘川寺境内の桜の木の下で自刃した。桜の木は朽ちたが「須屋桜」の名は語り継がれている。
和田成長
和田良成の男。大和二郎、和田良長と同一。観心寺(河内長野寺元)周辺を本願地とする。この辺りは古くは輪田、小和田、和田山等の地名があった。
橘成氏
和田良成の男。橘盛康の養子。河内東条に拠点を置く橘姓楠氏の養子となり拠点を拡大する。橘盛康の女との子に橘正守、富田盛吉がある。
和田正俊(和田満俊)
橘成氏の男。楠木正成の祖父。観心寺寺元を本願地とする和田成長の系統を継ぐ。
恵美正隆
和田正俊の男。恵美盛尚の子の恵美某の跡を嗣ぐ。
楠正康(楠木正澄)
和田正俊の男。楠盛仲(楠盛光)の女を娶り河内玉櫛の地を基盤とする。楠木正成の父。
和田正次(和田正遠)
和田正俊の孫。和田正頼(高遠)の男。南北朝期の武将。正慶元年(1332年)11月楠木正成の挙兵に従軍し戦功を挙げた。建武新政下の建武3年(1336年)4月、正成とともに武者所五番に詰める。足利尊氏が新政府に叛した際は、正成とともに尊氏を九州に追い落としたが、同年5月25日、摂津・湊川で尊氏軍に敗れ戦死した。大正3年11月、贈正四位。
和田正武
和田正次の男。楠正儀と行動を共にし南朝軍を率いて活躍している。延文5年(1360年)5月、幕府軍の攻撃を正儀と共に河内・赤坂城に篭り防戦した。貞治元年(1362年)には摂津守護代蓑浦俊定を攻め、兵庫に赴いて赤松光範と多部田で交戦した。正儀が北朝に帰順した際にはおおいに憤激し、天野行在所を固守したが利を失い、吉野へ退いた。その晩年は不明。
甲斐荘氏は大中臣氏流和田氏の後裔で、この和泉国大鳥郡美木田を本願地とした一族でかつては「邇岐田」「爾木多」と称した。左山中大夫和田助平の子、六郎大夫助信が甲斐荘江検校女を妻とし甲斐荘を称したと云われる。
和田正長
和田成長の男。妻は甲斐荘助弘女。甲斐荘助弘は大中臣氏流和田氏の後裔で、この和泉国大鳥郡美木田を本願地とした一族でかつては「邇岐田」「爾木多」と称した。その後和田川の上流であったことから和田郷となったことから、和田を「にぎた」と呼ぶようになった。同じ和田姓であるが流れが異なる家系にある。甲斐荘助弘の養子となったことから和田(にぎた)の流れを引き継ぐこととなった。
甲斐荘正氏
和田正長の男。妻は和田良守女で熊野氏系和田氏。娘は和田良守の男、和田宗実室。甲斐荘正氏の跡は楠木正季が継ぐ。
楠木正秀(甲斐荘正繁)
和田法眼良宗の子で楠木正儀の養子。甲斐荘正忠の跡を継ぐ。応永6年(1399年)和泉国の堺で起きた大内義弘の応永の乱に大内氏方について足利義満と戦う。嘉吉3年(1443)9月23日、日野有光・資光、越智伊予守、湯浅九郎等とともに、後亀山上皇の子孫、金蔵主・通蔵主兄弟、もしくは後亀山上皇の皇孫の教尊や源尊秀を奉じて内裏に侵入し、三種の神器の神璽と宝剣を奪うが失敗に終わる。これを禁闕の変という。
信貴氏は河内玉櫛を拠点とする橘氏から分かれた一族で信貴正玄は橘成仲の男。信貴山信仰と関係が深いと考えられる。楠木一族と運命を共にした。菱木正景の時に菱木越後守を破り菱木の所領を引き継ぐ。三代目の山本正英の時に山本姓に変わるが、近江の源系山本氏と縁戚になり山本姓を引き継いだ可能性がある。文献に楠木氏の名が登場するのは、建久元年(1190年)、源頼朝が奥羽平定後上洛した時、随行した武士の中に楠木四郎という名がみえるのが最初である。そのつぎに、永仁3年(1295年)正月の大部庄百姓解状、同年閏二月の大部庄百姓等勒状の中に河内楠入道という名前がみえる。橘公高が楠木四郎と推定されるが、いつから河内の橘氏が楠を名乗り始めたかは不明である。系図纂要では橘成綱(橘盛綱)を楠氏始祖としている。楠木の二字に改めたのは楠木正成からとされる。
最近の研究では、越智氏の流れである伊予橘氏の内、楠戸根千代が藤原純友の征伐を祈念して阿蘇宮(現松山市の高家八幡神社)を朝山宮と改称した記録が残っており、橘遠保に協力して功績を上げた。楠戸根千代はこの時すでに埴生郷の味生まで勢力を広げ、津田山に城を構え、一説に当地の地頭を兼ねていたとされる。この子孫に楠親久がおり河野親経に仕えた。この系譜が河内の楠氏の始まりとしている。楠木氏を巡る系譜は複雑であり、解明することは非常に難しい。
楠親久
生没年未詳。河野親経に仕え、「親」の字を貰う。平家方の武士。子に楠親定。
楠公定
生没年未詳。楠親定の男。武勇に優れ京に上り、平家に仕える。橘公延(橘公信)の養子。源平合戦で平家方として戦い、壇ノ浦で和田義盛に敗れる。この時閉門蟄居となるも、河野通信、橘公長、和田義盛等の赦免嘆願により許され、源頼朝に仕える。
楠公久(橘公久)
生没年未詳。楠公定の男。母は和田義盛の妹。承久の乱の影響で伊予の所領を失い、本拠を河内に移す。
楠盛仲(楠盛光、橘成仲)
生没年未詳。河内玉櫛を拠点とする橘氏。楠六郎盛仲と称していた。和田正俊と親しく長男の和田正康を橘成仲の娘婿として楠姓を継がせている。
信貴正玄(楠正玄)
生没年未詳。楠盛仲の男。盛仲の死後、和田正俊の養育を受ける。後に張雲斎と号し、張子房所伝の江家兵法を楠正成幼少の頃教育を行う。
楠木正季(甲斐荘正季)
生没年未詳。信貴正玄の男。渋川帯刀を称し、甲斐庄正氏の養子に入る。南河内の龍泉寺城にいたことから楠木龍泉とも言われる。鎌倉幕府との上赤坂城での戦いでは、副将として活躍。平野将監を大将として籠城し12日間も戦い続ける。大将の平野将監が降伏した後も城に残り、金剛山へ脱出。金剛山頂上の國見城では大将として活躍した。建武政権下においては、窪所、武者所の所衆構成員となる。延元3年5月、足利尊氏の東上を阻止しようと正成と兵庫湊川にて戦い、奮戦したが及ばず、正成と刺し違えて死す。死に際して正成に最後の一念を聞かれて、「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵を滅サバヤコソ存候ヘ」と答えたという(「太平記」)。
和田正氏(楠木正氏)
生年未詳。四郎。石川正俊の討死により、子の弥四郎に楠木家の家督を譲り和田家の家督を継ぐ。河内目代。検非違使左衛門少尉。国元の政務を執る。楠木正成の討死のあと、楠木党を率いて転戦し、後醍醐帝の吉野入りの護衛を務めた。
犬井正隆(勝光寺了珍)
楠木正季の孫。楠木正氏の男。犬井氏を号する。法名を了珍とし勝光寺を開基。真言宗。
犬井正満(勝光寺了休)
犬井正隆の孫。法名を了休。真宗の僧侶。
和田高家
楠木正季の三男。和田正次(正遠)の養子となる。建武元年(1334年)前後に正成の命で、「岸」と呼ばれている所に岸和田古城を築いた。地名と高家の苗字の和田が合わさり、同地が岸和田と呼ばれるようになったとされる。
和田正武(和田正兄)
和田高家の男。はじめは正兄と称する。和泉守。家臣中島左近、大井田源次郎に二男種子丸を出家させるべく託す。
和田賢秀
南北朝時代の武将。通称新発意(しんぼち)。楠木正季の男。楠正成の死後、総領楠正行を中心として勢力を回復していった楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、正行に従い常に参戦している。貞和4年(1347年)に紀伊国隅田一族を、また河内国八尾、藤井寺で細川顕氏や山名時氏を打ち破った。翌年正月、高師直と四条畷に戦い敗死した。かつて味方であった湯浅党の者に背後から討たれたという。時に二十歳前後という。
楠木正忠(甲斐荘正忠)
生没年未詳。楠木正季の男。楠左近将監。父の死後甲斐荘を継ぐが正平3年(1348年)四条畷手で討死。
酢屋正幸(隅屋正幸)
生没年未詳。楠木正忠の男。酢屋正高討死後、名跡を継ぎ、酢屋氏を復興する。その後、隅屋氏は畠山氏の被官になる。
隅屋正道
生没年未詳。酢屋正幸の男。応永9年(1402年)9月、畠山基国に降る。門真荘の半分を賜る。応永13年(1406年)2月、出家して、休阿と号す。
隅屋正夏
生没年未詳。隅屋正道の男。永享12年(1440年)8月、畠山持国に従い南朝残党征伐。
隅屋国敏(須屋正喜)
生年未詳。隅屋国夏の男。享徳3年(1454年)8月、畠山持国・義就が山名・細川・畠山政長に攻められる。この時、隅屋備中守国敏、隅屋藤四郎宣政、隅屋藤九郎正信は畠山義就に従う。寛正3年(1456年)4月、討死。
隅屋為敏(隅屋駒雅丸)
生年未詳。隅屋国敏の男。応仁元年(1467年)1月、畠山義就が畠山政長と上御霊社で合戦。畠山義就に隅屋藤四郎宣政、隅屋藤九郎正信、隅屋駒雅丸が従う。藤四郎宣政が駒雅丸の後見。この戦いで隅屋藤四郎宣政、駒雅丸が討死。
隅屋正平
生没年未詳。酢屋正幸の次男。嘉慶2年(1388年)畠山基国に降る。この時楠党の面々56人が降り、安堵される。
八尾正任(平泉寺恵秀、楠木正利)
生没年未詳。八尾八郎正任。嘉暦元年(1326年)武者修行の為に、諸国を遍歴し、暦応元年(1338年)北陸の平泉寺に参詣して、そのままその地にとどまり平泉寺の食客になったという。剃髪して恵秀の法名を賜わり年を経ずして律師に任じられる。恵秀律師と号す。元徳元年(1329年)、平泉寺衆徒の実力者、正学院智観法印の娘を妻に迎え、元徳二年には、後の正秀法眼を生み、正学院の法統を継いで、連線と恵秀律師の家系は継がれる。正秀法眼の母が、正平元年(1346年)病死したので、吉田郡志比の豪族、南保九郎左衛の娘を後妻に迎え、後妻の子に嶋田正直を名乗らせる。正直の男である嶋田正保が、越前の国主朝倉教景に仕え千五貫の禄を貰い朝倉氏重臣となっている。
西念寺智光
生没年未詳。恵光の男。智光の時に浄土真宗に改宗し、西念寺を創建。織田信長の北陸平定にともない、西念寺の住職らは難を逃れる為に、紀州根来寺の黒田党に庇護を受ける。その後、黒田信濃守定綱が創建した摂津国大仁村王仁山の教願寺の住職となる。
菱木正景
生没年未詳。信貴正玄の男。泉州大鳥首領菱木越後守と合戦し勝利しその一跡を賜る。その後楠正成の挙兵に参加し、正慶2年(1333年)赤坂城にて戦死。
山本正愷
文安元年(1444年)生まれ。山本正秋の男。山名宗全に属し、泉州大鳥郡・河州石川郡に千貫を賜る。後に畠山義就に属し永正2年(1505年)に卒す。
山本正孝
永正元年(1504年)生まれ。山本正邑の男。畠山義英に属し、享禄5年(1532年)逆臣木澤左京亮の飯森城を攻めた。本願寺一揆が木澤軍に援軍を出したことにより畠山軍は敗れた。この時、石川道場に於いて殉死す。
楠木正家
生没年未詳。橘盛仲の孫。左近将監、蔵人。建武3年(1336年)1月、建武政府は北条一族の所領であった常陸国那珂郡瓜連を収公地とし、これを楠木正成に与えた。楠木正成は代官として一族の正家を瓜連の地に派遣した。楠木正家は延元元年(1336年)に常陸に下り、瓜連の地に入部、拠点を定め、城を築いたとされる。楠木正家は北畠顕家が上京中に、北朝方の佐竹氏を討伐することが狙いで、同年2月に戦がはじまり、2月6日の戦いでは佐竹貞義の子六郎義冬が討死している。しかし、瓜連は約1年間戦い続けるが、12月11日に瓜連城は落城する。楠木正家は、瓜連を落ち、陸奥の北畠顕家の元に走り、翌延元2年8月、足利尊氏討伐のため、顕家軍に加わり西上する。正平3年(1348年)高師直が河内東条を攻めると四條縄手で楠木正行の軍に従軍し討死したとされる。
楠木正成
南北朝期の武将。兵衛尉・左衛門尉。河内国石川郡赤坂に居館があった。北条得宗家の被官であった可能性が高いが、文観らを通じて後醍醐天皇と結びついたと思われる。元弘元年(1331年)に起こった元弘の乱で、後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵するが落城。翌年冬に再度挙兵し、千早城に幕府の大軍をひきつけゲリラ戦法で悩ませた。これらの軍功によって建武政権下で河内国司、河内・和泉両国守護となり、記録所・恩賞方・雑訴決断所などの枢要機関にも参画。建武3年(1336年)2月、関東から上洛した足利尊氏を九州へ敗走させたが、5月に尊氏の東上を摂津国湊川で迎えうって敗死した。知略兵法をもって最も世に著われ、儒学(宋学)等の教養もあった。
石川正俊(和田正俊)
生年未詳。石川次郎。楠木正成の次兄。和田の家督を継ぐ。天王寺の戦いで討死。子がおらず、和田の家督を弟の正氏が継ぐ。
楠木正之
生没年未詳。大和守。楠木正成の長子。新田義貞、脇屋義助の供廻りとなり湊川においても新田軍に従軍する。以降も新田義貞、脇屋義助と行動を共にする。越前に同行し、叔父の楠木正利と共に戦う。新田義貞討死後も脇屋義助に従い転戦し、伊予に渡る。脇屋義助急死後も伊予で戦うが、楠木正行の挙兵により、河内に帰国。四條縄手の戦いで討死する。子孫に伊予塩崎氏がある。
楠木正末
生没年未詳。延元元年、湊川の戦いに楠木勢のとして従軍し、父と共に戦うが父に諭され落ちる。河内に帰国後、母や幼い弟達を連れて、妹の嫁ぎ先である三河鈴木氏を頼り、母や弟達を預けた後、自らは河内に戻る。その後、尊恒皇子を奉じて紀伊国海部で兵を集め挙兵するも裏切りにより敗北。尊恒皇子を奉じて長門国豊浦へ渡り、彼の地で暫く留まるが尊恒皇子が薨去。尊恒皇子の姿を木造に刻み、遺髪骨と共に山陰方面を転戦。楠木正行の挙兵に参加せず、丹後国由良に落ち着き、後丹波国桑田郡穴太辺に移る。この地で源氏の血流の源頼国に迎えられ。養嫡子に迎えら、この家を継ぐ。子孫は高田、田位井、田井など複数の家がある。
