京都市南区

金光明四天王教王護国寺秘密伝法院(八幡山東寺)

弥勒八幡山総持普賢院

東寺真言宗総本山

本尊は薬師如来

真言宗十八本山9番・西国愛染十七霊場8番・洛陽三十三所観音霊場23番・京都十三仏霊場12番・京都十二薬師2番

『東宝記』によると延暦15年に藤原伊勢人が造寺長官となって建立したという。弘仁14年、真言宗の宗祖である空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。鎌倉時代からは「お大師様の寺」として、広く信仰を集めるようになる。文明18年の火災で焼失、豊臣家・徳川家などの援助により金堂・五重塔などが再建されている。

教王護国寺毘沙門堂

東寺真言宗

本尊は兜跋毘沙門天

都七福神(毘沙門天)

弘法大師が唐で入手した兜跋毘沙門天像は、天慶2年の平将門の乱の際に都の守護神として羅城門の上層に安置されたが、天元元年の台風で羅城門が倒壊した後、東寺に移された。その後、文政5年に現在の毘沙門堂を建立して安置したという。

教王護国寺塔頭観智院

東寺真言宗別格本山

本尊は五大虚空蔵菩薩

学僧であった杲宝を1世として延文4年に子院として創建された。杲宝は現在国宝となっている「東宝記」という東寺の創建から室町時代に至る寺史をまとめた。これは弟子の賢宝により補足完成された。観智院は東寺のみならず真言宗全体の勧学院と位置づけられ、多くの学僧を輩出している。経蔵である金剛蔵には膨大な文書・典籍・聖教類が所蔵されていたが、現在は東寺宝物館に移されている。客殿は、慶長10年の建立。上の間には宮本武蔵筆といわれる「鷲の図」などの襖絵がある。

吉祥院天満宮

祭神は菅原道真

社格 村社

菅公聖蹟二十五拝4番・京都十六社

菅原道真の曽祖父の土師古人が平安遷都に際し天皇の供として入京し賜った地でここに邸を構えた。祖父の代に菅原へ改姓。祖父の菅原清公が遣唐使として唐へ向かう途上、嵐に遭遇しながらも吉祥天女の霊験により難を逃れ、以降菅原家では吉祥天信仰となる。菅原道真はこの地で承和12年に誕生し、18歳で転居するまでこの地で過ごしたとされる。道真が没した後、この地で吉祥院聖廟をおきその霊を祀る。その後、怨霊鎮魂のために朱雀天皇勅願により、承平4年、道真の霊を祀ったことが始まり。

海上山吉祥院

本尊は吉祥天女 

菅原道真の祖父の菅原清公が遣唐使として唐へ向かう途上、嵐に遭遇しながらも吉祥天女の霊験により難を逃れ、以降菅原家では吉祥天信仰となる。大同3年、自邸に一堂を建立して安置し、伝教大師にはかって開眼供養が行なわれた。ここを吉祥院と号して国家鎮護の祈願所・菅家守護の本尊とした。

六孫王神社

祭神は六孫王大神、天照皇大御神、八幡大神

社格 郷社

京都十六社 

源経基の邸宅「八条亭」の跡地に、応和元年に経基が臨終の際に「死後は龍神となって邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」と遺言したという。応和3年に嫡子の満仲が現社地に経基の墓所を建立し、その前に社殿を造営したのが創建である。鎌倉時代には、源実朝の妻の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立し、当社はその鎮守社とされた。その後戦乱などにより社殿を失い、経基の墓所だけが残された。元禄13年からは、江戸幕府により社殿の再興が進められた。

瑞寶山城興寺(成興寺)

真言宗泉涌寺派

本尊は千手観世音菩薩

洛陽三十三所観音霊場22番

創設は応徳2年。寺地は藤原氏の邸宅の一つ九条邸があったところで、ここに藤原道長の孫藤原信長がいとなんだ九条堂を起源とする。永久元年に藤原忠実がこの堂を寺とし、保安3年に伽藍供養がおこなわれた。平安時代末期に最雲法親王の弟子であった以仁王がこの寺の寺領を領していたが、治承3年、平氏政権によってとりあげられて梨本門跡出身の天台座主明雲に与えられた。明雲が法住寺合戦で戦死した後、平氏政権の没収措置の正当性について紛糾するが、明雲の弟子承仁の領有を経て、以仁王の子で承仁の弟子の真性にうけつがれた。その後、青蓮院の支配を経て、16世紀の寺領は比叡山不動院の管理下にあった。

 

京都市中京区

紫雲山頂法寺(六角堂)

天台宗単立

本尊は如意輪観世音菩薩

西国三十三箇所18番・洛陽三十三所観音霊場1番・聖徳太子霊跡25番

延暦13年の平安遷都以前の創建で、聖徳太子が四天王寺の建立のためその用材を求めてこの地を訪れた際、池で水浴中にそばの木にかけておいた持仏の如意輪観音が離れなくなり、夢告によりその観音がこの地にとどまり衆生済度を希望したので、その観音像を現在地に安置して六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりとされる。

聖徳太子が沐浴した池を管理する坊として、本坊を「池坊」といい、12世池坊専慶が立花の名手であったことから池坊華道が始まっている。

浄瑠璃山林秀院永福寺(蛸薬師)

浄土宗西山深草派

本尊は薬師如来

京都十二薬師12番

養和元年、林秀が比叡山の薬師如来へ祈願したところお告げがあり、石の薬師如来を得て薬師堂を建立したのが始まり。鎌倉時代、善光という僧が、戒めに背き、病気の母親に好物の蛸を買う孝行譚に由来し、蛸薬師と呼ばれるようになる。

新京極誓願寺

浄土宗西山深草派総本山

本尊は阿弥陀如来、聖観世音菩薩

新西国三十三箇所15番・洛陽三十三所観音霊場2番・法然上人二十五霊跡20番・洛陽六阿弥陀6番

誓願寺は今から約千三百年の昔、天智天皇の勅願により奈良に恵陰が開創したと伝えられており、後に、平安遷都に際し伏見深草に移されたといわれている。西山上人証空の弟子円空が京都の深草に寺を建て布教したのが始まり。日本各地に無住の寺を含めて400か寺余りの末寺がある。

中には扇塚があり、日本舞踊や舞妓さんが使用した古い扇を供養する塚で、京都らしい感じがある。

錦天満宮

祭神は菅原道真

菅公聖蹟二十五拝2番

長保5年、菅原道真の父・菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸「六条河原院」跡地に移築して歓喜寺が創建され、その鎮守社として天満天神を祀って創建されたのに始まる。天正15年に寺とともに錦小路東端の現在地に移転した。その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残された。

本能寺

法華宗本門流大本山

本尊は南無妙法蓮華経曼荼羅

洛中法華21ヶ寺

本能寺は、応永22年日隆上人の創建で、当初は「本応寺」という名前であったが、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却された。永享元年に小袖屋宗句の援助により再建し、永享5年には「本能寺」と改めた。「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄えたが、天文5年天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失。織田信長が日承上人に帰依し、この寺を上洛中の宿所としていた。当時の本能寺は石垣や水堀を周囲にめぐらした城郭機能を有したものであったが、天正10年6月2日、明智光秀率いる軍勢に包囲され本能寺の変により焼失した。

