Ⅳ.倭国の移動と邪馬壹国

倭国の朝鮮半島から移動には大きな理由があったと考えられる。「三国志韓伝」には「桓霊之末、韓濊彊盛、郡縣不能制。民多流入韓国。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帯方郡。遣公孫模・張敞等、収集遺民、興兵伐韓濊。是後倭韓遂属帯方。」とあり、霊帝の末頃(西暦168年~188年)、韓(馬韓)と濊の勢いが盛んになった事から、建安中(西暦196年~220年)に公孫康は韓と濊を討った後、倭も討ち帯方郡に帰属させている。「梁書倭伝」には、「漢霊帝光和中倭国乱。相攻伐歴年。乃共立一女子卑弥呼為王。」とあり、光和中(西暦178年~183年)に倭国に乱があったとしている。倭国大乱とは、日本列島において戦乱が起こったのではなく朝鮮半島における、韓と濊の勢力拡大によって倭国が圧迫され、最終的には北九州に追いやられた戦乱ではなかったか。このことは日本列島における先住者にも多大な影響を与え、九州地方だけでなく瀬戸内海や出雲、丹後までも勢力分布に変化を与えることとなったと推察される。

 

この時期の北九州の最大の勢力は倭奴国から発展した伊都国であった。伊都国は次第に勢力を拡大し連合国家を作っていたと考えられる。伊都国は対馬国(対馬)、一大国(壱岐)、奴国、不彌国に対して「卑奴母離」を副官とし連携国家を形成していた。これに対して、朝鮮半島を追われた倭国の人々が大挙して移住してくる事となった。倭国は伊都国と戦い勝利して、その連携国家を収奪するが、なかなか王を擁立する事が出来ず、最終的には巫女の力を持つ女王が共立されたのである。この結果、北九州地区において女王国が誕生することとなった。

 

「魏志倭人伝」は陳寿によって魏、呉、蜀の三国時代を書かれた歴史書「三国志」の「魏志東夷伝倭人の条」を指し、太康年間(西暦280~289年)にかけてまとめられたものである。内容的には、魚拳の「魏略」を参考として書かれたと考えられる。「魏略」は残念ながら現存しないが、その内容は「翰宛」に逸文として倭国の記事があり、「魏略」の内容はそこから推察できる。魚拳は西暦190年頃の倭国方面へ旅行した旅人の記録から、倭国の様子を、地理・風土・風習等を中心に記録しており、記述内容を100%信用する事はできない。特に中国中心主義によっての記述が基本となっており、魏の支配力を強調するあまり倭国の位置と規模がより遠く、より大きく表記されることとなった。

また、国名の記述にしても混乱があり「邪馬台国」も「邪馬壹」「邪馬臺」「邪摩惟」「邪靡堆」と書物によって記述方法が変化していることも、邪馬台国論争が続く一因でもある。ここでは古田武彦説を採用し邪馬壹国で統一したい。

朝鮮半島から移動してきた倭国勢力は、北九州地区で邪馬壹国を中心にした支配体制を築き、倭奴国の反抗勢力は南に逃げて邪馬壹国連合王国と敵対する狗奴国を形成することとなったと推定される。しかも、非常に興味深いのは邪馬壹国の中心となった人物は「卑弥呼」というシャーマンであり鬼道による宗教性により統治能力を有したのである。中国大陸においても、後漢の時期には戦乱による民衆の不満が宗教的指導者の元に終結し「黄巾党」「五斗米党」を育て、当時の権力者に反抗していた事実もあり、九州地区においては、卑弥呼が女王として君臨できる体制が構築されたと考えられる。

 

卑弥呼が自国の安定を図るために重要視したのは、邪馬壹国の国家運営体制を対外的に認めさせることであり、当時の大国であった後漢を意識していたことが十分に考えられる。当時中国大陸との窓口を担っていたのは、遼東半島を支配した公孫氏である。公孫氏は帯方郡を設置し朝鮮半島、倭国等の管理を実施していたが、後漢崩壊後、魏王朝から遼東太守に任命され太和4年(230年)頃までは魏と良好な関係を維持する一方で呉とも関係を持ち、孫権から公孫淵は嘉禾2年(233年)に「燕王」に冊封されている。魏との関係が悪化することにより景初2年(238年)に公孫氏は滅びた。ほぼ同時期に、卑弥呼は魏に対して直接朝貢を行なっている。卑弥呼が如何に政治的背景を重視していたかが伺える。また府官制秩序を構築し、「大倭」「一大卒」「卑奴母離」「大夫」「都市」等の官名で交易・外交・防衛に関係した支配機構を明確にもった組織化された王権であったことが判る。一方で男弟が存在し国政に参加していたことが記録されているが、卑弥呼の死後、邪馬壹国が崩壊する事実から考えると、組織的に確立していた王権の根本には、卑弥呼の巫女としてのシャーマニズムが、不可欠の要因であったということである。それは卑弥呼の死後の混乱から、ようやく安定するのは「臺與」という巫女を女王とするまで、すなわち宗教的儀礼が確保されるまで安定しなかったということからも窺える。

 

(2004.10.12  2006.3.11改訂)