楠木正儀(津田正信、楠木正澄、楠木正純)
南北朝期の武将。楠木正成の三男。左衛門尉・河内守・左馬頭・参議。津田家に養子に出され、津田家で養育される。楠木正行の敗死後、楠一族を率いた。足利一族諸将間に内膏訌が起こるや、観応2年(1351年)足利直義対南朝の和議を斡旋したが失敗。翌年から足利方と京都争奪戦を反復して実施し、一時南朝の優勢に導く。貞治6年(1367年)両朝講和を図るが失敗。応安2年(1369年)北朝に降り、同6年南朝の天野行宮を攻めたが、永徳2年(1382年)再び南朝に帰る。
楠木正徳
南北朝期の武将。従五位下出雲守。楠木正成の四男。四條縄手の戦いの後、関東の落ち延び、三浦一族の大和田六衛門義勝を頼る。大和田義勝の子永嶋義政は、楠木正徳を匿い妹の八重姫の婿とし、永嶋義政に子が無かった為、永嶋家の家督を継いだ。応永2年11月卒す。
楠木正行
南北朝期の武将。楠木正成の六男。嫡長子。帯刀・左衛門尉。父の敗死後、南朝の河内国司兼守護となり、畿内の南朝方軍事力の中心的存在。貞和3年(1347年)8月以降、河内・紀伊で攻勢に転じ幕府の派遣した細川顕氏、ついで山名時氏に大勝。翌年、事態を重視した幕府が高師直・高師泰を河内に向かわせると、河内国四条畷で迎撃し敗れ、弟正時と刺し違えて自害した。出陣直前、如意輪堂壁に梓弓の歌を記した話は著名。
楠木正時
楠木正成の六男。嫡子。楠木正行と同母弟。四條縄手の戦いで兄正行等と共に討死。
関正胤
楠木正時の男。母は丹波亀山の関政実女で、四條縄手の戦いで父正時が討死した後、丹波亀山で男児を産み、祖父の姓を継ぎ、関小次郎正世と称す。関氏は後に明智光秀の丹波攻めにより滅ぼされるが、亀山の楠屋敷跡に建立された昌寿院には、正世の墓とされる楠の石塔が立つ。
楠木正義
楠木正成の八男。四條縄手の戦いの時、楠木正行の軍勢とは別働隊として天王寺方面で高師泰と戦う。この戦いで大怪我をし、障害が残る身体となり、仏門に入る。初代能勝禅師。
諏訪正信
楠木正成の十男。延元元年、湊川において楠木正成が戦死した時に、その妾政野は懐妊5ヵ月であった。医師名草道斎の差し添えにより信州上諏訪に下る。10月15日誕生、童名千代丸と称す。延文2年元服し、諏訪十郎正信と号す。二代将軍足利義詮は、天下に回章を回し「古来の名将の子 たとえ敵方であっても咎を許し用いるべし」という触れを出す。諏訪正信もこれに答えて上洛する。伊勢国三重郡内四郷を賜う。
楠木真佐子
楠木正成の女。足助重範の男の鈴木重員に嫁す。子は鈴木重勝。三河鈴木家は一部家紋を菊水としている。
楠木松野
楠木正成の女。西河清綱の男の西河清俊に嫁す。
楠木正綱
南北朝期の武将。楠木正行の嫡男。多門丸。母は内藤満行の娘。左中将。父の正行が四条畷の戦いで戦死したとき、2歳だったという。正綱もまた南朝の武将として仕えた。
楠木正隆
楠木正綱の孫。楠木正倶の男。嘉吉3年の禁闕の変で叡山で討死したと伝えられる。
楠木正理
楠木正隆の男。左京亮。伊勢国神戸に住し、国司の北畠家の外為貴族となる。長禄の変で敗れた後に、越前に落ち延びたとされ、越前金津に於て、堀江信濃守と伝える人と出会いそれが縁となり、堀江氏に厄介となり、姓名を秘して神波新兵衛と号し、撫子の紋所を用い、終生そこに居ついたと云う。
楠木行康
楠木正理の男。雅樂助。紀伊国で、楠木行康をはじめとする南朝の遺臣たちが、南朝の縁者を奉じて足利幕府に対して蜂起し、幕府は宇都宮群綱を大将にして現地に征伐に向かわせるが、初戦は幕府軍を打ち負かす。しかしその後、幕府軍は畠山氏の加勢により南朝勢力を平らげた。長禄の変では神器奪回を目指す赤松氏遺臣に敗れ、膝を負傷、熊野に逃れた。
楠丈庵(楠木正利)
楠木良治の男。楠丈庵は医を以って、尾張藩に仕える。尾張瑞公(二代藩主徳川光友)に召されて三百石を賜る。尾州楠氏祖。
楠正信
上部安哲の男。母は楠丈庵の女。父の上部安哲は楠丈庵の弟子で婿。楠吉正と称す。楠正信は楠正昭が早世したため、跡を継ぐ。
神波用隆
楠木正理の男。父楠木正理が長禄の変後に越前に落ち延びた時に堀江氏の庇護を受け神波姓を名乗ったとされる。越前の堀江氏とは、新田義顕の系統の越前坂井郡堀江郷の堀江氏と思われる。
関谷用勝
楠木正理の男。楠木四郎左衛門尉で、越前に住み朝倉家に仕えた。河口庄・新口庄を知行。姓を関谷(或いは関屋)と改め、かたばみの紋所をつける。
心澄(関谷用行・義円)
関谷用勝の男。越前麻尼実寺に入り、吉祥坊義円と称する。その後美濃へ行き天台宗所属の香焼寺の住職となる。蓮如上人に帰依し、真宗に改宗し、心澄という法名を授けられる。
楠木正勝
生没年未詳。楠木正儀の長男。小太郎。正平6年(1351年)の産まれ、応永7年(1400年)に応永の乱から後、50歳で亡くなったか、或いは元中5年の平尾の戦いで討死かのいずれかとされる。元中7年(1390年)には楠正儀没後、右馬頭として、楠氏の棟梁として登場し、応永6年(1399年)11月に起こった応永の乱では大内義弘を助けて和泉国の堺で戦っている。
楠木正元
楠木正儀の次男。次郎。正平10年(1355年)に産まれ、応永34年に亡くなる。のちに僧侶となったとされる。
楠木正家
楠木次郎正元の男。延元2年(1337年)金沢城(出羽国平鹿郡横手郷)を経由して打越城(出羽国仙北郡打越郷)へと移り南朝勢力の支援に尽し、出羽国で没した。
打越正安
楠木正家の男。打越将監。
内越正宣
小笠原義知の男。母は楠木正家の女。父は内越城(平岡館)を築城し内越を名乗る。妻に由利維貴の曾孫・満姫を娶って内越城(平岡館)から岩倉館(出羽国由利郡川口村)へ移り、出羽国由利郡における勢力基盤を固める。応永26年(1419年)卒。
楠木正泰(楠木正顕)
楠木次郎正元の男。兵衛助。国司北畠顕泰から諱を賜い正顕になる。伊勢楠木氏の祖。
平之澤正重(千子正重)
楠木正泰の男。太郎左衛門尉。勢州鹿伏兎平ノ澤金場に住む。刀工として勢州桑名千子村住人初代村正弟子となる。刀工時は、藤原姓を称する。
楠木正威
楠木正泰の男。右衛門三郎。嘉吉3年禁内狼藉、山城国嵯峨小倉宮尊義王を奉じて、同年九月に挙兵。洛北叡山にて討死。楠山城城主。
<川俣・木全・木俣・馬路>
川俣正重(千子正重)
平之澤正重の男。母は伊勢の地下人引田将監胤澄女。二王丸、兵庫助、勢州鹿伏兎に住む、勢州桑名千子村住人村正弟子。
川俣正重(千子正重)
川俣兵庫助正重の男。川俣左近太郎、始頃に楠村に移住。
川俣正眞(千子正眞)
川俣兵庫助正重の次男。勘解由左衛門尉。末古刀上作。酒井忠次愛刀「猪切」の作者。作風は「作品短刀多く、その直刃は腰乱がある。
川俣正重(千子正重)
川俣左近太郎正重の男。小太郎、勢州桑名千子村に住むが、後雲林院に移る。
川俣正徳
川俣左近太郎正重の男。兵部丞、兄が雲林院村に移動後、その家を継ぐ。早世、無嗣。
川俣正利(坂倉正利)
川俣小太郎正重の男。総左衛門、鹿伏兎平之沢に住む。村正門人、矢根鍛冶。初代正利。
川俣正眞(千子正眞)
川俣勘解由左衛門尉正眞の男。薬王丸。大和国に住み、のちに河内国に移った。金房派は、奈良の金房辻、特に子守にいた刀工集団で、大和金房正真となった。
川俣政盛(雲林院政盛)
川俣勘解由左衛門尉正眞の次男。大和国、後雲林院に住む。刀工。
木全正富
楠木正威の男。藤五郎、庄五郎。勢州河曲郡神戸村に住む。神戸氏に仕え、木全氏祖。康正2年(1456年)秋、北山郷新宮衛士。
木俣甚内(楠木正資・木俣貞清・木俣守清)
楠木正威の男。甚内。勢州関に住む。
木俣守行
木俣甚内の男。伊勢国司で南朝方の北畠顕泰に召されて神戸に居住し、その後の歴代は伊勢瀧城、岡城などに居住した。
木全正澄
木全正富の男。庄五郎、元服し藤内と称し、諱正光、後改め正澄と称す。勤仕神戸家与力。
川俣正充
木全正澄の男。二郎左衛門、川俣正徳若年で亡くなった為、川俣氏を継ぐ。
楠貞孝
川俣正充の男。通名十郎左衛門、初諱正孝 楠山城主。妻は神戸具盛女。弘治4年2月近江、観音寺山城主佐々木承禎入道偏諱賜貞孝。勢州楠村に住む、神戸蔵人具盛に仕える。永禄2年先祖朝敵御赦免あり、六角家から御達示があり楠姓に復す。
楠正忠
川俣正充の男。初名は川俣忠盛、通名七郎左衛門尉、一志郡森本城主楠七郎左衛門尉正摂の養子になる。伊勢国北勢四十八家楠城城主。一次史料では「下浦兵部少輔」「楠兵部大輔」として現れる。伊勢国司北畠家・神戸氏と縁戚関係を結び、さらに公卿山科言継と関係を深め、伊勢楠木氏の勢力を強めて中興の祖となった。同族の正虎の活躍により、先祖朝敵の汚名を返上し、楠木姓も回復した。しかし、最晩年に、織田信長の伊勢侵攻に屈して独立諸侯としての地位を喪失、織田氏家臣滝川一益に従属する与力大名となったまま、失意のうちに没した。
楠正具
楠正忠の男。北畠具教家臣。伊勢国治田城主。伊勢侵略をもくろむ織田信長に激しく抗戦するが、その後形勢不利となった主君の北畠具教は織田信長と和議を結んだ。正具は伊勢を脱出し、顕如の元へと赴き、再び信長に戦いを挑んだ。本願寺内では武勇を買われ指導者を任されたと言われている。信長勢との長き戦いの末、1576年の石山合戦のさなかに討死を遂げた。
楠正守
川俣正充の男。通名藤蔵 関安芸守盛信与力 鈴鹿郡楠平尾之城代。後楠平尾を賜り、城主となる。土佐守受領。
楠正邦(村田盛邦)
鹿伏兎谷御霊国川俣城主村田左近太夫信重三男。幼名三郎太、初諱兼盛。兼盛初陣十八歳功有り、神戸友盛により感賞として諱を賜い盛邦と改める。楠十郎左衛門貞孝の婿となる。楠別家となり、楠庄三郎と称する。楠盛邦の嫡子曽祖父十郎貞孝の跡目を継ぐ。盛邦諱を改め正邦とする。
楠正盛
楠正邦の男。初橘庄丸、十郎と改める。母十郎左衛門貞孝女。祖父十郎左衛門隠居に依りも家を続く、庄三郎を後見と為す。天正4年(1576年)5月7日、楠正具が石山合戦天王寺の戦いで本願寺勢力方として討死し、正具には嗣子がなく伊勢楠氏元当主で曽祖父の楠正忠の命で、伊勢楠氏第8代当主楠木盛信となった。同時に、楠城第8代城主に就任。名は後に正盛に改名した。北畠氏に重臣として仕えたが、このときの北畠家当主北畠具豊(のちの織田信雄)は織田氏の出であり、やや複雑な間柄である。妻は滝川儀太夫女。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに織田信雄・徳川家康方として参戦。峯城で敗退。同年5月2日、加賀野井城への加勢のため、林与五郎(神戸与五郎、神戸氏第10代当主で織田信雄の家老)・林重蔵(与五郎の嫡子)・千種三郎左衛門(後藤賢豊の弟で、北勢四十八家千種家当主)らと共に、美濃国に転戦する。降伏が豊臣方に受けれられないことがわかると、同月6日の子の刻に城から出て合戦を行うが敗退。林与五郎は逃れたが、重蔵と千草三郎左衛門ら主だった武将は討死、数え16歳の楠十郎(楠木正盛)と数え15歳の林松千代丸(林与五郎の息子)は生け捕りにされた。5月7日、斬首。
馬路正頼
勢州高岡に住む、馬路正統の男。兵庫助、宮内に改める。山路正幽、同弾正に仕える。元亀2年(1571年)山路弾正が誅殺。一族離散し、正頼は浪人する。後、楠七郎左衛門家士となる。天正2年(1574年)長島一揆に参加。同年9月29日に討死する。
楠瀬正胤
勢州関に住む、三郎次と称す。一族楠土佐守正守に随臣。後、蒲生忠三郎氏郷に仕える。
山村正織
勢州高岡に住む、馬路正統の男。馬路氏は勢州高岡村の山路一族で神戸氏譜代。平左衛門と称する。後、政統に改める。母は潮田氏。勢州高岡に住む、後近江国甲賀郡山上郷に移る。山村氏祖。
木俣守時
木俣氏6代目。阿波守。松平広忠が父松平清康の死後、勢力争いによって三河から逃れ、一時期神戸に匿われていた時に仕え、三河へ戻る際に付き従って神戸を離れ、岡崎に居を移した。
木俣守勝(1555~1610)
弘治元年(1555年)、三河国岡崎にて誕生。幼名は菊千代丸。幼い時から徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)に元服し守勝と名乗った。家族とのいさかいから出奔して明智光秀に仕え、戦功により五十石を与えられて織田信長にも拝謁を許された。後に徳川家に復帰。天正10年(1582年)の伊賀越えでは、地理に明るいことから徳川家康の三河国帰国を助けた。天正壬午の乱では、滅亡した武田氏旧臣の招聘を命じられ成功した。徳川家康は彼らを井伊直政の傘下に組み入れて「甲州同心衆」として再編し、その統率を命じた。これが縁で井伊直政の寄騎になり、二千石を与えられた。天正18年(1590年)の関東仕置によって井伊直政が上野国箕輪に入ると、三千石を与えられた。この箕輪時代に井伊家臣団は再編され、井伊家臣へと転属されて「御付人」と称され、その中でも筆頭として位置づけられた。慶長7年(1602年)に井伊直政が亡くなり直継が跡を継ぐと、徳川家康から鈴木重好とともに直継の補佐と佐和山城に代わる彦根城の築城を命じられる。慶長10年(1605年)に病気がちとなると、代わって鈴木重好が政務の中心となる。この時、椋原正直や西郷重員らは重好父子が不正を行っていると告発した結果、鈴木重好を追放して、重好の息子である鈴木重辰や椋原正直・西郷重員らに和解の起請文を書かせて事態を収めた。慶長15年(1610年)に病に倒れると、家康から薬を贈られるなど懸命な治療が行われたものの、静養先の京都で死去。金戒光明寺に葬られた。家督は養子の守安が継いだ。
