滋賀県

岩間山正法寺

真言宗醍醐派

本尊は千手観世音菩薩

西国三十三箇所12番・ぼけ封じ観音4番・近江湖西二十七名刹霊場2番・びわ湖百八霊場2番

寺伝によれば、元正天皇の病気平癒祈願に功のあった泰澄が養老6年、岩間山中の桂の大樹から千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻んで、元正天皇の念持仏をその胎内に納め祀ったのがはじまりとされる。本尊には伝説があり、毎夜日没とともに厨子を抜け、百三十六地獄を駆け巡って人々を救済し、日の出とともに岩間山へ戻る際には汗みずくとなっていると言われ、「汗かき観音」とも呼ばれている。

石光山石山寺

東寺真言宗

本尊は如意輪観音菩薩

西国三十三箇所13番・近江湖西二十七名刹霊場1番・びわ湖百八霊場1番・江州三十三観音1番・近江三十三観音3番

「石山寺縁起」によれば、聖武天皇の発願により、天平19年良弁が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまり。石山寺の中興の祖は菅原道真の孫の淳祐内供であり、「匂いの聖教」という著述を残し国宝となっている。近江八景の一つ「石山秋月」でも有名。

興福山徳勝寺

曹洞宗

本尊は釈迦牟尼仏

近江湖北二十七名刹霊場10番、びわ湖百八霊場36番

小谷城主浅井氏の菩提寺。応永年間に上山田村で建てられ医王寺と号したが、浅井亮政が小谷城を築城時に小谷山山麓に移し、浅井氏の菩提寺とした。元亀4年、浅井氏は織田信長によって滅亡するが、その後この地の支配を委ねられた秀吉は、小谷城を廃城とし今浜(長浜)に長浜城を築城した。徳勝寺もその後清水谷からを長浜城下に移り、浅井亮政の諡号徳勝寺殿にちなんで徳勝寺に改称した。

建部大社

祭神は日本武尊・大己貴命

社格 式内社(名神大)・近江国一宮・旧官幣大社・別表神社

日本武尊の死後、布多遅比売命が神勅によって、建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽の地に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられた。天武天皇4年(675年)に近江の守護神として遷座した。

都久夫須麻神社(竹生島神社)

祭神は市杵島比売命・宇賀福神・浅井比売命

社格 式内社(小)・県社

雄略天皇3年創建。天智天皇による志賀宮創建の際、宮中の守護神として祀られた。天平3年に聖武天皇が参拝し社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったといわれる。平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになり宝厳寺との習合状態は江戸時代まで続いた。明治に入り、明治政府は神仏分離令を出し宝厳寺を廃寺にして神社とし、「都久夫須麻神社」と称するよう命じたが、宝厳寺の存続が希望され寺院と神社の両方が並存することとなった。

竹生島巌金山宝厳寺

真言宗豊山派

本尊は弁財天・千手千眼観世音菩薩

西国三十三箇所30番・近江湖北二十七名刹霊場18番・びわ湖百八霊場44番・江州三十三観音17番・日本三大弁才天

古来から浅井姫命が鎮座し水神として崇められ湖上を往来する船の安全航行を願って尊崇されていたという。竹生島縁起によれば、神亀元年に行基が勅を奉じて竹生島に渡り弁財天像を造り小さなお堂を建てて祀ったのが宝厳寺の創始と伝える。

長等山園城寺(三井寺)

天台寺門宗総本山

本尊は弥勒菩薩

西国三十三箇所14番・近江湖西二十七名刹霊場6番・びわ湖百八霊場6番・江州三十三観音4番・近江西国三十三観音5番

天智・弘文・天武天皇の勅願により、大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城」の勅額を賜わる。三井寺と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来する。再三の兵火にあい焼失したが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝が数多くある。

園城寺別所水観寺

天台寺門宗

本尊は薬師如来

西国薬師四十九霊場48番

長久元年、明尊大僧正によって創建された園城寺の五別所寺院のひとつ。別所寺院とは、平安時代から仏法を布教し、多くの衆生を救済するために本寺(本境内)の周辺に設けた別院のこと。現在の本堂は、明暦元年の再建で、昭和63年に現在地に移築された。

