Ⅳ.神武東征

既に述べたように3世紀の初めに朝鮮半島にあった倭国が北九州に進出した結果、北九州で勢力を拡大していた倭奴国は、倭国との戦いに敗れその支配化に組み込まれることとなった。倭国は卑弥呼を中心とした宗教国家である邪馬壹国に体制を変え、敗れた倭奴国は、邪馬壹国の配下の国として伊都国に国名を替える。また、倭奴国の残党は、菊池川流域で体制を立て直し、邪馬壹国と敵対する集団として狗奴国を建国した。

実は倭国(邪馬壹国)との戦いの中で、支配されることを拒み、北九州(伊都の地)から逃亡した集団があった。この北九州の地を離れた集団が東に向ったのが神武東征である。

 

記紀には、「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」は兄である「五瀬命(イツセノミコト)」「稲氷命(イナヒノミコト)」「三毛入野命(ミケイリノミコト)」とともに、政を行なうのに適した土地を求めて九州を離れ、塩土老翁神の教えに従い「青山をめぐらす東方の地」を目指す決心をしたとされている。しかしながら、実際にはそのような状態ではなく、慌しく伊都国を離れたのであろうと想像される。神武東征の本当のリーダーは五瀬命であり「伊都国の瀬の命」であったと考えるのが普通である。彼らは、伊都国の「筑紫の日向」即ち博多湾から出航し、安芸を越え吉備の高島で戦力を整えることとなる。吉備王国は、出雲王国と同じで海上輸送を担っていた海部氏・穂積氏の一族であったので、伊都国とこれまで友好関係が構築されていたため、移民である彼等に協力的に対応したと思われる。そして、ここで体制を立て直した五瀬命たちは、瀬戸内海を渡り、河内国へ到達する。それが、現在の大阪である浪速(ナニワ)の地である。当時、大阪湾には河内湖と云う強大な湖があり、そこを横切ると、生駒山のふもと草香邑(現在の東大阪市日下町)に到達する。

ところが、この地で不幸な出来事が起こる。この地を統治していた長髄彦は、上陸してきた部隊を侵略者として攻撃し、その戦いで五瀬命が敵の矢玉に当たり、重傷を負ってしまい、その後、死去して竈山に葬られるのである。不幸はこれだけに留まらず、海路で東の地を目指した二人の兄、稲氷命と三毛入野命も暴風雨のために命を落とすこととなった。この結果、北九州から逃亡してきた集団は、神倭伊波礼毘古命の小部隊だけが生き残ったこととなる。

 

陸路で新天地を求めて移動する神倭伊波礼毘古命は、困難を極めたが、「高倉下命(タカクラジノミコト)」が協力者として登場する。高倉下命とは「天香久山神(アメノカグヤマノカミ)」と同一であり、尾張氏と関係が深い神である。尾張氏族の協力を得て、建て直しを図った神倭伊波礼毘古命は、次に登場する八咫烏の導きで大和を目指すこととなる。この八咫烏も「賀茂建角身命(カモノタケツヌミノミコト)」が化身した姿であることから、大和の葛城に勢力を築きつつあった賀茂氏も、協力したことがわかる。そして吉野から、敵対する部族を平定し、協力する部族を併合しながら勢力を拡大し、天忍日命の曾孫で大伴氏の祖となった「道臣命(ミチノオミ)」が大来目部を率いて大和の宇陀の地まで進撃する。ここで活躍する大来目部は久米氏の部隊であったと考えられる。

このような協力者の力により、神倭伊波礼毘古命は、長髄彦と対決することとなる。長髄彦の部隊は強力であったため、困難な戦となるのであるが、最終的には、宇摩志麻遅命が長髄彦を裏切り、神倭伊波礼毘古命に就いたため、戦いは終結し、安住の地を手にすることができるのである。

 

このように神武東征は、実際には、伊都国の主に海上輸送を担っていた人々が、3世紀はじめに邪馬壹国の侵略を受けたときに、これまでの海上輸送ルートを活用して、東に逃亡した末、大和の橿原にたどり着いたというのが真実であろう。しかもその後ろ盾には、纏向地区に入植し、長髄彦と協力関係にあった邇芸速日命が、自らの勢力基盤を纏向地区に構築した結果、長髄彦を倒して、その地盤である鳥見の地を神倭伊波礼毘古命に譲ったということではないだろうか。

 

(2006.4.10)