木俣守安(1586~1673)
彦根藩筆頭家老、木俣家第2代当主。父は狩野主膳。母は新野親矩の娘。養父は木俣守勝。天正14年(1586年)小田原北条氏の家臣狩野主膳の子として生まれる。天正18年(1590年)の小田原征伐の後、叔母の夫木俣守勝を頼り、その養子となる。慶長15年(1610年)養父守勝の死去により、家督と知行四千石を相続。藩主井伊直継、直孝、直澄に仕える。慶長19年(1614年)大坂冬の陣に出陣して井伊勢の先鋒を務めるが、真田丸の戦いで負傷して夏の陣は不参加となる。元和元年(1615年)家老となる。寛永20年(1643年)朝鮮通信使の供応にあたる。 万治2年(1659年)藩主井伊直澄家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川家綱に拝謁する。寛文元年(1661年)隠居して家督を嫡男守明に譲る。寛文13年(1673年)3月10日死去。
木俣守綿
木俣守就嗣。印具徳右衛門勝重の二男。義之助、長介。知行千石。
木俣守融
木俣長助守綿の二男。木俣多宮三代。亀之進、大次郎。知行千石
木俣守素
木俣守陣嗣。永田権右衛門正辰の二男。甲蔵、長介。知行三百石。
木俣守喜
木俣多宮初代。木俣守閑の二男。井伊直興の命により清左衛門家四代目守長の養子となり、正徳4年(1714年)4月、新知千石を拝領し直興の十六女「御当様」と縁組みし別家取り立てとなる。元来、木俣清左衛門家と「御当様」との縁組は守長の実子次男守吉の間で定まり、新知千石を拝領していたが、宝永6年(1709年)12月14日、守吉が婚儀成立前に早世したことによる。
井伊直員(木俣守次)(1719~1760)
木俣多宮二代。正徳6年5月11日生れ、宝暦10年9月20日卒。鉄之介、嘉久次。越後与板藩主井伊直陽の封養子となり、伯耆守井伊直員となる。
木俣守一
木俣多宮十代。新野親良の三男。雅三郎。知行六百五十石。
<柏原>
楠木正眞
生没年未詳。楠木正勝の男。丹波国に住し、柏原と称す。
楠木正虎
生没年未詳。楠木正眞の孫。丹波の管領となり福知山に居城す。
楠木正春
生没年未詳。楠木忠正の男。楠木正泰の跡を継ぐ。
柏原正稚
生没年未詳。楠木正茂の男。貴嶺扇(骨11本、地が赤紙の扇)を作成する扇商の初代となり、それ以後。代々嘉祐を名乗る。
日寛
元禄4年生まれ、宝暦2年に没する。楠木正茂の四男。13歳で出家し、妙満寺において得度し、成就院律師日恕に師事する。後に妙満寺貫主となる。
柏原正員(五升庵瓦全)
延享2年生まれ、文政8年死去。柏原正陳の男。兄の柏原正當の後を継ぎ、扇商の3代目となる。五升庵蝶夢の弟子となり俳人として五升庵を継ぐ。
楠正家(柏原正家)
天保3年生まれ。柏原正克の男。扇商7代目となる。元治元年、在京中の岡山藩主池田茂政が楠氏末裔と知り伝来品を観覧、慶應2年に献上し、在京の岡山藩主(七人扶持中小姓)として召し抱えられることになる。1873年に湊川神社の祢宜補兼訓導職に任じられるが、翌年辞職。
<井村>
井村正永
生没年未詳。楠加賀守正恭の男。内蔵允。伊勢国庵芸郡田井村(江戸期は山田井村・現津市大里睦合町)に住む。姓を井村と改める。後に本多佐渡守正信に仕える。正信の次男本多安房守政重に従い、備前宇喜田家、米沢上杉家に仕え、前田家に仕える。
楠正可
生没年未詳。加賀藩士。楠源太夫可幹の男。弥忠太。300石。
楠正託
生没年未詳。加賀藩士。楠二郎太夫可継の男。佐平太。120石。
<大饗・甲斐荘・千磐・松尾・芋川・中村・山脇・市田・太田>
楠木正盛(大饗正盛)
生没年未詳。楠木正秀の男。二郎左衛門。一説に畠山氏に降り大饗村を宛がわれたと伝えられる。大饗を称し、大饗太郎。大饗西法入道と称する。
甲斐荘正吉(慈光寺圓二)
生没年未詳。大饗正盛の男。太郎左衛門。寛正元年の秋、将軍足利義政、畠山政長をして、畠山伊予守義就を討つ。義就は河内国獄山城に拠り、十津川の和田、楠木等を招く。楠木兄弟之に応じ金胎寺城に拠る。獄山城陥落により、正吉は観心寺に隠棲する。和泉丹下庄に於て樫木屋道顕に会い、蓮如の道誉を聞き、直に出口に赴きて従弟となり、圓二房賢知と号し、文明7年、慈光寺を建立する。
甲斐荘正俊(大饗盛信)
生没年未詳。大饗正盛の男。新左衛門尉。
甲斐荘正続
生没年未詳。甲斐荘正俊の男。新九郎。武勇を鼻にかけて高慢な態度であったため、文明11年に処罰された。
楠木正次
生没年未詳。楠木正安の男。筑後国上妻郡の国人である筑紫広門に仕える。
楠木時長
生没年未詳。楠木正次の男。筑紫広門に仕え、その後、肥後国主加藤主計頭清正に仕える。慶長13年8月26日、知行百七十石。加藤家没落後、肥前国養父郡に住む。
千磐正長
生没年未詳。楠木時長の男。有馬氏に仕え千磐に改姓、久留米に住む。
甲斐荘正隆
生没年未詳。楠木正蔭の男。帯刀。甲斐荘正続が武勇を鼻にかけて高慢な態度であったため、文明11年に処罰された事を受けて、甲斐荘を継ぐ。
甲斐荘正俊
生没年未詳。甲斐荘正良の男。備前守。河内国烏帽子形城主。
須屋正興
生没年未詳。楠木正蔭の男。三郎九郎。左京亮。須屋九郎左衛門玄周の養子となり、正興が遺跡を嗣ぐ。畠山義就に仕え、河内国弘川陣屋夜襲により討死した。須屋九郎左衛門は持尾を本貫とする隅屋正平の系統と思われる。
須屋正庸
生没年未詳。須屋正実の男。三郎次郎。但馬守。畠山義就に仕える。畠山氏没落の後、若狭に退き、武田家に仕える。
組屋正淳
生没年未詳。須屋正実の次男。組屋六郎左衛門正隆の養子となる。組屋六郎左衛門。左近丞。
中島宗久
生没年未詳。須屋正庸の男。源四郎。中島丹波宗英の養子になる。武田義統に仕え、武田家断絶の後蟄居。慶長2年京極高次に仕える。後剃髪宗圓と号す。組屋氏を継ぐ。
須屋正順
生没年未詳。須屋正庸の男。左京。京極高次に仕える。
大饗盛宗
生没年未詳。大饗正盛の男。新兵衛。大饗盛信の跡を継ぐ。
和田光正(楠木光正)
生没年未詳。大饗正盛の男。治郎左衛門尉。和田を名乗る。
市田高成
生没年未詳。楠木正儀六代の孫高成は難を避けて家来の橋本・誉田・富田・吉田の四人を従え伊賀の国治田村に来り、姓を市田と改め帰農したと伝えられている。天正元年10月15日の墓碑に勝義院養月清賢居士とある。
松尾季武
生没年未詳。大饗盛宗の男。河内国甘南備の松尾頼季が早世し、嗣子が無い為、大饗盛宗の二男小治郎が松尾家に入り、松尾左太郎季武と称する。松尾氏は、文徳天皇の長男源能有の後胤坂戸源氏の末孫坂戸右衛門尉季長に至り山城国松尾山下に住む。松尾氏と改姓、其の十代の孫松尾公季に至って河内国甘南備に定住した。
松尾秀雅
生没年未詳。松尾季恒の男。河内国観心寺中院住持。
松尾孝遍
生没年未詳。松尾季光の男。河内国観心寺中院住持。
芋川秀親
生没年未詳。大饗盛秀の次男。信濃に下り芋川氏を復興する。応永11年9月、室町幕府の代官細河兵庫に高梨左馬助が背き、その支配下にあった芋川氏も攻められることになり、若宮城を落され、城主芋川長知は自刃した。この芋川長知の娘が楠木正秀の妻となっており、その縁で大饗秀親が芋川右衛門尉と称して、芋川氏を再興した。
芋川親正
生没年未詳。芋川秀親の嫡男。越前守。初め武田家に仕え、後上杉家に仕える。上杉家の転封により、出羽へ移った。慶長13年大森城で没す。
芋川守親
生没年未詳。芋川秀親の次男。彦太夫。武田勝頼に仕え、長篠の戦いで討死する。
中村正保
生没年未詳。芋川秀親の三男。初め武田家に仕え、武田家滅亡後も信濃高井郡中村に留まり、中村と称す。
芋川元親
生没年未詳。芋川守親の男。父が長篠の戦いで討死したため、芋川親正の養子となる。武田家滅亡後、芋川親正とともに上杉氏に属し、田切城を守ったという。慶長13年、元親が家督を嗣いだとある。
山脇正朝
生没年未詳。大饗長成の男。池田充正の男である山脇正能の養子。隠岐守。
山脇玄心
生没年未詳。山脇正節の男。道作、養寿院。法印、法橋、法眼。
山脇玄通
生没年未詳。山脇玄直の男。山脇玄修の養子。
山脇玄貞
生没年未詳。禁裏医浦野道英の二男。山脇玄修の養子。法橋。
大饗正治(木澤興左衛門)
生没年未詳。大饗長成の男。楠木行康の跡を継ぎ、熊野に入る。その後熊野を出て木澤興左衛門を名乗り織田家に仕える。
大饗隆成(楠木隆成)
生没年未詳。大饗長成の男。右馬助。楠木に改姓し楠木隆成と称する。摂津国灘の滝山城に在城。永禄9年6月播州衆に攻められ落城。備前に落ちると伝えるが。大和国の楢村か、伊賀の八田に落ちた可能性もある。
楠木正虎(1520~1596)
織田信長、豊臣秀吉の右筆。大饗隆成の男。長諳と号す。書を飯尾常房に学び、世尊寺流の当代一流の書家であった。文禄元年(1592年)朝鮮派兵に際して肥前国名護屋城に先発し記帳などにあたった。もと大饗氏と称したが、織田信長のとりなしで正親町天皇に願って楠木正成ら楠木氏の朝敵の勅免をうけ、楠木氏に復命する。従四位上、河内守に任じられた。慶長元年(1596年)正月11日没す。
食正久
生没年未詳。楠木正虎の男。多右衛門。食次郎兵衛とも称す。故有って先祖入道大饗之字を以て姓を食に改め、泉州佐野に居を移す。武を捨て商家となり、家号を和泉屋橘屋と号し、海運通称を営む。
甲斐荘正治
生年未詳。大饗隆成の男。庄兵右衛門。甲斐荘正俊の養子。河内国錦部郡烏帽子形城主。畠山家没落とともに烏帽子形城を失った。元亀年間、徳川家康の命により遠江浜松城に駐在。天正18年(1590年)小田原の役に参戦。慶長4年(1599年)8月死去。
甲斐荘正房(1564~1630)
江戸幕府の旗本。旗本甲斐荘氏3代目。甲斐荘正治の男。喜右衛門。室は加賀藩前田氏家臣中黒弥兵衛の娘。父とともに徳川家康に仕え、小田原征伐に従軍し、関東で封地300石を給い、慶長4年(1599年)に父が没し封地合わせて600石を領する。関ヶ原の戦いに従軍ののちに大番組頭となる。大坂の陣両陣に従軍し、河内国の地理に詳しいことから道案内をつとめたたり、事前に野武士の大坂城入城を阻止したりした。夏の陣では、水野勝成隊に属して戦功をあげ、関東より甲斐庄氏の出自の地の河内国錦部郡2000石と半ば放棄されていた烏帽子形城を賜い、旧知600石は収公される。だが後に烏帽子形城は廃城とされる。元和3年(1617年)に四天王寺の造営奉行を務める。また、烏帽子形城の東にある烏帽子形八幡神社が荒廃していたのを嘆き、四天王寺修築の余材で改修したとされ、元和8年(1622年)8月に竣工した。
甲斐荘正述
生年不詳。江戸幕府の旗本。甲斐荘正房の男。喜右衛門。室は徳川忠長家臣大河内金七郎の娘。普請奉行を務めたのち、慶安5年(1651年)6月、長崎奉行に就任する。万治2年(1659年)外国船の見張りの重要性から、農民などに見張らせていたが、新たに遠見役の公儀役人を新設した。翌年、在職中に江戸にて没する。
甲斐荘正親
生年不詳。江戸幕府の旗本寄合。甲斐荘正述の男。伝八郎、喜右衛門。従五位下・飛騨守。室は高木守久の娘。慶安元年(1648年)6月、3代将軍徳川家光にはじめて拝謁し、承応3年(1654年)2月に小姓組となり、寛文6年(1666年)に使番となり、翌年より但馬、丹波及び北陸地方に巡見使として赴く。寛文12年(1672年)、使番より御勘定頭(勘定奉行)となる。延宝8年(1680年)まで務めた後、江戸南町奉行となる。加増を重ね天和2年(1682年)に4000石の大身となる。元禄3年(1690年)、南町奉行在任中に没する。
甲斐荘正方
生没年不詳。甲斐荘正雄の養子。馬場三左衛門信篤の男。宝暦5年(1755年)8月遺跡を継ぎ、評定所番となり後に支配勘定に転じ評定所留役の助を務める。度々、御勘定方として功ありて、天明4年には評定所留役御勘定組頭にすすむ。
楠木秀真
生没年不詳。楠木正秀の男。楠七郎。幼少時に父が亡くなり、母に伴われて河州に行き、成長する。畠山基国はこれを憐れみ、河州金剛山麓に所領を賜る。これを恩にその後畠山家に属する。
太田秀成(楠木秀成)
生没年不詳。楠木秀真の男。故あって畠山家を罷免され、勢州へ。国司北畠家に仕え、勢州安濃郡太田郷を給わる。
太田秀国(1484~1568)
文明16年(1484年)生まれ。太田秀成の男。太田丹後守。勢州神戸城主神戸蔵人大夫友盛に仕える。勢州桑名郡内に所領を給わる。永禄11年(1568年)11月3日85歳で卒。法名常哲。
楠木正栄
生没年不詳。楠木正秀の三男。三郎。加賀左馬頭。出雲国島根郡加賀住。武勇に優れたが兄次郎左衛門正盛と不和なり、河内国を去って諸国を浪遊して、越前国平泉寺に寓居す。その後出雲に渡り、島根の地頭某と一戦して打勝、島根一郡を得て加賀の里に館居する。
加賀正利
生没年不詳。加賀兵衛尉正晴長男。喜兵衛尉。雲州加賀城主。
大賀正吉
生没年不詳。加賀正利長男。幼名大森初助、改大賀市兵衛尉と称す。豊後国佐伯領主毛利高政に仕えて藩士となる。
奥総右衛門
生没年不詳。加賀官右衛門尉正長長男。雲州加賀に住す。中世より(年代不詳)奥村に改姓する。
楠木正元
生年未詳。楠木正勝の三男。三郎。元中9年(1392年)に足利義満を襲撃し、捕らえられ斬首された。18歳とされる。
楠木光正
生年未詳。楠木正勝の男。五郎左衛門尉。法名浄専。永享元年(1429年)9月、僧の姿に変えた光正が足利幕府六代将軍の足利義教を大和国春日大社で暗殺しようとするが、捕らえられ京の六条河原で処刑される。