霊鹿山行願寺(革堂)

天台宗延暦寺派

本尊は千手観世音菩薩

西国三十三箇所19番・洛陽三十三所観音霊場4番・都七福神(寿老人)・京都七福神(寿老人)

霊鹿山行願寺は、天台宗の寺院で、通称は革堂。行円が寛弘元年に一乗小川に堂を建てたのが行願寺の創始と伝えられている。行願寺という正式名称よりも革堂とという名称の方が一般にはよく知られているのも、行円が鹿皮を身につけていたことによるといわれている。

北亀山西光寺(寅薬師)

浄土宗西山深草派

本尊は阿弥陀如来

京都十二薬師11番

寺伝によると、弘法大師が刻んだ薬師如来像が安置されており、寅の日、寅の刻に成就したので寅薬師との異名がある。もともと宮中にあったのを弘安五年(1282)、勅により下賜されものという。江戸期は、名薬師の一つとして庶民の信仰を集めた。無病息災、病気平癒のご利益があるとされ、また、寅年生まれの人の守護仏として崇敬されている。

華嶽山東北寺誠心院

真言宗泉涌寺派

本尊は阿弥陀如来

初代の住職は和泉式部で、その法名は誠心院専意法尼という。娘の小式部に先立たれた和泉式部は、性空上人に勧めで誓願寺に籠り、仏門に帰依。その後、上東門院彰子が法成寺の中の東北院の傍らに寺を建立させ、東北寺誠心院とした。天正年間に豊臣秀吉の命令で現所在地、寺町六角下ルに移転された。明治4年京都府知事の命令で、境内に新京極通りが通り境内地は二分され、山門をはじめ堂宇を失うが、平成9年山門を再建。

瑠璃光山利生院大福寺(菩提薬師)

天台宗

本尊は薬師如来

京都十二薬師10番・京都七福神(布袋尊)

創建不明、飛鳥時代の推古天皇6年、大和国宮田郷に建立され、聖徳太子自身が刻んだ薬師如来像を祀ったのが始まり。その後、平安時代末期の後三条天皇の勅願に依り鎮護国家の道場となり、室町時代初期の延文元年に勅詔により京都に移転した。代々の皇室朝廷の崇敬は極めて篤かったということですが、天明年間の火災により焼失し現在のような僅かにその面影をとどめる小さな寺院になった。

金剛山矢田寺(矢田地蔵尊)

西山浄土宗

本尊は地蔵菩薩

創建不明、白鳳4年に天武・持統両天皇の勅願所として、奈良・大和郡山市にある矢田寺の別院として建立された。開山は満慶上人。もともとは壬生にあったが、安土桃山時代の豊臣秀吉による区画整理で本能寺も同じ時期に三条河原町に移された。

八葉山華台院安養寺(倒蓮華寺)

浄土宗西山禅林寺派

本尊は阿弥陀如来

洛陽六阿弥陀仏5番

恵心僧都源信が大和国葛城郡當麻郷に建てた蓮華院が始まり。源信の妹である安養尼が2世となり安養寺と改められた。天永年間に隆暹が京都の樋ノ口六条へ移し、現在地へは天正年間に移転。寺伝によれば、本尊を作る際、台座がどうしても壊れるので、蓮華の台座を逆さにしたところ、阿弥陀如来像が無事安置できたという。

無量山如輪院宝蔵寺

浄土宗西山深草派

本尊は阿弥陀如来

弘法大師空海の創立と伝えられる。文永6年、如輪上人により元西壬生郷に開基。弘安2年に如輪上人が遷化、天正9年、玉阿律師が中興再興。天正年間、豊臣秀吉の寺町整備により寺町の裏側に当たる裏寺町に移転。 元治元年、禁門の変により全焼。 現在の本堂は昭和7年に建立された。伊藤若冲の墓がある。

長栄山正運寺

浄土宗鎮西派

本尊は阿弥陀如来

洛陽三十三所観音霊場26番

慶長5年に、肥後藩主加藤清正に仕えた武将飯田覚兵衛尉重氏直景を開基、深誉上人を開山として創建。最初、勝軍寺といったが武将が平穏を願い正運寺と名を変えたと云う。江戸時代、天明の大火で焼失、その後再建された。大和の長谷寺と同木で造られた十一面観音菩薩像がある。

心浄光院宝憧三昧寺(壬生寺)

律宗大本山

本尊は地蔵菩薩

洛陽三十三所観音霊場28番、京都十二薬師4番

三井寺の僧快賢が、正暦2年に自身の母のために建立したとされる。中世に融通念仏の円覚上人が中興。重要無形文化財の融通念仏による壬生の「大念仏狂言」は円覚上人が始めたものと伝えられる。幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれ、その縁で境内には新選組隊士の墓である壬生塚がある。

隼神社

祭神は建甕槌神

社格 式内社(大)

創建不詳。『日本三代実録』において、貞観2年(860年)から貞観16年(874年)にかけて「後院隼神」の神階が無位から従四位上まで昇叙された旨の記載がある。当時に四条に所在した後院は朱雀院(右京三条から四条)であることから、この隼神社は朱雀院の院内に祀られた神社であったと見られている。江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ)の平癒のために信仰されたという。その後大正7年(1918年)に現在地の梛神社境内に遷座した。

梛神社(元祇園社)

祭神は素戔嗚尊

貞観11年に京での疫病流行により播磨国広峰から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀という。その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会の起源であるとしている。明治までは小祠であったが、明治7年と昭和4年の復興により現在の形が整えられた。

ひでん山神泉苑

東寺真言宗

本尊は聖観世音菩薩、不動明王、弘法大師

当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500m、東西約240mの広さがあり、池を中心とした大庭園であった。延暦19年に桓武天皇の行幸や延暦21年に雅宴が催されたという記録もあり、この頃から 神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となっていた。天長元年、西寺の守敏と東寺の空海が祈雨祈願を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになった。貞観11年には神泉苑の南端に66本の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったといわれている。慶長8年、徳川家康が二条城を造営した際に神泉苑の敷地の大部分が城の敷地になり、著しく規模を縮小した。

御金神社

祭神は金山彦命

創建者田中庄吉は、現在の金光教の布教者である初代白神新一郎により、金光教に入信し、京都で布教を行い500人を越える信者が従った高徳な布教者であった。1883年10月6日に、その組織を公認のものとするため、金乃神の金にちなんだ、美濃の南宮大社の祭神金山彦命を祀る神社として、京都府知事の認可を得る。現在は、金光教との関わりはない。

医徳山薬師院(来ぬか薬師)

黄檗宗

本尊は薬師如来

京都十二薬師9番

寺伝によると、延暦元年、最澄が16歳の時に薬師仏七体を一刀三礼を尽くして彫刻、その一体が美濃国横倉の医徳堂に安置される。

寛喜2年、当時の薬師院の住職の夢枕に「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」とお告げがあり、これを知って訪れた参拝者が皆平癒したことから「来ぬか薬師」と呼ばれるようになる。上洛を果たした織田信長がそのご利益を聞き京都に勧請、元禄元年、黄檗宗の鉄面寂錬禅師が再興した。元治元年の蛤御門の変で焼失し、明治22年に再建された。