園城寺別所微妙寺

天台寺門宗

本尊は十一面観音菩薩

湖国十一面観音霊場1番

正暦5年(994年)、園城寺の僧慶祚によって創建された。かつては現在の長等公園の一角にあり本堂のほかに三重塔・法華堂をはじめ僧坊96坊を数えたと云われる。明治維新後衰退し現在は園城寺境内に一堂が移築された。本尊の十一面観音菩薩像はもとは現在廃寺となっている園城寺五別所の一つ尾蔵寺の本尊であったと伝えらる。

長等神社

祭神は建速須佐之男大神・大山咋神

社格 県社

天智天皇が大津京鎮護のため長等山の岩倉に須佐之男大神を祀ったのが始まり。貞観2年、円珍が園城寺の守り神としてまつったといい、天喜2年、庶民参詣のため山の上から現在地に移った。

平安山良畴寺

臨済宗妙心寺派

本尊は阿弥陀如来

近江湖北二十七名刹霊場19番・びわ湖百八霊場45番

鎌倉幕府執権北条時頼により開創された。弘長2年、近江守護佐々木道倫に当山安堵を命じた。以後、織田信長の兵火による灰滅、天災による琵琶湖中への陥没などを経るが継続。境内にある大仏像は、長浜びわこ大仏。

三尾神社

祭神は伊弉諾尊

社格 県社

応永33年に足利将軍が社殿を再興したものと伝え、明治9年に現地へ移された。珍しい兎の神紋が特徴の神社である。

豊国神社

祭神は事代主大神・豊国大明神・加藤清正・木村重成

社格 県社

長浜六瓢箪めぐり

豊臣秀吉の3回忌に当たる慶長5年、その遺徳を偲んで建立。江戸時代に入ると、幕府の命により秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊されたが、町民によって祭神は町年寄の家へ移され、その後、恵比須神を祀る神社の奥社で密かに祀っていた。明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年に拝殿が再建された。

長濱八幡宮

祭神は誉田別命・息長足姫命・足仲彦尊

社格 県社

長浜六瓢箪めぐり

平安時代後期に源義家からの発願をうけた後三条天皇の勅により、石清水八幡宮を勧請して創建した。戦国時代には兵火を受けて衰退したが、長浜城城主となった羽柴秀吉により復興された。

無為山安楽寺

臨済宗妙心寺派

本尊は釈迦如来

近江湖北二十七名刹霊場16番・びわ湖百八霊場42番

弘安2年(1279年)に九条家が無為を祈願して寺を建て、安楽精舎と呼ばれたのがその始まりとされる。開山は京都東福寺第五世仏智禅師。その後、足利尊氏らの庇護を受けたが、戦国時代の兵火により堂宇は消滅。江戸時代に入り彦根城城主の井伊直孝の庇護のもと井伊家の菩提所である龍潭寺(湖東二番札所)の開山萬亀和尚により再興されたのが現在の安楽寺である。

日出山神照寺

真言宗智山派

本尊は金剛界大日如来

近江湖北二十七名刹霊場15番・びわ湖百八霊場41番・長浜六瓢箪めぐり

寛平7年、宇多天皇様の勅命により、益信僧正(本覚大師)が開基。花園天皇の時に、足利義政が堂舎を修補し、中興開基の實雄僧正と共に寺門を興隆し、法流神照寺流を創始する。康暦2年、隆信本堂を再建。元亀元年、姉川の戦いによる兵火で焼失した。明治時代中ごろ智山派に転派して今に至る。

将軍山新放生寺舎那院

真言宗豊山派

本尊は愛染明王、阿弥陀如来

長浜六瓢箪めぐり

弘仁5年(814年)、空海を開基として創建した。山号の勝軍山は学頭別当職に就いた源義家による中興の時代に後三条天皇より賜ったもの。16世紀後半の度重なる兵火を受けて堂宇を焼失したが、豊臣秀吉によって再興された。新放生寺は平安時代より長浜八幡宮の学習院であり別当寺を務ていたが、明治時代初期の神仏分離令により子院の一つである舎那院以外は廃された。舎那院には廃された寺院の仏像等が集められ、現在に至っている。