楠木正吉(傑堂能勝)
生没年未詳。楠木正儀の男。称三郎。正勝、正能とも。応永18年(1411年)に十津川村武蔵で病死した。一説には天授5年(1379年)に出家し、傑堂能勝と称したとされる。17才の時、戦場でひざに敵の矢をうけてから、感ずるところがあって、25才の時に仏門に入る。後に越前の竜沢寺の梅山聞本禅師について、修行をつみ、40才の時、耕雲庵を建て、周囲に杉の木を沢山植えた。聞本禅師は、このことを聞いて、霊樹山(れいじゅさん)耕雲寺と改めるよう、伝えた。弟子には、石瀬の種月寺の南英謙宗、滝谷の慈光寺の謙窓慶字、上田の雲洞庵の虚廓長清など。
橘昌義(橘正吉)
楠木正吉の男。応永十二年(1405)北畠教具に仕え、迫間附近の海賊防衛の為に来村したという。民話では、橘氏が迫間浦にやって来て、石谷平兵衛を頼った。後に、村民を従えて迫間の領主になり、浅間山の地に城を構えたという。橘家伝来の波平行安一尺八寸刀を蔵した。
楠木正信
楠木正吉の男。幼名喜久丸。左衛門尉。応永の乱により、父楠木正吉が十津川に落ちる時、幼少のため母方の祖父土岐頼常に預けられ、和泉で養育される。その後、祖父土岐頼常と懇意であった駿州今川に預けられ、匿われることになる。今川の好意で、佐々木八郎宗宣の次女を妻とする。
青木正都
楠木正信の男。民部左衛門、駿河今川家から防州大内家の宰相に任じられる。駿州今川に匿われていた正都、正常兄弟を大内盛見が引き取り、正都は、大内義弘の娘を妻とし、大友親世の客分として、筑前下坐郡青木邑に入る。これを采地とし、青木氏と称し、土着する。大友親世の妻は、大内義弘の娘であり、正都と親世とは義兄弟となる。
城一正常
楠木正信の男。楠木次郎、後。城一に改め、勧解由左衛門と称す。永享3年(1431年)筑紫争乱の時、益田兼理の要請があって防州の大内盛見に招致され、原村(真砂地区)に采邑二百貫を与えられ封じられた。始め益田氏の客分として仕え、後、益田氏に仕える。長禄3年(1470年)6月13日没。
城一正延
城一正常の男。庄五郎。帯刀左衛門尉。優れた武人であったが、明応2年癸丑(1493年)3月17日に没する。法名源応院殿長山泰久大居士。室は和泉国大島郡日部和田両郷侍、和田民部橘正益の女。
城市正雄
城一正常の次男。城市勧助。防州大内騒乱、度々戦功あり石州向横田の頸ヵ滝城に住む。天文20年(1551年)辛亥9月17日卒。法名哲明。妻は立原十兵衛源義綱の女。
城一兼正
城一兼正の長男。兵部左衛門尉。「六十四陣委勝」という兵法の奥義を極めた軍師で、益田城主貞兼に従軍し顕著な軍功良策を度々立て、貞兼の信任が厚く先陣隊長を務め、戦国初期に益田軍を勝利へ導き益田氏最全期に貢献する。貞兼から兼の一字を与えられ兼正と名乗る。
出森正賀
城一正延の次男。新左衛門。後に原邑城を実子正久に継がせ、自らは、益田藤兼が三隅高城に移住の時岡見邑茶臼山城主として移る。数年後毛利軍の吉川元春により陥られ、弘治二年(1556年)剃髪して茶臼山山腹に、励称寺を開基し、浄基と号し住職となる。後城一姓を「出森」と改姓した。慶長8年没。
出森正納
第八代真砂の地頭、主君・益田元祥と共に朝鮮出兵に加わり活躍、慶長3年(1598年)に日本へ帰国するが世の中の忌わしさを嫌い匹見の山田郷へ住み「小石」に法華経等を書き供養した。元和2年(1616年)没。
出森盛長
出森正納の弟、慶長2年(1597年)、主君・益田元祥の朝鮮出兵に兄と共に従がって出兵、その後関ケ原の合戦で毛利氏の領国を大幅に削られため、元和5年(1619年)浜田藩主吉田重治に仕えた。
楠木正敏
楠木正吉の男。三郎、正之進。河内国佐山の人であるが、故あって伊予国喜多郡五十崎郷竜王城に来て、後に同中居村の山谷を切り開いて居を構えた。
河内正賀
楠木正敏の男。中居村を河内村と改め、菊水寺を建て、楠木氏を河内氏と改める。
楠木正嘉
楠木正従の男。七郎。飯高郡阪内に住む。
楠木正禮
楠木正嘉の男。七郎左衛門尉。一志郡森本城に移る。
楠木正摂
楠木正禮の男。七郎左衛門尉。楠正忠が嗣ぐ。
和田朝成
楠木正儀の孫。楠木正平の男。母は玉木次郎大夫直延女。和田高家の男である和田正武の養子。
<定専坊・勝光寺>
和田成晴(定専坊浄賢)
和田正直の男。楠掃部助。存如上人に帰依して弟子となり、法名を浄賢と名のる。蓮如上人の時、それまで真言宗に属していた西光寺を、改めて浄土真宗の寺として発足し、寺号を定専坊と公称する。定専坊という名は、文明年間、山城の本遇寺が反逆して、蓮如上人の暗殺を謀っていたのを、浄賢はすみやかに見破って、これを退けたので、上人は深く喜ばれて、定専坊という名をたまわったといわれている。
和田正光(勝光寺正了)
和田成晴の男。勝光寺了休の養子。蓮如上人の直弟となり勝光寺を継ぐ。
定専坊了宗
和田成晴の男。定専坊を継ぐ。
定専坊了誓(勝光寺了誓)
和田正光の男。定専坊と勝光寺を継ぐ。
勝光寺恵了
勝光寺了誓の男。勝光寺3代目。
勝光寺了順
勝光寺永勝の男。勝光寺8代目。
勝光寺了諦
勝光寺永了の男。勝光寺12代目。
勝光寺永了
光円寺了山の男。勝光寺14代目。
勝光寺正照
勝光寺時丸の男。勝光寺17代目。
<楠瀬>
和田正憲
和田成晴の男。天文頃讃岐を経て土佐に来る。大高坂権頭に寄り客将となり、城の西北屋敷に居る。長曽我部国親との泰泉寺合戦の時、大高坂と共に泰泉寺に党し、弘治2年戦死した。近年、高坂城西北隅橘家小社墓所ありという。
楠瀬清蔭(1743~1790)
江戸時代中期の武士。土佐藩士。和漢の学を谷真潮に、暦学を川谷薊山にまなび、絵画、砲術にもひいでる。明和3年藩役所筆役。谷をたすけて藩財政の運営に功績をあげ、勘定頭にまでのぼった。寛政2年7月11日死去。48歳。初名は安信または正信。字は子樹。通称は六郎左衛門。号は南溟。
楠瀬大枝(1774~1835)
江戸時代中期の武士。土佐藩士。楠瀬清蔭の男。和漢の学を楠瀬清蔭、谷真潮、本居宣長に学ぶ。和歌を嗜み画を能くし、当時大枝の桜花は、北原秦里の梅花、僧霞山の蓮花と共に三絶と称された。天保6年(1835年)死去。60歳。幼名雄太郎、忠八、通称六太、号は棠園、六大山人。
和田正明(教専坊明道)
和田正高の男。文明8年(1476年)10月、家祖楠木正成の夢告を受け発心して、久宝寺御坊(顕証寺)を拠点に精力的に布教していた蓮如上人から教専坊明道の法名を賜って、光壽山正善寺を創基した。
和田重之
和田正之の男。母は橘以継の女。天正3年(1575年)父が長篠の戦いで討死した時、母と三河国足助城へ移り鈴木重晴の元に属する。
和田正重
和田重之の男。母は三河国二村城主二村因幡守橘高豊の女。富田村に居住する。
<梶川・宮野>
梶川正治
生没年未詳。和田正頼の男。河内国没落時に美濃国に住み池尻氏に数年出仕する。尾張織田家織田氏族の梶川信時(政盛)は正治が勇材と聞き、家督を譲る。
梶川正継
生没年未詳。梶川正治の男。尾張犬山城主。桶狭間の合戦の時、南中島塞を守る。
梶川正教
生没年未詳。梶川正継の男。織田信長配下。足利義昭が槙島城にて反旗を翻したときは先陣を務め、感状と名馬をさずけられた。後に豊臣秀吉に仕えた。
梶川正信
生没年未詳。和田正冬の男。梶川正治の養子。織田信秀に仕える。
宮野正作
生没年未詳。梶川正包の男。長谷川秀一に仕える。秀一の老臣宮野新助の養子となり宮野氏を継ぐ。後に池田氏に仕える。
梶川正世
生没年未詳。梶川正治の男。織田信長に仕え、天正7年(1579年)伊丹城攻めの際、戦死。
<賀茂>
楠木正眞(賀茂眞吉)
生没年未詳。楠木正儀の孫。楠木正平の男。美濃国加茂郡の人。賀茂氏の養子となったと思われる。
賀茂眞澄
生没年未詳。楠木正眞の男。賀茂一郎左衛門尉。遠江国敷智郡宇布見村(雄踏町)に移住。
賀茂直高
生没年未詳。金山天神社に伝えられる賀茂市正直高は正成九代の人と伝えられ、竜雲寺の城に御座ありし竜雲寺殿一品親王木寺宮と奉謀したと伝える。徳川家康の臣の本多作左衛門に其城を攻落されて宮に随従亡落したとする。
山本 金木 (1826~1906)
神職。浜松にある井伊谷宮権宮司。山本大隅とも称する。遠江国浜名郡雄踏にて宇布見村金山神社神主 山本鞆音(賀茂眞博)の長男として生まれる。弟に新所村八幡神社神主の内藤山城、のちの靖国神社二代目宮司となる賀茂水穂がいる。慶応4年(1868年)、京都での鳥羽・伏見の戦いを始めとする戊辰戦争が勃発すると遠州報国隊を結成し、山本金木と池田庄三郎が隊長となる。尊王攘夷論の急先鋒として、錦の御旗を掲げ倒幕に向かう東征大総督有栖川宮熾仁親王や東征大総督参謀西郷隆盛らと共に江戸へ進軍し先鋒をつとめる。
賀茂水穂 (1840~1909)
海軍軍人、神職。旭日章従五位。遠江国浜名郡に生まれ、賀茂備後直章と称する。慶応4年(1868年)2月23日、兄である山本金木らと共に遠州報国隊を組織し、有栖川宮熾仁親王の麾下に入り先鋒となって戊辰戦争における東征に参加。明治7年(1874年)に海軍省に出仕、海軍少秘書となり佐賀の乱に従軍。海軍大秘書を経て海軍大主計。明治24年(1891年)から明治42年(1909年)まで靖国神社2代目宮司。
堤正義 (1874~1943)
機械工学者。静岡県出身。賀茂水穂の二男、堤豊の養子。第一高等学校を経て、1897年、東京帝国大学工科大学機械科を卒業。逓信省に入り、船舶司検所司検官補、同司検官、逓信技師、海事官、神戸海務署長、海事局技師、航路標識管理所技師、逓信管理局技師、高等海員審判所審査官、管理局船舶課長などを歴任。その間、1900年にイギリスに留学し、1915年に工学博士の学位を得た。1925年、大阪高等工業学校校長に就任し、1929年に大阪工業大学 (旧制)に昇格した後も引き続き学長を務めた。1933年、退官。
<定願寺>
楠木正長
楠木正儀の男。文中元年(1372年)に正覚寺村の正儀の屋敷において生まれたとされる。母は交野三左衛門秀則の娘。幼名は三虎三郎。桑原寺の僧、阿闍梨祐存に養育され成長するに及んで還俗し、右京進正長と名乗る。応永8年(1401年)河内の守護代遊佐長氏が仕官を招請したが断り、俗塵をさけて転々とするが、応永19年に本願寺の六世法主巧如上人に帰依し、剃髪し名を定願と改め、定願坊を開き、代々子孫が承継する。
楠木正治
楠木正長の男。楠三郎兵衛尉正治。剃髪後、願了という。
楠木正近
楠木正治の男。楠三郎兵衛尉正近。剃髪後、西願という。
<田井>
田井義高
楠木正末の玄孫。馬之允。応永26年に兄弟の下村衛門義視とともに開明山大社を造替。応永33年に京都吉田御所から田大神社の神主に任せられて大河内守左源太有信となる。それ以来代々開明山大社の神職を継ぐ。
<永嶋・島崎・出口>
永嶋家は三浦義明を先祖とした大和田義政が永嶋姓を名乗ったことに始まる。永嶋義政の父大和田義勝は、中先代の乱に北条時行に加担し、敗れて捕らわれたが、楠木正成に預けられ、助命されて三浦に帰った。この縁で、四條縄手の戦いの後、大和田義勝を頼って楠木正徳が落ち延びた。この後、大和田義勝の子永嶋義政が匿い、永嶋義政が21歳で早世したため、永嶋家の婿となったことにより、永嶋家を継ぐことととなった。
島崎正胤
楠木正徳の子。兄は永嶋正義。幼年に出家し、のちに円城寺加賀守と称する。鎌倉の合戦に参加し功をたて、その後、木曾に下り島崎姓を名乗った。この末裔には島崎藤村がいる。
永嶋正氏
従五位下、出雲守。母は朝倉右馬介女。永禄7年正月に北条氏康、北条氏政の下総国里見出馬に際して侍大将の軍功あり。
出口茂信(三浦五郎左衛門)
永嶋正氏の弟。出口茂忠の養子に入り、出口を称す。三浦五郎左衛門と伝て、下総国鴻の台の合戦に多く敵を討取り、永禄2年里見義弘が三浦へ押寄せた際、数ヶ所疵を負ながら万人に勝れて勇名を顕し、永禄12年武田信玄と北条氏政との戦では、駿河国の海上において敵船を蒲原の浦まで追い返した。度々武功有りと「北条五代記」に記されている。
永嶋正朝
左京亮。母は正木兵部少輔女。天正2年鎌倉足利公方滅亡後、浜代官を打勤。天正18年7月小田原に於て卒する。法名 智月院天伝と伝える。
<杉本>
若狭杉本氏は楠木正成の兄楠木正晴の子孫で丹州杉本(亀岡の杉之本と推察される)に移住したことから杉本を名乗る。その後修験道の杉本院として継続する。
杉本貞喬(杉本貞隆)
生没年未詳。楠正成の兄・楠木正晴の男。右衛門尉。母の兄である久下兵部少輔の領地である丹波杉本に住し杉本殿と呼ばれる。橘流杉本氏家祖。
杉本貞俊
生年未詳。杉本貞隆の男。左兵衛尉。楠木の泣男として太平記に登場す。貞和4年(1348年)楠正行に従いて四条畷合戦にて戦死する。
杉本委正
生没年未詳。修験、圓乗坊法印。永禄6年(1563年)、若狭に住す。
信貴
生年未詳。修験。若狭小浜杉本院。以後、代々小浜に住し修験道を続ける。
河内玉櫛の楠木正遠の娘が上嶋元成に嫁ぐことで、楠木氏と繋がる家系で、上嶋元成の父は伊賀国浅宇田庄預所を勤めていた上嶋景盛である。上嶋氏は伊賀服部氏とも繋がりがあり、上嶋元成は、服部宗保の子で柘植宗成の養子となっている。上嶋元成の男が能の創始者となる観阿弥である。
観阿弥
