大阪府①

大阪市住吉区

朝日山荘厳浄土寺

真言律宗

本尊は大聖不動明王

摂津国八十八箇所35番

住吉大社の神主であった津守国基が白河天皇の勅を受けて応徳元年に創建されたと伝えられている。「七宝荘厳極楽浄土」の銘がある宝鐸が発見されたのが寺号になったという。鎌倉時代に入り、文応元年、奈良西大寺の叡尊の勧化にて、律宗に改宗。

住吉大社

祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命

社格 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・別表神社・摂津国一宮・日本三大住吉・なにわ七幸

仲哀天皇9年、神功皇后が三韓征伐より七道の浜に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まる。その後、神功皇后も祭られる。応神天皇の頃からの大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団を祖とする。南北朝時代は、宮司の津守氏の館の住之江殿に南朝の後村上天皇の行宮が置かれ、約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つになる。次の長慶天皇は住吉で即位した。

和光山西之坊

真言宗

本尊は地蔵大菩薩

摂津国八十八箇所34番

天野谷寺五ヶ坊の一坊で、住吉大社の社僧寺であり、神仏習合の名残を現在に留めている。創建は平安初期に遡るとのことだが、戦国時代天正年間の兵火により、資料等及び由緒古記宝物等は失われ、詳細は不明とのことである。その後、元和3年長尊僧正により再興されている。

吾彦山大聖観音寺(あびこ観音)

観音宗総本山

本尊は聖観世音菩薩

創建は欽明天皇7年で、日本最古の観世音菩薩の寺院とされ、厄除の寺として知られる。江戸時代には最盛期を迎え、塔頭寺院が36を数えるに至った。明治14年、火災に遭い、多くの寺宝と共に焼失した。明治23年に再建し、昭和22年、真言宗山階派より独立し、観音宗と称する。

紫雲山神光寺(あびこ行者堂)

本山修験宗

本尊は神変大菩薩

創建詳細不明。昭和のはじめ大峰山・葛城山系の山々で修行された初代辨光行者が弥山での篭り行を終え里に降りてきた際に大峯山寺阪堺役講のひとつ井筒組よりお預かりした役行者神變大菩薩を本尊にあびこ行者堂として開山。

大阪市東住吉区

桑津天神社

祭神は少彦名神、菅原道真、須佐之男命、奇稲田比売命ほか

社格 村社

仁徳天皇の妃である日向髪長媛が病気に罹ったとき、天皇が少彦名神に全快を祈って快癒し、それが縁でこの地に同神を勧請された。髪長媛は、神の資格のある采女として日向国より召され、仁徳天皇妃となり、桑津の地に居住していたという。明治41年近隣の林神社(牛頭天王社)を合祀し、翌年神饌幣帛料供進指定神社となった。

心王山殊勝院京善寺(くわづ不動尊)

真言宗御室派

本尊は不動明王

摂津国八十八箇所41番・近畿三十六不動尊4番

古くは「金剛院」と称せられ厄除祈願道場として栄えていたが、元和元年、大坂夏の陣の合戦の場となり、兵火で焼失。承応2年、桑津村の篤信者富井部氏などの霊夢に不動明王が出現し、紀州より観弘実誉阿闍梨を招き堂宇を再興、寺号を心王山殊勝院京善寺と改めた。紀州根来寺の不動明王と同木同作(興教大師の作)の不動明王を勧請し本尊とした。

紫金山小松院法楽寺(田辺不動尊)

真言宗泉涌寺派大本山

本尊は不動明王

摂津国八十八箇所40番・近畿三十六不動尊3番・役行者霊蹟札所・おおさか十三仏1番

源平の戦乱で戦死した平家と源氏の霊を弔うために、源義朝の念持仏であった如意輪観世音菩薩を安置し、壮麗な伽藍が営まれたことが起源とされる。山号の紫金山は、治承2年、平重盛が宋の禅師・育王山仏照の高徳を聞き、黄金3000両を献上し結縁を求めたとの伝えによる。仏照は重盛の仏法への志に感嘆し、育王山伝来の紫金の仏舎利二顆を贈ったという。院号の小松院は、平重盛の別称が小松内府と称されていたことにちなむ。元亀2年、織田信長軍の侵攻による兵火で伽藍は灰燼に帰した。正徳元年から復興を開始し、堂塔は大和国・宇陀松山藩織田氏殿舎が移築され、現在に至る。

大阪市阿倍野区

阿倍王子神社

祭神は熊野権現、八幡大神

社格 不明

「摂州東成郡阿倍権現縁記」によれば、仁徳天皇の夢の中に熊野三山の使いである3つの足の烏が現れ、それを捜させると同じものが当地(阿倍島)にいたので、そこに神社を創建したという。熊野詣が流行した平安時代に、九十九王子の第五王子社と呼ばれた。「王子」とは和歌山県の熊野大社の末社という意味で、京都から摂津、和泉を経て熊野に至る街道の途中に、休憩と遥拝のために設けられた。天長3年、淳和天皇の勅命で弘法大師が悪疫鎮圧の祈祷を行ったとの記録も残っているところから、厄除け、無病息災、病気平癒などにご利益があると信じられている。

阿部野神社

祭神は北畠顕家、北畠親房

社格 別格官幣社・別表神社

南朝方について各地を転戦した北畠顕家と、その父の北畠親房を祀る。建武中興十五社の一社。延元3年に顕家が足利方に敗れて亡くなった地に、明治8年、地元の有志が顕家を祀る祠を建立したのに始まる。明治15年1月に改めて阿部野神社として創立した。明治23年に社殿が竣工し、鎮座祭が斎行され、別格官幣社に列せられた。

安倍晴明神社

祭神は安倍晴明

社格 不明

安倍王子神社境外社。安倍晴明はこの地で生まれたと伝えられている。社伝によると創建は寛弘4年で、代々晴明の子孫と称する保田家が社家として奉仕し、江戸時代には代々大坂城代が参拝にくるほど有力な神社であったが、幕末には衰微し、明治時代には小さな祠と下記にある石碑のみとなった。明治時代末期になると復興計画が持ち出され、大正10年には安倍王子神社の末社として認可された。社家の子孫である保田家より旧社地の寄進を受け、大正14年現在の社殿が竣工した。

海照山正圓寺(天下茶屋聖天)

東寺真言宗

本尊は大聖歓喜双身天王

摂津国八十八箇所32番・おおさか十三佛2番

天慶2年光道和尚により開基。最初は般若山阿部寺の一坊であったが、元禄時代に義道見明和尚が寺を移転し、海照山正圓寺と改めた。 本尊は木彫の大聖歓喜双身天王で、これは日本最大である。

大阪市都島区

都島神社

祭神は、天照大神ほか15柱

社格 村社

淀川の左岸にあり度々、洪水に見舞われたことから、後白河法皇が当地へ行幸した際にこれを哀れみ、当地の守護神として神社を置くよう命じた。毛馬村・滓上江村・友渕村など8村が協力し、永暦元年に十五社神社を建立したことに始まる。昭和18年に都島神社と改称した。旧本殿その他は大阪大空襲で焼失し、昭和24年に再建された。

櫻宮(桜宮神社)

祭神は、天照皇大神、八幡大神、仁徳天皇

社格 郷社

旧東生郡野田村小橋桜の馬場字宮田が創祀の地で氏神として祀られていたが、慶長18年造営の社殿が元和6年の大和川の洪水で流出し、中野村に再建し祀られることになった。その後、寛文6年、延宝2年に水禍に罹り、宝暦6年に現在地に遷座した。

 

川向山大長寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所7番

慶長10年、毛利輝元の一族である佐々木高久が外祖父の毛利定春の冥福を祈って建立。浄瑠璃「心中天網島」の主人公である小春・治兵衛の比翼塚がある。享保5年10月14日、妻子ある紙屋治兵衛と遊女の小春が網島の同寺で心中するという事件が起こった。その事件を元に近松門左衛門が2か月後の12月に書き下ろしたのが同作品である。以来大長寺は小春・治兵衛ゆかりの地として知られる様になった。江戸時代は現在地より南の現藤田美術館のある場所一帯にあったが、明治42年、藤田伝三郎により、大長寺のあった土地は邸宅用地として買収され、藤田家の寄進により、同寺は現在地に移転し、その際比翼塚も移築された。