医王山総持寺

真言宗豊山派

本尊は薬師如来

近江湖北二十七名刹霊場20番・びわ湖百八霊場45番・西国薬師四十九霊場31番・長浜六瓢箪めぐり

天平時代行基が国分寺の試寺として開基。室町時代に足利義教から600石の朱印を賜り、実済法印によって諸堂伽藍が建立された。後花園天皇の勅願寺として惣持院の号を得た。戦国時代に姉川の合戦で焼失したが、豊臣秀吉が120石の寺領を寄進して再興した。

宝生山勝安寺知善院

天台真盛宗

本尊は阿弥陀如来

近江湖北二十七名刹霊場17番・びわ湖百八霊場43番・長浜六瓢箪めぐり・江州三十三観音19番

もとは小谷城下にあったが、豊臣秀吉が長浜城の築城と城下町整備に際し、守護寺として城の鬼門の方向である現在地に移築した。本堂に祀られている豊臣秀吉の木像は、大坂城落城の時に持ち出されたもので、曽呂利新左衛門の作と伝わる。

金勝山慈恩寺浄厳院

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

近江源氏佐々木六角氏の菩提寺として建てられた天台宗の慈恩寺威徳院の旧地に、織田信長が安土城築城とともに天正5年に創建し、近江・伊賀国両国の浄土宗総本山としたのが始まり。仏教史上有名な安土宗論が行われたわれた寺としても知られる。安土宗論とは、織田信長の命により仏殿で行われました、浄土宗と日蓮宗の教義上の論争で、織田信長は、他宗をそしり、事あるごとに他宗と衝突する日蓮宗を抑えようとして、浄土宗側に有力な裁定を下したといわれる。日蓮宗側は処罰され、これ以後他宗への法論を禁じられた。

繖山観音正寺

天台宗

本尊は千手観世音菩薩

西国三十三箇所32番・江州三十三観音26番

推古天皇13年、聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まる。聖徳太子はこの地を訪れた際に出会った「人魚」の願いにより一寺を建立したという。寺にはその人魚のミイラと称するものが伝えられていたが、平成5年(1993年)火災で焼失した。観音正寺が位置する繖山には、室町時代以来近江国南半部を支配した佐々木六角氏の居城である観音寺城があり、寺は佐々木六角氏の庇護を得て栄えた。観音寺城は永禄11年(1568年)、織田信長の軍勢に攻められて落城。数年後には佐々木六角氏所縁の観音正寺も焼き討ちに遭い、全焼した。再興されたのは慶長年間のことである。現在ある本堂は平成16年に再建された。

繖山正覚院教林坊

天台宗

本尊は赤川観音

本山であった観音正寺の塔中として聖徳太子により開かれたと伝わり、石窟に祀られた伝聖徳太子作の石仏赤川観音を本尊とする。寺名は繖山麓に位置する境内の林の中で聖徳太子が説法したことに由来するとされ、そこは今日竹林と紅葉の名所および石の庭園で知られている。境内の地面は至るところで苔生して古刹然としており、桃山時代に作られた小堀遠州作と伝わる庭には苔生した庭石、巨石が点在している。

繖山桑実寺(桑実薬師)

天台宗

本尊は薬師如来

西国薬師四十九霊場46番・湖東二十七名刹18番

天智天皇の四女、阿閉皇女(元明天皇)の病気回復を僧に祈らせたところ、琵琶湖から薬師如来が降臨し、阿閉皇女の病気を治して去り、それに感激した天智天皇の勅願により、藤原鎌足の長男、定恵が白鳳6年(677年)に創建したと伝えられる。寺名は、定恵が唐から持ち帰った桑の実をこの地の農家にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来する。

 