南北朝時代の能役者・能作者。服部三郎清次。芸名、観世。法名、観阿弥陀仏。世阿弥の父。母は楠正成の妹。父は伊賀の上島元成(後に服部家を継ぐ)。猿楽大和四座の一つ結崎(ユウザキ)座(のちの観世座)の始祖とされるが、これを疑問視する説もある。足利義満の後援を得て能の質的向上をはかった。近江猿楽や田楽の長所を摂取して幽玄な芸風をうち出し、曲舞(クセマイ)を取り入れて謡を改革した。作品「自然居士」「卒都婆小町」など。
世阿弥
南北朝時代の能役者・能作者。観世元清。観世流の創始者観阿弥の子。父とともに足利義満の保護を受け,能の大成につくした。22歳で父と死別して観世座の跡を継ぐが,それまでの能に歌舞の要素を加えて幽玄美をめざす能を完成させた。作品は『高砂』『敦盛』『羽衣』『砧』『葵の上』など多数。能楽論も多いがなかでも『風姿花伝』は名高い。老後はめぐまれず、73歳で佐渡島に流され数年間の配流の生活を送った。
観世元雅
室町前期の能役者・能作者。十郎。世阿弥の長男。観世大夫3世だが、現系図では数えない。若手ながら名手といわれたが、音阿弥を愛した足利義教の圧迫で、不遇の中に死んだ。作「隅田川」「盛久」「弱法師」など。
音阿弥(1398~1467)
室町時代前期の能役者。観世三郎元重。服部元仲の男。世阿弥の甥。世阿弥の子観世元雅の死後将軍足利義教の寵を受けて、4世観世太夫として活躍。晩年にも足利義政の庇護のもとに、後小松院の御所での演能などにすぐれた芸を見せた。
観世政盛(1429~1470)
室町時代の能役者シテ方。音阿弥観世元重の男。又三郎。将軍足利義政の後援をうけ,寛正5年京都糺河原で鞍馬寺勧進のための勧進猿楽を興行した。
観世信光(1435~1516)
室町時代の能役者。能作者。音阿弥観世元重の七男。小次郎。観世座の大鼓方。観世政盛の没後はその子の之重、孫の元広を補佐し、みずからシテ方もつとめた。応仁の乱以後は、大夫代理の権守として観世座を代表した。能作者として「船弁慶」「羅生門」「遊行柳」などの作がある。
観世長俊(1488~1541)
観世信光の嫡男。弥次郎。観世座脇役者。能作者。観世座の名脇役で坂戸四郎権守と称した金剛四郎次郎元正に師事。成人後、観世大夫元広の脇の仕手となる。当時の脇役は、大夫の相手役をつとめるばかりでなく、その補佐役・代理をもする重職であり、大夫に次ぐ者という意味で脇の仕手という。脇の仕手はまた地謡の統率者をも兼ねており、観世長俊も謡の名手であったとされる。永正13年7月、観世信光の初七日に、みずから謡本「当麻」を書写しており、その他にも長俊節付本の転写の旨を銘記する謡本も伝存する。
永富元定
世阿弥観世元清の曾孫。服部元国の男。播磨国揖保庄永富家は下揖保庄預所を勤め、上嶋家と姻戚関係にあったため、永富清信の跡を継いだのが服部元定であった。「享禄年間(1528~31)に揖保川が氾濫して屋敷が川底に埋まるほどの被害があり、当主は伝来秘蔵の正宗の太刀を携え、子を抱えて難を逃れた、その後、新在家に定住するようになった」と伝えられた時の当主が永富元定である。この家からは鹿島家を継いで鹿島建設の会長となった永富守之助がいる。
<神宮寺・數原>
神宮寺氏は八尾神宮寺を本願地とするが、橘盛氏の男の橘盛親から始まるが、橘成氏の男である橘正近が継ぎ継続した家である。また數原氏は河内東条に基盤を持った橘姓楠氏の流れで、楠木正成の一族として活躍した橘成氏の男で橘正守の一族。
橘正近(神宮寺正近)
橘成氏の男。八尾神宮寺を本願地とする橘姓楠氏の一族で神宮寺盛親の子の後を継ぐ。
神宮寺正師
神宮寺正近の孫。楠木正成の功臣として活躍し、湊川の戦いで戦死。
橘正守
橘成氏の男。河内東条の橘盛康の地盤を引き継ぐ。
楠正右
橘正守の孫。橘正貞の男。南朝和泉守。楠木正成が討ち死にした後、和泉守護職となる。
楠正資
生没年未詳。南北朝期の武士。楠正右の男。數原氏家祖。楠木正行に従い戦う。その後武者修行で三河国へ移るが、最後は近江国へ住す。
數原正信
生年未詳。室町時代の武士。數原正宗の男。近江国に住し、近江佐々木氏に従う。応永7年(1400年)12月10日卒す。
數原正保
生没年未詳。戦国期の武士。數原正景の男。最初近江国に住し、近江佐々木氏に従っていたが、尾張国に移り織田家に仕える。
數原正安
生没年未詳。戦国期の武士。數原正常の男。織田信長、信孝に仕える。織田家滅亡後、徳川家へ仕える。
數原宗和(1590~1659)
天正18年(1590年)生まれ。江戸時代の医家。清菴法印。水戸威公に仕える。正保4年(1647年)徳川家光に召され奥医となる。萬治2年(1659年)没す。
數原高盤(數原宗信)
數原宗和の男。江戸時代の医家。清安。寛文元年(1661年)徳川家綱に召される。享保16年(1731年)没す。
數原宗信(數原宗安)
數原宗勝の男。江戸時代の医家。清庵。元文元年(1736年)徳川吉宗に召される。安永2年(1774年)没す。
數原宗達(數原通玄)
數原宗利の養子。医家の船橋宗迪の男。江戸時代の医家。元長院法印。元禄3年(1690年)徳川綱吉に召される。享保元年(1717年)没す。
數原元香(數原玄乙)
數原元善の養子。數原尚恭玄仲の男。江戸時代の医家。
<阿間>
阿間氏は高槻安満を本願地とする一族で橘氏ではないが、橘成氏の女が安間正清に嫁いだことから楠木正成の一族として活躍することとなる。安間正清の父である安間資重の母が橘成氏の乳母であったとの説もあり、橘氏と近い関係にあったと考えられる。
阿間了願(安間了願)
安間正清の曾孫。楠正頼と称したことから楠木氏から妻を娶っていた可能性も高い。南北朝期の武士。楠木正行に仕え、摂津住吉・阿倍野で足利尊氏方の山名時氏・細川顕氏軍と長槍で戦い36騎を倒した。その後仏門に帰依した。北朝の追手から逃れ、天野山金剛寺に入り剃髪し、了願と名を改め阿間と改姓する。その後、本願寺の覚如上人に帰依し、真宗に改め専宗寺を開く。また、三島郡に移り安満村の淨誓寺、穂積村の慈明寺を創建した。元中4年(1387年)卒す。
<池田・亀山・橋本・市川・辰巳・大石・生津>
池田氏はもともとは紀氏流であるが、池田奉政の孫の池田教依が内藤満行の娘を妻に娶り、楠木正行の遺児である橋本教正を引き取り育てたため、池田氏の家督を継ぐこととなった。
池田教正
南北朝期の武将。楠木正行の末子。母は内藤満行の娘。幼少時紀伊国橋本に居たとされ橋本教正と称した。正平3年(1348年)生まれ。康安2年(1362年)に摂津の池田城で初陣。北朝に仕え、伯父の楠木正儀とは何度も激しく戦う。池田佐正に池田の家督を譲り、永和4年(1378年)に安芸国の六日市に下向。その後、元中9年(1392年)に摂津に帰り、池田の別家を立てる。応永11年(1404年)に亡くなる。
池田佐正
楠木正行の男。池田教正の異母兄。池田氏系図では池田教正の跡を継いでいるが、佐正の方が年長である。楠木正行の死後、池田教正とともに橋本に住む。その後、池田氏に養育され池田教正から家督を継承する。
亀山久辰
池田教久の男。池田教正の孫。父の時代、応永5年(1398年)に玉櫛荘の吉田邑に移り、亀山を名乗る。河内の畠山氏の配下となり、康正2年3月(1456年)に紀州十津川にて討死する。
亀山数次
池田教久の子。亀山久辰の兄。河内の畠山氏の配下となり、畠山持永と畠山持国の争いの中で、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱の折、京都にて討死にしたと思われる。
亀山信盛
亀山久信の孫。畠山氏配下の家人。永禄12年正月、六条本國寺の戦いで弟の亀山信久とともに討死。六条本國寺の戦いは三好三人衆らが京都本圀寺に仮御所を置いていた室町幕府15代将軍足利義昭を襲撃したことによって生じた戦闘で、三好勢の先陣は薬師寺貞春の軍勢であったが攻めきれず、翌日、細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重らが駆け付け、三好三人衆は敗退した。この戦に三好義継の配下で参戦し討死したと思われる。
澤次家
亀山信盛の孫。澤久家の長男。式部。澤氏への改姓については明らかではない。松永久秀配下。澤次家、澤家久、澤家正の三兄弟は、松永久秀に参陣して天正5年10月10日討死しており、信貴山城落城日と一致する。
市川正次
楠木正行の男。母は大和国平群郡志貴郷久安寺村市川十郎の娘。楠木正行討死の前に懐妊。討死後、男子が誕生。祖父の市川十郎が養育し正次と称す。
池田充正(1428~1482)
池田佐正の孫。摂津の武将。筑後守。嘉吉年間(1441年~1444年)から細川氏のもとで勢力を伸張させ西摂津に進出、嘉吉の乱後、代官職を買得・集積して富を蓄積。応仁の乱では細川方に属し、西軍の大内氏に対して池田城で抵抗するが文明元年(1469年)落城。しかしその後奪回し領地を拡大し、同10年摂津国桜井郷の代官職を獲得した。
池田貞正
摂津の武将。民部丞、筑後守。文明14年(1482年)、池田充正の死後、家督を継ぐ。細川高国と澄元が対立のとき、澄元に味方したが、、永正5年(1508年)高国の武将、細川尹賢に池田城を攻められ、5月に自害した。
池田信正(久宗)
池田貞正の男。筑後守。永正5年(1508年)父が池田城で敗死した時に有馬に逃れ、その後旧領を回復し細川晴元が実権を握ると重用された。天文元年(1532年)に起こった一向一揆との抗争では晴元を助け、伊丹氏とともに一揆の鎮圧に活躍。同8年将軍から破格の待遇を受けるようになり、摂津北半を勢力下に置いた。同15年、晴元に対抗して三好長慶が細川氏綱を擁立すると氏綱方として晴元方と戦ったが翌年降伏。同17年5月晴元の命により自害した。
池田長正
池田信正の男。摂津国池田城主。兵衛尉、筑後守。天文17年(1548年)5月、細川晴元により父が自害させられると家督相続する。同25年5月には箕面寺、摂津国南郷に禁制を掲げるなど一時覇をとなえるが、弘治年間(1555年~1558年)、三好長慶のもとに屈従を余儀なくされた。永禄6年(1563年)2月死去。
池田勝正
摂津国池田城主。戦国初期池田氏は管領細川氏の被官として摂津国に侵入してくる三好衆・松永勢と争った。永禄9年(1566年)、松永方の伊丹親興の領内焼討ちを行う。同10年10月、織田信長の畿内制覇に最後まで抵抗。降伏後、許されて本領を安堵され、和田・伊丹氏と並んで摂津の三守護と称された。以後、信長に属し、同11年12月、上洛して六条本圀寺に足利義昭を攻めた三好康長ら三好三人衆を撃退。元亀元年(1570年)6月、三好長逸に内通した一族の池田豊後守により城を追われ、同2年8月に、細川藤孝と共に攻めたが落ちず、原田城の守将となる。
池田知正(重成)(1555~1604)
摂津国池田城主。池田勝正の弟。備後守、民部丞。荒木村重に属し、荒木久左衛門と称する。永禄11年(1568年)六条合戦で三好軍を退ける。元亀元年(1570年)池田城主となる。同2年、織田信長の命により荒木村重に属したが、足利義昭が信長に反すると、信長方の和田惟政を茨木郡山で斬り、一時信長から離反した。荒木村重が謀反しその没落後、妻子は尼崎七松で処刑された。この後、豊臣秀吉に仕え、摂津国豊島郡で二千七百石を安堵され、小牧・長久手、九州の役に従軍、従五位下備後守に任じられた。秀吉没後、徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)関ヶ原の役では下野小山の陣から従い、戦後五千石加増された。
池田重信
池田知正の男。父とともに豊臣秀吉に仕え、のちに徳川家康に臣従した。慶長5年(1600年)上杉征伐に従い、関ヶ原の役に東軍に味方。同8年、家督相続し従五位下備後守に任じられた。同18年家臣関弥八郎の貸金横領の咎で訴えられ改易。駿河法命寺に蟄居。寛永5年(1628年)5月19日死去。
池田光重
池田長正の三男。備後守。大広寺に池田知正・三九郎の肖像画と釣鐘、十石の寺領も寄進する。その他神田村の八坂神社などの本殿も寄進する。その後、身内の失態により官位と所領を没収され浪人の身となる。同年に徳川家康の大坂城攻めが有り、徳川方として参戦。有馬豊和の部隊に編入される。大坂城落城後は、光重の次男重長を伴って江戸に行きそこで没した。
池田恒利
滝川貞勝の三男。初め足利義晴に仕えたが、享禄年間(1528年~1531年)に辞して、尾張国に閑居したと云う。紀伊守。宗傅。池田政秀女(養徳院)の婿養子。池田恒興の父。天文7年(1538年)3月29日没。その後、養徳院は織田信秀の側室となった。また養徳院は滝川一益と森寺秀勝の推挙で信秀の嫡男吉法師(信長)の乳母となって養育に当たったために、池田家はやがて重用されていく事になった。
池田恒興(1536~1584)
織田信長と乳兄弟の関係にあり、尾張統一の初期から臣従し、信長の各地転戦にすべて従軍。天正8年(1580年)荒木村重謀反の際、一族の荒木志摩守を摂津花隈城に攻め、乱後、村重の旧領を賜る。本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智光秀を討ち、清洲会議の結果、秀吉、柴田勝家、丹羽長秀とともに四宿老に列した。その後秀吉に与力し、賤ヶ岳に従軍、その功により神戸信孝旧領十三万石を継ぎ美濃大垣城主となる。同12年、小牧・長久手の戦いに女婿森長可と犬山城を攻略。羽黒の会戦に敗れ、同年4月9日、徳川家康の本拠三河を衝こうとした羽柴秀次軍に属し長久手で戦死。