京都市下京区

渋谷山佛光寺

浄土真宗真宗佛光寺派本山

本尊は阿弥陀如来

寺伝によると、親鸞は建暦2年に京都に帰り、山科に一宇を創建し、順徳天皇より「興隆正法」の勅願を賜り、興隆正法寺と名づけた。これが後の佛光寺で、親鸞は弟子の真仏にまかせ、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされる。その後嘉暦3年頃、了源は、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都東山に移すべく、渋谷に寺基を移した。佛光寺の寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光りが差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来する。これにより「阿彌陀佛光寺」の勅号を賜り、それを縁に山科より京都渋谷に寺基を移したともいわれる。

福聚山平等寺(因幡堂、因幡薬師)

真言宗智山派

本尊は薬師如来

洛陽三十三所観音霊場27番・京都十三仏霊場7番・京都十二薬師1番

縁起によると、少将橘行平は、長徳3年因幡国司の任を終えて帰京する前に重い病にかかった。夢に僧が現れ、「賀露津の浦の浮き木を引き上げてみよ」とお告げがあり、薬師如来像を引き上げた。行平は薬師像を祀り回復するが、いずれ京に迎えると約束して因幡を後にし、その後、長保5年行平の屋敷の戸を叩く者があり、それは因幡からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師像であった。行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀った。これが因幡薬師平等寺の起源であるという。

菅大臣社(菅大臣神社、菅大臣天満宮)

祭神は菅原道真公、尼神、大己貴命

社格 府社

菅公聖蹟二十五拝3番

紅・白梅殿という邸宅や、菅家廊下と称する学問所の跡で、菅公生誕の地と伝えられ、境内には産湯の井戸が保存されている。菅原道真の薨去の後、間もなく創建。鎌倉期には南北両社に分かれ、慶長19年に菅家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興される。天明の大火、元治の兵乱で焼失するが、天保6年(1835年)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を、明治2年に移築し、その後幣殿を建立して、八棟造をなしている。

市比賣神社

祭神は多紀理比賣命、市寸嶋比賣命、多岐都比賣命、神大市比賣命、下光比賣命

京都十六社

創建は延暦14年(795年)に、京都の左右両市場の守護神として、左大臣藤原冬嗣が両市社領内の堀川の西、七条の北に坊弐町をかこい、勅を奉じて勧請された社と伝わる。天正19年、現在の地に移転鎮座した。

文子天満宮

祭神は菅原道真、多治比文子

社格 村社

社伝によれば、大宰府に左遷された菅原道真は、延喜3年に59歳で没したが、没後、乳母であった多治比文子は「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれている。天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられている。

京都大神宮

祭神は天照皇大神、豊受大神

社格 村社

明治維新後、伊勢神宮が遥拝出来る設備を設ける事に伴い、神宮教京都教会所に由来し、神宮奉斎会京都地方本部として創建された。

明治6年、伊勢神宮の内宮・外宮より、天照皇大神、豊受大神の御分霊を迎え、明治8年、社殿を建立した。戦後、京都大神宮として、再出発しました。

若一神社

祭神は若一王子

社格 無格社

平清盛が六波羅在住の頃、このあたりは浅水の森と称し風光明媚な処で、別邸を造営し「西八条御所」と称した。仁安元年、熊野詣に向かう時「土中に隠れた御神体を世に出し奉斎せよ」と御告げがあり、邸内を探すと東方築山より夜光が放ち、土中から若一王子の御神体が現われる。社を造り鎮守し開運出世を祈ると、翌年仁安2年、太政大臣に任ぜられた。

福智山宗徳寺(粟嶋堂)

西山浄土宗

本尊は阿弥陀如来

応永年間に開山行阿上人草創の寺。粟嶋明神を祀る。粟嶋明神の乗跡医薬の祖神・小彦名命は古くより、男女共に下の病に霊験あらたかで、多くの参詣者があった。宝徳年間に南慶が紀伊国から粟嶋明神を勧請し開創。慶長7年、繁空が中興。

塩通山医王院水薬師寺

真言宗

本尊は薬師如来

京都十二薬師3番

延喜2年(902)大池の中から薬師如来の霊像が出現、醍醐天皇の崇敬篤く理源大師に命じて諸堂宇を建立され、塩通山医王院水薬師寺の勅号を賜る。元弘の兵火を蒙り、堂宇ことごとく焼失したが、板倉周防守足利氏の助力によって再建される。また、境内岩井の清泉は平清盛が熱病を癒した霊験があると伝わっている。

 

報國山西念寺

浄土宗西山禅林寺派

本尊は阿弥陀如来

源融の邸宅の河原院跡に16世紀に創建されたと伝わる。開基は月空珠心大和尚。その後豊臣秀吉の政策により本願寺領を設けるため現在地に移転。三寺の末寺を有し、広大な境内であったが、1943年、京都の街を戦火から守るための戦時特別政策により五条通を拡幅するため大半が接収され、3日間の内に伽藍は取り壊され現在の寺域となった。戦後、本堂や書院が再建された。

千喜満悦天満宮

祭神は菅原道真

元々は源融の屋敷内にあったもので、1945年に五条通が拡張される際西念寺に移ってきたとされ、創建などの詳細は不明。菅原道真が初めて公卿となった時、あまりの嬉しさで、この神社と列座の様子を絵に描かせた。その絵「菅家繁盛の図」が祀られている。

塩竈山上徳寺世継地蔵

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

慶長8年、徳川家康が阿茶局と息女の泰栄院との菩提を弔うために、伝誉一阿を開山に招請して建立したとされる。「都名所図会」によれば、境内には塩竈明神があったとされるが、現存しない。たびたび火災に罹っており、現在の本堂は、明治時代に、永観堂の祖師堂を移築したものである。正面の本堂とは別に、地蔵堂があり江戸時代より安産と子授けで知られた「世継地蔵」がある。

 

延命山無量壽院長圓寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

洛陽三十三所観音霊場24番

慶長13年、京都所司代板倉勝重が建立したのが起こり。天明の大火で焼失したが、十五世瑞誉上人の時に再建された。観音堂内に安置する聖観音像は、一条天皇の御代に疱瘡が流行し、これを嘆いた大納言藤原親衡は天禄3年、恵心僧都に依頼し作らせた観音像を宮中に奉安し、 二十一日間祈願法要されたところたちまち疱瘡は治まったという。それ以来疫病除けの霊験あると信じられた。

大光山眞如院

日蓮宗

本尊は日蓮聖人奠定の大曼荼羅

日蓮宗本圀寺の元塔頭。天文4年開創。開基は日映。永禄年間(1558~70)足利義昭が入洛した際、織田信長が当院で迎えたと伝える。瓜実灯籠・烏帽子石・呼子の手水鉢がある枯山水庭園は信長が義昭のために作庭したという。その特色は鱗形の石をならべて流れを表現したところにあり、極めて独創的な手法である。寺の移転とともに現在地に移し故重森三玲氏の手により復元。