大阪市城東区

野江水神社

祭神は水波女大神

社格 村社

天文2年、三好政長が近くに榎並城を築く際たびたび水害に見舞われるので、水火除難の守護神として城内に小さい祠を造営し祀ったのが起源と伝えらる。野江一帯は昔から土地が低く湿地帯のため、大雨のときには淀川やその支流が氾濫したびたび水害を被ったため、水の神を勧請したものと考えられている。現在の社殿は明治18年の大洪水で倒壊したため、明治21年に再建された。

関目神社(須佐之男尊神社)

祭神は須佐之男尊

社格 村社

創建不詳。天正8年、豊臣秀吉が大阪築城の際、この付近を防衛線の一部として重視し、一策として関目から古市・森小路の間10余町の道路を屈折させて、敵兵の進軍を俯瞰出来るようにした。これと同時に北の護りとして武神の須佐之男尊を祀り崇敬し、同時に、大阪城鬼門鎮護の神として毘沙門天・牛頭天皇を勧請し、小祠を建立したのが始まりであるといわれている。明治5年、村社に列せられ須佐之男尊神社と称した。

宝栄山大日寺

真言宗御室派

本尊は子安大日如来

摂津国八十八箇所13番

弘仁年間、弘法大師が当地を訪れた折、難産で女性が苦しんでおり救いを求められたので、大師は世の女性の難産を除かんがため、一刀三礼し自ら子安大日如来を刻み、安置したのを創建とする。豊臣秀吉が大坂城築城の際、鬼門除けの寺として参拝したとも伝わる。本堂にはこの弘法大師手作りの大日如来のほか、如意輪観音、不動明王や釈迦如来、阿弥陀如来、などの優れた仏像が安置されている。

 

大阪市平野区

杭全神社

祭神は素盞嗚尊、熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)

社格 府社

貞観4年、坂上田村麻呂の孫でこの地に荘園を有していた坂上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建した。建久元年に熊野證誠権現(伊弉諾尊)、元亨元年には熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の勅額を賜り、熊野権現社の総社とされた。明治になって現在の社名に改まった。日本で唯一連歌所が残っており、1987年に復活させ、平野法楽連歌会が催されている。

諸仏護念院大源山大念仏

融通念仏宗総本山

本尊は十一尊天得如来

おおさか十三仏霊場10番・河内西国三十三箇所特別客番・なにわ七幸

比叡山の僧の良忍が、大治2年に鳥羽上皇の勅願により開創した。

摂津国住吉郡平野庄の領主の平野殿坂上広野の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所・修楽寺の別院が前身。永享元年に第7世法明が中興して寺域を拡大して、伽藍を整備したが、度重なる兵火に遭い荒廃した。第43世舜空が大堂を建立し、元禄年間には、第46世大通が諸堂を再建するとともに、法儀の用具を完備して、融通念仏宗の本山として現在に至っている。

霊峰山如願

真言宗御室派

本尊は聖観世音菩薩

摂津国三十三箇所32番・摂津国八十八箇所37番

聖徳太子が仏法興隆の地として喜連寺を建てたと言われる。西には阿弥陀寺、東に弥勒寺、南に薬師如来をまつる湯谷寺、その他別院として橋本寺・松本寺・善法寺・高野寺を擁する大伽藍であった。その後堂宇は縮小し、 弘仁8年、空海がこの霊場に詣で、その衰退を悲嘆し、杖を立てそれが朽ちないうちに再建の願いを立て上京し、勅許を蒙って来てみると杖は植木の如くになっていた。弘仁11年、諸堂を再建し如願寺と寺名を改め、脇侍不動明王・毘沙門天を自作安置し、鎮守堂を建立した。大永年間以後、兵火震災にあい、諸堂は消失し、現在の本堂は享保年間に再建されたものである。

王舎山長生院長寳寺

高野山真言宗

本尊は十一面観世音菩薩

摂津国三十三箇所31番・摂津国八十八箇所38番

開山は坂上田村麻呂の娘で、坂上広野の妹の坂上春子(慈心大姉)とされる。春子は桓武天皇の妃であった。延暦25年に桓武天皇が崩御すると、空海に帰依して剃髪し、慈心尼と称した。寺は坂上田村麻呂が大同年間に建立したという。南北朝時代には、後醍醐天皇が吉野に向かう途中に、仮の皇居とした。この時王舎山の山号が下賜された。広大な寺域に多くの堂宇があったが、元弘の乱、建武年間)、大坂夏の陣の兵火により、灰燼に帰した。

野中山全興寺

高野山真言宗

本尊は十一面観世音菩薩

おおさか十三仏7番・摂津国八十八箇所39番

聖徳太子が平野の野中の地に小宇を建立して薬師如来の像を安置したのが始まりとされ、そのことから平野の町は広がったとされる。旧平野の町の中心にあり、現本堂は元和元年、大阪夏の陣の時、一部を消失。万治3年に再建されたものである。

式内楯原神社

祭神は武甕槌大神、大国主大神、孝元天皇、菅原道真、赤留姫命

社格 村社

崇神7年初めて祀られたといわれる延喜式内の古社。また、神武天皇が国内平定に用いられた十握の劒を祀られているという。元は字楯原にあったが、文明13年、兵火に遭い遷座されたが、元和年間、暴風雨のため社殿が壊れ、現在の地遷座された。この元和年間に天神社を合祀した。また摂社の龍王社の祭神である赤留姫命が楯原神社の祭神と転じてしまい、明治5年まで赤留姫命を祀る社と間違われたまま、天神社として村社に列せられた。明治43年東西神社、春日神社を合祀し、式内楯原神社に復した。

大阪市生野区

彌栄神社

祭神は素盞嗚命、仁徳天皇

社格 村社

文禄年間に島根県八束郡の熊野神社より分霊を移し、当時は牛頭天皇社と呼ばれた。木野村の鎮守として崇敬厚く、宮座を設けて祭事を奉仕して居たが、明治5年に彌榮神社と改めた。明治43年氏子協議の上、岡村の御館神社を大正2年に合祀した。

御幸森天神宮

祭神は仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命

社格 村社

御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野と呼ばれ、猪甘津と呼ばれる古代の港があったことに由来する。猪甘津は日本書紀仁徳天皇14年に記され、猪甘部と呼ばれる官職を務める者が住んでいた。猪甘部は朝廷への貢物として豚を飼育する役を司っていた。また付近は百済野と呼ばれ百済からの渡来人が多く住んでいた。水鳥が集まる景勝地であったとも伝えられている。伝承によれば、仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされる。仁徳天皇崩御の後の反正天皇2年、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や御幸宮と称された。

大阪市天王寺区

荒陵山四天王寺(金光明四天王大護国寺)

和宗総本山

本尊は救世観世音菩薩

聖徳太子霊跡1番、新西国三十三箇所1番、近畿三十六不動尊1番、法然上人二十五霊跡6番、西国薬師四十九霊場16番、摂津国八十八箇所25番、西国三十三箇所番外、なにわ七幸、大阪七福神(布袋尊)

四天王寺は、推古天皇元年に建立され、崇仏派の蘇我氏を支持した聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され、勝利の後その誓いを果すために建立されたとされている。

四天王寺庚申堂

庚申まいり

本尊は青面金剛童子

大宝元年、正月庚申の日に、毫範という僧侶の前に青面金剛童子が現れ庚申の法を伝授したと伝えられる。現在、60日に一度巡ってくる庚申の日には、境内にコンニャクの店が出ている。庚申のコンニャクを北向きで食べると頭痛が治るとの言い伝えがあり、大勢の参拝者で賑わう。

荒陵山勝鬘院(愛染堂)

和宗

本尊は愛染明王

聖徳太子霊跡29番、西国愛染十七霊場1番

寺伝によれば、この寺は推古天皇元年に聖徳太子が開いた施薬院が始まりと伝えられ、鎌倉時代には執権北条時頼から寺領を寄進されたという。金堂に愛染明王が奉安されており、また愛染明王信仰の普及とともに、愛染堂と通称されるようになる。