池田元助(1559~1584)
池田恒興の長男。父とともに織田信長に仕え、荒木村重謀反の時、花隈城攻略に戦功があった。各地を転戦し武功を発揮した。信長没後、羽柴秀吉に属し、天正11年(1583年)父の転封に伴い岐阜城に移る。小牧・長久手の戦いに参加し、同12年4月9日、徳川家康の本拠三河を衝こうとして羽柴秀次軍に属し、長久手で戦死。
池田由之(1577~1618)
池田元助の長男。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで父は祖父の池田恒興と共に、徳川家康率いる軍勢の襲撃を受けて討死した。由之は8歳の幼子であったため、池田家の家督は叔父である池田輝政に引き継がれたが、輝政は由之を不憫に思い、成長後の慶長6年(1601年)に播磨国佐用郡周辺に2万2千石を与えた。平福に城下町を構え利神城を改修した。慶長12年(1607年)に駿河御普請役を勤めた際に、徳川家康から馬を拝領している。慶長14年(1609年)には3万2千石に加増され、備前国下津井城の城番になる。慶長18年(1613年)に叔父の輝政が死去し、その嫡男の利隆が家督を継ぐと、由之も下津井から播磨国明石城へ移るが、その利隆も元和2年(1616年)に死去すると、家督を継いだ光政は、江戸幕府から幼少を理由に翌元和3年(1617年)に因幡国鳥取藩へ移封させられる。これに伴い由之も明石城から米子城へと移ることとなった。幼君の光政を補佐したが、元和4年(1618年)に江戸から米子へ戻る途中、怨みにより大小姓の神戸平兵衛により刺殺された。
池田由成(1605~1676)
池田由之の男。元和元年(1615年)幕府の証人として江戸に下向し、江戸城で将軍・徳川秀忠に拝謁する。元和4年(1618年)に父・由之が殺害されると、かわりに米子城3万2千石と「出羽」の名を相続して、池田光政に家老として仕えた。元和9年(1623年)7月、藩主光政が将軍・家光に従い上洛した際に供をする。寛永5年(1628年)、藩主・光政と大御所・秀忠の養女・勝子(本多忠刻の娘)の婚礼の際に御礼使として江戸に下り、江戸城で将軍・家光に拝謁する。寛永9年(1632年)には藩主・光政が因幡鳥取藩から備前岡山藩へと移封されたので、由成も備前国下津井城主に転じた。その後、一国一城令でこの城が破却されたので、天城に陣屋を設けてそこに移った。慶安2年(1650年)、藩主・光政の娘・輝子と一条教輔の婚礼のため上京する。門閥家老として津田永忠等と対立し、光政に疎まれ隠居を命じられたため、寛文8年(1668年)7月1日に隠居して三男の由孝に跡を譲った。赤穂藩家臣の大石良昭に嫁いだ娘の熊子は、赤穂事件で知られる大石良雄を生んだ。
池田輝政(1564~1613)
池田恒興の次男。織田信長に仕え、各地を転戦し武功を発揮した。信長没後、羽柴秀吉に属し、父が美濃大垣城主になると同国池尻城主となる。父と兄が小牧・長久手の戦いで戦死すると遺領を継いで大垣城主となる。さらに天正13年(1585年)岐阜城に移る。その後同年3月紀州雑賀攻め、8月佐々成政征伐、同15年九州征伐、同18年小田原征伐、会津征伐に転戦。同年9月、三河国吉田十五万二千石に転封。慶長5年(1600年)関ヶ原の役では東軍に属しその功により播磨国姫路五十二万石の大封を得て姫路宰相と言われた。同18年正月25日、姫路城で死去。
池田長吉(1570~1614)
池田恒興の三男。天正9年(1581年)羽柴秀吉の猶子となり羽柴姓を許される。小牧・長久手に出陣し、その功により備中守となり一万石賜る。のちに加増されて近江国内三万石。文禄元年(1592年)の朝鮮派兵では肥前名護屋城に駐屯、舟奉行。慶長5年(1600年)関ヶ原の役では東軍に属しその功により因幡国四郡六万石を賜り、鳥取城に移る。同19年9月14日没。
池田長政
池田恒興の四男。備中国松山城主。豊臣秀吉に仕えて一万石を知行する。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の役で西軍に属し没落する。大坂冬・夏の陣後、本家で兄の輝政の家臣となった。
池田正長
池田公正の男。丹後守。和泉国五条に住す。
池田正徳
池田正直の男。大隈守。足利義政に仕える。
橋本正秀
池田正徳の嫡男。丹後守、従五位下、橋本伊賀守。和泉国広瀬村に住す。足利義尚の命により斯波義佐に属し、尾張国生津城に在城す。
生津正常
橋本正頼の男。生津民部大夫、従五位下、伊賀守。織田信長に仕え、尾張国丹羽郡楽田に築城する。
橋本道一
生津正常の次男。伊賀守。織田信長に仕え、尾張国中島郡片原一色に在城す。その後、加藤清正に仕え、慶長元年(1596年)2月15日、熊本で病死。
善行寺玄正
橋本道正の次男。浄蔵坊を中興し、善行寺と改称す。名古屋赤塚町に移る。
池田利隆 (1584~1616)
池田輝政の男。右衛門督、武蔵守、侍従、従四位下。母は中川清秀の女。天正12年(1584年)岐阜で生まれる。慶長5年(1600年)関ヶ原役において父とともに東軍に属し、岐阜城攻めに戦功をあげる。同10年徳川秀忠上洛の際、従四位下侍従に叙任し、右衛門督に改める。同19年の大阪の陣において戦功をあげる。元和2年(1616年)病没す。
池田光政 (1609~1682)
池田輝政の孫。江戸初期の備前岡山藩主。父池田利隆が早世した事により元和2年(1616年)7歳で家督相続。同3年、幼少の理由で因幡鳥取三十二万石に転封。同9年、徳川家光の参内に扈従し従四位下侍従に任じ、諱字を賜り光政と改名。寛永3年(1626年)左少将に任官。同5年、徳川秀忠の孫娘にあたる本多忠刻の女を娶る。同9年6月、岡山城主であった池田忠雄(光政の叔父)が没し、光仲が幼少であるため、国替えを行い、備前国、備中国内4郡三十二万五千二百石を知行。天和2年(1682年)5月22日死去。光政は江戸初期の大名中で名君の誉れ高く、向学、民政に尽力した。藩に熊沢蕃山・市浦毅斉を招聘し儒学を究め、仁政理念を本として、質素を旨とする備前風を広めた。著作に「帝鑑評」「池田光政日記」「大学」「中庸」「論語」の要語解、儒書、歌書など多い。
池田綱政 (1638~1714)
池田光政の男。寛永15年(1638年)生まれ。承應2年(1653年)元服し、従四位下侍従に叙任し、伊予守を稱える。正徳4年(1714年)岡山において病没す。備前国岡山曹源寺に葬る。
池田吉政 (1678~1695)
池田綱政の男。延宝6年(1678年)岡山に生まれる。元禄5年(1692年)12月元服し、従四位下備前守に叙任する。同8年父にさきだちて卒す。高輪の東禅寺に葬る。
池田継政 (1700~1776)
池田綱政の男。元禄13年(1700年)岡山に生まれる。兄吉政・政順が卒し、嫡子となり、正徳5年(1715年)4月元服し、従四位下侍従に叙任し、大炊頭継政とあらたむ。安永5年(1776年)岡山にて卒す。
池田宗政 (1725~1764)
池田継政の男。享保10年(1725年)生まれ。元文5年(1740年)4月元服し、従四位下弾正大弼に叙任し、寛延元年(1748年)10月伊予守とあらたむ。同年12月侍従にすすみ、宝暦2年(1752年)家督を継ぐ。明和元年(1764年)3月、岡山にて卒す。
池田治政 (1750~1818)
池田宗政の男。5代岡山藩主。寛延3年(1751年)生まれ。明和元年(1764年)父の死去に伴い家督を継ぐ。同年9月元服し、従四位侍従に叙任し、内蔵頭とあらたむ。寛政2年(1790年)11月左近衛権少将にすすむ。藩主としては有能にして剛毅果断で、老中となった松平定信が寛政の改革で倹約令を出したときにもこれに従わず、放漫財政を展開したという。文人としても優秀で、絵画や俳諧に様々な作品を残している。また、この関係からこの頃には衰退していた閑谷学校を再興している。文政元年(1818年)12月19日に卒す。
池田斉政 (1773~1833)
池田治政の男。6代岡山藩主。安永2年(1773年)生まれ。従四位下、上総介、左近衛権少将。庶出の兄政恭がいたが、正室の子であったことから長男として届出がなされた。寛政2年(1790年)に元服する。寛政6年(1794年)3月8日、父の隠居により跡を継ぎ、第11代将軍・徳川家斉から偏諱を授かって初名の政久から斉政に改名した。文政2年(1819年)、嫡子・斉輝が23歳で早世し、文政3年(1820年)に斉輝の長男・本之丞も5歳で死去した。そのため、弟・政芳の長男・斉成を養子に迎えるが、文政9年(1826年)8月に斉成も18歳で死去した。その後、幕府から将軍・家斉の子女を養子に迎えるようにもちかけられるものの、それを断って文政9年(1826年)10月に薩摩藩主・島津斉興の次男・久寧(のち為政、斉敏、鳥取藩池田治道の孫)を婿養子として迎えた。文政12年(1829年)2月7日、家督を斉敏に譲って隠居する。
池田斉敏 (1811~1842)
島津斉興の二男。7代岡山藩主。従四位下、伊予守、左近衛権少将。生母は斉興の正室・周子(鳥取藩主・池田治道の娘)。初名は島津久寧。池田斉政の嫡男であった斉輝が文政2年(1819年)に23歳で早世し、その後養子となった甥の斉成も文政9年(1826年)8月に早世してしまったため、同年10月に斉政の養嗣子に迎えられ、池田為政と名乗る。文政12年(1829年)2月7日、斉政の隠居により家督を継いだ。将軍徳川家斉の偏諱を受け斉敏(「敏」は養祖父池田敏政の1字)に改名した。嗣子のいなかった斉敏は、大叔父にあたる奥平昌高の十男・七五郎(後の慶政)を仮養子として、天保13年(1842年)1月30日に岡山において卒す。
池田慶政 (1823~1893)
豊前中津藩主奥平昌高の四男。8代岡山藩主。 従四位下、内蔵頭、左近衛権少将。血縁上は斉敏が慶政の従甥にあたる。斉敏の養女(支藩鴨方藩主池田政善の娘)宇多子と結婚した上で家督を相続した。嘉永6年(1853年)、ペリー来航で幕府に対策を諮問されたとき、「鎖国の祖法をあくまで厳守すべきだ」と主張した。その一方で、幕命に従って藩士を房総半島などに派遣し、海防に当たらせている。
池田茂政 (1839~1899)
常陸水戸藩主徳川斉昭の九男(徳川慶喜の実弟)。9代岡山藩主。倒幕に消極的な態度で窮地に立たされる。章政に家督を譲り戊辰戦争に参加。従四位上、弾正大弼、左近衛権少将。
相良長寛 (1751~1802)
宝暦元年(1751年)12月6日、池田宗政の次男。幼名は護之進。のち初名の政長を名乗る。宝暦13年(1763年)、外祖父にあたる6代目筑前福岡藩主、黒田継高は、実子の重政、長経を相次いで亡くし、跡継ぎがいなかった。このため、継高の長女・藤子が嫁いだ岡山藩池田家から外孫である政長を養子に迎えることに決定した。しかし、幕府の要請により一橋宗尹の五男の隼之助(後の黒田治之)を養嗣子に迎えることとなったため、この養子縁組は破談になった。明和6年(1769年)3月5日、第10代人吉藩主・相良福将が死去した際に、末期養子として家督を継いだ。同年3月15日、将軍・徳川家治に御目見した。同年4月28日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。同年5月4日に江戸を出発し、6月16日に人吉城に入った。お国入りにあたって、板倉勝興の三男・至親を仮養子に指名した。明和7年(1770年)12月16日、従五位下壱岐守に叙任された。安永3年(1774年)11月15日、長泰(政長から改名)から長寛と名を改めた。享和2年(1802年)2月5日に庶長子・相良頼徳に家督を譲って隠居し、文化10年(1813年)4月26日に卒した。
池田政言 (1645~1700)
池田光政の二男。従五位下、信濃守。初代岡山新田(鴨方)藩主。正保2年(1645年)備前国岡山に生まれる。寛文12年(1672年)6月に父の封地の内、新墾の田2万5千石をわかち賜り、備前岡山の城下に居所を構える。これより代々、柳間に候す。元禄13年(1700年)8月に卒す。高輪の東禅寺に葬る。
池田政方 (1713~1791)
池田政倚の養子。池田織部由道の二男。池田織部由道は池田由成の孫で旗本。従五位下、信濃守、大内記。3代岡山新田(鴨方)藩主。正徳3年(1713年)生まれ。元文2年(1737年)9月に池田政倚の養子となり、同3年2月16日、家督を継ぐ。寛政3年(1791年)12月に卒す。高輪の東禅寺に葬る。
池田政直 (1746~1818)
池田政方の次男。正室は毛利政苗の娘(桂厳院)。従五位下、信濃守。明和5年(1768年)、兄で先代藩主の政香が死去したため、その養嗣子となって跡を継いだ。寛政12年(1800年)8月26日、長男・政養に家督を譲って隠居し、文政元年(1818年)8月16日に卒す。
池田政善 (1811~1846)
池田政養の男。母は側室・岩田氏。正室は山内豊敬の養女(福原資敬の娘)。備中国鴨方藩の第8代藩主。従五位下、信濃守。文政7年(1824年)、兄で先代藩主の政共が早世したため、その養嗣子となって跡を継いだ。文政9年(1826年)に将軍徳川家斉に初御目見し、元服する。弘化3年(1846年)10月4日、在所で死去したものの、鴨方藩は幕府に死亡届けを出さなかった。病弱な嫡子・政樹の相続を避けようとしたためと考えられる。弘化4年(1847年)3月13日、病気を理由に幕府に参勤交代の延期を願う。同年3月17日、政樹の廃嫡願を提出する。同年4月26日、急養子願を提出し、池田政詮(後の池田章政)の相続を願う。同年4月27日、幕府に死亡届けを出した。公的には、同日に38歳で死去したことになっている。
