天照皇大神と素盞嗚尊

日本神話は、作成された時代が天皇家が自己の正当性を主張しはじめた時代であったことから、作為的に表現を変化させたり、隠された部分等があるため、その行間を読み取っていく必要はあるが、ベースにはそれぞれモデルとなる話があったことが想像できる。記紀の世界の代表的神である「天照皇大神(アマテラス)と素盞嗚尊(スサノオ)」についてここでは考えたい。

 

「魏略」の中に衛満に追放された準王がその後どうなったのか興味深い記録がある。「箕子及親留在国者、因冒姓韓氏。準王海中、不興朝鮮相往来」とあり、朝鮮半島に残った箕子一族は韓を名乗り、準王は海中にあって朝鮮と行き来したが箕子朝鮮の再興はできなかったということである。ここで云う海中とは、日本列島のことであり、準王の一族は、日本で再起を図るべく勢力拡大を行ったが朝鮮半島への復帰は果たせなかった。彼らは、北九州へ上陸した後、失地奪回のため日本において勢力を拡大し軍事力の増強に努めたことが容易に想像できる。当時の軍事力増強には兵をどのように確保するかが重要であり、そのためには日本の他の集落を襲い自分自身の国に取り込む必要があった。

これはまさに、記紀で語られる素盞嗚尊の荒々しい、人々に被害をもたらす破壊神としての側面と重なる部分があるといえる。準王の一族は荒神であった素盞嗚尊と同一視できると考える。一方ですでに、先住者として九州には、呉の末裔である中国江南地方出身者や山東半島からの流民、縄文人が融合して住んでいた地域であり、彼らが太陽神信仰をベースに持つ集団として存在していたため、彼らを象徴するものとして天照皇大神が誕生する事となる。このように、素盞嗚尊、天照皇大神を一個の人物と捉えるのではなく、それぞれの集団のシンボルとして見ていくことで記紀について理解できると考える。元々別個の集団であった天照皇大神と素盞嗚尊は当然、対立していたのは明確である。

紀元前190年頃、素盞嗚尊(朝鮮系勢力)の一族は対馬経由で九州北部から島根県までの沿岸部に上陸し、北九州へ向かい勢力の確保に努めたが、既にそこには天照皇大神(中国呉・秦系勢力)の一族が定住しており、そこに武力衝突が起こった。素盞嗚尊は朝鮮半島の技術・文化を新天地へ導入し、北九州(宇佐を中心とする)に地盤を築く一方で、対馬、朝鮮半島南部と度々行き来きして、勢力の拡大に努めたと考えられる。特に、「大年神(オホトシ)」を信仰する朝鮮半島南部の集団と一体となって、朝鮮半島への復帰を目指す一方、日向に本拠を置く天照皇大神に対して圧力を掛け、2大勢力の対立構造が形成された。

素盞嗚尊と天照皇大神の攻防が続いていたこの時期に、中国大陸で再び大きな騒乱が起こる。前漢第6代皇帝「景帝」の時(紀元前154年)に江南地方を統治していた呉王「劉ビ」(ビ=さんずいに鼻)が中心となって漢王朝に反旗を翻した。すなわち「呉楚七国の乱」の発生である。しかしながら、このクーデターは成功せず呉・楚の国は制圧されることになり、この戦乱の中、再び難民が国外に脱出することになったのである。彼らは江蘇省の沿岸から、船に乗って九州へ渡ってきた。そして、同じ中華系(呉系)である天照皇大神の勢力と合流する事になり、記紀では天照皇大神の子供「天之忍穂耳(アメノオシホミミ)」として登場する。

彼等(天之忍穂耳)の登場で、天照皇大神と素盞嗚尊の戦況に影響を与える事になり、素盞嗚尊の攻勢が緩むこととなった。天之忍穂耳が天照皇大神と協調関係を結んだことにより、素盞嗚尊の九州での勢力拡大は停滞し、九州地区での勢力拡大を諦めて、瀬戸内海沿岸部(四国も含む)へ矛先を転進せざるを得なくなったのである。これは考古学的にも裏付けされていることで、対馬から瀬戸内海にかけて銅矛の文化圏があり、素盞嗚尊が九州から撤退していった結果だと思われる。

 

素盞嗚尊にはもう一つの系統が考えられる。それは、紀元前108年に漢に滅ぼされた衛氏朝鮮の移民であり、中国東北地方及び朝鮮半島北部の文化を携えて、島根(出雲周辺)に漂着した。素盞嗚尊にはフツシという別名があり、父はフツと云ったという逸話がある。これと重なるように、百済本紀には、紀元前100年頃の記録に権力争いに敗れた「布流」という人物が登場し、「高句麗王朝の朱蒙には二人の王子があり、弟は温祚王というのが王位について子孫が百済王朝を築いた。兄は布流といい、海に面したミスコモルという場所に国を作ったが、土地が悪くて住み難く、それを恥じて死んでしまった。」とある。高句麗を朱蒙が建国したのは紀元前37年であるので時代が少しずれているが、「邇芸速日命(ニギハヤヒ)」にもフルと云う別名があることからも、朝鮮半島北部からの渡来者であることが推察できる。

紀元前100年頃、彼等は出雲を拠点として勢力を東へ拡大し、日本海沿岸に伸張するとともに但馬或いは近江経由で近畿地方に広がり、先に瀬戸内沿岸から近畿に勢力拡大していた素盞嗚尊勢力と同一の朝鮮半島系の勢力として後の時代に統合されていくこととなる。彼らが築いた大国が出雲王国であり、素盞嗚尊を中心とした出雲神話が誕生していく事になる。出雲神話における素盞嗚尊は豊穣と繁栄の守護神として登場しており、その変化こそ素盞嗚尊に2系統の流れがあることを物語っていると云える。推測であるが、2系統の素盞嗚尊が一体となるのはさらに時代が進んだ紀元前70年頃で、奈良(唐古・鍵遺跡)で合流することになったのではないか。

 

(2004.7.20)