倭人のルーツ

倭人のルーツを単独に特定することは非常に難しいが、一般的には大きく三つの地域の人種が融合した結果が、現在の日本人を形成していると考えられている。その三つの地域の人々とは、一番目が従来から日本列島に居住した人々、二番目が現在の東南アジア海域及び中国南部の水稲耕作地帯から渡ってきた人々、三番目が中国北部から朝鮮半島経由で移動してきた人々である。それらは、同時に日本列島に入植してきたのではなく、長い時間をかけて日本に辿り着いた集団が徐々に混血化することで、単一民族としての日本人を形成しているのである。それでは、上記の三つの分類について述べることとする。

 

従来から日本列島に居住した人々を、縄文人として古代日本人と捉えがちであるが、縄文人も新石器時代という長い年月で見ると南方から移動してきた人々と言える。また、その前の明石原人になってくると、地球規模での人類のルーツはどこかという、所謂「グレートジャーニー」で取り扱われるテーマの対象となり、日本人のルーツとして整理することが難しくなる。そこで、倭人のルーツとしてのスタートとする時代をある程度限定して整理することとした。これまでの日本の歴史教育において活用されてきた時代区分に縄文時代とそれに続く弥生時代をその土器の形式や生活形式の違いから区分して整理されてきたことを前提とし、日本列島において、ひとつの統一的で独特の文化を形成していた最も古い時代の人々として縄文人を捉え、倭人ルーツのスタート時期とする。具体的には縄文時代後期(紀元前3000年から紀元前2000年頃)からスタートし、人々がどのような理由を背景として日本列島にやって来て、どのような影響を残したのか整理することとしたい。

 

縄文人についてはその身体的特徴を中心に、遺伝的に解明されており、その遺伝要素を今日まで伝えているのが、アイヌ民族や琉球人であることは周知の事実である。また補足すると、これまで縄文人の生活様式については、植物採集・狩猟・漁労による少人数の移動集団生活であり、定住による長期の集落形成は行なわれなかったと考えられてきたが、1992年に発掘が始まった青森県の「三内丸山遺跡」では巨大木造建築物や植物の栽培の事実も確認され、縄文人も植物栽培を行ない、海上交易を実施し、宗教儀礼を行う文化的集団で大規模な集落を長期に形成した事実が判明し、縄文人の生活形式について見直しが行われることとなった。

次に取り上げなければならないのは、現在の東南アジア海域及び中国南部の水稲耕作地帯から渡ってきた人々である。紀元前2000年頃、長江と黄河で頻繁に大洪水が発生する。当時、長江と黄河には文明が発展していた。即ち四大文明の一つである「黄河文明」である。紀元前5000年頃からはじまった黄河文明は発展し、当時は「龍山文化」が成立していた時代であるが、度々大氾濫、大洪水を繰り返す長江・黄河下流域では、なかなか長期的な文明が発展しない状況であった。当時の技術で大洪水に対して対処していく事は非常に困難な状況にあったのである。

 

紀元前2000年頃、長江下流域に発展した「良渚文化」も洪水の影響を直接受けることになり、中流域の「屈家嶺文化」なども頻発する洪水により文明が衰退していくこととなる。大河の氾濫は、文明の発展に多大な影響を及ぼし、また様々な影響を与える事になったのである。洪水の影響から逃れるため、良渚文化の担い手であった「三苗」は、長江流域から新たな土地を求めて、周辺に拡散していくこととなった。彼らの文化は、ベトナム沿岸から山東半島に至る東シナ海沿岸に展開し、九州西南岸や朝鮮半島南西岸にも伝わることとなったのである。この集団が、日本に到達したのが二番目の系統であると云える。

また、海洋民族でもあった三苗は、弥生時代初期の基礎を築くとともに、後に日本神話の中で海神族の思想を伝えていく存在となる。彼らは海運者として各地の交易を受け持ち、文化の伝達者ともなり、九州沿岸部に留まるのではなく、日本列島へ拡散することで、先の縄文人に多大な影響を与えていったと考えられる。彼らが伝えた伝説、文化から、彼らが海部氏や安曇氏の始祖であることは間違いないと云える。