満月山普照院光縁寺

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

慶長18年に創建されたとされる。新撰組と縁が深く、総長 山南敬助の家紋(丸に右離れ三ツ葉立葵)が寺紋と同じであったことから付き合いが始まったという由来がある。山南敬助や河合耆三郎ほか多くの隊士がここに眠っている。また御陵衛士として新撰組から袂を分かった後、暗殺された伊東甲子太郎や藤堂平助などの墓もここにあったが、後に戒光寺に改葬された。

京都市西京区

小塩山大原院勝持寺(花の寺)

天台宗

本尊は薬師如来

西国薬師四十九霊場42番

寺伝では白鳳年間役小角の創建と伝えられ、その後延暦10年最澄が再興して小塩山大原寺と称し、仁寿年間千観によって再興されたという。応仁の乱で焼失し、天正年間に再建された。江戸時代には桂昌院の帰依を受けた。古くから桜の名所で、西行ゆかりの寺としても知らている。

西山善峯寺

天台宗系善峰観音宗

本尊は十一面千手観世音菩薩

西国三十三箇所20番

長元2年、源算が創建した。長元7年、後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。青蓮院から多くの門跡が入山したため「西山門跡」と呼ばれた。応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。境内には、樹齢約600年の五葉松で幹が横に這うように伸びていることから 「遊龍の松」と名付けられた松が有名で、天然記念物に指定されている。

法寿山正法寺(石の寺)

真言宗東寺派別格本山

本尊は三面千手観世音菩薩

西国薬師四十九霊場41番

天平勝宝6年、鑑真和上の高弟、智威大徳が隠棲した所で春日禅房と称し、その跡を伝教大師最澄が大原寺の名で寺としました。弘仁年間には弘法大師が巡錫して、本尊の三面千手観世音菩薩立像を彫刻されたと伝えらる。応仁の乱で焼失したが、元和元年に、恵雲律師、徴円律師により正法寺として再興され、元禄年間には、徳川綱吉の母、桂昌院の帰依を受けて、徳川家代々の祈願所となった。石の寺の名称は、東山連峰を望む借景式山水庭園があり、「鳥獣の石庭」と呼ばれている。

松尾大社

祭神は大山咋神、中津島姫命

社格 式内社・二十二社・官幣大社・別表神社

5世紀ごろ、秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大宝元年、勅命により秦忌寸都理が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期まで秦氏が神職を務める。平安遷都により、皇城鎮護の神として崇敬されるようになり、「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称された。

中世以降、松尾神は酒造の神としても信仰された。

智福山虚空蔵法輪寺(嵯峨虚空蔵)

真言宗五智教団

本尊は虚空蔵菩薩

京都十三仏霊場13番・日本三大虚空蔵

和銅6年、行基が元明天皇の勅願により、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺として建立したとされる。天長6年、空海の弟子の道昌が、虚空蔵菩薩像を安置し、貞観10年寺号を法輪寺と称した。室町時代、応仁の乱により罹災し、江戸時代、後陽成天皇により再建されるが、幕末、元治元年の禁門の変により、再度罹災している。

大原野神社

祭神は武御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比咩大神

社格 二十二社・官幣中社・別表神社

延暦3年に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、桓武天皇の后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。嘉祥3年、文徳天皇が社殿を造営した。奈良春日社と同じ藤原氏の氏神を祀る大原野神社はそれに準ずる扱いを受け、二十二社に列した。藤原氏の家に女の子が生まれると、その子が皇后・中宮になれるようにと当社に祈願し、祈願通りになると行列を整えて当社に参詣することが通例となっていた。

京都市伏見区

伏見稲荷大社

祭神は稲荷大神

社格 式内社(名神大)・二十二社(上七社)・旧官幣大社

和銅年間に、伊侶巨秦公が勅命を受けて伊奈利山の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる。秦氏にゆかり深い神社である。15世紀後半には、神仏習合の下に伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺の愛染寺が神宮寺として建立されたため、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝された。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって慶応4年に愛染寺や社内の仏殿、本殿内の仏像類は廃された。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。

東丸神社

祭神は荷田春満

社格 府

国学者の荷田春満は伏見稲荷大社の社家出身で、荷田春満の旧宅が保存されており、旧宅の一角に建てられている。伏見稲荷大社の楼門内にあるが摂末社ではなく独立した神社であり、学問の神として信仰されている。

御香宮神社(御香宮)

祭神は神功皇后

社格 式内社(小)、府社

創建不詳。貞観4年に社殿を修造した記録がある。伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。菟芸泥赴によると、「筑前国糟谷郡の香椎御宮から神功皇后を勧請し皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す」とあり筑紫の香椎宮をこの地に分霊し勧請した説の方が有力。豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とした。

深雪山醍醐寺

真言宗醍醐派総本山

本尊は薬師如来

真言宗十八本山12番・近畿三十六不動23番・西国三十三所11番・西国薬師四十九霊場39番・役行者霊跡札所

創建は貞観16年、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。

醍醐山醍醐寺塔頭三宝院

真言宗醍醐派

本尊は弥勒菩薩

永久3年源俊房の子で醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院として開き、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。康治2年に鳥羽上皇の御願寺となっている。鎌倉から南北朝時代にかけて、成賢・憲深・賢俊と高僧を輩出し、足利尊氏から厚く保護された。応仁の乱で焼失し、廃寺同然となるが、安土桃山時代に醍醐寺金剛輪院の院主であった義演は豊臣秀吉の信頼が厚かったため、同院を中心に有名な「醍醐の花見」が開かれた。義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称した。

東光山法界寺(日野薬師)

真言宗醍醐派別格本山

本尊は薬師如来

西国薬師四十九霊場38番

平安時代後期の永承6年、日野資業が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まり。薬師如来像の胎内には、日野家に伝わる伝教大師最澄自作の三寸の薬師像を納入した。また一説では日野資業の4代前の藤原家宗が弘仁13年に最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の氏寺を建てたとされる。その後、平安後期の阿弥陀信仰の高まりにともない阿弥陀堂が建てられた。浄土真宗の開祖である親鸞は、承安3年に日野有範の子として、法界寺にて生まれたとされている。

牛皮山曼荼羅寺塔頭随心院(隨心院)

真言宗善通寺派大本山

本尊は如意輪観世音菩薩

真言宗十八本山11番

仁海(真言宗小野流の祖)が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年に建立した。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、牛皮山曼荼羅寺と名付けたという。増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。親厳の時、寛喜元年に後堀河天皇の宣旨により門跡寺院となった。応仁の乱によりほとんど焼失した。

法雲山大善寺浄妙院

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

京都六地蔵・京都十三仏霊場5番

慶雲2年、定恵の開山により創建されたと伝えられ、平安時代前期に円珍が天台宗に改宗したという。また仁寿2年、小野篁が一本の桜樹から6体の地蔵菩薩像を刻んだのが起源ともいう。その後永禄年間に現在の浄土宗に改められた。

乃木神社

祭神は乃木希典

社格 府

大正5年9月、創建。建立の中心となった村野山人は薩摩藩出身の実業家。明治天皇の大葬の際、京阪電車の会社代表として参列し、その場において乃木夫妻の殉死を聞いて強い衝撃と感銘を受けた。乃木希典の1周忌に会社の職を辞し私財を投じて、明治天皇の陵の麓に神社を建てることであった。