有栖山清光院清水寺(新清水寺)

和宗

本尊は十一面千手観世音菩薩

新西国三十三箇所客番、近畿三十六不動尊2番、摂津国八十八箇所26番

創建の時期や事情については判然としない。もとは有栖寺と称していた。寛永17年に延海阿闍梨により中興された。延海は観世音菩薩の御告げを受けて、京都の清水寺を模した舞台造の本堂を建立し、本尊として京都の清水寺から迎えた千手観音像を安置した。当寺の境内は北・西・南の三方が崖になっており、往時は大坂の街や大阪湾を見渡す眺望の地であった。境内には大阪市内唯一の天然の滝である「玉出の滝」がある。

生國魂神社

祭神は生島大神、足島大神

社格 式内社(名神大)・官幣大社・別表神社

神武東征に際し、石山碕に日本国土の御神霊、すなわち八十島神である生島大神・足島大神を祀り、国土平安を祈請された事に始まる大阪最古にして日本総鎮守の神社。八十島祭に代表される宮中祭祀の神社として、延喜の御代には難波大社とも尊称された。天正13年、豊臣秀吉の大坂城築城により、現在地に遷座。

大江神社

祭神は豊受大神、素盞嗚尊、欽明天皇、大己貴命、少彦名命

社格 郷社

四天王寺の鎮守である四天王寺七宮のひとつ。境内には狛虎というものがある。狛虎の由来は不詳であるが、300年以上前の作と考えられている。その昔、狛虎の奥に毘沙門天を祀る堂があり、虎は毘沙門天を護るとされている。

吉祥山青蓮寺

高野山真言宗

本尊は大日如来

摂津国八十八箇所23番、おおさか十三佛12番

聖徳太子が鴫野の地に創建された志宜山法案寺は中古、生玉神社と習合して、その別当職を兼ね、多くの塔頭を擁した畿内屈指の大寺であった。豊臣秀吉の築城に際し、今の生玉神社の地に移り、爾来明治に至るまで、いわゆる生玉十坊と称されたが、明治初年の神仏別離の令により、法案寺は分散した。十坊随一「遍照院」の住職快法尊師は十坊の内「遍照院」と「医王院」の二院を合して、もと茶臼山にあった、慶長年間に創建の「青蓮寺」の寺号を移して、今の地に再興したのが現在の青蓮寺である。

光照山正祐寺

高野山真言宗

本尊は大日如来

摂津国八十八箇所17番

聖徳太子が応現奇瑞を感じて、社殿を構え、天照・住吉両大神を奉安の傍ら、一宇の精舎を建立し、五蔵経論を披覧、仏法弘通を念じられたのを創建とする。当初「真蔵院」(新蔵院)と称し、明治初頭までは生玉十坊の一つとして、神仏両道並び行われていた。明治初年の神仏分離の際、「真蔵院」と「観音院」「西江庵」および「正祐寺」を合併し、「光照山正祐寺」と改称し、現在に至っている。

 

光徳山瑞雲寺真光院

和宗

本尊は阿弥陀如来

摂津国八十八箇所24番

寺伝によれば、推古天皇2年、聖徳太子の草創で、用明天皇の追善供養を営まれたところ、紫雲に乗った阿弥陀如来が現れたため、推古天皇16年に阿弥陀如来を本尊とする「無常院」を建立されたのを創建とする。江戸中期、専海大徳がこの寺を中興し、寺号もその時に変えられた。この地に聖徳太子が六万体の石地蔵尊を刻んで納めたといい、六万体町という地名にその名を残している。

高津山観音寺

高野山真言宗

本尊は聖観世音菩薩

摂津国八十八箇所16番

九条関白の創建とされるが、江戸時代の兵火により寺史などが焼失し詳細は不明。江戸中期の安永年間に月海上人が再興した。

護国山太平寺

曹洞宗

本尊は虚空蔵菩薩

おおさか十三佛13番、大阪南方不動尊(北山不動尊)

創建は寛文3年。誾越和尚開山の曹洞宗の禅寺.。幕末までは朝廷をはじめ加賀藩大阪蔵屋敷の菩提寺として隆盛を誇ったとのことである。昭和20年3月の空襲で加賀蔵といわれる土蔵1棟を残し、灰燼に帰した。境内は戦災と戦後の都市計画で狭くなり、すっかり様子が変わったが、本堂の再建など復興も進み、現在に至っている。

五大山宗恵院

真言宗国分寺派

本尊は薬師如来

摂津国八十八箇所18番

元生玉十坊の1つで「覚園院」と称し、開創年代は不明である。元禄年間来辺和尚により、再建されたと伝わる。明治初年の神仏分離により廃絶の危機に瀕したが、当時の「宗恵庵」と合併、「宗恵院」として存続、現在に至っている。昭和20年の空襲で、ことごとく灰燼に帰したが、戦後、壇信徒の協力により、復興に着手し昭和38年に鉄筋コンクリート2階建ての本堂、庫裡が完成した。

三光神社

祭神は天照大神・月読尊・素戔嗚尊

社格 単立神社・大阪七福神(寿老人)

反正天皇の時代の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し現在に至る。社伝によれば、寛文元年に一旦現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年に再び現在地に戻ったという。かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。大坂城の出城が置かれ、大坂の陣のときには真田幸村が大坂城から当地までの抜け穴を掘った。その跡が社殿の下に残っている。

雪光山円珠庵(鎌八幡)

真言宗豊山派

本尊は鎌八幡大菩薩

摂津国八十八箇所15番

天和元年に百姓太郎左衛門が契沖に深く帰依して所有地を寄付したのが起こり。元和の大坂冬の陣の時真田幸村が、陣所内にて当時信仰を集めていた榎の御神木に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに戦勝をあげたと伝承されている。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、現在の形の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集めている。

如意山甘露院善福寺(どんどろ大師)

高野山真言宗

本尊は弘法大師

摂津国八十八箇所11番

現在、善福寺のある位置には鏡如庵(鏡如寺・通称:どんどろ大師)という寺があり、明治時代に廃寺になっている。その後、明治42年に東能勢村にあった如意山甘露院善福寺を鏡如庵のあった場所へ移転し、現在に至っている。昭和20年の空襲により、どんどろ大師善福寺と本尊の薬師如来は焼失したため、戦後に本尊を弘法大師に改めた。善福寺は、伝承によれば推古天皇の勅願で聖徳太子が開創し、中興は宝亀9年開成皇子によるというが詳細は不明である。

如意山藤次寺

高野山真言宗

本尊は如意宝珠融通尊

摂津国八十八箇所19番

藤次寺は弘仁年間に藤原冬嗣の発願により、任瑞上人を開基とする。藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治める寺であるでゆえに、藤冶寺と称していたが、明治初年には、生玉十坊の一つである地蔵院を合併し、藤次寺と改称し現在に至っている。慶長年間に、加藤清正が大檀主となり、金堂、伽藍、堂宇などを建立した。広大な寺域を持ち、壮観であったと言う。しかし、昭和20年戦災により全焼した。

坂松山高岳院一心寺(骨仏の寺)

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

法然上人二十五霊跡7番

文治元年、四天王寺の別当であった慈円の要請により、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに「源空庵」と称して住んだのが始まり。後白河法皇が訪れて法然と共に日想観を修した。慶長元年、本誉存牟上人が再興。一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。家康は、境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の寺額を贈った。小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。

堀越神社

祭神は崇峻天皇

社格 村社・四天王寺七宮・熊野第一王子之宮

聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。かつて創建当初から明治中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したのが社名の由来だといわれる。また、古くから「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。徳川家康が大坂夏の陣のとき、危機を救われた事から「茶臼山稲荷神社」の信仰が厚かったとの言い伝えもある。

密印山持明院

真言宗御室派

本尊は大日如来

摂津国八十八箇所22番

明治初年の神仏分離の折、生玉十坊の1つ「曼陀羅院」を吸収合併。慶長以前豊臣秀吉大阪城築城の頃は木村重成の屋敷跡であったと伝わる。境内には「橋姫大明神」「卯の日大明神」「二十日大明神」の3神が祀られ、縁切り・縁結びの神様で有名。

