Ⅳ.神武天皇と欠史八代

神倭伊波礼毘古命は天皇に即位すると、三輪の大物主神の娘「富登多多良伊須岐比売(ホトタタライスキヒメ)」を皇后とし、地場勢力と融和策をすすめ九州からの部下だけではなく、協力者に対しても軍功を讃えた。道臣命には築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に土地を与え、大来目部には畝傍山の西(橿原市久米町)に居を与えた。「弟宇迦斯(オトウカシ)」は猛田邑が与えられ猛田県主に任ぜられ菟田主水部の祖となる。「弟志木(オトシキ)」は磯城県主に任ぜられ、八咫鳥も賞されその子孫は葛野主殿県主部となった。最大の貢献を果たした宇摩志麻遅命は物部氏の祖となり、武力集団として纏向を中心に鳥見・磯城を治め、神武天皇よりも大きな勢力として存在し続けることとなり、神武天皇は橿原周辺のみを支配したに留まっている。

 

神武天皇の跡を継いだのが「神渟川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)」であった。神渟川耳尊は、庶兄の手研耳命を倒し皇位につき綏靖天皇となる。綏靖天皇には、もう一人兄である「神八井耳命(カムヤイミミノミコト)」がおり、天皇の座は弟に譲ったものの忌人(神祗を奉典する役割を担う者)として神事を司ることとなる。神八井耳命は多臣、火君、阿蘇君の始祖となる人物で出雲勢力と関係が深い。これは、母である富登多多良伊須岐比売が三輪の大物主神の娘であったことから、姻戚関係が強化された結果、葛城を治める綏靖天皇と三輪を引き継ぐ神八井耳命により支配力を強化した。ここで少し「多氏」について触れておきたい。「多」は「意富」とも記され、最初に登場するのが出雲の中心人物である大穴牟遅神である。この神は「意富阿那母知命(オオアナモチノミコト)」とも記された。その系譜を受け継ぐ三輪大神も「意富美和大神(オオミワノオオカミ)」であり、後に三輪大神を祭るのが、大穴牟遅神の流れを受け継ぐ「意富多々泥古(オオタタネコ)」である。また、古事記の編纂を行った「太安万侶(オオノヤスマロ)」もこの一族である。この流れから、出雲と三輪をつなぐ大きな勢力が見えてくる。そして、この勢力は明らかに、纏向の物部一族とは一線を画している。

 

綏靖天皇は、三輪の出雲系勢力と結びつくことで纏向の物部一族と同等の力を確保し、加えて婚姻関係による地場勢力の取り込み実行し、徐々に大和に勢力基盤を構築する。いわゆる欠史八代の時代がその時期であったと思われる。彼らの妃を見てみると、綏靖天皇妃は礒城県主の妹「河俣毘売」、安寧天皇妃は礒城県主の娘「阿久斗比売」、懿徳天皇妃は礒城県主系「飯日比売」と礒城県主との密接な関係が伺える。懿徳天皇までは、まだ支配力が確立していなかったので、隣接地である礒城の族長との関係を重視した政策がとられた。懿徳天皇の頃には葛城での勢力基盤が堅固となったことから、その次の世代からは物部氏・尾張氏との直接的な結びつきを重視する婚姻政策が取られるようになる。孝昭天皇妃は尾張連祖奥津余曾の妹「余曾多本毘娘」、孝安天皇妃は姪である天足彦国押人の娘「忍鹿比売」、孝霊天皇妃は十市県主祖大目の娘「細比売」、孝元天皇妃は穂積臣遠祖内色許男の妹「内色許売」、開化天皇妃は物部氏遠祖大綜麻杵の娘「伊迦賀色許」であった。

陵墓がどこにあるかも、葛城地区での勢力拡大の様子をつかむ足掛りとして考えることができる。神武天皇から懿徳天皇までは、畝傍山を取り巻くように陵墓がある。孝昭天皇は畝傍山南西の掖上博多山(御所市三室)、孝安天皇も孝昭天皇陵の東に位置する玉手丘(御所市玉手)にあり、畝傍山周辺から南西地区に拠点を移している。孝霊天皇では更に北に位置する片丘馬坂(北葛城郡王寺)にある。そして孝元天皇は畝傍山南東の剣池嶋上(橿原市)に戻ってきている。これらの状況と政務を行ったとされる皇居の位置などから、当時のそれぞれの支配地域を整理してみることとする。

この表からもわかるように、神武から懿徳までの間は橿原地区と隣接する物部氏の拠点でもあった磯城地区の融和政策による地盤確保の時代であったことがわかる。一方で葛城地区では神武の片腕として東征を成功させた八咫烏を祖とする鴨一族が勢力を拡大し、孝昭天皇を立て葛城地区の支配力を高めたと思われる。葛城地区ではこの後、孝安天皇、孝霊天皇が続き、九州から崇神天皇がやってくると、その配下として勢力を確保することとなる。

一方、橿原地区に基盤を築いた孝元天皇、開化天皇は、これまで協力関係にあった磯城地区勢力が崇神天皇に従属したことから内部崩壊し、首長の座を崇神天皇に譲らなければならない状態になったのではないだろうか。

 

(2005.8.16 改訂2006.10.8)