深草山墨染寺

日蓮宗

本尊は十界大曼荼羅

寛平3年、太政大臣藤原基経がこの地に葬られたのを哀悼して、上野岑朝臣が桜に向かって歌を詠むと、花が薄墨色に染まってしまったといわれている。豊臣秀吉はこの墨染桜の話を聞き、寺領千石を与え、日蓮宗墨染桜寺として再興した。本堂前にある御手洗鉢は明和5年に歌舞伎役者の二代目中村歌右衛門が寄進したもので「墨染井」と呼ばれています。

清涼山欣浄寺(伏見大仏)

曹洞宗

本尊は昆盧舎那仏

道元禅師によって創建された寺院。平安初期、桓武天皇は深草少将義宣に邸宅を贈った伝わる。深草少将の「百夜通い伝説」で知られる。江戸中期は浄土宗に属したが文化年間に改宗。本尊の昆盧舎那仏は伏見大仏と言われ、木造の大仏では最大級。

 

藤森神社

祭神は素盞嗚命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇

社格 府

神功皇后3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが発祥としている。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であったが、その地に稲荷神が祀られたため当社は現在地に遷座した。現在地は元は真幡寸神社(城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。本殿は東・中・西殿の三座から成る。天応元年に蒙古襲来のとき早良親王が大将軍となり、祈願したことから弓兵政所の異名がつき、蒙古塚は蒙古軍大将の首を埋めたものと伝わる。

圓通山大黒寺(薩摩寺)

真言宗東寺派

本尊は大黒天

創建不詳。真如法親王の開基による名刹で当初は円通山長福寺と号した。元和元年、薩摩藩主島津義弘が伏見奉行山口駿河守に懇請し薩摩藩の祈祷所となる。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老・平田靭負の墓所がある。

金札宮

祭神は天太玉命

社格 村

縁起には「伏見久米の里の白菊の翁という老人が、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。ある年、干ばつが続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐとたちまちそこから清水が湧き出た。」と伝わり、この翁が天太玉命(白菊明神)で天平勝宝2年に創立した。また、清和天皇の御代、橘良基によって阿波国より勧請したとも伝わる。

安養山往生院勝念寺(釜敷地蔵尊)

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

正親町天皇の勅命により、織田信長、信忠父子の菩提を弔うため、貞安上人に信忠自刃の地である御池御所を賜り、信忠の法名に因んで大雲院という寺院を開創。同時に、時の天下人豊臣秀吉公の城下町である伏見丹波橋に布教の拠点とするべく一寺を開創し、勝念寺と号した。安永7年、火災により本堂・庫裏と共に本尊・過去帳並びに貴重な文物も多く焼失。しかし山門・地蔵堂は離れていたために、幸い難を逃れ、信長公より賜った釜敷地蔵尊、閻魔法王像、他仏像や書物も今日に残り、焼失前の歴代住職の名も紙片に残さた。

地蔵堂は文禄4年創立。安永9年に本堂庫裏が再建された。

深草山宝塔寺

日蓮宗

本尊は三宝尊

藤原基経が発願した極楽寺が宝塔寺の前身とされている。極楽寺は基経の没後、嫡子の藤原時平により昌泰2年、建立されたもので、『源氏物語』「藤裏葉」帖に寺名が言及されている。鎌倉時代末期、京都で布教にあたっていた日像は当時の極楽寺の住持・良桂と法論を行った。良桂は日像に帰依し、真言律宗寺院であった極楽寺は延慶年間、日蓮宗に改宗した。康永元年、日像は妙顕寺で入寂、遺言により当寺において荼毘に付された。応仁元年の応仁の乱で焼失後、長らく再建されなかったが、天正18年、日銀が伽藍を再建した。

深草山宝塔寺塔頭西之大坊大雲寺

日蓮宗

本尊は一塔両尊

天文5年建立。日隋上人開基。深草七面山御旅所。宝塔寺塔頭六坊の一つ。

百丈山石峯寺

黄檗宗

本尊は釈迦如来

正徳3年、黄檗宗大本山萬福寺の第6世千呆性侒が開創。由来は平安時代中期に摂津国多田郷に建てられた沙羅連山石峰寺に発するとされ、兵火で焼亡したが、本尊の薬師如来像は土中から慶長元年に発見され、京都五条大橋東あたりの祠に祀られていた。この薬師如来を尊崇する千呆和尚が、正徳3年に深草の地に移したという。寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、安永年間から天明年間にかけて絵師の伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職密山修大と協力して制作したもので、若冲五百羅漢としていまも親しまれている。当時は千体以上あったが、現在四百数十体が残っている。また観音堂の格天井には若冲が天井画を描いた。しかし観音堂は幕末の安政6年以前に破却され、天井画は寺外に流出、現在は信行寺や義仲寺が所蔵している。

城南宮

祭神は城南大神(八千矛神、息長帯日売尊、国常立尊)

社格 式内社、府社

創立年代不詳。平安遷都の際に国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀って創建された。平安京の南にあることから「城南神」と称した。白河天皇が鳥羽離宮を造営してからはその一部となり、離宮の鎮守社として代々の天皇や上皇の行幸がしばしばあった。また後代になると京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになった。室町時代の頃からか、この地にあった真幡寸神社を取り込んだ。

北向山不動院

天台宗

本尊は不動明王

近畿三十六不動尊22番

大治5年、病にかかった鳥羽上皇はその病気平癒の祈祷を自らが帰依している真言宗の僧覚鑁に行わせたところ、不動明王が出現するなどして上皇は回復した。その後、上皇は勅命により覚鑁を開山として当寺院を建立し、勅願寺とした。不動明王を本尊とし、平安京を鎮護する意味もあって不動明王像は北の平安京に向けられている。それによって「北向山」の名が付けられた。久寿2年には播磨国大国庄を寺領として藤原忠実が境内の整備にあたった。

福昌山本教寺

日蓮宗

本尊は十界曼荼羅

文禄3年、日受上人により開かれた。徳川家康の娘で池田輝政の妻(督姫)に篤い帰依を受け、督姫が豊臣秀吉から贈られた牡丹が境内に植えられ、「慶長牡丹の寺」と言われる。妙見宮があり池田家伝来の「北辰妙見大菩薩像」が祀られ開運厄除けと言われる。「洛陽十二支妙見めぐり」は、京都御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に祀った妙見宮を巡って開運を祈願するが、教寺』は、午の方角に当たる。

東光山辨財天長建寺

真言宗醍醐派

本尊は八臂弁財天

元和5年に伏見城が廃城になると以後、伏見は衰退を余儀なくされた。そこで、13代目伏見奉行の建部政宇は、元禄12年に中書島の開発や新たに壕川を開拓して交通の便を良くし、伏見を復興させようとした。その際に、深草大亀谷にあった即成就院の塔頭・多聞院の建物を現在地に移転させ、新たな寺院を建立し、建部の一字「建」と長寿を願って「長」の字を採って長建寺と名付けた。以降は伏見奉行の祈願所となっている。

