倭奴国と倭国(九州)

天照皇大神・天之忍穂耳連合は敵対していた素盞嗚尊との九州での覇権争いに勝利し南九州(特に日向地区)を中心に勢力を盛り返していく事になる。紀元前130年頃には勢力地図が大きく変わり、天之忍穂耳は遂に北九州地区を制圧しそこに基盤を築き、一方で日向地区は天照皇大神が抑えることとなった。素盞嗚尊は先ほど述べたように瀬戸内へ撤退する事になる。ここに至って九州は天照皇大神と天之忍穂耳で二分し治めることとなった。

天之忍穂耳には別名「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」という呼び名があり「正勝吾勝」は正しく私が勝ったの意味があり、天照皇大神・天之忍穂耳連合軍の快進撃が名前からも読み取ることができる。最終的には、天之忍穂耳は北九州の糸島半島を拠点にして勢力を拡大し九州地区の他の勢力を抑えて支配下においていく事となる。北九州のこの地区は、朝鮮半島との接点であり朝鮮半島の敵対勢力への睨みを利かすことと、新しい大陸の情報を入手する意味でとても重要であった。これが発展し、倭奴国が誕生したのである。この時代の埋蔵品に、前漢時代の鏡が大量埋葬されていたり、鉄器が発見されるようになったりしているのも、楚の鏡の文化や越の鉄器文化を取り込んだ中華文化の担い手であった天之忍穂耳が伝えたものであると考えられる。

 

倭奴国の誕生により、戦乱は終止符を打ち、一時的な平和が訪れる。中国史書に倭人の記述が見えるのは、この後あたりからで、戦乱が終了した倭人が自己勢力の後ろ盾を確保する目的と、大陸への回帰(朝鮮半島への進出等)を考えて、中国へ朝貢を始めた結果である。当時の状況を「前漢書」では、倭人が100余国に分かれて存在したとあり、集落が点在する状況で国家の形態が整っていなかったことがわかる。

 

倭国というと、今日では一般的に日本列島の古代の呼び名であったと認識されているが、実際はそうではないことが、中国の史書の記載の矛盾点から明らかになる。「後漢書倭伝」では、「倭在韓東南大海中、依山島為居。」と記載され、韓の東南の島、即ち日本列島を示している。ところが、「後漢書韓伝」では「韓有三種。一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。馬韓在西、有五十四国。其北與楽浪、南興倭接。辰韓在東、十有二国。其北與?貊。弁辰在辰韓之南、亦十有二国。其南亦與倭接。」とあり、倭は馬韓の南に接し、弁辰の南にも接すると記載されており、倭伝と韓伝では明らかに記述が違う。また「後漢書倭伝」には「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀。使人自称大夫。倭国之極南界也。」とあり、倭奴国は倭国の中の極南界と捉えると倭国は朝鮮半島南岸部から北九州周辺までの海洋国家となってしまう。倭国と倭奴国を区別して記載しているところから、倭国は朝鮮半島にあり、倭奴国は北九州にあると理解すべきである。

即ち、西暦57年に光武帝から金印を授かったのは、倭奴国であり倭国ではない。その倭奴国は、天明4年(西暦1784年)に金印が発見された福岡県志賀島周辺と密接な繋がりがあると言える。この地域には平原、三雲、井原鑓溝の遺跡があり、そこからは後漢鏡が多数発見されていることから、中国との関係が濃厚であったことが伺える。一方で、「後漢書東夷伝」に記されている「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人」の記録は、西暦107年には朝鮮半島に倭国があり生口を160人も献上したと読むのならば、海路で160人もの生口を運ぶ事が困難であると疑問に思われていた点が、陸路で行ける立地であるとするならば、何ら問題なく解決するのである。倭奴国と倭国とは関連性がない国となる。

 

倭国の位置を特定する記事が別の箇所にあった。「三国史記」の記載では「脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里。」となっている。「脱解」とは後の新羅王で、倭奴国が金印を授与された建武中元2年(西暦57年)に即位したと云われている。その脱解が生まれた多婆那国は倭国の東北一千里にある事になる。多婆那国は、「桓檀古記高句麗本紀」に記載されている多婆羅国(多羅国)のことであり、朝鮮半島の陜川(現在の慶尚南道・陜川周辺)である事から、その西南一千里は朝鮮半島南岸部の金海(現在の慶尚南道・金海周辺)に倭国があったことになる。この金海周辺は後に、狗邪韓国、金官加羅、任那などと呼ばれ、日本となじみの深い地区であることからも、朝鮮半島に倭国が存在したことを推定できる。

このように、後漢時代には倭国は朝鮮半島に存在した。しかし「三国志魏志倭人伝」では、「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」とあり、魏時代には朝鮮半島には倭国の記載はなく、帯方郡から朝鮮半島を南下し東に廻って、韓国を通り過ぎて倭国の北岸の境界である狗邪韓国に到着すると、解釈できる。即ち、魏時代の倭国は、朝鮮半島とは海を隔てた日本列島・北九州に移動し、後漢時代に存在した朝鮮半島の倭国は、狗邪韓国と国名を変え倭人の国であったとされているのである。すなわち、倭国が朝鮮半島から、北九州に移動した結果、元の倭国が狗邪韓国に置き換わると考えると筋道が通るのである。

 

(2004.8.29  2006.1.24改訂)

大穴牟遅神と天穂日神(出雲)

出雲地方においては、朝鮮半島からの勢力が定着し、素盞嗚尊勢力として地盤を築いていた。素盞嗚尊のオリジナルのモデルは、日本に最初に来た箕子朝鮮の一族であったと考えられる。彼らは、朝鮮半島への帰還を念頭に置きながら、島根から北九州に勢力を拡大し、九州地区で天照皇大神勢力と抗争し敗れることとなった。彼らは、常に朝鮮半島への回帰を活動の中心に置いていたため、当然、出雲についても重視しておらず、重要な補給基地としての意味で土地の整備を行っていたのである。そのため、出雲については、素盞嗚尊勢力が自ら統治する必要性が低く、素盞嗚尊勢力と後援する勢力であれば良く、土着の縄文人で優秀な人材であった「大穴牟遅神(オオナムチノカミ)」に任せることとなった。時代の推定は難しいが、紀元前180年から紀元前150年頃のことであったと思われ、この頃には素盞嗚尊勢力は九州地区で天照皇大神勢力と対峙している状況であり出雲の管理は大穴牟遅神に委ねられていたと思われる。

 

大穴牟遅神は、素盞嗚尊がもたらした文化を日本列島に定着させた功労者であり、縄文時代から弥生時代への橋渡し役であった。出雲の地を安定させた後、彼らは日本海を東に勢力範囲を拡大し丹後半島、越前海岸、能登半島、富山平野にまで進出、別のグループは丹後半島から南下し琵琶湖を渡り近江から淀川をさらに南下して奈良に進出し、二つのルートともに新しい文物を伝え、紀元前100年頃にはそれぞれの土地に基盤を築いていく。

紀元前130年頃、九州地区では天之忍穂耳が中国大陸から渡ってきたのと同時期に、出雲にも山東半島から越出身の人々が渡って来る。彼らは「天穂日神(アメノホヒノカミ)」として記紀に登場することとなる。国譲りの神話に登場する天穂日神は、天照皇大神の命令で出雲国の主権を譲るよう大穴牟遅神へ伝える役割を担うが、逆に大穴牟遅神に同調して天照皇大神へ復命しなかったとなっている。一方で、「出雲国造神賀詞」には、息子の「天夷鳥神(アメノヒナドリノカミ)」と「経津主神(フツヌシノカミ)」を派遣し地上の乱れを治めたことになっている。

 

実際には、少数勢力であった天穂日神は、戦うことを避け、大穴牟遅神との間で協力体制が確立した後、その版図を東に求め、日本海沿岸を東に移動し北陸地方まで勢力を拡大し、この版図拡大の話が「出雲国造神賀詞」に記録された話となる。また、北陸地方を後に越前・越後と標記するのも彼ら越出身者が定着した地域を表すなごりであると言えよう。

続いて、紀元前100年頃、朝鮮半島から衛氏朝鮮の移民が渡ってくる事となる。大穴牟遅神は、彼らを素盞嗚尊と同じ朝鮮半島からの人々として受け入れ、自らが拠点として拡大した但馬地方や近畿地方に住処を与え、出雲王国の基盤を固めた。

 

(2005.2.20)

素盞嗚尊の末裔(瀬戸内から河内・尾張・常陸へ)

天照皇大神・天之忍穂耳の連合国家に敗れた素盞嗚尊は九州地区から撤退し気候の穏やかな瀬戸内海地区に拠点を移動し、周防灘から大三島そして吉備地方へ広がっていくこととなる。素盞嗚尊の子孫とはどんな人々であったのであろうか。

日本書紀では、素盞嗚尊とともに行動した神として「五十猛(イソタケル)」別名「大屋毘古神(オホヤビコノカミ)」がいる。五十猛はたくさんの木種を持って父である素盞嗚尊とともに新羅に渡ったが、新羅には植えず、大八島国の全土に蒔いたとされている。また、大屋毘古神が木の神とされていることとなどから植林に関係した人々の集団がイメージできるとともに、紀州との関わりも見えてくる。和歌山市伊太祁曽(イタキソ)にある伊太祁曽神社はこの五十猛を祭る神社である。一方で、関東地方から東北地方にかけても五十猛を祭る神社が多数あることから、東国にも影響を与えた集団であったことが伺える。五十猛が渡ってきた出雲では、韓神新羅神社に韓国伊太氏神として祭られたりしており、朝鮮半島との関係が特に深い表現がなされていることも注目すべき点である。また、安曇氏の祖神は「磯武良(イソノタケル)」で五十猛と同一であると考えることができる。これらのことから、五十猛は素盞嗚尊とともに行動し、瀬戸内から紀州へさらに関東へ進出していった一族であり安曇氏の母体となった集団であると言える。

大年神は、すでに述べたように朝鮮半島南部に基盤を置く農業神であり、素盞嗚尊の朝鮮半島復帰の役割を担い、北九州と朝鮮半島南部との間を行き来し、素盞嗚尊の朝鮮半島での活動拠点を確保した人物である。朝鮮半島に築いた基盤は、後に「伽耶(カヤ)」と呼ばれる独立した国となり、さらに時代がくだると、任那日本府として日本と朝鮮半島を繋ぐ重要な拠点となる。ちなみに、大年神の弟は「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」であるが、別名は稲荷神として、国内で最も信仰されている農業神・商工業神である。

素盞嗚尊が九州地区に基盤を築いた後に生まれたのが「八島士奴美(ヤシマジヌミ)」で、宇佐を中心に九州における素盞嗚尊勢力の拠点を天照皇大神・天之忍穂耳連合から死守する役割を担う。八島士奴美は紀元前100年頃に活躍した人物であると思われるが、これは九州地区での素盞嗚尊勢力(朝鮮半島勢力)の撤退時期であり、新しい移植先を求めて瀬戸内海・四国地区に本格的な展開に以降した時期であったと推察される。

彼らの力により、伽耶、宇佐、大三島、吉備、播磨、河内、尾張、常陸という朝鮮半島から日本列島を縦断する海の道ができあがる事となった。

 

素盞嗚尊の系譜が瀬戸内海地区で本格的に勢力を持ち始めるのは、伊都国を中心に九州地区での勢力配置が確定する、西暦100年頃からであったと思われる。国東半島の付け根にある宇佐の地は、朝鮮半島と瀬戸内、出雲地方を結ぶ海洋民族の要の地であった。九州地区における小国家抗争が明確に現れてきたこの時期に、既に述べたように、伊都国を中心とする倭奴国連合国家と対立するのが、後に邪馬壹国となる朝鮮半島にあった倭国である。朝鮮半島における勢力分布も目まぐるしく変わり、移民が流出した状況において、その受け皿として国家の形態を強固なものにしていったのが、日本海勢力の代表である出雲王国と瀬戸内海勢力の代表である吉備王国であったと思われる。

この二つの勢力は、兄弟のような国であり、交流も頻繁に行われていた。瀬戸内海は、海上航路として最も適した大きな運河のような海であり、当時においても主要な交通、交易、情報などの幹線としての役割を果たしており、大陸からの文化の伝播網を構築していった。

2世紀後半に入ると、九州地区における抗争は激化し、伊都国への朝鮮半島から倭国襲来、邪馬壹国の建国、狗奴国の逆襲、臺與の登場まで九州地区を舞台に争乱が続いていた。当然、この影響は日本列島全体にも影響を与えることになり、避難民が気候の穏やかな瀬戸内海地区に移動するのは当然の成り行きであった。こうした移動の状況は、高地性集落遺跡の存在からも確認できる。本来、稲作中心の弥生時代において、稲作に適した低湿地帯に集落を形成するのが一般的であるが、集落の防御性を高める意味で高地に集落を形成する特徴が、2世紀の中頃から3世紀にかけて瀬戸内海地方・近畿地方で数多くの高地性集落が見られるということである。このことから、瀬戸内海地方から近畿地方にかけて関連性のある一団が集落を形成していたと云える。

 

(2005.3.18 改訂2006.3.31)

邇芸速日命(大和)

周知のとおり唐古・鍵遺跡は、奈良盆地のほぼ中央(現在の礒城郡田原本町)に位置する弥生時代の環壕集落の跡である。環壕遺跡としては近畿地方では最大、全国的にも吉野ヶ里に次ぐ広さを持っている。出土品も注目すべき状況にあり、土器、木製品、糸魚川産ヒスイ等、弥生時代の遺物の殆どが出土している。このことからわかるように、弥生時代の畿内大和地方は、九州地区のように常に刺激を受ける状況ではなかったが、唐古・鍵遺跡で発見された中国製の屋根飾りのついた二階建ての楼閣の図が描かれている土器からもわかるように、日本海から出雲や丹後の勢力によりもたらされた可能性が強いといえる。

出雲に基盤をもつ素盞嗚尊の末裔は当然のことながら、近畿地方・尾張地方にも展開し、弥生文化の担い手として長い期間をかけて日本列島を東に向って集落を築いていった。しかし大和地方のこうした弥生遺跡は、三輪・纏向地区の発展に伴い急速に衰退していくことになる。これは明らかに、西側から新たな勢力が畿内大和地方に徐々に進出し、旧勢力を駆逐して三輪山周辺、纒向地方に定着、3世紀前半には次第に大きな勢力に成長したと考えられる。彼らはやがて前方後円墳の様式を作り上げ古墳時代の基礎を築くこととなったのである。それでは纒向地区に勢力拡大した人々は誰であろうか。

 

3世紀の初め朝鮮半島からの移民の内、九州へは渡らずに出雲へ入った一団があった。彼等も朝鮮半島における韓と濊(ワイ)の躍進とその後の公孫康による討伐の混乱のために、朝鮮半島を脱出した集団で、物部、穂積、采女、伊福部などの祖先となった集団であり、その代表が「邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)」であった。

2世紀頃の出雲は楽浪郡との交流があったことが、島根県松江市にある田和山遺跡(2世紀前半)から出土した石板が楽浪郡の硯と判明していることからもよくわかる。九州地区で伊都国と倭国が争ったような戦闘ではなく、友好関係のまま、邇芸速日命が受け入れられた事は、彼等が楽浪郡の出身者であったのではないかと推察できる。

邇芸速日命は、出雲の協力を得て新たな入植地を求め、近畿地方に移り基盤を築いた。その地が、纏向地区であったと考えられる。「先代旧事本紀」では「邇芸速日命は天神の御祖の詔を受けて、天の磐船に乗り、河内国の河上の哮峯に天降る。即ち大倭国鳥見の白庭山に遷り住む。」とあり、邇芸速日命が、河内国を経由して鳥見の地に移ったことがわかる。この鳥見とは「登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=長髄彦」が支配していた土地であり、邇芸速日命と争った長髄彦は、最終的には妹の「登美夜須毘売(トミヤスヒメ)=三炊屋姫」を差し出し臣下となった。

邇芸速日命は、長髄彦ら先住民を支配下に置き、纏向地区に拠点を築いたのである。邇芸速日命と登美夜須毘売の間に生まれたのが、「宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)」であり、記紀では神武天皇に国を譲る役割を果たしているのである。

 

(2006.3.31)