 

中国南部からの日本列島への入植にはもう一つの流れがある。紀元前3世紀頃の出土人骨の分析が行われた結果、非常に興味深い事実が判明したのである。それは、当時の出土人骨に大きな変化が見られ、それまでの縄文人から骨格や頭蓋骨の頭示指数に明らかに違いがある人骨が急激に増加しているのである。しかも、最近の研究ではこの出土人骨の特徴、特に頭示指数や血液型の分布から中国大陸江南地方の人々の特徴が非常に多く見受けられており、同一民族であったと証明されている。このことから、短期間に大量の人々が大陸から流入してきた事実があるということが判る。紀元前3世紀頃とは、中国では春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝による中国統一が進められており、多くの国が滅亡した時代である。秦の侵攻により多くの人々、特に上級の官人は国が滅びると囚われ誅されたため、それを避けるには、その地を離れなければならなかったのである。彼らは外洋航海による国外脱出を試み、中国大陸江南地方から南西諸島を伝って南九州に上陸し、日本列島に定住したのである。「魏志倭人伝」にも倭人の系統について「呉の太伯の子孫」があるとの記述があり、紀元前473年に滅亡した「呉」の避難民との関係が深いと云える。

三番目は、中国北部から朝鮮半島経由で移動してきた人々である。日本列島と朝鮮半島とは地理的にも最も近い位置づけにあり、日本列島が誕生する初期の時期から人々の移動があったと考えるのは当然である。特に、朝鮮半島から多くの人々が流入し日本列島に影響を与えたのは、やはり紀元前3世紀頃からで先の出土人骨の研究から北九州を中心とする弥生人骨と中国の山東半島の人骨とが共通していることと、秦の統一国家誕生による移民の流出とを合わせて考えると、彼らが中国大陸山東半島から朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸した避難民であり、彼らは、先住民と共存あるいは新天地を求めて海岸部を中心に移動し、日本列島に定住していくこととなり、この結果、海岸近くを中心に高度な技術が導入され「弥生文化」が形成されたと考えられる。

この人々の動きについては朝鮮半島の歴史にも明確に現れている。朝鮮半島でも日本列島と同様に、紀元前3世紀頃に「箕子朝鮮」に対して大量の移民流入があった。その流民集団の一つに、「衛満」の一族があったのである。衛満は箕子朝鮮の「準王」に居住の許可を得て西方辺境の守備を担当するが、そこで勢力を拡大し紀元前194年に首都王倹城を攻め準王を追放し自ら王となりこれが「衛氏朝鮮」である。また、その後、衛氏朝鮮は秦を倒して中国大陸を統一した漢との間で関係が悪化したことにより、遂に紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされることになる。このような一連の朝鮮半島における国家抗争の動きの中で、日本列島へ朝鮮半島からも人々が移動してきたのは明白である。

考古学的にも、紀元前2世紀のものとして、北九州地方では銅矛・銅剣が出土し、甕棺墓が出現しているし、大阪湾沿岸地方では方形周溝墓が見られる。これらの出土品からも、当時の日本と朝鮮半島との深い関係が読み取れる。具体的には、先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見されたことから、方形周溝墓を持った一団が北九州ではなく、瀬戸内海・大阪湾岸に定着して大規模な建物や鉄器・古式銅鐸をもたらしたと判断できる。つまり、北九州に渡った一団は朝鮮半島南部からであり、近畿地方に渡った一団は中国東北地方または朝鮮半島北部から来たと考えられる。

日本列島においては、まだ国の段階まで発展しておらず、それぞれの生い立ちを持つ倭人集団が、各地で環状集落を形成し一部は都市国家レベルまで発展した状況は見られたものの、個々に独立した状態で混在する状況であった。これが、倭として中国の記録に残ることとなったのである。中国の倭に対する捉え方も時代と共に変化しており、一番初期の段階では朝鮮半島及び日本列島、南西諸島と広域の定義であったが、時代が進むにつれて位置付けが明確となった朝鮮半島が除かれ日本列島を指すようになる。すなわち、倭の定義も時代によって変わる事を認識しておかねばならない。

 

(2004.5.5)