與杼神社

祭神は豊玉姫命、高皇産霊神、速秋津姫命

社格 式内社(小)、郷社

社伝等によると応和年間(961年 - 964年)に、愛宕念仏寺などを再興した千観内供が肥前国佐賀郡河上村の與止日女神社から淀大明神を勧請して山城国乙訓郡水垂村に建立したとされる。しかしながら、日本三代実録には貞観元年(859年)に従五位下の神位を賜ったという記述があり、延長5年(927年)に成立した延喜式神名帳では山城国乙訓郡の小社として列していることから応和年間以前には存在したと考えられる。桂川の水上運輸の守護神とされ、淀姫社や水垂社とも呼ばれていた。

慶長12年(1607年)に豊臣秀頼によって片桐且元を奉行として本殿と拝殿が再建された。しかし、本殿は慶安2年(1649年)頃には建て替えられたという。明治35年、淀城本丸跡に移転。

京都市山科区

華頂山元慶寺(花山寺)

天台宗

本尊は薬師瑠璃光如来

西国三十三箇所番外

元慶元年、藤原高子の発願により僧正遍昭を開基として建立。寛和2年、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた。寛和の変。花山法皇の宸影を安置する寺で花山寺とも呼ばれ、大鏡では花山寺と記述されている。

大光山本圀寺

日蓮宗大本山(六条門流祖山)

本尊は三宝尊

洛中法華21ヶ寺

建長5年、日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺が起源と伝える。貞和元年、日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けた。応永5年には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている。永禄11年、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。貞享2年、徳川光圀が生母の追善供養を行い、圀の一字を下され、本圀寺と改称した。

護法山安国院出雲寺(毘沙門堂)

天台宗

本尊は毘沙門天

天台宗京都五門跡

毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年、行基が開いたという。その後、平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。

護法山出雲寺塔頭双林院(山科聖天)

天台宗

本尊は大聖天歓喜天

寛文5年、毘沙門堂再建と同時に建立された。当初、本尊には湖東三山の西明寺より迎えられた阿弥陀如来、光坊の弥陀を安置するが、のちに明治元年に聖天堂を建立し、門主の公遵法親王ご念持仏大聖天歓喜天を賜り本尊とした。そのほか武田信玄や多くの信徒や寺院から奉納された聖天像七十数体合祁し、願いの叶う霊験あらたかな「山科の聖天さん」として信仰されている。

日向大神宮

祭神は天照大御神、多紀理毘賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命、天津彦火瓊々杵尊、天之御中主神

社格 式内社(小)、村社

創建年代等については不詳。社伝によれば、第23代顕宗天皇の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建された。応仁の乱で社殿等が焼失し、祭祀が一旦途絶えた。江戸時代初期に篤志家によって旧社地に再建され、交通祈願の神社として有名になった。

弘誓山當麻寺

浄土宗西山禅林寺派

本尊は阿弥陀如来(山科大仏)

証空(西山上人)により天福2年に創建された。証空が寛喜元年に大和當麻寺に参詣し、當麻寺の曼荼羅図に感銘を受け、以後、観経曼荼羅の流布につとめ、その當麻寺の曼荼羅図と同じものが、継承されていて、そこから當麻寺と名付けられた。

諸羽神社(四ノ宮)

祭神は天児屋根命、天太玉命

社格 郷社

祭神二柱の神が山科郡柳山に降臨、座されたので楊柳大明神と奉称した。この二柱の神は天尊降臨時に左右を補佐した神であるところから両羽大明神と称した。清和天皇の御世の貞観4年に社殿が造営され、両羽大明神と唱え、裏山の名も両羽山と称した。柏原天皇の御代の永世年間より中央に八幡宮、左に伊弉諾命を、右に素盞嗚命および若宮八幡宮を配し以上六柱を合祀。よって両羽を諸羽と改称する。幾度か兵火に罹り、都度再建されている。

長唱山大立寺

日蓮宗

本尊は釈迦如来

創建は不詳。慶長5年頃、圓通院日純によって開創。日純は京都・松ヶ崎の涌泉寺の2祖であり、立本寺の第13世ともいう。山科の毘沙門堂とは親交があり関係が深い。本堂正面に掲げる「圓通殿」の額は毘沙門堂準后宮門主の真筆とされる。山門は毘沙門堂より下賜され移築されたもの。

柳谷山徳林庵(山科地蔵)

臨済宗南禅寺派

本尊は地蔵菩薩

京都六地蔵

南禅寺第260世雲英正怡が1550年に開創した。山科廻地蔵、山科地蔵、四ノ宮地蔵として地元の人々に親しまれている。六角堂に安置される本尊の地蔵菩薩は平安時代に小野篁が一本の桜の大木から作ったとされる六体の地蔵尊像のうちの一つと言われている。初めは六地蔵の名で親しまれている伏見の大善寺に六体が祀られていたが、後白河法皇の深い信仰を受け、平清盛、西光法師などの手により厄病退散、路上安全、招福結縁を祈願し、都街道の出入口六ケ所に一体ずつ分置された。

亀甲山勧修寺山階門跡

真言宗山階派大本山

本尊は千手観世音菩薩

真言宗十八本山10番

昌泰3年、醍醐天皇が生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益の邸宅跡を寺に改めたもので藤原定方に命じて造立させた。開山は承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、応仁の乱と文明2年兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。明治40年には当時の「真言宗」が解消されて山階派として独立。山階派本山となった。その後、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は統合されたが、戦後の昭和27年に再度山階派として独立している。

宇治市

明星山三室戸寺

本山修験宗別格本山

本尊は千手観世音菩薩

西国三十三箇所10番

宝亀元年、光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建した。天智天皇の孫にあたる白壁王は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁藤原犬養なる者に命じ、その光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着き、観音像を見つけ安置した。当初は御室戸寺と称した。康和年間、三井寺の僧隆明によって中興された。その後寛正年間の火災で伽藍を失い、再興されたものの、天正元年には織田信長と争った足利義昭に加勢したため焼き討ちされる。現存する本堂は江戸時代後期の文化11年に再建された。

縣神社

祭神は木花開耶姫命

社格 村社

創建年代等については不詳。古くは大和政権下における県に関係する神社と見られている。永承7年、藤原道長が別業を寺院である平等院とする際にその鎮守としたとされる。江戸時代末までは神仏混交により三井寺の支配を受けた。

朝日山平等院

単立

本尊は阿弥陀如来

光源氏のモデルともいわれる左大臣源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。万寿4年に藤原道長が没し、その子の藤原頼通は永承7年、宇治殿を寺院に改めた。開山は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。天喜元年には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂が建立された。

雨宝山放生院常光寺(橋寺)

真言律宗

本尊は地蔵菩薩

推古天皇11年に秦河勝が宇治橋を架けた折に創建した寺と伝えられる。境内にある「宇治橋断碑」によれば、宇治橋は元興寺の僧道登によって大化2年に架けられたとされる。鎌倉時代の弘安4年、叡尊によって中興された。文明11年、兵火に遭い室町幕府の援助などにより復興されたが、江戸時代の寛永8年にも火災に遭い焼失した。

宇治上神社(離宮明神)