安居天満宮(安居神社)

祭神は少彦名神、菅原道真

社格 単立神社

天慶5年、菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。また、大坂夏の陣で真田幸村が境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑がある。

隆法山薬師院興徳寺

高野山真言宗

本尊は薬師瑠璃光如来

摂津国八十八箇所12番、大坂三十三観音11番

聖徳太子が法円坂に「薬師院」として草創したと伝えられる。天平年間に行基によって再建された畿内49ヶ院の一つである。行基が原野を拓かんとして、この地で薬師如来を発掘して、別に木造を刻しこれを本尊として一宇を創建、「薬師院」とした。天文の兵火にあったが、天正年間に復興した。

五條宮

祭神は敏達天皇

社格 村社

橘氏の祖神を祀る全国唯一の神社。四天王寺建立の折、医療病院の鎮護として医道の祖神五条大神・少彦名命を祀る。のちに敏達天皇社と改められ、東成郡五条村の鎮守となり、鬼門・火災除けの神としても信仰された。敏達天皇が皇太子のときに居住した邸跡という。

河堀稲生神社

祭神は宇賀魂大神、崇峻天皇、素盞嗚尊

社格 村社

景行天皇の時代、当時昼ヶ丘と呼ばれていたこの地に稲生の神を祀ったのが最初とされている。聖徳太子が四天王寺を建立した際に社殿が造営され、崇峻天皇を合祀して四天王寺七宮の一つに数えられた。続日本紀によれば、延暦7年3月、和気清麻呂が農業の振興と水害の防止を目的に、摂津国と河内国の国境に河川を築いて西方の海に流し込む大規模土木事業を提案し、工事の安全を祈願した。この工事を境に、付近一帯の地名表記は古保礼から河堀と改まった。

久保神社

祭神は天照大御神

社格 村社

もと四天王寺七宮の一にして久保村の産土神。四天王寺建立の願が成熟したことから、願成就宮ともいい、願掛けが多い。昔、この辺りは窪地だったのでこの名が出たといわれる。

真田山心眼寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所11番

元和8年4月、白牟和尚が戦国武将真田幸村父子の冥福を祈り堂宇を建立。境内地は幸村が戦捷をおさめた大坂冬の陣の大阪城出丸城郭跡(真田丸)で、幸村鎧掛けの松の木もあったが、昭和20年の大阪大空襲により堂宇ともども焼失した。創建から寺の定紋は真田家家紋の六文銭とされる。

満珠山正法院傳長寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所12番

慶長11年、鎮蓮社笈誉上人が創建した。昭和20年の大阪大空襲ですべての堂宇を焼失。昭和58年に本堂を建立、平成7年、庫裏を落慶した。開山笈誉上人の夢想・発意により奉安された撫で地蔵尊は空襲の被害を免れ、撫でたところの疾病に効験あらたかな地蔵として、創建から今日まで近隣の信仰を集めている。

 

法王山最勝寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所13番

元和5年9月、念誉魯休上人が創建。文政年間に海融上人が境内伽藍を再建整備した。昭和20年3月の大阪大空襲で本堂・庫裏・山門などすべての堂宇を焼失。以後漸次本堂・庫裏・山門を再建するが、平成23年、老朽建物を撤去の上、新本堂を建立した。江戸期の家相家松浦東鶏、明治の織物機械開発者岸田直次郎、「踊り子」等の作詞家喜志邦三の墓がある。

林徳山慶傳寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所14番・大坂三十三観音12番

慶長17年、徳蓮社功誉上人が創建した。昭和20年の大阪大空襲により大半の堂宇を焼失。類焼を免れた山門のみ、いにしえの姿を今日に伝える。昭和38年に本堂を再建。平成14年、本堂等改築、現在の伽藍をととのえた。

慈光山法藏院徧照寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所16番

天正5年、常蓮社住誉慶公上人が創建。明和2年に庫裏、文久2年に本堂・庫裏・玄関・書院・弁天堂などを建立、再建するが、昭和20年の空襲により山門と書院の一部を除き、伽藍の大半を焼失した。平成19年に庫裏を再建。その他の諸堂は現在復興中である。

戦火を免れた山門には、その上部に龍瓦があり、代々「龍之門」と呼称、親しまれてきた。男龍・女龍の瓦は名工瓦師・鬼辰鬼又の作と伝えられる。江戸中後期の大坂歌舞伎の重鎮嵐吉三郎の墓がある。

性法山大善寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所17番

天正10年、正誉上人が創建した。昭和20年の大阪大空襲により、本尊阿弥陀仏像と山門以外すべての堂宇を焼失した。山門は創建当時のもの。實譽昌弘上人により昭和48年に、本堂・庫裏等を再建、平成7年に、戦後仮修復状態の山門を、戦前の状態に復元修理。本尊阿弥陀仏像は鎌倉時代の慶派仏師湛慶の作と伝えられる。

寶梁山全慶院

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所18番

元和3年、六角家につながる佐々木善隆を開基として廣蓮社大誉上人が開山した。昭和20年の大阪大空襲で本堂と庫裏を焼失する。昭和30年代のはじめ、門前の道路拡張により、戦災の火難を免れた地蔵堂を取り壊す。同じく創建来の歴史を刻んだ山門は、昭和36年の第二室戸台風で倒壊したが、平成15年に本堂他を再建、面目を一新した。落語家初代桂文枝・桂小文枝の墓がある。

 

鶴林山慶恩院

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所19番

天正7年、良誉上人が開山。創建の当初は唐物町に所在した。現在地に移転した詳細は不明である。大阪大空襲の被害は免れ、本堂ほか諸堂はほぼ創建時の姿をいまに残している。平成のはじめ境内の地蔵ヶ丘を整備し、北向地蔵尊・六体地蔵尊・水子地蔵尊・願掛け百体地蔵尊を祀る。慶恩院詠歌の「糸竹」は、かつて境内に群生した細身の竹を詠んだものだが、小範囲ながら現在も境内にその姿をとどめている。本尊阿弥陀仏像は恵心僧都源信作と伝わる。

瀧水山金字院長安寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所20番・大坂三十三観音14番

天正年間、法誉上人が創建した。昭和20年3月の大阪大空襲で観音堂他一棟を焼失。ついで6月の大空襲で、山門以外のすべての堂宇を焼失した。昭和47年11月に本堂を再建。本尊阿弥陀仏像は身の丈約2メートルの大きな立像で、来迎の印を結ぶ。戦災の火難は免れたが、その後ジェーン台風で損傷。修復の過程で胎内から寛文3年の奉加帳が発見された。

雲上山龍淵寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所21番

慶長10年、見誉等意上人により開山。伽藍は一帯を焼け野原にした昭和20年の大阪大空襲の被害から免れるが、老朽化により昭和49年に本堂他を改築した。本堂内什物は開山当時を再現したものである。境内には他に、地蔵尊、八臂弁財天、不動明王を祀る。大塩平八郎ゆかりの医師秋篠昭足、頼山陽ゆかりの儒医師飯岡義斎の墓がある。

 

貯徳山大福寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所22番

慶長年間の創建とされる。現在の銀山寺がかつて大福寺を称したが、太閤秀吉の命により改称・移転したあと、現在地にあった寺院を大福寺と称するようになったと伝える。大阪大空襲で山門を除く堂宇を焼失。明治2年、境内地に大阪大学医学部の前身、大阪浪華仮病院が創建された縁により薬事関係の檀家が多く「医薬の寺」の歴史を持つ。

 

當麻山天性寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所23番

天正3年5月、大和當麻寺の僧眼誉道三上人が創建。慶長年間の寺町編成に際して北河内から現在地に移転したと伝わる。現在も北河内に多くの檀家を擁し、かつて遠路参拝の信徒が境内の大松を目当てに歩いたところから「松の寺」と呼ばれた。文化3年の火災で堂宇を焼失、同5年再建。昭和20年の大阪大空襲で大松ともども、山門以外の堂宇を焼失。昭和40年に現在の本堂・庫裏を再建した。

