まず記紀に登場するのが日本武尊の妃であった弟橘比売です。『日本書紀』によれば、穂積臣忍山宿禰の娘とされ、入水伝説に見られる通り、水に関係の深い女神です。記紀の中でも特に美しく悲しい物語が弟橘比売の物語でしょう。
他には、雄略紀に「橘姫皇女」、仁賢紀に「橘皇女」、宣化紀に「橘仲皇女」「橘豊日尊(用命天皇)」「橘本稚皇子」「橘麻呂皇子」等があります。
また、橘豊日尊の子が聖徳太子でその妃が「橘大郎女」ですから、この時代に橘が人名に多く用いられたことがよくわかります。
橘が姓として正式に登場するのは、県犬養宿禰三千代が和銅元年(708年)11月25日元明天皇即位の大嘗祭後の祝宴で、天武天皇から橘姓を賜ったところからです。この後、これまで橘を姓としていた一族は椿姓に改めました。
日本武尊が、東征で走水の海(浦賀水道)を渡る途中、嵐に襲われて、行く手を妨害されました。凄まじい強風が、御船を揺らし、今にも沈みそうな船内では、これは海の神の祟りであると囁かれました。海上で、暴風雨に襲われるのは、その海の神が船中の人または物を欲するという思想が、その当時にはあったためです。その時同行していた弟橘比売は、管畳・皮畳・絹畳、それぞれ8枚を水面に浮かべ、「妾、御子に易りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政遂げて、覆奏したまふべし。」と別れを告げると海中に没したのです。
弟橘比売の辞世の句は 「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて、 問ひし君はも」
一週間後、上総の海岸に、櫛が打ち寄せられました。対岸に辿り着いた日本武尊は、その櫛を握りしめ弟橘比売の墓を建てました。これが橘神社(上総国二ノ宮)です。
東征を終えた日本武尊は足柄峠にさしかかると、足を止め「吾妻はや」と呟きました。今は無き弟橘比売への嘆きは、以降東国を「あづま」と呼ぶ由来になったとされています。
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