祭神は菟道稚郎子命、応神天皇、仁徳天皇

社格 式内社(小)、府社

創建年代等については不詳。宇治神社と二社一体の存在であった。当社の境内は「山城国風土記」に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因む。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられた。また、1052年創建の平等院との深い関連性が指摘されている。

宇治神社(離宮明神)

祭神は菟道稚郎子命

社格 式内社(小)、府社

創建年代等については不詳。宇治上神社と二社一体の存在であった。明治以前は「下社」「若宮」、宇治上神社は「上社」「本宮」と呼ばれた。

朝日山恵心院

真言宗智山派

本尊は十一面観世音菩薩

弘仁13年、空海によって開基。唐の青龍寺に似ていることから龍泉寺と称した。その後、種々の戦火にあい、寛弘2年、比叡山横川の恵心僧都が再興し、寺号を「朝日山恵心院」と改名した。江戸時代には春日局が徳川家光のために祈願をした寺で、将軍家、宇治茶師からの後援を受けた。

正覚院(開運不動尊)

高野山真言宗

本尊は開運不動明王

創建、開基など詳しいことは不明。江戸時代初期の宇治名所絵巻には載っていることから、その時代には既にあったと思われる。

黄檗山萬福寺

黄檗宗大本山

本尊は釈迦如来

都七福神(布袋尊)

1661年に中国僧の隠元隆琦によって開創された。隠元は臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺の住職であったが、日本からの招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝。宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中国の自坊と同じ黄檗山萬福寺と名付けた。当初「臨済宗黄檗派」などと称していたが幕府の政策等により、明治9年、一宗として独立し黄檗宗を公称する。日本の禅宗は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類される。

許波多神社(柳大明神)

祭神は、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、神日本磐余彦尊

社格 式内社(名神大)、郷社
大化元年(645年)、蘇我倉山田石川麻呂の奏上により、孝徳天皇が中臣鎌足に命じて、皇祖を祀る神殿を山背国菟道郡許畑、柳山に造営させたのに始まる。柳山の地に社殿があったことから、後に柳大明神と呼ばれるようになり、江戸時代までは柳神社を正式の社名としていた。明治時代、陸軍宇治火薬製造所の建設のため社地全体が官有地として召し上げられ、御旅所であった現在地に遷座し、社名を許波多神社に改称した。

佛德山觀音導利興聖寶林禪寺(佛德山興聖寶林禪寺

曹洞宗

本尊は釈迦三尊

道元は宋から安貞元年(1227年)に帰国すると、建仁寺に身を寄せ、その後、深草の安養院に閑居した。天福元年(1233年)、道元は深草に興聖寺を開創。「永平広録」によれば嘉禎2年(1236年)に開堂式が行われ、観音導利院興聖宝林禅寺と号した。その前年の嘉禎元年(1235年)の「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」によると、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。興聖寺は比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)に道元が越前国に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶。慶安元年(1648年)、淀藩主の永井尚政が万安英種を招聘して第5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に再興した。寛文4年(1664年)に畿内の触頭寺院となる。延享4年(1747年)には永平寺の末寺となっている。

南丹市

生身天満宮
祭神は、菅原道真
社格 府社
菅原氏代々の知行所園部の代官であった武部左衛門尉治定(武部源蔵)が、菅原道真左遷の時に、「松風の御硯」と八男慶能の養育の内命を受ける。延喜元年の春、日武部源蔵が菅原道真の木像を刻み、小麦山邸内にひそかに祠を建てて生祠と称し、木像を奉齋したのが始まり。承応2年園部藩初代藩主の小出吉親が小麦山に築城する際に現在地に遷座された。

亀岡市

菩提山穴太寺

天台宗

本尊は薬師如来

西国三十三箇所21番

宝徳2年成立の「穴太寺観音縁起」によれば、慶雲2年、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる。穴太寺の聖観音像は「身代わり観音」の伝説で知られる。昔、丹波国桑田郡の郡司をしていた男は、都の仏師に依頼して聖観音像を造り、仏師には褒美として自分の大切にしていた名馬を与えた。しかし、与えた名馬が惜しくなった男は、家来に命じて仏師を弓矢で射て殺してしまった。ところが、後で確認すると仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっていた。改心した男は仏道を信じるようになったという。同様の説話は「扶桑略記」にもあるが、ここでは男の名が「宇治宮成」、仏師の名が「感世」とされている。

福知山市

丹波御霊神社
祭神は、宇賀御霊大神、明智光秀

社格 不明
創祀は宝永2年。元々は宇賀御霊大神を祀る稲荷社と光秀を祀る菱屋町の常照寺と分かれていた。福知山城主である朽木氏が、かつて当地を「福智山」と命名し、福知山城を近世の城に改修するなど善政をしいた明智光秀の合祀を許したことが始まりとされ、社号もこれに由来する。

舞鶴市

青葉山松尾寺

真言宗醍醐派

本尊は馬頭観音菩薩

西国三十三箇所29番

寺伝によれば、唐から渡来した威光上人が和銅元年、双耳峰の青葉山を見て、唐の馬耳山を起想し登山したところ、大樹の下に馬頭観音を感得し、ここに草庵を結び馬頭観音像を安置したのが創始とされている。元永2年には鳥羽天皇が行幸、寺領4千石を給い、寺坊は65を数えて繁栄した。その後、度重なる火災にあったが、その都度、細川幽斎や京極家によって復興される。現代の本堂は牧野英成により享保15年に修築された。

宮津市

成相山成相

真言宗

本尊は聖観世音菩薩

西国三十三箇所28番

慶雲元年に文武天皇の勅願寺と創建されたと伝わる。開祖である真応上人が修業中、大雪のため食糧が絶えて餓死寸前となった時「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈ったところ、一頭の傷ついた鹿が現れた。真応上人は命には代えられず、その鹿の肉を煮て食べ飢えをしのいだが、鹿の肉だと思ったものは本尊の聖観世音菩薩像の腿だったので、本尊が身代わりとなって命を救ったことから、この寺が「願う事成り合う寺」成合(相)寺と名付けられたといわれる。本堂は1774年の再建とされる。

天橋山智恩

臨済宗妙心寺派

本尊は文殊菩薩

日本三文殊

大同3年の平城天皇の勅願寺として創建された。延喜年間(10世紀初頭)には、醍醐天皇から勅額を下賜されたというが、以後、中世までの歴史は判然としない。当初は真言宗の寺院で、禅宗寺院になるのは南北朝時代以降である。古くから文殊信仰の霊場として知られ、謡曲「九世戸」の題材となっている。

籠神社
祭神は、彦火明命
社格 式内社(名神大)、丹後国一宮、旧国幣中社、別表神社

嘉祥2年に「籠神」が従五位下に叙せられたという記事で、その後六国史での神階は元慶元年の従四位上まで昇進した。延長5年成立の『延喜式』神名帳では丹後国与謝郡に「篭神社(籠神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。籠神社の西方には丹後国分寺跡もあり、当地一帯が丹後国の中心地であったことがうかがわれる。中世の籠神社境内の様子は雪舟の「天橋立図」に描かれている。