産湯稲荷神社

祭神は宇賀魂命、下照比賣命、大小橋命、豊国明神

社格 比売許曽神社摂社

大小橋命の産湯の井戸の付近にあって産湯稲荷と称せられ、天正年間に織田信長が石山本願寺を攻めたときの兵火によりことごとく鳥有に帰した。牛頭天王社を現在の社地に遷し奉ったが、後年当神社の旧知に再び奉祀せられた。産湯稲荷は俗に桃山といわれ、明治38・39年の頃までは大阪屈指の大桃林があった。さらに、この祠の南に真田の抜け穴と伝えられた跡もあった。

大阪高野山六大院

高野山真言宗

本尊は不動明王、弘法大師

摂津国八十八箇所14番

寺伝によれば、行基が創建したと伝えられる。真言宗大覚寺派に属していた時期があった。中興は、江戸時代末期の木食祐伝上人による。祐伝上人と、そのあとの代の祐範上人が四国に渡り、四国八十八箇所の霊場寺院の山主により開眼された、四国八十八箇所の石仏を背負い、10数余年の歳月をかけて六大院に奉祀した。

東高津宮

祭神は仁徳天皇、磐之姫命

社格 村社

創建年不詳。元は生國魂神社の南にあったが、大坂城築城の折、当地付近に遷座したとの説がある。1098年の難波古地図に仁徳天皇大宮跡、または、仁徳帝皇居、平野社、と書かれているようにかつては仁徳天皇社、平野社と呼ばれていた。また当社を「元高津」というのは、当社から高津宮が遷座していったからだという。ただし、現在は高津宮に合祀された北高津宮に遷座したからともいわれる。

青龍山玉泉院宝樹寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所15番

創建年不詳。江戸初期の創建と推測される。古書から少なくとも明暦3年には現在地に存立していたことがうかがえる。

安政2年刊の『浪華の賑ひ』は往時、庭園を含む広大な寺域を有し、人々の憩いの場でもあったことを記している。

大阪市中央区

坐摩神社

祭神は生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神

社格 式内社(大)・官幣中社・別表神社・摂津国一宮

神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったのがはじまり。今でも旧社地であった坐摩神社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。延喜式神名帳では摂津国西成郡唯一の大社に列し、住吉大社と同じく摂津国一宮を称している。創建時は、新羅江・渡辺津・窪津といわれ栄えた淀川河口の港町にあった。天正11年、豊臣秀吉の大坂城築城に当たり現在地に遷座した。

廣光山自性院

高野山真言宗

本尊は聖観世音菩薩

摂津国八十八箇所20番

俊栄の開山と伝わる。江戸時代から、疳虫封じで信仰を集める。

高津宮

祭神は仁徳天皇

社格 府社・別表神社

貞観8年、勅命により仁徳天皇の宮がある難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正11年、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主神として摂社とした。明治5年に府社に列格した。昭和20年の大阪大空襲によって社殿が全焼し、昭和36年10月に再建された。

高津山報恩院

真言宗醍醐派

本尊は不動明王

摂津国八十八箇所21番、近畿三十六不動尊場5番、おおさか十三仏第11番

良遍上人が大阪の上町台地に北向不動明王を造立したことが、始まり。また、北向不動明王と同時期に植えられたという樟は、「相生の樟」として有名で、戦前までは、繁茂していたという。明治に入って、廃仏毀釈により、報恩院は無住に近い状態になり荒れ寺になり、報恩院第12世の孝教和上が明治・大正にかけて中興した。しかし、太平洋戦争による大阪大空襲で、北向不動尊を残して灰燼に帰した。被災後 わずか数日が立ったぐらいから、住職・壇信徒により焼跡整理が始まった。その後、諸堂の再建がなった。

志宜山法案寺(日本橋聖天)

高野山真言宗 準別格本山

本尊は薬師如来

摂津国八十八箇所1番・大阪七福神(弁財天)

聖徳太子が志宜野に法案寺を建立したとされ、建立した場所の地名から山号を志宜山とし、仏法弘通の公案をしたところから寺号を法案寺とした。本地垂迹説が広まるようになって、生玉明神と習合して神宮寺の別当として隆盛した。応永年間に松永政廣が称光天皇の勅命を受け、法案寺の再興に尽力した。「天文日記」には、法案寺第3世・正教が蓮如に帰依したために、蓮如が法案寺の敷地に借地して石山本願寺を建立し、後に寺地を譲渡したという記録がある。

七宝山大福院三津寺

真言宗御室派準別格本山

本尊は十一面観世音菩薩

摂津国八十八箇所2番、大坂三十三観音30番

天平16年聖武天皇の勅命により、行基が創建したのを開基としているが、それに遡り、応神天皇の御墓所として行基が楠を植えたことが始まりともされる。大福院三津寺、ミナミの観音さんともいう。

松園山竹林寺(千日前大師)

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

摂津国八十八箇所30番

慶安2年に前身の「浄業院」が建立されたのが開基である。竹林寺とその近くにある法善寺が千日回向を続けたために、両寺、特に法善寺を千日寺と称し、千日前という地名の由来となっている。別名千日前大師。現在天王寺勝山へ移転。

天龍山法善寺(千日寺)

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

当初、宇治郡北山村にあったが、寛永14年に金毘羅天王懇伝の故事によって専念法師が、現在地を購入し移転した。文政2年に類焼し、澄誉が再建、再び嘉永5年に焼亡と火災がたびかさなったが、安政2年に見誉が再建した。

西向不動明王(水掛不動さん)が有名。

難波神社

祭神は仁徳天皇、素盞嗚尊

社格 府社

大坂三十三観音32番

創建は反正天皇と伝えられ、当初は柴籠宮が開かれた大阪府松原市に鎮座していた。天慶6年に天王寺区上本町に遷座、慶長2年、豊臣秀吉の大阪城築城で現在地に遷座、昭和20年、空襲により全焼、昭和49年に再建された。摂津国総社として「難波大宮」または「平野神社」と呼ばれていた。

豊國神社(大阪城豊國神社)

祭神は豊臣秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長

社格 府社

明治元年、明治天皇により、大阪裁判所に建立の御沙汰があり、明治12年11月 京都市の豊国神社の別社として創建。当初は大阪市中之島字山崎の鼻(現在大阪市中央公会堂がある地点)に鎮座した。大正元年に中之島内で移動、現在の大阪府立中之島図書館西側に遷座。大正10年、京都市の豊国神社から独立、府社となる。昭和36年、現在地の大阪城公園内に遷座。

御津宮(御津八幡宮)

祭神は応神天皇

社格 郷社

貞観2年、筑紫の宇佐の神を山城国男山に遷座し、西海より初めて此の地に到る。その旧跡であるが故にここに祭ったとされる。 天平時代に大仏殿建立にさいし、筑紫の宇佐より迎えた宇佐八幡を奈良に手向山八幡として祀ったが、本地にも祀り、社名は地名にちなんで御津八幡宮と称せられたと伝えられている。

少彦名神社(神農さん)

祭神は少彦名命、神農氏

社格 無格社

安永9年、薬種中買仲間の団体組織である伊勢講が、薬の安全と薬業の繁栄を願うために、京都の五條天神社より少名彦命の分霊を道修町にあった仲間会所に勧請し、すでに仲間会所に祀ってあった神農氏とともに祀ったことを起源とする。天保8年、大塩平八郎の乱で仲間会所が焼失したため、天保11年、仲間会所内に祠堂を設けて祭神を遷座した。明治39年に境内地の拡充、社殿・社務所を新築し、明治43年、正遷宮を斎行するに至った。

 

鵲森宮(森之宮神社)

祭神は用明天皇、穴穂部間人皇后、聖徳太子

社格 府社

聖徳太子は物部守屋との戦いの戦勝を祈願し、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。戦勝後の崇峻天皇2年7月、まず両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺を創建した。四天王寺はその25年後に現在の荒陵山に移転したが、当社はそのままとされた。『日本書紀』の推古天皇6年4月に、聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤金が2羽の鵲を持ち帰り、難波の杜で飼ったという記述がある。その「難波の杜」は当社の森であるとされることから「鵲の森」と呼ばれるようになった。