遠景山摠見寺

臨済宗妙心寺派

本尊は釈迦牟尼

江州三十三観音25番

 

天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって城郭内に建立された。開山は、織田一族の岩倉城主主織田信安の三男で禅僧の剛可正仲とされているが、実際の創建時の住職は尭照であったようである。安政元年(1854年)11月16日、本堂など主要な建物のほとんどを焼失した。その後、徳川家康邸跡と伝えられる場所に仮本堂を建てた。明治維新後、寺領の喪失などにより、衰退していった。元禄8年、織田家の宇陀松山藩から丹波柏原藩への転封に伴い、柏原藩主織田信休は大和国松山城下の徳源寺にあった同家の歴代当主織田信雄・高長・長頼・信武の墓を安土城長谷川秀一邸跡に移す。現在も伝長谷川邸跡に四基の五輪石塔がある。

沙沙貴神社

祭神は少彦名命(佐々木大明神)

社格 式内社(小)・県社

神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君が大彦命を祭り、景行天皇が志賀高穴穂宮遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。 後にこの地に土着した宇多源氏によって宇多天皇とその皇子であり宇多源氏の祖である敦實親王が祭られ それ以降佐々木源氏の氏神とされ、子々孫々が篤く崇敬していた。婆沙羅大名の佐々木道誉や江戸時代天保年間に消失した社殿を再建した。

新宮神社(紫香楽一宮)

祭神は素戔嗚尊、櫛稲田姫尊、大山津見神

社格 郷社

霊亀元年9月の創建。以来信楽町大字長野、神山、江田、小川の産土神と遍く尊崇された。近衛関白家を始め近江の守護佐々貴氏等の信仰篤く、代々境内神領等の寄進があった。 南北朝の戦の兵火にて焼失し、再建され其後、大風の為、本殿大破し寛文3年再建。現在は信楽郷の一の宮として篤く崇敬されている。

秋葉山十輪院玉桂寺

高野山真言宗

本尊は弘法大師

ぼけ封じ近畿十楽観音霊場5番・びわ湖百八霊場88番

寺伝によれば奈良時代に淳仁天皇が仮御所として造営した離宮「保良宮」跡に空海が開いたという。後年文徳天皇と後花園天皇の勅願寺に定められた。

求法寺走井元三大師堂(日吉馬場六角堂)

天台宗

本尊は元三大師

慈摂大師二十五霊場4番

もとは天台宗安恵和尚の里坊があった場所に慈恵大師良源(元三大師)が比叡山初登山の時ここで休息し、修行の決意を固めたことから求法寺と称するようになった。現在の建物は、織田信長の比叡山焼き討ちで焼失した後に再建されたもの。六角堂は坂本六地蔵のひとつ。本尊は、伝教大師最澄上人自作の石地蔵尊と伝えられている。

紫金山聖衆来迎寺

天台宗

本尊は阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来

びわ湖百八霊場12番・湖国十一面観音霊場3番

延暦9年、最澄がこの地に地蔵菩薩を祀る寺を建て、地蔵教院と称したのが聖衆来迎寺の起源であるという。その後長保3年、源信(恵心僧都)がこの寺に入り、念仏道場として再興したという。源信がこの寺にいた時、紫の雲に乗った阿弥陀如来と二十五菩薩が現れるのを見たところから、紫雲山聖衆来迎寺と名付けたとされる。大永7年、真玄によって中興される。真玄は近江守護六角高頼の5男で、俗名を六角高信といったが、永正16年に出家して延暦寺の僧となった。

戒光山兼法勝西教寺

天台真盛宗 総本山

本尊は阿弥陀如来

びわ湖百八霊場11番・慈摂大師二十五霊場1番

聖徳太子が師である高麗の僧・慧慈、慧聡のために建立したとされる。また「真盛上人往生伝記」によれば、良源が当地に草庵を結んだことに始まり、その弟子である恵心僧都源信が伽藍を整備したされる。正中2年、円観が後醍醐天皇の勅許を得て再興。文明18年、慈摂大師真盛が入寺し戒称二門・不断念仏の根本道場として発展した。元亀2年、織田信長の比叡山焼き討ちにより焼失。復興には坂本城主となった明智光秀が積極的に援助し、明智一族の菩提寺となる。江戸時代は天台宗の山門執行代の管理下に置かれ、天台律宗と称したが、明治11年、別派独立が認められて天台宗真盛派となり、昭和21年天台真盛宗として独立。

