Ⅳ.狗奴国と卑弥呼の死

卑弥呼は既に老齢であったが、外交手腕を発揮し、景初2年(238年)大夫難升米、都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁して朝貢を申し出、郡太守の劉夏は部下に命じて、洛陽まで使者に同行させた。その結果、魏の明帝から親魏倭王の爵号と金印紫綬を与えられ、使者であった難升米を卒善中郎将、牛利を卒善校尉としてそれぞれに銀印青綬を与ええられた。(金印は翌年、帯方郡太守の弓遵が、建中校尉の梯儁らを使節に立て卑弥呼の下へ届けられた。)結果からも判るように卑弥呼の対魏外交は成功したが、朝鮮半島においても混乱が発生しており。馬韓と魏が激突、倭国に対する軍事的支援までには到らなかった。 

狗奴国との確執は、邪馬壹国が誕生した時点から続いてきたが、正始8年(247年)戦闘は激しくなり魏としても放置できず塞曹掾史の張政を派遣するが、張政が到着した時点では既に卑弥呼は死亡しており、国は乱れた状態であった。狗奴国との戦闘はどういう結果で終わったか明確ではないが、卑弥呼の死後混乱していた国をまとめたのは卑弥呼の一族の巫女であった13歳の臺與が女王として立ち、国をまとめた。そして、大夫・卒善中郎将の掖邪狗を団長に20人の送迎団を結成して張政を魏まで送るとともに洛陽へ朝貢を行なった。

記録で判る事実は以上のとおりであるが、邪馬壹国と敵対していた狗奴国がについて検証してみたい。狗奴国は先に述べたように、朝鮮半島から移住してきた集団が邪馬壹国を形成するに際して、北九州最大の勢力であった倭奴国を討伐することで支配下に置き伊都国とした結果、反抗勢力が誕生することとなった。その勢力が菊池川流域に集結し対抗組織として形成されたのが狗奴国である。

 

狗奴国の男王は「卑弥弓呼(ヒミココ)」で官に「狗古智卑狗(クコチヒコ)」がおり、組織体制を持つ集団として邪馬壹国と拮抗する勢力であった。狗奴国の拠点は、現在の熊本県菊池市を中心に熊本平野に位置していたと考えられ、熊本平野における生産力を基盤に邪馬壹国と対等に戦える軍事力を養っていたと推察される。軍事的衝突を頻繁に繰り返す中で、女王卑弥呼の死は、邪馬壹国の大黒柱が喪失したのと同意であり、途端に国家の機能を失い、国を維持することが困難な状態となった。邪馬壹国は宗教国家であるがゆえに連合国家として成立していたわけであるが、その宗教性が失われた段階で、国を纏める人物は登場せず、邪馬壹国の高官であった難升米・牛利を中心に、狗奴国に対抗するが、卑弥弓呼に敗れることとなったのである。

卑弥弓呼は卑弥呼が女王として政治力を発揮できた経緯を熟知しており、政治上の当主である巫女を立て、実権を握ることを実行し、邪馬壹国と狗奴国は統一されることとなった。すなわち、卑弥弓呼は臺與と結び九州統一を実行することとし、この後、266年の晋の建国に際して朝貢を行なったことが晋書に記録されている。

難升米等は、九州を脱出し瀬戸内に逃れることとなるのである。

 

(2004.11.30  2006.3.18改訂)