真名井神社
祭神は、豊受大神
社格 籠神社奥宮、

「下宮」とする本宮に対して、奥宮の主座は「上宮」に位置づけられる。社殿は桁行一間、梁行二間の神明造で、檜皮葺。天保3年(1831年)の造営で、京都府の有形文化財に指定されている。社殿裏に2つの磐座がある。現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地に鎮座した。その地は「匏宮(よさのみや)」と呼ばれたとし、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。

天蓋山大谷

真言宗

本尊は不動明王

籠神社別当寺

元は山城国下醍醐にあったが、養老2年に移築された。中世には籠神社の別当寺として栄え、多くの堂宇があり雪舟の「天橋立図」に描かれている。本尊の不動明王坐像は黒不動とよばれ、文政2年、丹後守護職一色義直を大檀那とし僧・智海が願主として自ら刻んだもの。

八幡市

石清水八幡宮
祭神は、八幡大神
社格 国史見在社・二十二社(上七社)・旧官幣大社・勅祭社・別表神社

平安時代前期に宇佐神宮から勧請されたもので、京都盆地南西の男山山上に鎮座する。天皇家からは遠国の宇佐神宮に代わり二所宗廟の一つとして崇敬された。また、公家には京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として鬼門(北東)の延暦寺とともに重要視された。武家では特に源氏が武神として信仰し、源氏の広がりとともに、源頼義による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鶴岡八幡宮など、当社から勧請された八幡宮が各地に建立された。

飛行神社
祭神は、饒速日命、航空殉難者の霊・航空業功績者、薬祖神・金毘羅・白龍神

二宮忠八は明治24年に日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功したものの、ライト兄弟が飛行機を開発したことを知り、研究から離れる。しかし、飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛め、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じて犠牲者の霊を祀る神社を大正4年に創建した。饒速日命は神話において天磐船にのって地上に降臨したとされることから、空の神・飛行機の神(天磐船)として結び付けられ、飛行神社の祭神に選ばれた。

泰勝寺

臨済宗妙心寺派

本尊は釈迦牟尼

大正7年に松花堂昭乗の墓所が余りにも荒れ果てていたのを、大阪の篤志家中尾かつ子の尽力によって方丈、庫裏の他青松居という茶室、閑雲軒という数寄屋を新築した。泰勝寺の寺号は熊本の細川侯菩提寺の「泰勝寺」が廃寺なったのを貰い受けたとの説がある。開基は神月撤宗。

長岡京市

長岡天満宮

祭神は菅原道真

菅公聖蹟二十五拝5番 京都十六社

長岡の地は、菅原道真が生前に在原業平らと共に、 しばしば遊んで詩歌管弦を楽しんだところで、太宰府へ左遷された時に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しまれた縁故によって、自作の木像をお祀りしたのがはじまり。 皇室の崇敬篤く度々寄進をうけ、寛永15年八条宮智仁親王によって「八条が池」が築造された。中堤両側に樹齢百数十年のきりしまつつじが多数植えられ、つつじの名所として名高い。

清巖山長法寺

天台宗

本尊は十一面観音菩薩

京都洛西観音霊場9番

天台宗延暦寺の末寺で、延喜10年、三井寺の開祖智證大師の弟子、千観上人が開基。千観上人が諸国を巡歴の途中、観世音菩薩が夢にあらわれ、「この地に留まってお寺を建てよ」とのお告げがあり、それに従ってお堂を建てたのが起こりと伝えられている。境内には、千観供養塔と伝えられる鎌倉時代の三重の石塔が現在も残り、国宝の「絹本著色釈迦金棺出現図」もかつては当寺にあった。

報国山念仏三昧院光明寺

西山浄土宗総本山

本尊は阿弥陀如来

法然上人二十五霊跡16番、京都洛西観音霊場7番

法然を慕い帰依した、弟子の蓮生(熊谷直実)が、建久9年に当地に、念仏三昧堂を建立したのが始まり。のちの嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。法然の石棺から、まばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえたという。

恵解山青龍寺(勝龍寺)

真言三宝宗

本尊は十一面観音菩薩

ぼけ封じ近畿十楽観音霊場3番、京都洛西観音霊場14番

大同元年、空海の開基。大干ばつ大飢饉の年に住職千観上人の祈とうで雨が降り、龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名された。正面の右には、びんずる尊者の像が安置され、病気の人が、このお像をなでた手で自分の悪いところをさすると、病気が治ると信じられている。

大慈山乙訓寺(牡丹寺、今里の弘法さん)

真言宗豊山派

本尊は合体大師像

京都洛西観音霊場6番

寺伝では推古天皇の勅命により聖徳太子が建立したと言われている。創建未詳であるが、境内出土の瓦の年代から、長岡京造営以前、奈良時代の創建と推定されている。延暦3年、桓武天皇が長岡京を造営した際には都の地鎮として大規模に増築される。また藤原種継暗殺事件の首謀者の嫌疑をかけられた早良親王が幽閉された場所でもあるとされ、空海が一時住したともいわれる。長岡京が廃都となっても大規模な伽藍を擁し室町時代でも10を越す僧坊があったという。

延命山卒台寺

西山浄土宗

本尊は延命地蔵菩薩

京都洛西観音霊場12番

嵯峨天皇の勅命によって弘法大師が創建し、当時は兜卒台寺とよばれた。その後万治3年に荒れ果てた寺を、典空上人が中興し、真言宗から浄土宗に改めた。

立願山楊谷寺(柳谷観音)

西山浄土宗

本尊は十一面千手千眼観音菩薩

新西国三十三箇所17番、京都洛西観音霊場10番

寺伝では清水寺の開祖延鎮が大同元年(806年)に開山したとされ、延鎮が夢告によりこの地で十一面千手千眼観音菩薩像を感得し、堂を建て安置したのが始まりとされる。その後延鎮が清水寺に帰った後に空海が度々、ここで修行をした。空海に見つけられた眼病に効く独鈷水は、江戸時代に眼の悪かった霊元天皇がそれで眼病を治癒したのをきっかけとして、以後歴代の天皇へ献上されるようになり、明治時代となって皇居が東京に移るまで献上は続けられた。

乙訓郡

天王山宝積寺(宝寺)

真言宗智山派

本尊は十一面観音菩薩

寺伝では神亀元年、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。天王山の南側山麓に位置する大山崎町大山崎上ノ田の遺跡が「山崎院」跡に比定されており、宝積寺は「山崎院」の後身と考える説もある。貞永元年の火災で焼失している。長徳年間、寂昭が中興した。『続本朝往生伝』には、当寺の通称である「宝寺」の名が見える。天正10年、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。

妙音山観音寺(山崎聖天)

真言宗

本尊は十一面千手観音菩薩

寺伝では昌泰2年に寛平法皇により創建されたというが、その後衰退。江戸時代初期に摂津勝尾寺の僧・木食以空によって再興された。歓喜天(聖天)を鎮守として祀り、特に商人から信仰された。しかし、禁門の変に巻き込まれ、事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して焼失した。

離宮八幡宮

祭神は応神天皇、神功皇后、酒解大神、比売三神

社格 府社

石清水八幡宮の元社にあたる神社。貞観元年に清和天皇が、神託により宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた僧行教が、帰途山崎の津で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、勅命により「石清水八幡宮」が建立された。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とした。また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」を発明し荏胡麻油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされる。