Ⅴ.祟神天皇・垂仁天皇

欠史八代の時代、九州地区では邪馬壹国の繁栄と狗奴国との攻防が繰り返された時代であった。西暦250年頃、卑弥呼が崩御したことから邪馬壹国は、連合国家としての支柱を失い、九州国内での安定を支えることも難しくなり、狗奴国との争いに敗れ、政治的連帯を維持することも難しい状況になり国はバラバラになる。狗奴国に連携する国も現れる中、邪馬壹国の要職にあった「弥馬獲支(ミマカキ)」「伊支馬(イキマ)」等は朝鮮半島からの勢力のネットワークを活用し、九州を脱出して近畿地方へ移動を行う。この役職名から推察される人物が「御間城入彦五十瓊殖尊(ミマキイリヒコイニエノミコト)」「活目入彦五十狭茅尊(イクメイリヒコイサチノミコト)」すなわち、崇神天皇、垂仁天皇である。彼らは、神武東征を追いかける形で近畿地方に流入することとなった。

九州からの崇神天皇、垂仁天皇の軍勢に対して葛城地区の勢力は速やかに臣従し勢力基盤を維持したが、橿原地区の孝元天皇、開化天皇は抵抗したものの、磯城地区の勢力が崇神天皇、垂仁天皇に臣従したことにより、抵抗するための戦力を消失し、国を明け渡さざるを得なかったと考えられる。崇神天皇、垂仁天皇はそもそも朝鮮半島からの移住者の集団であり、もともと磯城地区に基盤を築いた邇芸速日命(物部一族)と同族であったことが大きな要因であったのではないだろうか。

 

崇神天皇は、纒向の地に新たに国家を築くべく、地場の有力者との結び付きを更に緊密にするため、婚姻関係を結ぶと共に宗教的にも三輪に出雲の神を祭らせることを認める。そのために、出雲の子孫である「意富多々泥古(オオタタネコ)」を探し出し「意富美和大神(オオミワノオオカミ)」を祭るのである。意富多々泥古は、既に述べたように大穴牟遅神の流れを受け継ぐ人物であるとともに、後の賀茂氏・三輪君氏・太氏(古事記を編纂した太安万侶の祖先でもある)の先祖である。そもそも橿原地区・葛城地区を支配した神武天皇及び欠史八代は、元々は倭奴国であり、さらに遡れば天之忍穂耳の勢力、すなわち呉系の勢力であったので、素盞嗚尊・大穴牟遅神への信仰に対して協力的でなかったと考えられ、宗教的な祭礼についても圧迫されていた。崇神天皇は宗教国家邪馬壹国の出身であったことから、この事実に着目し、同族意識と祭礼の復活により磯城地区の勢力を懐柔したと考えられる。

勢力基盤の強化に勤めた崇神天皇は、四道将軍の派遣など武力を用いることで鎮圧を図ったが、第8代孝元天皇の皇子であった武埴安彦の反乱からも判る様に、橿原勢力の反抗も強かった。一方で、四道将軍の一人である大彦命は、武埴安彦と同じく第8代孝元天皇の皇子であったが、母が物部氏の欝色謎命であることから、磯城地区の首長であったと推察でき、崇神天皇に加担することで自らの勢力基盤の維持を図った。大彦命は崇神天皇との関係を強固にするため、娘の御真津姫を嫁がせていることからもその親密度が推察できる。さらに、考古学的にも、埼玉県稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に、乎獲居臣の上祖・意冨比垝(オホビコ)と同一人であることから、四道将軍の派遣は事実であったと推定されるとともに、「意冨」一族であることが名前からも推察される。四道将軍が平定した国々は、大彦命が北陸、武渟川別が東海、吉備津彦が西海、丹波道主命が丹波であり、これらの地域は、朝鮮半島から勢力を拡大した出雲系の国であるという点で共通であることから、連携強化を図ったと考える方が合理的である。彼らは使者としてその役割を果たすこととなった。

 

垂仁天皇の事績として登場する項目で注意すべきものは、狭穂彦の反乱である。狭穂彦は垂仁天皇の皇后の兄という立場にありながら反乱を起こした人物であり、その出自は開化天皇の子である彦坐王の子となり、武埴安彦と同様に欠史八代の流れを汲む有力な勢力であることから、橿原地区の残存勢力(孝元天皇、開化天皇の残党)と九州から移動してきた旧邪馬壹国残党勢力(崇神天皇、垂仁天皇)が支配権を巡って激しく争ったことを記録したものであるといえる。

第二の東征とも云える崇神天皇、垂仁天皇の九州からの移動については、邪馬壹国の崩壊時期と照らし合わせて、3世紀後半に起こったできごとと考えることができる。先にも述べたが、崇神天皇と垂仁天皇が同時期に邪馬壹国の要職にあった可能性が高いことから、二人の関係は同族ではあるが親子ではない可能性が高く、崇神天皇が荒々しい天皇として描かれているのに対して、垂仁天皇が治世を重んじる天皇として民衆の支持があったように記録されていることから、崇神天皇の磯城地区での統治期間は短く、安定して統治したのは垂仁天皇であったと思われる。特に、崇神天皇の後継者と思われる「豊城入彦命(トヨキイリビコノミコト)」は、垂仁天皇と後継者争いをしていたことは明らかで、夢占いの結果、豊城入彦命は東国を治めるため磯城地区を出ることのなったと古事記に書かれている。また、豊城入彦命の妹「豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)」は、倭の笠縫邑に天照大神を祭る斎王となった最初の斎宮(伊勢神宮のはじまり)である。豊鍬入姫命は狗奴国が奪った臺與の代わりに巫女をを務め、ここにも邪馬壹国の名残が確認できる。この重要な地位も、垂仁天皇の時代には、垂仁天皇の娘である「倭姫命(ヤマトヒメミコ)」に交代させている。これは、垂仁天皇が崇神天皇の直系であれば、わざわざ自分の娘に宗教的祭主の地位を交代させる必要がないことから、崇神天皇の崩御後に垂仁天皇が大王の地位を承継するために、政敵を放逐している状況が窺える。垂仁天皇の時代には朝鮮半島から「天日矛(アメノヒボコ)」の来日や埴輪の導入と土師氏の定着、「多遅麻毛理(タジマモリ)」の殉死など話題も豊富であり、磯城地区を中心に近畿地区に安定した勢力ができあがり、出雲や朝鮮半島との交流が深かったことが推察される。

 

(2005.4.28 改訂2006.11.3)