玉造稲荷神社

祭神は宇迦之御魂大神、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命

社格 府社

大坂三十三観音10番

垂仁天皇18年に創建され、当時は比売社と称していた。蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。大坂城の三の丸に位置し、鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦国時代の戦火で荒廃し、慶長8年に豊臣秀頼により社殿が再建されたが元和元年の大坂夏の陣で再び焼失し、元和5年に徳川幕府の大坂城代や氏子らの寄進によって再建された。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもの。

火防陶器神社

祭神は大陶祇神、迦具突智神

社格 坐摩神社境内社

明治40年、西区靱南通1丁目から移された。かつてこのエリアには、陶器問屋街約200軒が軒を並べていて、陶器神社はその守護神として愛宕山将軍地蔵を祀っていたと伝えられている。

御霊神社

祭神は天照大神荒魂、津布良彦神、津布良媛神、応神天皇、源正霊神

社格 府社

嘉祥3年から大阪湾岸の圓江で行われた八十嶋祭の祭場とされた圓神祠に、瀬織津比売神、津布良彦神、津布良媛神が祀られると、社はやがて圓神社、圓江神社、津村神社と呼ばれるようになり、摂津国津村郷の産土神社となった。文禄3年)、因幡国鹿野藩主の亀井茲矩から船場の自邸敷地の一部を寄進され、境内の小祠乾八幡宮と源正霊神を本殿に合祀した上で、 圓江から船場の現在地へ遷座する。江戸時代になると、鎌倉権五郎の権五郎から五郎ノ宮や、なまって「ごりょうのみや」とも圓御霊とも呼ばれた。また境内の南側には十一面観音を本尊とする神宮寺の宝城寺が作られた。寛文年間に御霊神社と改称し、宝暦3年に正一位の神階を授けられる。

大阪市浪速区

今宮戎神社

祭神は天照皇大神、事代主命、素盞鳴命、月読尊、稚日女尊

社格 郷社

なにわ七幸・大阪七福神(恵比寿神)

聖徳太子の四天王寺建立の際に西方の守護神として建てられたと言う。中世以降はえびす信仰により、商売繁盛の神様として信仰され、十日戎は特に有名で、福娘のイベントはテレビでも取り上げられるコンテストとなっている。

崑崙山寶満寺大乗坊

高野山真言宗

本尊は毘沙門天

摂津国八十八箇所29番・大阪七福神(毘沙門天)

もとは寶満寺大乗坊といい、四天王寺の北東守護寺であったと伝えられている。戦国時代に織田信長の兵火により焼失し、秀言律師が毘沙門天の仏頭をもって現在地に移り、再興しといわれている。

浪速寺(毘沙門堂)

東寺真言宗

本尊は毘沙門天

摂津国八十八箇所28番

創建は明治年間で、摂津八十八ヶ所霊場の中では新しい寺院に属する。昭和20年の戦災で焼失し、現在の本堂は戦後の再建になる。今宮戎神社に近いため、十日戎の時に多くの人で一杯になる。

日出大国社(敷津松之宮・大国主神社)

祭神は素盞鳴尊、大国主命、奇稲田姫命、事代主命、少彦名命

社格 村社・大阪七福神(大国神)

社伝では、神功皇后が三韓出兵の帰りに立ち寄り、この地に松を三本植えて、そこに素戔嗚尊を祀り、渡航安全を祈願したのが始まりとされ、この松の木にちなみ「松本宮」と称したという。中世以降は牛頭、天王社、祇園社などの名が残り、明治初年の神仏分離令により「八坂神社」と改称されている。現在の社名となったのは明治20年代。

難波八阪神社

祭神は素盞鳴尊、奇稲田姫命、八柱御子命

社格 郷社

社伝によれば古来「難波下の宮」と称し難波一帯の産土神であった。延久年間の頃から祇園牛頭天王をお祀りする古社として世間に知られる。もとは神仏混淆で、維新後、神仏分離により寺は廃絶し、現在のご本殿は、昭和49年に完成。綱引神事は「摂津名所図絵」や「摂津名所図会大成」にも紹介されている。

大阪市北区

雲松山慈祥院鶴満寺

天台真盛宗

本尊は阿弥陀如来、子安観世音菩薩

新西国三十三箇所3番

奈良時代に大和で慈覚大師により創建されたと伝えられる。宝暦3年に当時の豪商上田宗右衛門の発願によって現在の地に移転してきた。 移転に際し、忍鎧上人を中興の祖とし、七堂伽藍の寺院であったと伝えられている。明治18年の洪水で大被害を受けたのを契機に衰滅していく。昭和になって再建された観音堂の本尊を開眼したのが道元法親王であり、これにより、道元法親王が鶴満寺の開基とされている。

大阪天満宮

祭神は菅原道真

社格 府社・別表神社

なにわ七幸・菅公聖蹟二十五拝10番

菅原道真が、藤原時平により大宰府へ配転させられた際、同地にあった大将軍社に参詣した。天歴3年に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わったため、村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。天神祭は日本三大祭、大阪三大夏祭りの一つとして知られている。

佳木山宝樹院太融寺

高野山真言宗準別格本山

本尊は千手観世音菩薩

新西国三十三箇所2番・近畿三十六不動尊6番・おおさか十三佛8番・摂津国八十八箇所7番・ぼけ封じ観音7番・なにわ七幸・大阪三十三箇所1番

寺伝では弘仁12年弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建した。本尊は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子河原左大臣源融が、八町四面を画して七堂伽藍を建立し浪華の名刹として参詣者でにぎわった。元和元年大阪城落城のとき兵火で全焼したが、元禄年間に太堂、南大門など諸堂25棟が復興し、昭和20年(1945年)6月戦災で灰燼に帰す。本尊のみ難をのがれる。

護国山国分寺

真言宗国分寺派

本尊は薬師如来

摂津国八十八箇所9番・近畿三十六不動尊7番・おおさか十三佛9番・西国薬師四十九霊場17番

斉明天皇の時代に道昭により建立された長柄寺は一国一寺の国分寺創建の詔勅公布で摂津における金光明四天王護国之寺となり、長柄国分寺と 称した。その後、豊臣氏滅亡の元和元年全焼、享保3年に落慶するも明治の廃仏棄釈などにより寺領は大幅に縮減きれ、第2次大戦の戦災 で灰燼に帰した。昭和40年に聖武天皇殿(最勝王霊明殿)、金光明院護摩堂、昭和金堂などを再興した。

綱敷天神社(喜多埜天神)

祭神は嵯峨天皇、菅原道真

社格 郷社

創建は平安時代、摂州菟餓野に源融が嵯峨天皇追悼のため太融寺を創建、併せて、神野太神宮を創建したのに始まる。後に菅原道真が太宰府へ左遷された時、梅をみるため、船の艫綱をたぐりよせ、即席の座席とされた事が「綱敷」の名の由来となる。 この時、老臣、度會春茂以下六名の者を集めさせ、この地に留まるように伝え「白江」の名を与える。以後、白江家は神職として綱敷天神社に奉仕する。この梅があった場所が「御旅社」であり、梅塚天神とも言われる。

露天神社(お初天神)

祭神は少彦名命、菅原道真

社格 村社・菅公聖蹟二十五拝11番

社伝では、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住吉住地曾根神」を祀っていたとされる。創建は西暦700年ごろとされ、「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。元禄16年に境内で実際にあった心中事件を題材として、近松門左衛門が「曽根崎心中」を書き、その主人公の名前から「お初天神」と呼ばれるようになった。

豊崎神社

祭神は孝徳天皇

社格 村社

由緒によれば、豊崎宮が廃されて、宮跡は松林となり、八本松と呼ばれていた。 正暦年間、藤原重治がこの地の開拓にあたり、この樹林に小祠を建立して孝徳天皇を祀ったのが起こり。後に村民の望みで須佐之男を合祀した。

富島神社

祭神は素盞嗚尊

社格 村社

創建年月は不明。文禄3年の片桐且元検地にも除地とあり、それ以前からあった事がわかる。祇園牛頭天王社と称したが、明治になって利島神社と改め、明治5年村社、明治40年神饌幣帛料供進社に指定される。明治40年南浜の春日神社、宮本の天満宮、明治42年十三の鷺島神社、塚本の八坂神社を合祀。鷺島神社は淀川改修のため成小路の村社兵衛府神社を明治34年に合祀したもの。旧社名利島神社は難波八十島の利島に因るものだが、宇地の外島と混同するので明治43年、今の社名に改称したという。昭和20年の大阪大空襲で焼失し昭和30年再建。

菅原山天満寺宝珠院

真言宗御室派

本尊は大日如来

摂津国八十八箇所10番

縁起によれば弘仁年間、空海が開基。紀伊国伊都郡の高野山草創の頃、平安城の東寺より往来する際、しばらくこの地に安居して駄都秘法を練習した所で、後に、高弟の室生山堅恵上人が師の跡を慕って駄都法を修し寺院に改めた。菅原道真が清和天皇に奏請して天満郷を寺領として貰い受けたので菅原山という。

堀川戎神社

祭神は蛭児大神、少彦名命、天太玉命

社格 村社

欽明天皇の時代、止美連吉雄が蛭子大神の神託により堀江で玉を得、それを神体として富島に蛭子大神を祀ったのに始まる。当時は瓊見社、止美社と呼ばれていた。白雉2年に少彦名命、大宝3年に天太玉命を配祀した。平治元年、平治の乱を避けて丹波国何鹿郡山家に遷座した。文和年間に現在地に遷座し、以降、堀川戎社と呼ばれるようになった。明治40年、近隣の神社を合祀して「堀川神社」に改称し、昭和20年に戦災で全ての建物を焼失。昭和38年に本殿が再建された。

松景山冷雲院

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所4番・大坂円光大師二十五霊場4番

文禄4年、霊誉義空上人が創建。江戸後期の天満の大火で伽藍のすべてを焼失するが、天保11年に再建する。昭和20年3月・6月の大阪大空襲でも火難を免れ、木造瓦葺きの荘重な古建築の姿を今日に遺している。昭和41年、老朽化が著しい庫裏を撤去、鉄筋造の新庫裏を建立した。

光明山智源寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所5番

慶長9年、三誉智源上人が創建。昭和20年の大阪大空襲ですべての堂宇を焼失する。昭和37年、都心の町並みに調和するモダンな外観の本堂・庫裏を再建した。境内の北向地蔵尊が、罪を救済する守り仏として、古来絶え間なく参詣の人を集めてきた。戦災で破損したが修復された。

悟真山善導寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

大阪新四十八願所8番・大阪三十三箇所8番

養和元年、奈良東大寺の俊乗房重源上人開基の摂津渡辺道場を発端とする。文禄元年、伝誉慶公上人が念仏道場として開山した。安政2年6月に本堂・庫裏・三重塔・鐘楼堂・観音堂などの伽藍を整えるが、昭和20年の大阪大空襲ですべての堂宇を焼失した。このとき堂内の長谷観音立像も焼失した。昭和30年に客殿、35年に庫裏、52年に本堂の復興を終えた。

大阪市淀川区

神津神社

祭神は応神天皇、神功皇后ほか

社格 村社

もとは八幡神社と称し、旧地名小島から小島八幡といわれていた。勧請は天正年中とされる。明治42年に野中の野々宮神社、新在家の東宮稲荷神社、西宮稲荷神社、堀上の稲荷神社、今里の八幡神社、木川の村社産土神社、天満神社、堀の稲荷神社を合祀。明治44年小島の猿田彦神社を合祀して、今の社名に改める。明治44年、神饌幣帛料供進社に指定される。

 

長慶山富光寺

高野山真言宗

本尊は阿弥陀如来

摂津国八十八箇所7番

大化年間、法道仙人が加島に霊光あるを気づき、その辺りの木から阿弥陀仏を刻み、一宇を建立したのが富光寺の起源と伝える。大化5年には孝徳天皇が病気平癒を祈祷させ、寺領と勅願を下賜した。建永2年、法然上人が土佐に配流される途中、当寺に泊まり神崎の遊女に念仏の法話を聞かせたと伝える。延元元年には足利尊氏を追う楠木正成が神崎橋上から富光寺の本尊に戦勝祈願した。三好長慶も願を掛け本陣にしており、山号長慶山はこれに因む。

大阪市西成区

天神ノ森天満宮(子安天満宮、天下茶屋紹鴎社)

祭神は菅原道真

社格 村社

天下茶屋ははじめ勝間新家と称したが、武野紹鴎の旧地に天正年間に茶店を出し、豊臣秀吉の住吉大社参拝や堺への往来に利用されたことから、「太閤殿下茶屋」といい、転じて天下茶屋と呼ばれるようになった。天神ノ森天満宮では、豊臣秀吉も淀君懐妊のとき、住吉大社参拝の途中、安産祈願したと伝えられる。

大阪市福島区

如意山了徳院(福島聖天、浦江聖天)

真言宗東寺派

本尊は准胝観世音菩薩、大聖歓喜双身天王

摂津国八十八箇所4番・大阪北方不動尊(大聖不動明王)

縁起によると、本尊である「聖天尊(十一面観音菩薩尊)」が、「浦江の海」で漁師の網にかかり、これを祭ったのが創建とするが、往事洪水のための資料が流失しており、その年月は明確ではない。元文元年、宥意上人が高野山善集院より入り、4年後に堂宇を再建、中興した。JR福島駅から商店街が続き、聖天商店街としてにぎわっている。

福島天満宮

祭神は菅原道真

菅公聖蹟二十五拝12番

社伝では菅原道真が、藤原時平により九州太宰府へ配転させられた際、当地の里人徳次郎が旅情を慰めたことを喜び、この辺りを「餓飢島」と呼ばれていたのを「福島」と名づけた。後年、菅原道真が大宰府で失意のうちに死亡したのを聞いたこの地の里人らが、小祠を建てたのが起源とされている。

摩尼山持明院

東寺真言宗

本尊は厄除弘法大師

摂津国八十八箇所5番

摂津八十八ヶ所霊場の中では最も新しく、大正4年の創建。寺伝によると開山の宜観和尚は、日露戦争の戦死者の霊を弔うため旧満州に渡るが、明治天皇の崩御に遭い、当地にて出家、その後高野山に登り、霊感を得て、大阪において寺を開いた。  本尊の厄除け弘法大師は、江戸時代初期の作で河内の寺にあったのを、宜観和尚が大正8年に請来したもの。昭和20年の空襲で、堂宇は全焼したが、本尊は難を逃れ現在に至っている。

大阪市東淀川区

松山神社

祭神は菅原道真

菅原道真が昌泰4年太宰府へ左遷されるとき、当地に立ち寄り、数千株の小松が生い茂る中島の景観を見て感動、「小松の詩」を吟じたといわれ、現在に残る小松の地名はこの故事に由来する。道真は村人に自画像を与え、「永代に我が像をここに置くべし、この地に本心留めおくべし」との言葉を残したと伝わる。村人たちは道真の没後、その言葉通りに祠を建て、「小松の天満宮」として村の氏神として崇めたのを創祀とする。

凌雲山崇禅寺

曹洞宗

本尊は釈迦如来

天平年間、行基により創建されたとされる。当初は法相宗寺院であった。嘉吉元年、嘉吉の乱により赤松満祐に殺害された足利義教の首は、本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢によってこの寺に放置された。この因縁により義教の菩提寺の一つとなり、管領細川持賢により伽藍と所領を寄付され曹洞宗に転宗、また細川氏菩提寺の一つとなった。明治2年には一時摂津県の県庁が置かれていた。

中島惣社

祭神は宇賀御魂神・受保大神・大市比賣神

社格 郷社

『摂津名所図会』に「稲荷祠 北中嶋惣社也。此辺六ヶ村産土神とす。天満宮社家寺井紳主兼帯所」とあり、もと稲荷神社と称す。 孝徳天皇の652年に豊崎宮に遷都した際に、五穀豊穣を祈願されたとされている。それに伴い、神領を賜う。 慶長末年の大坂の陣で片桐且元の茨木街道沿いの兵火で社殿は消失し、わずかに絵図と建武2年の木額だけが残った。 豊臣秀頼の崇敬厚く「中嶋総社」の四字を記した絹地一通を寄進している。

菅原天満宮

祭神は菅原道真

社格 村社

寛永年間に逆川の古址を開墾して西成郡新家村が成立した際に勧請された神社。一段高い丘になっているのは、天保年間、代官築山蔵左衛門によって「堤防崩壊禁止令」が出され、これを受けて毎年9月9日に境内に土を運び盛り上げる「土持ち」行事が慣習化したことによるもので、村民こぞって参加したという。

柴島神社

祭神は八幡大神、天照皇大神、春日大神

社格 村社

貞永元年(1232年)9月の大洪水時に、仲哀天皇の森という名の高地に避難していた村人のところに、柴に乗った小祠が流れ着き、まもなく水が引き救われたため、以後、産土神として奉祀したのが起源という。明治34年4月淀川大改修工事のため、仲哀天皇社とともに現在地に移された。

大阪市西淀川区

姫島神社

祭神は阿迦留姫命、住吉大神

社格 郷社

創建年代は不明。豊臣秀吉の時代に一時は住吉神社と称したが、明和3年に社名を元に戻す。「摂津国風土記」逸文には「新羅の女神が夫のもとを逃れ、筑紫の国の伊波比の比売島に暫くいたが、ここは新羅から近いので、きっと夫が追いかけてくるに違いないと摂津の国に移り住んだ。そして、もといた島の名をとって比売島と名付けた」とある。

田蓑神社

祭神は住吉三神、神功皇后

社格 郷社

神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地を立ち寄られ、その際に島の海士が白魚を献上し、その海士を奉ったのが興りとされている。その数百年後、この地を開拓するとその海士が出現し、「神功皇后の御船の鬼板を伝え守って数百年、この神宝を安置して住吉大明神をお奉りせよ」と申されたため、貞観11年、田蓑神社が創建された。この鬼板は、現在も田蓑神社の神宝として奉られている。

大阪市西区

蓮池山智善院和光寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

摂津国八十八箇所3番

阿弥陀池の和光寺。元禄7年に善光寺の開帳が四天王寺であったのをきっかけに池のほとりに堂ができ、元禄11年に堀江新地が造成され、幕府に寺地を与えられ、信州善光寺の智善上人が寺を開いた。阿弥陀池は古代に百済からもたらされた仏像を廃仏派の物部氏が難波堀江に捨てさせたのが発見されたとか、善光寺の阿弥陀如来が出現したという由緒をもつ。

サムハラ神社

祭神は天御中主大神、高産巣日大神、神産巣日大神

社格 無格社

昭和10年に田中富三郎が出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市)にて旧い小さなほこらの荒廃を嘆き再興したのが本社の起源。しかし翌年岡山県特高課から無許可神社で商品広告しているとして自主撤去を求められ、サムハラ信光会は11月27日に解消し、撤去を行った。昭和21年にほこらは再建され、当神社は大阪中之島の豊国神社隣接地に自費で昭和25年に建立。昭和36年に現在地へ移築遷宮された。

開運山高野寺(長州大師

真言宗犬鳴派

本尊は弘法大師

摂津国八十八箇所27番

明治4年に長州藩主毛利敬親が長州蔵屋敷の跡地を高野山金剛峯寺に寄進。その跡地に寺を建立したのが始まり。古伝の弘法大師像を安置した。明治13年、正式に高野山準別格本山「三蔵院」を移還、高野寺と改称した。

大阪市港区

三社神社

祭神は三社大神

社格 村社

元禄11年、伊勢国桑名の市岡與左兵衛宗勝が新田開発の工事の安全と開発の成功と開発された地域の守護神として、天照皇大神・豊受大神・住吉大神の3柱を祭神として勧請して、社殿を建立したことを起源とする。創建当初は、三社宮と称した。後に相殿として、熱田大神・斎主大神・秋葉大神を合祀し、三社大神と称するようになった。昭和20年の大阪大空襲で、社殿などを焼失。現社殿は昭和35年12月に完成した。

港住吉神社

祭神は住吉大神

社格 村社

天保13年(1842年)3月18日に、航海の神である住吉大神を大阪港入港の目印となっていた天保山山頂に祀ったのが始まりである。 その後、元治元年(1864年)に天保山山頂に砲台を設置することになり、場所を移転。大正6年(1917年)には天保山運河掘削工事のため、現在の場所へ移転した。

築港高野山釈迦院

高野山真言宗 準別格本山

本尊は弘法大師

摂津国八十八箇所33番

創建は明治43年。真言宗の開祖である弘法大師(空海)が遣唐使で唐に渡ったのを顕彰する為、遣唐使一行が出航したとされる跡地に弘川寺の末寺の寺号である「釈迦院」の名前を継承して随心院門跡重松寛勝によって開基された。大正時代から昭和初期にかけて同寺は大師信仰の中心地として栄え、東の四天王寺、西の築港高野山と呼ばれるほどであったが、1945年6月1日の第2回大阪大空襲により寺は全焼。戦後、1952年に現在地に移転して再建したが、境内の広さは500坪と大幅に縮小した。本堂は堺市の智禅寺の木造本堂を移築した。

大阪市此花区

澪標住吉神社

祭神は住吉大神、天照皇大神、八幡大神、神武天皇、神功皇后

社格 村社

社名は、浪速津の川口に建てられた澪標に因る。 浪華八十島の1つで、延暦23年、遣唐使の一行がこの島の景勝に感じて、航海の安泰を祈願するために島の一角に住吉四柱神を奉祀。島民が祭壇跡に祠を建立して帰路の印に澪標を建てたという。 中世には京へは大物の浦より神崎川を遡行して寂れたが、豊臣秀吉の大坂城築城では伝法口として湾内随一の要津となり、また、水質にも恵まれ、灘五郷に先駆して酒造の本場となり、江戸時代には樽廻船で販路は江戸・東北・北海道に及び、航海の守護神として崇敬された。

大阪市住之江区

大阪護国神社

祭神は大阪府出身ならびに縁故の殉国の英霊10万5千余柱

社格 別表神社

明治4年4月10日に創設された真田山陸軍墓地の敷地内に招魂社が創建されたのが最初。昭和13年に大阪府知事が奉賛会長として護国神社造営奉賛会を結成し、創建予定地である住之江公園の南西の低湿地を、府民のべ約36万人が勤労奉仕で約2年かけて埋め立てて、内務大臣指定護國神社として創建された。昭和15年5月4日に鎮座祭が行われたが、正式な社殿の建築をすることができず、仮社殿での鎮座であった。大東亜戦争の激化や敗戦後の混乱により着工出来ないままであった。昭和35年に造営奉賛会が結成され、昭和38年春に社殿が竣工し、5月29日に遷座祭が行われた。

大阪市大正区

上の宮八坂神社

祭神は素戔嗚命

社格 村社

正保4年(1647年)、勘助島の開拓者・木津勘助が新田開発の鎮守として京の八坂神社の分霊を丸島に勧請。宝永4年(1707年)の大地震と津波で被害を受ける。正徳年間(1711年~1716年)に現在地へ遷座す。明治41年(1908年)7月17日、難波島の八阪神社を合祀。明治42年(1909年)1月19日、千島町の天神社を合祀。昭和20年(1945年)、戦災で焼失。昭和32年(1957年)、再建。

弘法山地蔵院

真言宗

本尊は地蔵菩薩

摂津国八十八箇所31番

元禄元年(1688年)僧快円の開創。開祖の快円は、江戸時代の国学第一人者契沖が高野山で修行した折に大きな影響を与えている。晩年、快円和尚は、隠居所を定め過ごす。和尚は、神応寺再建に当たって、時の領主の縁故により徳川綱吉に拝謁、官費を賜り寺院復興を成功させた。戦後、大阪市の区画整理により、境内にあった水賭け不動尊と四国八十八ヶ所地蔵尊などが別院へ移設。