比叡山延暦寺

天台宗 総本山

本尊は薬師如来

新西国三十三箇所18番(横川中堂)・西国薬師四十九霊場49番・播州薬師霊場特別札所・東海四十九薬師特別札所・西山国師遺跡霊場客番(文殊楼)・真盛上人二十五霊場3番(浄土院)

最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ、特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、「台密」と呼ばれた。延暦寺とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の東塔、西塔、横川などの区域に所在する150ほどの堂塔の総称である。延暦7年に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まり。数々の名僧を輩出し、円仁、円珍、良忍、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行している。

比叡山星峰稲荷社

天台宗

本尊は荼枳尼天

比叡山内にあり、荼枳尼天が白雪の神狐の姿で星峰に降り立ち、諸人の罪や穢れを払い福徳を施した事に由来する。

比叡山無動寺明王堂

天台宗

本尊は不動明王

近畿三十六不動尊26番

平安時代前期の貞観7年に天台宗の相応和尚によって建立。院政期に住持になった寛慶がその地位を高めて東塔から自立し、東塔・西塔・横川に匹敵する発言力を持った。寛慶は当時の天台座主仁豪の座主への権力集中に反対する勢力の中心となり、永久の強訴の際には清水寺破却に対する仁豪の責任を追及して延暦寺内で内紛を起こした。後に寛慶は天台座主に補された。寛慶の後を継いだ天台座主行玄は拠点を青蓮院に移し、後の青蓮院門跡のルーツとなった。千日回峰行の拠点として有名。

比叡山延暦寺塔頭正覚院

天台宗

本尊は厄除不動尊

東塔東谷において「灌頂」のあった場所。その跡地に延暦寺会館が建てられ、その前に正覚院に祀られていた不動尊を安置し旅行安全・厄難消除の不動尊として信仰されている。

比叡山律院

天台宗

本尊は釈迦如来

びわ湖百八霊場10番

天正11年玄俊の開創。比叡山横川の総里坊であった松禅院のあった場所に昭和24年、戦後初の千日回峰行者叡南祖賢が再興。寺号は祖賢が当時安楽律院の管領を務めていたことに由来する。

比叡山滋賀院(滋賀院門跡)

天台宗 寺本坊(総里坊)

本尊は薬師如来

びわ湖百八霊場9番

元和元年、江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天海が、後陽成天皇から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した。滋賀院の名は明暦元年、後水尾天皇から下賜されたものである。滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は明治11年の火災により焼失し、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建された。

比叡山生源寺

天台宗

本尊は十一面観世音菩薩

びわ湖百八霊場8番

最澄生誕の地とされ、奈良時代に最澄が両親報恩のために建立。山門の右手に伝教大師御産湯井の井戸跡が残されている。現在の本堂は安土桃山時代に詮舜により再建された。

日吉大社(山王権現)

祭神は大己貴神、大山咋神

日吉・日枝・山王神社 総本社

社格 式内社(名神大)、二十二社、官幣大社、別表神社

「古事記」に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見で、東本宮の祭神・大山咋神について記したもの。日枝の山とは比叡山のことで、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという。比叡山の地主神であるため、延暦寺の守護神として崇敬した。中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。織田信長の比叡山焼き討ちにより焼失。天正14年から再建されたもので、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した。

日吉東照宮

祭神は徳川家康

社格 日吉大社末社

天海により元和9年創建。創建時は延暦寺の末寺であったが、明治9年からは日吉大社の末社となり現在に至っている。寛永11年に本殿と拝殿を石の間で連結する権現造の様式で改築された。これは日光東照宮に先立ち、その原型になったとされている。漆塗り・極彩色の彫刻で装飾されている。

大乗峰伊吹山寺

天台宗

本尊は薬師如来

役行者霊蹟札所

仁寿年間に三修上人が開基。日本武尊が伊吹山の神を鎮定しようとしたところ、その化身である大蛇が現れ大氷雨を降らせ、これがもとで日本武尊が亡くなったとされ、役行者が修行した、行基菩薩が行座したという記述もある。熊野詣の先達を務めるほど栄えた伊吹山修験道も明治以降衰退したが、東雲寺(東浅井郡びわ町)住職の吉田慈敬師が、昭和60年伊吹山のふもとに伊吹山寺を再建、八合目の行道岩の近くに行者堂を建設、山頂に覚心堂を完成させた。同時にかつての修行霊場約280ヵ所を掘り起こし、ふもとから頂上まで往復28㎞の回峰コースを整備した。

姨綺耶山長命寺

天台宗

本尊は千手十一面聖観世音菩薩

西国三十三箇所31番、聖徳太子霊跡35番、近江西国三十三箇所21番、びわ湖百八霊場72番、江州三十三観音28番、近江七福神(毘沙門天)

伝承によれば、景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願し300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子が、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見した時、白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げられ、十一面観音を彫りこの地に安置した。宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。

慈雲山向源寺(渡岸寺観音堂)

浄土真宗大谷派

本尊は阿弥陀如来

寺伝によれば、天平8年、都に疱瘡が流行したので、聖武天皇は泰澄に除災祈祷を命じたという。泰澄は十一面観世音を彫り、光眼寺を建立し息災延命、万民豊楽の祈祷を行い、その後憂いは絶たれたという。その後病除けの霊験あらたかな観音像として、信仰されるようになった。延暦9年、比叡山延暦寺の開祖である最澄が、勅を奉じて七堂伽藍を建立したという。元亀元年、浅井・織田の戦火のために堂宇は焼失した。しかし観音を篤く信仰する住職巧円や近隣の住民は、観世音を土中に埋蔵して難を逃れたという。この後巧円は浄土真宗に改宗し、光眼寺を廃寺とし、向源寺を建立した。

石立山宝光院大崎寺

真言宗智山派

本尊は十一面千手観世音菩薩

近江西国三十三箇所9番、びわ湖百八霊場25番、西近江七福神(毘沙門天)

元は奈良の興福寺の末寺で僧坊三十九院を有する大寺院であったが鎌倉時代以降荒廃した。天文5年、法印が中興しそれ以来真言宗となった。豊臣秀吉が諸国仏閣復興のとき、安土城の残材を用いて修復を行った際、血痕の残る天井板を使用した事から「安土の血天井」として知られている。

日牟禮八幡宮

祭神は誉田別尊、息長足姫尊、比賣神

社格 県社・別表神社

成務天皇元年、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神(大国主神)を祀ったのが草創とされている。応神天皇6年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所を設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。天正13年に豊臣秀次が八幡山城を築城するため、上の八幡宮を下の社に合祀した。慶長5年9月18日、徳川家康が関ヶ原の戦い後に武運長久の祈願を込めて参詣した。

村雲御所瑞龍寺門跡

日蓮宗 本山、門跡寺院

本尊は三宝尊

びわ湖百八霊場73番

豊臣秀吉の姉の智は豊臣秀吉に、長男の秀次を養子として出したが文禄4年、秀吉と対立し蟄居先の高野山で自害した。その後、秀次の妻子は三条河原で処刑され、智の夫であり秀次の実父である三好吉房も流刑となった。唯一残された智は処刑された子や孫の菩提を弔うために出家し、文禄5年、話を聞いた後陽成天皇より嵯峨の村雲(現・二尊院の北側)の寺地と「瑞龍寺」の寺号・寺領1000石・菊紋・紫衣を賜って創建された。昭和36年、11世・日浄尼の代に京都堀川今出川から秀次ゆかりの八幡山城の跡地に寺地を移した。

金亀山北野寺(彦根寺)

真言宗豊山派

本尊は聖観世音菩薩

びわ湖百八霊場58番、近江湖東二十七名刹霊場5番、近江西国三十三箇所14番

創建は奈良時代の養老4年、元正天皇の勅願により藤原房前が護命上人を招いて開いたのが始まり。当初は彦根寺と称し金亀山山頂付近にあったとされ、霊験が高く数多くの皇室や公家をはじめ近畿内の善男善女が参拝に訪れ参道は巡礼街道と呼ばれていた。慶長8年、彦根城を築城の際、現在地に移され寺号を北野寺に改称、以来、彦根藩歴代藩主の祈願寺として庇護された。寺号は井伊家の旧領だった上州高崎城主時代に、強い繋がりがあった北野寺(群馬県高崎市)に起因し、隣地には神仏習合した北野神社が創建された。

天満宮北野神社

祭神は菅原道真

社格 県社

創祀は、元和6年、彦根藩主井伊直孝が、幼時尊崇した上野国碓氷郡後閑村北野寺鎮座の天満宮を勧請し、古来からあった彦根寺を北野寺と改めて別当寺となし、藩主の祈願社として105石十人扶持を給したのにはじまる。社殿の修理、祭儀の費用はすべて藩費によって支弁された彦根藩主の崇敬篤く、社参、寄進等もしばしば行なわれた。寛政7年、社殿焼失。その後井伊直中により再建。明治元年北野神社と称し北野寺と境内を分割し、彦根市西部地域の氏神となる。

滋賀県護国神社

祭神は明治戊辰役以来滋賀縣出身の戦没者英霊

社格 護国神社・別表神社

明治2年、彦根の大洞龍潭寺に戊辰戦争で戦死した彦根藩士26人の霊を祀る招魂碑が建てられたのが始まり。明治8年、元彦根藩主井伊直憲の主唱により招魂碑を神社に改造する旨の政府の通達が出され、招魂碑を現在地に移し、明治9年、同地に社殿を造営・鎮座した。昭和14年に内務大臣指定護国神社として滋賀県護國神社に改称した。太平洋戦争後の占領期に沙々那美神社と改称し、日本が主権を回復した昭和28年10月に元の社名に復した。

弘誓山天白院宗安寺(赤門)

浄土宗

本尊は阿弥陀如来

開山は成誉典応。彦根初代藩主井伊直政の正室東梅院を開基。天正18年、直政が箕輪城主になると東梅院が両親の菩提を弔う為、箕輪安国寺を光誉上人を招いて中興開山した。直政が高崎城主になると高崎に移り、慶長5年より佐和山へ移封されたとき、高崎安国寺から別れて慶長6年に佐和山麓に建立。彦根城下町形成時に、現在地へ移転。彦根藩の徳川家康位牌奉安所、朝鮮通信使正使宿泊所となる。元禄14年、彦根大火により赤門を除いて全焼。以後順次復興される。

真浄山大師寺

真言宗東寺派

本尊は弘法大師

昭和6年に開山真浄法尼が一人の僧に草鞋代を喜捨した不思議な霊験を授かったことに始まり、92歳で入寂するまで多くの衆生済度の修行を実践された。彦根における弘法大師信仰の発祥の寺院。寝弘法さんが安置されており、真浄法尼が横たわり仮死状態になって弘法大師様のご託宣をお聞きになったという逸話から作られた。

萬年山天寧禅寺

曹洞宗

本尊は釈迦如来

びわ湖百八霊場59番、近江七福神(布袋尊)、近江湖東二十七名刹霊場6番

文政2年(1819年)、彦根城下・上藪下の宗徳寺が移転し、文政5年(1822年)頃、寺号を変えて成立した。移転以前の文化8年(1811年)に本堂が、その後、文政11年(1828年)に羅漢堂(仏堂)が建てられた。11代藩主井伊直中が、宗徳寺移転と堂宇建設を行った。伝承によると、腰元の若竹が不義の子を妊娠したとの風評を耳にしたため藩の法度として死罪に処したところ、不義の相手が長子の井伊直清だったことが判明し、母子の追善供養のため寂室堅光に相談して造らせたという。井伊直弼が暗殺された時に使用していた、駕籠敷物も所蔵している。

高宮神社

祭神は天津日高日子番能邇邇芸命、木花之佐久夜毘賣命

社格 郷社

創立祀代不詳。社伝によると、鎌倉末期といわれる。寛政年中の「中山道分間延絵図」に「山王」と記載されており、『近江輿地志略』には「山王権現社、同所にあり祭神日吉大比叡神、祭禮毎年三月十日」と記されている。古くは十禅師宮又は山王権現と称していた日吉社領に起因するものである。明治5年に村名により高宮神社と改称された。木花佐久夜毘賣は、彦根市高宮町御旅所に鎮座してあった御幸神社の祭神であり、明治41年11月5日に高宮神社に合祀した。

多賀大社

祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命

社格 式内社(小)、官幣大社、別表神社

創建不詳。古事記以前の時代、一帯を支配した豪族犬上氏の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、日本武尊の子の稲依別王の後裔とされ、飛鳥時代の遣隋使・遣唐使として知られる犬上御田鍬にはじまり、多賀社がある犬上郡の名祖とされる。藤原忠平らによって延長5年に編まれた『延喜式神名帳』では、「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。明応3年には神仏習合が進み、神宮寺として天台宗の不動院が近江守護六角高頼によって建立された。天正16年には、豊臣秀吉が大政所の延命を祈願し、成就したため、社殿の改修を行わせようと大名に与えるに等しい米1万石を奉納した。境内正面の石造りの太鼓橋は「太閤橋」とも呼ばれる。

龍應山西明寺(池寺)

天台宗

本尊は薬師如来

びわ湖百八霊場61番、近江湖東二十七名刹霊場8番、西国薬師四十九霊場32番、湖東三山

寺伝によれば平安時代初期三修上人の創建という。三修上人は、修験道の霊山として知られる伊吹山の開山上人と伝えられる半ば伝説化した行者である。伝承によれば承和元年、琵琶湖の西岸にいた三修は、湖の対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て不思議に思った。そこで神通力を用いて一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、今の西明寺のある山の中の池から紫の光がさしていた。三修がその池に祈念すると、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が出現したという。三修に帰依していた仁明天皇はこの話を聞くと、その地に勅願寺として寺を建立するように命じた。そして三修はそれらの像の姿を刻んで祀った、承和3年には仁明天皇により寺領が寄進され、西明寺の寺号は前述の紫の光が西の方へさしていたことによる。

松峯山金剛輪寺(松尾寺)

天台宗

本尊は聖観音菩薩

びわ湖百八霊場63番、近江湖東二十七名刹霊場10番、湖国十一面観音霊場11番、近江西国三十三箇所15番、湖東三山

寺伝によれば聖武天皇の勅願で行基の開創。創建は天平9年または天平13年と伝える。平安時代前期の嘉承年間には慈覚大師によって再興された。本堂は、元寇の戦勝記念として近江守護佐々木頼綱(六角頼綱)によって建立された。本堂の須弥壇金具には弘安11年の銘が残っている。現存する本堂は南北朝時代に再興されたものとみられる。天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受ける。

阿都山葛川寺息障明王院(葛川息障明王院、葛川寺)

天台宗

本尊は千手観音菩薩

近畿三十六不動尊27番、びわ湖百八霊場18番

開山は相応和尚。貞観元年(859年)に相応和尚が開いた修行道場。相応は天台座主を務めた円仁(慈覚大師)の弟子で、はじめ比叡山延暦寺東塔の南に位置する無動寺に住したが、修行に適した静寂の地を求めて当地に移った。本尊の千手観音像と脇侍の毘沙門天像、不動明王像は平安時代・院政期(12世紀)の作とされる。現存する本堂は江戸時代の建築だが、保存修理工事の結果、平安末期に建立された前身堂の部材が一部転用されていることが判明した。境内発掘調査の結果等から、平安末期には現状に近い寺観が整っていたと推定される。