池田章政(1836~1903)
肥後人吉藩の第13代藩主相良頼之の二男。正室は戸田氏正の娘鑑子。備中国鴨方藩の第9代藩主。備前岡山藩の第10代(最後の)藩主。備前守、侍従、左近衛権少将。従一位勲一等侯爵、麝香間祗候。弘化4年(1847年)3月5日、鴨方藩の第8代藩主池田政善の末期養子となるため、人吉から江戸に入る。同年3月下旬、江戸の人吉藩邸から鴨方藩邸に移る。同年7月、鴨方藩主池田政善の末期養子として家督を相続した。嘉永2年(1849年)12月、従五位下内匠頭に叙任する。後に信濃守に改める。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し、藩内における尊皇攘夷派からの信望もあった。慶応4年(1868年)3月15日、章政は宗藩の岡山藩主を継いだ。先代藩主の茂政が新政府からの実兄徳川慶喜の追討の命令を受け、隠居したためである。鴨方藩主は章政の長男の政保が継いだ。そして章政は戊辰戦争においては新政府軍に与して藩軍を関東・奥羽・函館にまで送った。明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となる。
池田詮政 (1866~1909)
池田章政の次男。岡山藩池田家第13代当主。侯爵、貴族院議員。兄の池田政保は父が池田宗家を継承するのに伴い、その跡を継いで鴨方藩池田家を継いでいたため、次男である詮政が池田宗家を継承することとなった。
池田政鋹(1899~1945)
池田詮政の次男。伯父(詮政の兄)で鴨方藩知事であった池田政保の養子となる。大正13年(1924年)、慶應義塾大学法学部を卒業。同年以降、臨時帝室編修官補、拓務属、朝鮮総督秘書官等となるほか、麻布銀行取締役となる。また拓務省、大東亜省各委員、朝鮮農地開発営団監事等となる。昭和14年(1939年)2月、養父の死去に伴い子爵を襲爵。同年6月、貴族院子爵議員に選出された。
細川博子
池田詮政の長女。肥後熊本藩主を務めた細川家の第16代当主である細川護立に嫁ぐ。子は一男三女。男子が近衞文麿の下で内閣総理大臣秘書官を務め、父同様に美術愛好家として知られた細川護貞。孫に内閣総理大臣などを務めた細川護熙と、近衛家当主の近衞忠煇、表千家の千宗左夫人の明子がいる。
池田隆政(1926~2012)
池田宣政の男。昭和22年(1947年)に学習院高等科卒業後、昭和23年から池田牧場を経営。家畜の改良などを行なった。昭和27年(1952年)10月10日、順宮厚子内親王(昭和天皇・香淳皇后の第四皇女)と結婚。昭和28年2月に有限会社池田産業動植物園を経て、昭和35年5月に株式会社池田動物園となり、隆政は園長に就任した。池田動物園の園長の他、日本動物園水族館協会会長、全日本卵価安定基金理事長・全国鶏卵販売農業協同組合連合会会長・日本狆クラブ会長などを務めた。
池田輝録 (1649~1713)
池田光政の三男。従五位下、丹波守。初代岡山新田(生坂)藩主。慶安2年(1649年)備前国岡山に生まれる。寛文12年(1672年)6月に父の封地の内、新墾の田1万5千石をわかち賜り、備前岡山の城下に居所を構える。これより代々、柳間に候す。元禄6年(1693年)7月奥詰となり、同15年12月奏者番に転じ、宝永2年(1702年)5月紀伊中納言綱教逝去に伴い、御使いを賜り和歌山に赴く。正徳3年(1713年)11月に卒す。高輪の東禅寺に葬る。
池田政晴 (1704~1748)
池田輝録の養子。池田主膳軌隆の長男。父の池田主膳軌隆は池田綱政の次男。従五位下、丹波守。2代岡山新田(生坂)藩主。宝永元年(1704年)岡山で生まれる。同5年、池田輝録の養子となり、正徳4年(1714年)2月遺領を継ぐ。享保3年(1718年)12月従五位下、丹波守に叙任す。寛延元年(1748年)9月に卒す。
池田政弼 (1742~1776)
池田政晴の三男。従五位下、丹波守。4代岡山新田(生坂)藩主。寛保2年(1742年)岡山で生まれる。明和4年(1767年)兄の池田政員を継ぎ、3月遺領を継ぐ。同5年12月、従五位下、丹波守に叙任す。安永5年(1776年)7月に卒す。
池田政良 (1759~1774)
池田政員の長男。幕府の公式記録では第4代藩主・池田政弼の長男、母は高崎氏とされている。実父の死去時には幼少であり、叔父の政弼の藩主就任に伴い、弟の秀次郎と共に政弼の子として届出がなされた。安永元年(1772年)に政弼の世嗣となったが、家督を相続することなく安永3年(1774年)に16歳で早世した。
池田政恭 (1772~1827)
公式には第4代藩主・池田政弼の四男とされたが、実際には岡山藩主池田治政が側室の柏尾氏(池田家家臣の娘)との間にもうけた庶出の長男である[1]。正室は溝口直養の娘(梅岑院)。「池田氏系譜」によると安永元年(1772年)10月11日、岡山において池田治政の長男として生まれた。治政の正室・米姫は当時懐妊中で、翌安永2年(1773年)に次男の斉政が生まれ、嫡男として幕府に届出がされた。安永4年(1775年)には三男の政芳が米姫の子として生まれ、届出されたが、政恭は公式には届出がなされないまま、国元の岡山で養育された。池田政弼は初め、先代藩主で兄の政員の遺児・政良を自身の実子かつ嫡男として幕府に届け出ていたが、政良は早世したため、安永5年(1776年)に政弼が死去した際には、政弼の次男(公式には四男)の永次郎(池田政房、安永4年7月8日(1775年8月3日)生)が跡を継いだ。しかし、永次郎は翌安永6年(1777年)3月11日に江戸藩邸にて夭逝した。そこで年齢が近く、幕府にいまだ出生の届出がなかった池田宗家の庶子・鉄三郎が江戸へ呼び寄せられ、密かに身代わりに立てられて永次郎政房を名乗った。安永8年に通称を初之進、諱を政恭に改めたが、本来の政房の身代わりのため、幕府の公式記録では実際より3歳年少の安永4年生まれとされている。寛政2年(1790年)に将軍徳川家斉に初御目見し、従五位下山城守に叙任される。翌寛政3年(1791年)に岡山へ帰国する。文政5年(1822年)11月21日、長男の政範に家督を譲って隠居し、文政10年(1827年)7月晦日に死去。
池田政和 (1821~1858)
池田喜長の次男。備中国生坂藩7代藩主。生坂藩6代藩主・池田政範には二人の女児しかなかったため、養嗣子として迎えられ、天保10年(1839年)正月23日に政範の隠居によって跡を継いだ。安政元年(1854年)、本家の岡山藩8代藩主・池田慶政と共に房総半島の警備を務めた。安政2年(1855年)12月27日、家督を次男・政礼に譲って隠居した。安政5年(1858年)2月4日、死去。
池田恒元 (1611~1672)
備前児島藩主、のち播磨山崎藩の初代藩主。池田利隆の次男で、備前岡山藩主・池田光政の弟である。慶安元年(1648年)、2万石を与えられて児島藩を立藩したが、慶安2年(1649年)から山崎藩主となる。翌年から検地や治水工事、山林の保護、交通路の整備、村落制度の制定などを行なって藩政の確立に尽力した。承応元年(1652年)から城下町で火事が起こり、さらに疫病が流行するなどしたが、このときも万全の対応を行って領民を救う手腕を見せた、兄に劣らぬ名君であった。寛文11年(1671年)9月4日、61歳で死去し、跡を長男の政周が継いだ。
池田恒行 (1672~1679)
播磨山崎藩の第3代藩主。備前岡山藩主池田綱政の六男。先代藩主の政周が延宝5年(1677年)に嗣子なくして早世したため、その跡を継いだが、翌年12月27日に江戸にて7歳で死去した。嗣子がいるはずもなく、播磨山崎における池田氏は断絶した。
池田忠雄 (1602~1632)
池田輝政の男、母は徳川家康の娘である督姫。正四位下、参議、宮内少輔。家康の外孫として、慶長15年(1610年)、淡路国6万石を与えられ由良城主となるが、幼少のため姫路城にとどまり、かわって重臣が政務にあたった。元和元年(1615年)、兄の忠継の死により岡山城主となる。このとき、遺領38万石のうち10万石を3人の弟・輝澄、政綱、輝興に分与し、備前国28万石に備中国南部の3万5千石を加えた31万5千石を領する。以後、岡山藩の石高は幕末まで変わらなかった。
池田光仲 (1630~1693)
池田忠雄の男。従四位下、相模守、左少将。初代鳥取藩主。寛永7年(1630年)生まれ。同9年、父の遺領を継ぐが、わずか3歳であったため。封地を改めることとなり、因幡・伯耆の2国を賜り、32万石を領し鳥取城に住す。元禄6年(1693年)7月鳥取にて卒す。
池田綱清 (1647~1711)
池田光仲の男。侍従従四位下、伯耆守、左少将。2代鳥取藩主。正保4年(1647年)生まれ。貞享2年6月封を襲、弟壱岐守仲澄に、新墾田2万5千石をわかちあたう。正徳元年(1711年)鳥取にて卒す。
池田仲澄 (1650~1722)
池田光仲のニ男。従五位下、壱岐守。初代鳥取東館新田(鹿野)藩主。慶安3年(1650年)生まれ。貞享2年6月、新墾田2万5千石をわかち賜り、因幡国鳥取城下に住す。これより代々柳間に候す。元禄15年(1702年)池田吉泰から新墾田5千石を与えられ、3万石を領す。享保7年(1722年)6月、鳥取にて卒す。
池田清彌
因幡国鳥取藩主・池田光仲の六男。通称は主殿。初めは長兄の池田綱清より偏諱を与えられて池田清弥を名乗る。早世した久留島通用に代わって久留島通政の養子となり、豊後国森藩の世嗣として久留島通孝に改名。宝永3年(1706年)徳川綱吉に拝謁するが、まもなく廃嫡された。代わって、通政の実弟である通重が嫡子に迎えられた。
池田吉泰 (1687~1711)
池田仲澄の長男。池田綱清の養子。侍従、従四位下、相模守、左少将。3代鳥取藩主。貞享4年(1687年)生まれ。(1711年)鳥取にて卒す。元禄8年(1695年)、伯父の鳥取藩2代藩主綱清(初名:輝高)に嗣子が無かったため養嗣子となる。綱清より「清」の字とその旧名から「輝」の字を与えられて輝清と名乗る。元禄13年(1700年)、病気を理由に隠居した綱清より家督を相続する。同年、5代将軍徳川綱吉の面前で元服、綱吉の偏諱を受け吉明(のち吉泰)に改名。従四位下に叙任する。宝永5年(1708年)、正室・敬姫と婚姻する。藩政では度重なる災害に見舞われ、世情不安から藩の風紀が乱れた。このためたびたび綱紀粛正令や倹約令が出された。吉泰は倹約令を出す一方で、自身は能が趣味で参勤交代の途中などで気に入った能面を買い求め、その数は約800面におよんだ。これは当時の将軍家が所蔵する能面の数よりも多かったと伝えられている。元文4年(1739年)7月23日に死去。
池田重寛 (1746~1783)
因幡国鳥取藩5代藩主。池田宗泰の長男。母は紀州藩6代藩主徳川宗直の五女・桂香院久姫。正室は桑名藩主・松平忠刻の次女・律姫(清涼院)。継室は御三卿田安宗武の四女・仲姫(聖諦院)。従四位下、侍従、相模守、左近衛少将。延享4年(1747年)に父・宗泰が死去した時、2歳であったため、家臣団は若桜藩3代藩主池田定就に相続させ、その養嗣子とすることを幕府に願い出た。しかし、幕府は生母桂香院の実家が紀州徳川家で、初代鳥取藩主池田光仲が幼少で家督相続をしていることを理由に相続を認めた。宝暦7年(1757年)、藩校・尚徳舘を開く。宝暦9年(1759年)、9代将軍徳川家重の面前で元服、家重の偏諱を受け重繆(のち重寛)に改名。従四位下を叙任する。天明3年(1783年)10月12日に死去した。
池田治道 (1768~1798)
因幡国鳥取藩6代藩主。池田重寛の次男。母は側室の村上氏。正室は仙台藩主・伊達重村の娘・生姫(暾子)。継室は紀州藩主徳川重倫の娘・丞姫。従四位下、侍従、相模守、左近衛少将。安永7年(1778年)、重寛の正室・仲姫の預かりとなり仲姫が養育する。継母の仲姫、祖母・桂香院の影響を受けて育ち、天明元年(1781年)、長兄で世嗣の治恕が江戸藩邸で死去し、天明2年(1782年)に藩主世嗣となる。天明3年(1783年)父・重寛が死去し、家督を相続する。翌、天明4年(1784年)、10代将軍徳川家治の面前で元服、家治の偏諱を受け治道と名乗る。寛政10年(1798年)5月6日に死去。
池田澄時 (1769~1785)
池田重寛の三男。明和8年(1771年)に鹿奴藩の第5代藩主・延俊が死去したため、その養子として家督を継いだ。初代仲澄、4代澄延(延俊の兄)の偏諱である「澄」の字を取って澄時と名乗る。天明5年(1785年)6月、江戸城神田橋門番に任じられるが、7月21日に江戸で死去。
池田斉稷 (1788~1830)
池田治道の次男。母は側室の佃氏(浦の方)。正室は米沢藩主上杉治広の三女・演姫(天殊院)。従四位下のち従四位上、侍従、因幡守、左近衛少将のち左近衛中将。治道の正室・生姫が寛政4年(1792年)に死去すると、一部の家臣によって兄・斉邦の対抗馬として推される。斉邦を世嗣に推す藩士の佐々木磯右衛門が治道の怒りを被り諌死したことにより兄が嫡男となったが、後に父から偏諱を与えられて道稷と名乗っている。寛政10年(1798年)に父が亡くなり、斉邦が家督および藩主を引き継いだが、文化4年(1807年)に嗣子なくして亡くなったため、弟である道稷が家督を相続する。11代将軍徳川家斉の面前で元服、家斉の偏諱を受け斉稷に改名。従四位下を叙任する。文政2年(1819年)、左近衛中将となり、葵紋を下賜される。江戸城伺候席も大広間から大廊下下に昇進した。文政7年(1824年)、養嗣子の乙五郎が父・家斉の面前で元服、家斉の偏諱を受け斉衆と名乗り、従四位上・侍従を叙任した。文政9年(1826年)、斉衆は疱瘡のために死去した。これにより斉稷の実子(次男)誠之進(のちの斉訓)が世嗣となった。文政13年(1830年)5月2日に江戸屋敷で死去。
池田慶行 (1832~1848)
鹿奴藩主・池田仲律の長男。天保12年(1841年)、9代藩主池田斉訓が死去した際、養嗣子として10歳で宗藩の家督を継ぐ。天保13年(1842年)、12代将軍徳川家慶の前で元服式を行い、偏諱を受け慶行に改名。従四位下、侍従を叙任し、因幡守を名乗る。天保14年(1843年)、佐賀藩10代藩主鍋島斉正の娘・貢姫と婚約するが婚姻前に慶行が没したため流縁となった。弘化4年(1847年)、左近衛少将に昇任する。嘉永元年(1848年)、17歳の時に鳥取城で死去。
池田定賢 (1700~1736)
池田仲澄の四男として鳥取で生まれる。生後5ヵ月の時に家老・池田知定の養子となった。享保2年(1717年)に元服したが、享保3年(1718年)に叔父の清定が死去すると、その養子として家督を継ぐこととなり、松平姓を称した。12月18日に従五位下・近江守に叙位・任官する。享保11年(1726年)5月に駿府加番に任じられる。その後も江戸城御門番などを歴任した。元文元年(1736年)9月7日、江戸で死去。
池田定常 (1767~1833)
池田政親の孫。池田政勝の次男。母は朝倉氏。従五位下、縫殿頭。松平冠山と呼ばれる。池田定得が嗣子無くして病死したため、遺言により旗本の池田政勝の子・定常を養子の後継者と指名していたため、定常が跡を継ぐ。定常は謹厳実直で聡明だったため、小藩ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても深い造詣を示し、佐藤一斎や谷文晁、塙保己一、林述斎らと深く交流した。そのため、毛利高標(佐伯藩)や市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた。享和2年(1802年)11月、家督を長男・定興に譲って隠居した。隠居後も学者や文学者と交流し、著作活動や研究に力を注いでいる。定常の著作である『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』は、当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と高い評価を受けている。天保4年(1833年)7月13日に死去。
池田 政武 (1649~1687)
池田輝澄の五男。寛文5年(1665年)に福本藩主だった兄・政直が死去すると、寛文6年(1666年)3月15日に家督は弟の政武が継ぐこととなったが、このときに政武に7千石、弟・政済に3千石(屋形池田家)を分与したため、交代寄合となった。貞享4年(1687年)5月7日に死去。
池田 喜長
旗本・池田喜生の養嫡子、池田輝名の嫡男。正室は若桜藩主池田定保の娘。通称は松平弾正。
父・輝名が享和3年(1803年)家督相続前に没したため、文化10年(1813年)養祖父・喜生の家督を嫡孫承祖し、知行6千石を相続する。天保7年(1836年)7月18日没。
池田政綱 (1605~1631)
池田輝政の男。元和元年(1615年)6月、播磨国赤穂郡を賜り、3万5千石を領す。同9年従五位下右京大夫に叙任し、寛永3年(1626年)8月19日、従四位下にのぼる。同8年7月、26歳で卒す。備前国岡山少林寺に葬る。
池田佐信
池田佐長の男。康正元年(1455年)畠山政長に属し、応仁元年(1467年)御霊の森の戦で子の池田信基と力戦する。
池田信之
池田佐信の男。信基が文明4年(1472年)に戦死したとき、頼基幼少のため一時的に池田氏を継ぎ、足利義材に仕える。摂津守。従五位下。
辰巳頼基
池田信基の男。母は辰巳頼林の女。3歳の時に父が死に辰巳頼祐の養育を受け、頼祐が死去した後辰巳氏を継ぐ。三好長輝に属し、永正17年(1520年)長輝戦死の後、高倉城桂川の戦いで傷を負う。大永7年(1527年)2月15日死去。
池田正甫
池田正鯤の男。天明元年(1781年)従六位下和泉守。寛政元年(1789年)従六位上。同11年正六位下。文化4年(1807年)肥後介。
大石宗親(池田直正)
池田佐正の男。左衛佐。元中9年10月南北和睦後浪人となり遠江国榛原郡千頭の千頭城主大石左衛門尉信親の孫の左衛門大夫大石是親の娘を娶り、大石を継ぐ。大石宗親の代には、大井川河口に大船を有して吉田海賊と呼ばれていたという。
<田邊・正玄>
橘嗣光(田邉嗣光)
橘清友の末裔。橘正通の男。生没年未詳。紀伊田邊に住す。田邉氏を名乗る。
田邉廣儀
田邊嗣光の子孫。田邉俊信の男。紀伊から越前に移る。
田邊正玄(正玄五郎衛門)
田邊廣儀の子孫。田邉春光の男。正玄の名を家名とする。越前の商家として身代を築く。正玄以後は、代々五郎衛門を名乗る。
橘曙覧(1812~1868)
越前福井石場町の紙商正玄五郎右衛門の男。母は山本都留子。正玄家は福井の著名な旧家。名は五三郎茂時。後に、尚事に改める、橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し、そこから国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられ、橘曙覧と称した。文政9年(1826年)父に死別、仏門に入るため日蓮宗妙泰寺の明導の教えを受けるが、文学を志し、児玉三郎の塾に入る。家業を弟に譲り、天保15年(1844年)飛騨高山の田中大秀に入門。足羽山の中腹に移り黄金舎と称した。安政5年(1858年)大獄で幽閉された福井藩主松平春嶽に「万葉集」の歌を送る。中島広足、大田垣蓮月、与謝野尚綱と交友を深める。国典を研究し敬神尊王の念篤く、和歌は万葉体を倣った。明治11年(1878)嗣子井手今滋によって「士濃夫廼舎歌集」が刊行された。著書に「囲炉裡譚」「沽哉集」「榊のかをり」「花廼佐久等」「藁屋詠譚」「藁屋文集」がある。
井手今滋
橘曙覧の男。編集者。父橘曙覧の歌集の刊行をはじめ全集の編纂に尽力した。
<小鹿島・渋江・中村>
橘公成(小鹿島公業)
生没年未詳。鎌倉初期の武士。橘公長の次男。治承4年に父とともに鎌倉へ下る。以後、源頼朝の側近として活躍。奥州合戦の功により出羽国秋田郡小鹿島の地頭職を与えられ、小鹿島橘氏を称した。文治5年(1189年)12月、大河兼任の乱で攻撃を受け、鎌倉へ敗走するが、鎌倉からの追討軍により反乱は2か月で収束し、奥州の源氏支配が確立した。その後長門、讃岐の守護、薩摩・下野の国司を歴任したが、嘉禎年間(1235~1238)に本領であった伊予国宇和荘地頭職の替えとして肥前国長島荘惣地頭職の給付を受け、その地に移住した。法名は公蓮と称した。
小鹿島公員
生没年未詳。鎌倉初期の武士。小鹿島公業の男。延応元年(1239年)6月父から、出羽国秋田郡湯河、澤内、湊地頭職を譲られる。北条執権との確執により延応元年(1239年)領有した秋田郡内の地所を自ら放棄し、小鹿島公業の娘であった薬上助局に任せ、肥前長島へ移り、上村地頭となる。
渋江公村
生没年未詳。小鹿島公義の男。渋江左衛門尉。渋江氏家祖。肥前国長島荘に住す。
渋江公重
生没年未詳。渋江公村の曾孫。渋江公經の男。左馬大夫。建武3年(1336年)菊池討伐の際、父とともに足利尊氏に属し、数度の軍忠に励む。
渋江公親
生没年未詳。渋江公重の孫。渋江下野守公治の男。夜叉童丸。左衛門佐。応永年間(1394~1428)に活躍。
渋江公代
生没年未詳。渋江公親の曾孫。渋江左馬頭公匡の男。右馬大夫。応仁2年(1468年)、渋江彌次郎(公勢)へ長島庄下村120町を譲る旨の記録がある。
渋江公勢
生没年未詳。渋江公代の孫。渋江下野守公忠の男。右馬頭・薩摩守。妻は後藤職明の女。長島庄河古日鼓岳城主。相続争いにより大永7年(1527年)3月次男の公政・公政乳母とともに三男公親に毒殺される。
後藤澄明
生没年未詳。渋江薩摩守公勢の男。母は後藤職明の女。後藤職明の養子。
後藤貴明
生没年未詳。大村純前の男。妻は後藤澄明の女。伯耆守。後藤貴明は大村純忠を度々攻撃し、当時の海外貿易港として有名な横瀬浦を攻撃炎上させたが、大村純忠滅ぼせず。
後藤惟明
生没年未詳。平戸領主松浦隆信の次男。後藤貴明の養子。天正2年(1574年)6月、松浦隆信の意向を受けて、義父後藤貴明の暗殺を企てたが、これを事前に察知した貴明は黒髪城へ単身逃亡。その後、貴明は竜造寺隆信に援軍を依頼し、惟明は平戸に逃げ帰った。
後藤家信(竜造寺家信)
生没年未詳。竜造寺隆信の三男。妻は後藤貴明の女。後藤貴明の養子。後藤家は竜造寺一門に列らなることになり、隆信の跡を継いだ竜造寺政家より竜造寺の姓を賜り竜造寺姓となった。しかし竜造寺宗家の断絶に伴い、鍋島直茂が豊臣秀吉に認められ国政を執ることとなり、子孫は鍋島家へ仕え、鍋島姓を賜る。家信はルイス=フロイスの『 日本史』に、キリスト教への理解を示した人として紹介されている。
渋江公親
生没年未詳。渋江薩摩守公勢の三男。大永7年(1527年)父、兄を毒殺し父の遺跡を相続する。これを聞き後藤澄明(純明)兵を率いて、日鼓岳城を攻める。公親の一族郎党は澄明に通じていたため防御の術を失い、松浦郡波多氏を頼み、貴志長城に奔る。天文11年(1542年)波多隠岐守、松浦肥前守の援兵3千を率いて長島庄に打って出、旧領の回復を謀る。
渋江公師
生没年未詳。渋江下野守公親の男。豊後守。大村純忠に仕え、後藤貴明の押さえとして波佐見村岳山城を守る。豊臣秀吉の薩州征伐に際して浅野左京大夫に因り、大村安堵の朱印を請う。隠居後、波多三河守の招きに応じて波多に住す。
渋江公重
生年未詳。渋江下野守公親の次男。渋江公師の弟。兄と後藤貴明と戦い敗れ、肥後山鹿金剛乗寺に逃れた後、永禄2年
(1559年)に肥前潮見山に帰城し有馬氏と戦い戦死。
大村公種
生没年未詳。渋江豊後守公師の男。大村十右衛門純友の女を妻とし、大村喜前から大村氏を賜る。子孫は代々大村家の重臣として続く。
渋江公茂
生没年未詳。渋江豊後守公師の次男。松浦鎮信に仕え、平戸に留まる。
大崎公次
生没年未詳。渋江公村の曾孫。渋江公經の男。但馬守。大崎氏を名乗る。建武3年(1336年)菊池討伐に際し、軍功あり。
上村公直
生没年未詳。渋江公村の曾孫。上村公行の男。対馬守。
牛島公茂
生没年未詳。小鹿島公義の男。牛島左衛門尉。牛島氏家祖。肥前国杵島郡長島荘牛島邑に住す。
中村公光
生没年未詳。小鹿島公義の男。中村五郎左衛門尉。法名性蓮。
中村公通(中村公有)
生年未詳。中村公光の男。左衛門尉、薩摩守。元弘3年(1333年)5月卒す。少弐妙恵、大友具簡に従いて武蔵修理亮烹北条英時を討つ。
中村公廉
生没年未詳。中村公通の末裔。中村公勝の男。左衛門五郎。永享10年(1438年)冬、大内修理大夫持世に従い千葉介胤鎮を討つ。
中村公頭
生没年未詳。中村公廉の末裔。中村公康の男。宮内少輔、下野守。元亀・天正年間、後藤家に属し戦功あり。柏嶽で迎え撃ち軍功を挙げる。翌年、少弐頼泰に属し筑後国北郷、筑前国壱岐寺、肥後国關山の戦場で戦功を挙げる。
中村公秋
生没年未詳。中村公通の末裔。中村公季の男。日向守。文明12年(1480年)渋江公勢とともに京都大番を務め帰邑の際、近江国逢坂の関にて大村純伊に会す。
藤崎公綱
生没年未詳。小鹿島公員の男。橘薩摩左馬大夫従五位下佐渡守。母は豊田景綱女。肥後藤崎に移り、藤崎を号する。
藤崎公紀
生没年未詳。藤崎公頼の男。美濃守。薩摩桜島内の藤野村を領する。
藤崎廣相
生没年未詳。藤崎公紀の末裔。藤崎公光。慶長5年関ヶ原の合戦に島津義弘出陣した事の罪により桜島藤野村に蟄居した際、慶長6年4月から6月の間、住まいとなる。
宮原公資
生没年未詳。小鹿島公員の末裔。藤崎公綱(橘薩摩左馬大夫)の男。肥後宮原に移り、宮原彦次郎を名乗る。
宮原公忠
生没年未詳。宮原公資の末裔。宮原公次の男。左ヱ門尉、出雲守、治部少輔。肥前八代宮原の地頭。相良長毎に仕え、肥後宮原城城代。
茨木を拠点とする摂津国の小領主。大安3年(1446年)茨木城代となる。文明14年(1482年)摂津国人一揆に参加し、同年7月に細川政元に攻められ、茨木三郎父子は自刃する。一族の者も多く討死し、一時衰退するが、一族の弥三郎が細川へ帰順し、細川晴元の臣となる。永正11年(1514年)茨木家俊が茨木城代となる。茨木伊賀守長隆は、幕府に奉行として仕え、長隆の子に茨木彦四郎長頼がいる。文安17年(1548)茨木佐渡守重朝が在城。元亀2年(1571)に荒木村重等に攻められ茨木城が落城し、茨木氏は滅ぶ。
茨木仲直
生没年未詳。橘盛綱の男。茨木五郎。茨木氏の初代と思われる。茨木城は楠木正成の築城とも言われており茨木氏との関係が感じられる。