奈良県

安倍山文殊院

華厳宗

本尊は文殊菩薩

大和ぼけ封じ霊場・大和十三仏霊場3番・大和七福神(弁財天)

安倍倉梯麻呂の氏寺として建立されたという。創建当時の寺地は現在の文殊院の西南のところにあり、鎌倉時代に現在地に移された。安倍寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置をもっていたことがわかり、出土した古瓦の様式年代からも創建が7世紀にさかのぼる寺院跡であると見られる。「東大寺要録」巻6には、東大寺の末寺の1つである「崇敬寺」が安倍倉梯麻呂の建立であることと、「崇敬寺」の別名が「安倍寺」であったことが記載されている。

生駒山宝山寺(生駒聖天)

真言律宗大本山

本尊は不動明王

仏塔古寺十八尊15番・真言宗十八本山13番・大和十三仏霊場1番・近畿三十六不動尊29番・西国愛染十七霊場14番・役行者霊蹟札所

斉明天皇元年に役行者が開いたとされる修験道場で、空海も修行したと伝わる。当時は都史陀山大聖無動寺という名であった。江戸時代の延宝6年に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。皇室や徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。

率川神社(子守明神)

祭神は、神媛蹈鞴五十鈴姫命・玉櫛姫命・狭井大神

社格 大神神社摂社

率川神社は、推古天皇の勅命により593年に大三輪君白堤が神武天皇の皇后をお祀りするために創建した奈良市で最古の神社である。この神社は3つの社が並んでおり、左から父神(狭井大神)、姫神(媛蹈鞴五十鈴姫命)、母神(玉櫛姫命)と子供を見守るように並んでいることから子守明神とよばれ、安産、育児、息災延命の神として有名。毎年6月17日にはの三枝祭が行われ、参拝者でにぎわう。

一乗菩提峰大峯山寺

修験道

本尊は金剛蔵王権現

役行者霊蹟札所

7世紀末に修験道の祖である役小角が、金峯山で感得した蔵王権現を刻んで本尊とし、蔵王堂を建てたとされる。その後、天平年間に行基が大改築を行い、参詣困難な山頂の蔵王堂に代わって山下にも蔵王堂(吉野・金峯山寺)を建てたとする。平安時代初期には一時衰退したが、9世紀末に真言宗の理源大師によって再興され、10世紀以降、皇族・貴族の参詣が相次いだ。戦国時代には一向宗と争って山上の本堂などを焼失するが、江戸時代になって再建された。

大神神社

祭神は、大物主大神・大己貴神・少彦名

社格 式内社(名神大)・大和国一宮二十二社・官幣大社・別表神社・大和七福神(三輪明神)・大和三社

崇神7年に天皇が物部連の祖伊香色雄に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。朝廷から厚く信仰され、貞観元年、神階は最高位の正一位となる。延喜式神名帳では名神大社に列し、摂末社の多くも記載されている。また、能「三輪」では終りの部分の歌に「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更、なんと、いわくら(磐座)や」との言葉があり、伊勢神宮との関係が深い。

三輪山平等寺(三輪別所)

曹洞宗

本尊は十一面観世音菩薩

大和北部八十八ヶ所霊場81番

聖徳太子の開基、慶円の中興とされている。慶円によって、三輪神社の傍らに真言灌頂の道場が建立され、その道場が「三輪別所」であった。鎌倉末期から明治の廃仏毀釈までは、三輪明神の別当寺であった。

春日大社

祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神

社格 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・勅祭社・別表神社

春日大社は、平城京の守護の為に創建された御社で、和銅3年に藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。神護景雲2年に称徳天皇の勅命で藤原永手らが神殿を創設し、第一殿は鹿島神宮から、第二殿は香取神宮、第三、四殿は枚岡神社から、春日へ迎えられた神々を祀っている。神紋は下がり藤。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされる。そのため、周辺の奈良公園、若草山には鹿が多く、奈良の代表的な動物となった。

元興寺

真言律宗

本尊は智光曼荼羅

南都七大寺・西国薬師四十九霊場5番

元興寺は、南都七大寺の1つで、元は蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった。ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、現在の飛鳥寺となっている。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退した。

漢國神社

祭神は、園神・韓神・大物主命・大己貴命・少彦名命

社格 式内社・元県社

推古天皇元年、勅命により大神君白堤が園神を祀ったのに始まり、養老元年、藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になった。貞観元年、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の守護神としたとされる。境内社の林神社は、林浄因命を祀り、日本唯一の饅頭の神社として製菓業者の信仰を集めている。林浄因は現在の中国・浙江省杭州市出身で、貞和5年に来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという。

久延彦神社

祭神は、久延毘古命

社格 大神神社摂社

祭神の久延毘古命は、居ながらにして世の中の事をことごとく知る「智恵の神、学問芸能、頭の神」である。「古事記」の大国主命の国作り神話では案山子のことで、「久延毘古は、山田之曾富騰(やまだのそほど)という者なり。この神は足は行(ある)かねども、天下(あめのした)の事を盡(ことごと)に知れる神になもありけり」とある。大神神社の祭神・大物主大神、少彦名大神と同時に出現し祀られている。

 

高円山白毫寺

真言律宗

本尊は阿弥陀如来

天智天皇の皇子である志貴親王の山荘跡だったものを勤操により石淵寺の名で開基される。鎌倉時代に西大寺の叡尊によって再興され一切経寺とも呼ばれて繁栄したが、その後兵火で建物が消失。寛永期に興福寺の空慶により復興する。

入り口石畳の両脇に植えられた萩と、境内にある一本の木に様々な色の花がさく五色椿が有名。

興福寺

法相宗大本山

本尊は釈迦如来

南都七大寺・西国三十三箇所9番・西国薬師四十九霊場4番

興福寺の前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となる。山階寺は、天智8年に藤原鎌足が病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われている。その後、壬申の乱ののち、山階寺も移建され平城遷都の際、和銅3年藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられた。

狭井神社(花鎮社)

祭神は、大神荒魂神、大物主神、媛蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多々良姫命、事代主神

社格 大神神社摂社

鎮花祭(はなしずめまつり)が行われる神社として昔から有名であり、「花鎮社」ともいう。鎮花祭りは、俗に「くすりまつり」ともいい、毎年4月18日に大神神社とこの狭井神社で執り行われる重要な祭りで、その起源は崇神天皇のとき、全国に疫病が流行したが大田田根子を召して祭神の大物主神を祭ったところ疫病が止んだことにあるという。また、拝殿の左後ろに、神水の井戸・狭井があり、ここから湧き出る水は昔から「薬水」と呼ばれ、いろいろな病気が治るという。

信貴山朝護孫子寺

信貴山真言宗総本山

本尊は毘沙門天

真言宗十八本山14番・聖徳太子霊跡20番・役行者霊蹟札所・大和十三仏霊場11番(玉蔵院)・大和七福神(毘沙門天)

聖徳太子を開基とする伝承があり、物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、自ら四天王の像を刻んだという伝承による。伝承では、毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、推古2年に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信貴山」と名付けたとする。また『扶桑略記』によると、延長8年「河内国志貴山寺住」の「沙弥命蓮」が醍醐天皇の病気平癒のため祈祷を行ったことが見える。国宝『信貴山縁起絵巻』は、この信貴山で修行していた命蓮の奇跡譚が中心主題となっている。

勝宝山四王院西大寺

真言律宗総本山

本尊は釈迦如来

真言宗十八本山15番・大和十三佛霊場2番・南都七大寺・西国愛染十七霊場13番

西大寺は、天平神護元年に称徳天皇の勅願により創建。平安時代に入って一時衰退したが、叡尊により復興した。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多く、その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力した。

手向山八幡宮

祭神は応神天皇・姫大神・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇

社格 県社

社伝によると、天平勝宝元年、東大寺及び大仏を建立するにあたって、金と銅が不足していたところ、宇佐八幡宮が宣託があった事で九州から銅が、東北から金が集まったことで大仏の建立に至った。このことから宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。これは八幡宮からの分社では第一号である。最初、平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年の平重衡による戦火で焼失、建長2年に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とされる梨原宮の所在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園がその跡である。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の際に東大寺から独立した。

東光山龍蓋寺(岡寺)

真言宗豊山派

本尊は如意輪観音菩薩

西国三十三箇所7番

草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。寺の西に隣接する治田神社境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。現在は真言宗豊山派の寺院だが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺であった。江戸時代以降は長谷寺の末寺となった。

東大寺(金光明四天王護国之寺)

華厳宗大本山

本尊は盧舎那仏

南都七大寺・法然上人二十五霊跡11番

天平5年、若草山麓に創建された金鐘寺が東大寺の起源であるとされる。聖武天皇が国力を尽くして建立し、大仏(盧舎那仏)を本尊とした。初代別当は、良弁僧正である。中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。特に松永弾正による大仏炎上は有名である。その結果、現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみである。現在の大仏殿は18世紀初頭に、公慶上人や、徳川綱吉や桂昌院などの寄進により再建されたもので、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。日本が誇る世界遺産である。季節に応じて様々な表情のある寺院でもあり、いつ訪ねても素晴らしい。

鳥形山安居院(飛鳥寺、法興寺、元興寺)

真言宗豊山派

本尊は釈迦如来(飛鳥大仏)

新西国三十三箇所9番

蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身。『日本書紀』によると、蘇我馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い無事に勝利したので、飛鳥の真神原の地に寺を建てることにしたという。大化の改新後も内外の信仰を集め、天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ四大寺の一とされて朝廷の保護を受けるようになった。

南都御霊神社

祭神は井上皇后・他戸親王・早良親王・藤原広嗣・藤原大夫人・伊豫親王・橘逸勢・文屋宮田麿・事代主命

『奈良坊目拙解』によると西紀寺町の祟道天皇社とともに南都二大御霊社とされた。元興寺南大門前にあったといわれ、門前を井上町という。桓武天皇の御代、延暦19年に宇智郡霊安寺から勧請したもので、御霊会が執り行われていた。宝徳3年10月20日元興寺金堂以下火災のため、廃亡してしまった。ようやく大塔・観音堂が遺存したので、御霊神社も現在の地に遷宮されたという。本殿に祀られている井上皇后、他戸親王は、桓武天皇が即位するにあたって、邪魔になった先代の光仁天皇の后とその皇子である。祟りを恐れて祀ったのは明白である。

日輪山新薬師寺

本尊は薬師如来

南都十大寺・西国薬師四十九霊場6番

『東大寺要録』によると、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して天平19年に建立し、七仏薬師像を安置したとされる。創建時には金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、次第に衰退した。現在の本堂は奈良時代の建築だが、本来の金堂ではなく、他の堂を転用したものである。本尊の薬師如来像も様式・技法上、創建時まではさかのぼらず、8世紀末頃の制作と見られている。鎌倉時代には華厳宗中興の祖である明恵上人が一時入寺し、復興に努めた。

国宝の十二神将像は迫力があり、必見の価値がある。

檜原神社(元伊勢、豊鍬入姫宮)

祭神は、伊弉諾尊・伊弉册尊・豊鍬入姫命

社格 大神神社摂社

祟神6年にはじめて皇祖天照大神(八咫鏡)を宮中からうつして豊鍬入姫命が奉侍し「倭笠縫邑」また「磯城神籬」と呼ばれた。皇大神の伊勢御遷幸の後も、その跡を尊崇して、元伊勢の信仰を今日に伝える。とくに檜原神社は日原社とも書かれ古くから重視された。

仏頭山上宮皇院菩提寺(橘寺)

天台宗

本尊は如意輪観音・聖徳太子

新西国三十三箇所10番・聖徳太子霊跡8番

聖徳太子建立七大寺の1つで、太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。発掘調査の結果、当初の建物は、四天王寺式伽藍配置の壮大なものだった事が判明している。皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰えている。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。

法興山中宮寺

聖徳宗

本尊は如意輪観音

聖徳太子霊跡15番

当初は現在地の東にあったが門跡寺院となった16世紀末頃に移転したとされる。創建は法隆寺と同じ頃と推定され、天平19年の「法隆寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」には、「聖徳太子建立七寺」の一とされるが、確証はない。「聖徳太子伝暦」は、聖徳太子が母・穴穂部間人皇女の宮殿を寺としたと伝え、鎌倉時代の顕真の「聖徳太子伝私記」裏書に、「葦垣宮、岡本宮、鵤宮の3つの宮の中にあった宮なので中宮といい、それを寺にした時に中宮寺と号した」との説が記載されている。鎌倉時代、中興の祖とされる信如によって復興が図られた。慶長7年、慈覚院宮を初代門跡に迎え、以後門跡尼寺として今日に至っている。

法隆寺

聖徳宗総本山

本尊は釈迦如来

南都七大寺・聖徳太子霊跡14番

聖徳太子ゆかりの寺院で、創建は四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコ世界遺産に登録された。寺宝には国宝も多く、建築物だけでなく仏像や御物に見るべきものが多い。

豊山神楽院長谷寺(花の御寺)

真言宗豊山派総本山

本尊は十一面観世音菩薩

西国三十三所8番・真言宗十八本山16番

朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘に三重塔を建立、続いて神亀4年、僧の徳道が東の丘に本尊十一面観音像を祀って開山したという。承和14年に定額寺に列せられ、天安2年に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年、豊臣秀吉により根来寺を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。

長谷寺塔頭開山坊法起院

真言宗豊山派

本尊は徳道上人

西国三十三所番外

天平7年に西国三十三所を創始したと伝えられている徳道がこの地で隠棲した事に始まり、徳道は晩年、境内の松の木に登り法起菩薩となって遷化したと言われることから、この名称となった。境内には徳道の廟と伝えられる十三重石塔がある。元禄8年、長谷寺化主の英岳僧正が寺院を再建し、長谷寺開山堂とした。

長谷寺塔頭能満院

真言宗豊山派

本尊は日限地蔵尊

正徳3年に林諦房宥仲と全雅房寛海により創建。求聞持堂と称する長谷寺の仏堂の一つであったが衰退し、文化7年に再建され、その後、能満院中興一世の海如により地蔵堂が建立された。

楊柳山大野寺

真言宗室生寺派

本尊は弥勒菩薩

大和北部八十八ヶ所霊場66番・役行者霊蹟札所

白鳳9年(681年)、役小角によって草創され、天長元年に空海が堂を建立して「慈尊院弥勒寺」と称したという。近くにある室生寺は興福寺系の僧によって創建・整備されており、大野寺の磨崖仏造立にも興福寺の僧が関係していることから見て、興福寺と関係の深い寺院であったと考えられている。宇陀川をはさんだ対岸にある弥勒磨崖仏は、「石仏縁起」や「興福寺別当次第」によれば、興福寺の僧・雅縁の発願により、承元元年から制作が開始され、同3年に後鳥羽上皇臨席のもと開眼供養が行われたものである。

宀一山室生寺(女人高野)

真言宗室生寺派大本山

本尊は釈迦如来

仏塔古寺十八尊18番・西国薬師四十九霊場8番・役行者霊蹟札所

天武天皇9年、役小角の草創、空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、奈良時代最末期の草創と思われる。宝亀年間、山部親王の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧・賢憬が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、元禄11年、興福寺の法相宗から独立して、真言宗寺院となった。女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、近世には徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている。その後、真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。

與喜天満神社

祭神は菅原道真、天照大神、大倉姫神

社格 郷社・菅公聖蹟二十五拝6番

創祀は鎌倉初期と伝わり、倭姫命世記に載っている伊豆加志本宮に比定される。明治はじめの神仏分離で長谷寺境内の滝倉三社権現他を遷座。社殿は文化15年の再建。「長谷寺霊験記」によると、天慶9年、天満天神の化身神殿太夫武麿が長谷の滝蔵社・観音堂などに参詣したところ、滝蔵権現が、伽藍の守護を天満天神に譲り、東の峯は、断惑修善に良き地なのでその峯に住むように命じたため、天神は雷神となって降臨し、与喜大明神と称したという。

霊禅山東塔院久米寺

真言宗御室派

本尊は薬師如来

仏塔古寺十八尊9番・西国薬師四十九霊場7番・聖徳太子霊跡32番・大和北部八十八ヶ所霊場88番

開基は聖徳太子の弟・来目皇子とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明である。空海が真言宗を開く端緒を得た寺として知られる。創建の正確な事情は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた久米部の氏寺として創建されたとする説が有力である。境内には古い塔の礎石があり、境内から出土する瓦の様式から見ても、創建は奈良時代前期にさかのぼると思われる。空海はこの寺の塔において真言宗の根本経典の1つである『大日経』を発見したとされている。空海が撰文した「益田池碑銘并序」には、「来眼精舎」として言及されている。

壺阪山南法華寺(壺阪寺)

真言宗

本尊は十一面千手観世音菩薩

西国三十三所6番

伝承によれば大宝3年に元興寺の弁基上人により開かれたとされる。京都の清水寺の北法華寺に対し南法華寺といい、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた。本尊十一面観音は眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の舞台としても有名。

二上山禅林寺當麻寺

高野山真言宗・浄土宗

本尊は当麻曼荼羅・弥勒仏

新西国三十三箇所11番・関西花の寺二十五霊場21番・仏塔古寺十八尊8番・大和十三仏霊場6番・法然上人二十五霊跡9番

縁起によれば、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見が天武天皇9年に遷造したものだという。この場所は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたとされる。中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅の寺として知られるようになる。

橿原神宮

祭神は神武天皇、媛蹈韛五十鈴媛命

社格 官幣大社・勅祭社・別表神社・大和三社

神武天皇が国内を統一し畝傍山の東南・橿原の地に皇居を造られ、即位の礼が行われた。明治時代に入り、天皇の御聖徳を永遠に尊び敬いたいという思いから、この地に神宮創建をという請願が民間有志より出された。明治天皇がこれを深くほめたたえ、元京都御所の賢所かしこどころと神嘉殿を下げ渡され、明治23年4月、官幣大社として創建された。

秋篠寺

単立

本尊は薬師如来

奈良時代、善珠の創建とされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。文献上の初見は『続日本紀』に宝亀11年、光仁天皇が秋篠寺に食封一百戸を施入したとあるもので、この年以前の創建であることがわかる。『日本後紀』によれば、延暦25年に崩御した桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、天皇家とも関連の深い寺院であったことがわかる。

篠尾山常光寺

単立

本尊は不動明王

大和北部八十八ヶ所霊場23番

創建年・開基ともに不明であるが、もともと小庵で、延宝元年に現在地に移された。明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となり、昭和27年に再興された。

唐招提寺

律宗総本山

本尊は盧舎那仏

大和北部八十八ヶ所霊場26番

唐の鑑真によって天平宝字3年に建立。鑑真は揚州大明寺の僧で741年55歳のとき、戒律を伝えるため日本に渡ることを決意。五回も渡航に失敗、両眼とも失明したが、六度目にやっと日本の土をふみ、天平勝宝6年に奈良に着く。東大寺に戒壇を設け、聖武天皇以下400余人に戒律を授け、西ノ京にこの寺を建立。鎌倉時代に覚盛が律宗の拠点として復興した。1275年には講堂の修理を行う。享和2年、雷火にあって五重塔を焼失。

唐招提寺西方院

律宗

本尊は阿弥陀如来

大和北部八十八ヶ所霊場27番

鎌倉時代、寛元年間の頃に、唐招提寺中興の祖・覚盛や西大寺中興の祖で真言律宗開祖・叡尊らと共に戒律を学んだ有厳によって創建されたと伝えられる。木造阿弥陀如来立像は快慶の晩年の作。

薬師寺

法相宗大本山

本尊は薬師三尊

西国薬師四十九霊場1番・南都七大寺・大和北部八十八ヶ所霊場49番

天武天皇の発願により持統天皇によって藤原京に建てられた。養老2年、平城京に移され、もとの薬師寺にならって造営され、東塔は、天平2年に建てられた。伽藍はその調和のとれた美しさが「竜宮城を写した」とたたえられた。天延元年、食殿から出火し金堂・東西両塔以外のほとんどの堂舎が焼失。鎌倉時代に東院堂も建てられた。享禄元年、兵火で焼失、天文14年仮金堂が建てられ、嘉永5年には仮講堂建築。昭和46年から復原工事が開始し、金堂・西塔・中門・回廊が完成、現在講堂の工事が進行中。

薬師寺休ケ岡八幡宮

祭神は誉田別命、息長足姫命、仲日売命

社格 村社

休ケ岡八幡宮創建の150年前の749年に、東大寺の手向山八幡宮に宇佐の八幡神を分霊した時に薬師寺門前で一泊したのが休ケ岡の地名の由来。その後寛平年間に薬師寺別当栄紹によって大分県宇佐から薬師寺の鎮守社として現在地に勧請された。現存の社殿は慶長元年に豊臣秀頼が寄進したもので、社殿は全体に西面し、本殿・脇殿とも小高い石積みの壇上に建っている。

 

孫太郎稲荷神社

祭神は宇迦之御魂神

社格 不明 

平安中期に藤原頼行が佐野・唐沢山上に創建後、分霊が播磨・姫路城下に奉祀され、江戸初期に京都刀商・山上小鍛冶の仲介により当地に遷座した。休ケ岡八幡宮の末社。

菅原天満宮(菅原神社)

祭神は天穂日命、野見宿祢命、菅原道真

社格 式内社(小)、郷社

創建不詳。菅原の地を本貫とする土師氏支族(のちの菅原氏)が、その祖神を祀ったことに始まる。延長5年の「延喜式」神名帳では大和国添下郡に「菅原神社」と記載され、式内社に列する。社伝では、文亀年間に社殿が兵火にかかったほか、元禄年間にも火災にかかり、寛保年間に一乗院宮真敬法親王の命によって再建されたという。

清涼山喜光寺(菅原寺)

法相宗 薬師寺別格本山

本尊は阿弥陀如来

大和北部八十八ヶ所霊場25番

養老5年、寺史乙丸という者の旧邸宅の寄進を受け、行基が創建。寺史乙丸は菅原氏の祖先で、喜光寺の一帯は古くから菅原氏の支配する地域であった。菅原氏とは垂仁天皇の時、土師臣の姓を受けた名族から分立した氏族で、有名な菅原道真はこの氏族の出身である。喜光寺は行基が入寂した寺で、続日本紀に記載されている行基建立四十九寺の一つである。

金峯神社

祭神は金山毘古命

社格 式内社(名神大)、郷社

創建不詳。吉野山最奥の青根ヶ峰のそばにあり、吉野山の地主神を祭る。「栄花物語」には藤原道長が詣でたことが記されている。明治以前の神仏習合時代には「金精明神」と呼ばれ、本地仏は阿閦如来、釈迦如来、大日如来(金剛界)とされていた。金精の名は金峯山は黄金を蔵する山という信仰があったことが背景にあると思われる。

 

吉野水分神社

祭神は天之水分大神

社格 式内社(大)、村社

創建不詳。「続日本紀」の文武天皇2年4月29日条で、芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述がある。元来は吉野山の最奥部にある青根ヶ峰に位置したとされる。青根ヶ峰は吉野川の支流である音無川が東へ、喜佐谷川が北へ、秋野川が西へ流れるなどの源流となる山で「水分 = 水配り」の神の鎮座地にふさわしい。大同元年ごろに現在地へ遷座した。延喜式神名帳では「大和国吉野郡 吉野水分神社」として記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。前防家が社家。平安時代中期ごろから「子守明神」と呼ばれるようになった。豊臣秀吉もこの地を訪れ秀頼を授かったといわれる。現在の社殿は慶長10年に秀頼によって創建されたものである。作事の奉行を務めたのは建部光重。

井光山善福寺

高野山真言宗

本尊は薬師瑠璃光如来

役行者霊蹟札所

創建は白鳳時代とされ、役行者の開基。平安初期には空海が大峯山で修行中、この地で休息をとったと伝えられている。神武天皇が東征したおり、八咫烏と吉野の首長であった井光大神がその道案内を勤めた、という伝説があり、その井光大神の住居があったとされる地に、建立された。

常楽山竹林院

単立

本尊は不動明王、蔵王権現、役行者、弘法大師

役行者霊蹟札所

聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810年~824年)空海が入り常泉寺と称したという至徳2年に竹林院と改められた。戦国時代の院主尊祐は弓道に優れ一派をなした。明治初年の神仏分離に伴い明治7年に廃寺となったが、その後天台宗の寺院として復興、第二次世界大戦後の昭和23年、現在の修験道系統の単立寺院となった。

井光山櫻本坊

金峯山修験本宗 別格本山

本尊は神変大菩薩

役行者霊蹟札所

天智天皇から逃れた弟の大海人皇子は、「桜本坊」の前身である日雄離宮にとどまっていたところ、ある冬の日に桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟の日雄角乗に訊ねたところ、「桜の花は花の王と云われ、近々皇位に着くよい知らせです」と答えた。その後、壬申の乱に勝利し皇位に着いた天武天皇は、日雄離宮に寺を建立したとされる。文禄3年に行われた豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となった。もとは金峯山寺の蔵王堂の前に在って密乗院と称していたが、明治初年の神仏分離の際に櫻本坊と改称された。

護法山喜蔵院

本山修験宗 別格本山

本尊は役行者

役行者霊蹟札所

大峯山の特別関係寺院の1つ護持院で、開祖は役行者と伝わる。平安時代初期の承和年間、三井寺を開いた智証大師円珍が大峯山入峰に際して、一宇のお堂を建てたのが、現在の喜蔵院の始まりとされる。現在は本山修験宗聖護院門跡寺院として、本山修験の到着所となっており、江戸時代の聖護院門跡が入峰際しての記録も残っており、大峯修験史の貴重な記録となっている。寛文年間、儒者熊沢蕃山が、由井正雪の慶安の変に関係があたっとして、幕府に忌まれて明石、大和郡山と移り住み、1年あまり、ここへ身を隠していたことがある。

国軸山金峯山寺

金峯山修験本宗 総本山

本尊は蔵王権現

役行者霊蹟札所、菅公聖蹟二十五拝7番(威徳天満宮)

金峯山とは、吉野山から大峯山山上ヶ岳にかけての連山の総称で、古代より広く知られた聖域。白鳳時代に金峯山にて修行していた役行者は、金剛蔵王権現を感得し、この姿を桜の木に刻んで、山上ヶ岳と吉野山に祀られたのが金峯山寺の草創と伝えられる。威徳天満宮は平安時代の天徳3年に鎮座し、椿山寺(竹林院の前身)で出家した日蔵道賢が修行中に仮死し醍醐天皇の霊と出会い、菅原道真を祀るようお告げを受けたことから、吉野山へ帰り、当宮を創建。

金峯山寺塔頭龍王院(脳天大神)

金峯山修験本宗

本尊は脳天大神(蔵王権現)

金峯山寺の五條覚澄大僧正がお瀧のある修行の場所を探した際、頭を割られた蛇に遭遇され、それを哀れに思い経文を唱え葬ったところ、その蛇が何度も夢枕に立ち「頭の守護神として祀られたし」と云う霊言を得る。同時期に蔵王権現様から「諸法神事妙行得菩薩」と云う御霊言も授かる。その後、昭和26年に現在の場所で祀る。

吉水神社

祭神は後醍醐天皇、楠木正成、吉水院宗信法印

社格 村社

役行者霊蹟札所

白鳳年間に役行者により金峯山寺の僧坊の吉水院として建立。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け、一時居所とした。後醍醐天皇の崩御の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安した。明治時代に入ると神仏分離の観点から明治4年5月に五条県が吉水院を神社に改めて吉野神社とする案を太政官政府に提出した。後醍醐天皇を祀る神社を別に作る計画の政府は五条県の案を却下したが、金峯山寺の廃止が迫る情勢となり奈良県が神社への改組を働きかけ、明治6年に後醍醐天皇社の名で神社になることが太政官に承認された。明治8年2月25日に吉水神社に改称。

勝手神社

祭神は天之忍穗耳命

社格 村社

吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一でかつては「勝手明神」と呼ばれた。青根ヶ峰は古くから水神として崇敬を受け、山頂付近に金峯神社(奥千本)、山腹に吉野水分神社(上千本)、山麓に勝手神社(中千本)が建てられた。勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。創建年代は不詳。「日雄寺継統記」では孝安天皇6年とする。大海人皇子が社殿で琴を奏でたところ、天女が舞い降り5度袖を振りつつ舞ったと伝えられ、背後の山は「袖振山」と称し、この故事が「五節舞」の起源という。2001年に不審火で焼失。

塔尾山椿花院如意輪寺

浄土宗

本尊は如意輪観音菩薩

役行者霊蹟札所、近畿三十六不動尊30番

平安時代の延喜年間に日蔵上人により開基。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂裏山に葬られた。以来寺運は衰えたが、慶安3年、文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗した。正平2年12月、楠木正成の長男・楠木正行が四條畷の戦いの出陣に際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。正行は当寺本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。

大峯山東南院

金峯山修験本宗 別格本山

本尊は役行者

役行者霊蹟札所

白鳳時代に役行者の開基。金峯山寺より東南に位置し金峯山寺を守ってきた寺院。寛治6年には白川上皇が金峯山に参詣された際は、東南院を宿坊としているなど、宿坊としても古い。

来迎山弘願寺

真言宗豊山派

本尊は阿弥陀如来

弘法大師の開基。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代の正元2年の作。もとは金峯山寺上之坊であったが、高野山真言宗の寺院になった。関屋地蔵を祀っており、歯痛に霊験があるため歯がため地蔵と云われる。毎年6月初旬の「歯の衛生週間」にあわせて「歯がため地蔵祭」が行われる。

 

日雄山大日寺

真言宗醍醐派

本尊は五智如来

役行者霊蹟札所

大海人皇子ゆかりの法城で、役行者の高弟、日雄角乗を初代とする日雄寺があった跡と伝える。本尊は日雄寺の本尊であったという五智如来で、大日如来を中心として阿しゅく、宝生、無量寿、不空成就の五体からなる藤原時代作の木造如来座像。日雄寺は室町時代に焼失したものの、五智如来は当時の姿のまま伝わっており、全国的にも珍しい。元弘3年、元弘の乱において、護良親王の身代わりとなって壮烈な最期を遂げた村上彦四郎義光、義隆父子の菩提所でもある。

 

石上神宮(石上振神宮・石上坐布都御魂神社・石上布都御魂神社・石上布都大神社・石上神社・石上社・布留社・岩上大明神・布留大明神)

祭神は布都御魂大神

社格 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・別表神社

布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀った。本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した布都御魂剣や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造。1878年の禁足地再発掘でも天羽々斬剣が出土しこれも奉斎した。913禁足地は布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。

大和神社(大和坐大国魂神社)

祭神は日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神

社格 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・別表神社

「日本書紀」によれば、元々倭大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、両神の勢いだと畏れられた。そのため崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせたが、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年2月、倭迹迹日百襲姫命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。また同年8月7日にも、倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君らが同じ夢を見たため、同年11月に大倭直の祖・市磯長尾市を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。

高龗神社

祭神は高龗大神(雨師大神)

社格 大和神社摂社、祈雨神祭全国総本社

崇神天皇のとき渟名城入姫命をして穂積長柄岬に創祀される。古来6月1日、10年に一度の大祭には和歌山・吉野・宇陀その他近在邑々から千人余りも参拝者の列が続いたとある。先頭に丹生川上神社上社、丹生川上神社中社・丹生川上神社下社が金御幣を持ち後尾は末社の狭井神社が勤めた。茅原上つ道を経て箸墓裾で休憩。大倭柳本邑に入り長岡岬、大市坐皇女渟名城入姫斎持御前の井戸で祓い清める。神職は輿と共に神橋を渡り大和神社に入る。一般の人達は宿から一番鶏が鳴くと倭市磯池に体を清め笠縫邑から神社へ向かう。

釜の口山長岳寺(釜口大師)

高野山真言宗

本尊は阿弥陀如来

大和十三仏霊場4番、大和北部八十八ヶ所霊場80番

天長元年に淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神社の神宮寺として創建したという。盛時には48もの塔頭が建ち並んでいた。平安時代の端正な鐘楼門は創建当初唯一の遺構で、楼門と鐘楼を兼ねている。また、江戸初期の重要建築物である宝形造の延命殿も現存している。本尊の阿弥陀三尊像は玉眼を使った仏像としては日本最古のもので、藤原時代末期の作。

大兵主神社(穴師坐兵主神社・巻向坐若御魂神社・穴師大兵主神社)

祭神は兵主神(御食津神)、大兵主神、若御魂神(稲田姫命)

社格 式内社(名神大・大・小)、県社

穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は弓月岳。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする

野見宿禰社(相撲神社)

祭神は野見宿禰

社格 穴師坐兵主神社摂社

垂仁天皇の時代に、国内で初めて当麻蹴速と野見宿禰による天覧相撲が行われたとされる場所は「カタヤケシ」とされ、桜井市出身の文芸評論家の保田與重郎氏は、国技の発祥の場所として顕彰すべきであると考え、自身の人脈で関係者に働きかけ 昭和37年に当時の日本相撲協会の理事長や幕内力士がこの地を訪れ、顕彰大祭が行われ大鵬と柏戸の両横綱による土俵入りが奉納された。

談山神社

祭神は藤原鎌足

社格 別格官幣社、別表神社、大和七福八宝(福禄寿)

寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(阿武山古墳)から大和に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年に講堂が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年、祠堂が建立され、聖霊院と号した。本尊として釈迦三尊像が安置される。天仁2年に浄土院、食堂、経蔵、惣社、大温室、多宝塔、灌頂堂、五大堂、浄土堂に加え、近くの鹿路の村々が悉く焼かれ、十三重塔が承安3年に興福寺衆徒勢の焼き討ちで消失、文治元年に再興。永享10年8月、幕府軍に焼かれて全山全焼。ここを舞台とする戦乱は絶えることがなかった。明治2年に神仏分離令により僧徒が還俗。談山神社と改称された。

法華寺(法華滅罪之寺)

光明宗 総国分尼寺

本尊は十一面観音菩薩

聖武天皇は天平13年、国分寺・国分尼寺建立の詔を発し、建立整備された国分尼寺。法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要した。法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していた。治承4年、平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けた。建仁3年、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。なお、兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔は宝永4年の地震で倒壊した。

金龍山不退転法輪寺(業平観音)

真言律宗

本尊は聖観世音菩薩

大和北部八十八ヶ所霊場18番

大同4年、平城天皇が譲位してのちこの地に隠棲し「萱の御所」と称する屋敷を創建したのが始まり。平城天皇の皇子である阿保親王、阿保親王の5男である在原業平が暮らした。承和12年、仁明天皇の詔を奉って承和14年、寺に改めて業平が自ら聖観音像を刻み、阿保親王の菩提を弔い、仁明天皇の勅願所となった。養和元年、平重衡による南都焼討のために諸堂が炎上し、鎌倉時代になってから西大寺の興正菩薩叡尊によって再興された。慶長7年には江戸幕府により寺領50石が安堵されたが、江戸時代中期ごろから衰微した。大正12年に住職が入り、昭和5年に青蓮院門跡久邇宮邦英が見学に来、窮状を見聞するや国と話を付けて国庫補助が下りることとなった。

海龍王寺(隅寺)

真言律宗

本尊は十一面観音菩薩

大和北部八十八ヶ所霊場19番

法華寺と海龍王寺のある一画は、元藤原不比等の邸宅で養老4年の不比等の死後、光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17年には宮寺となった。正倉院文書では「隅寺」「隅院」「角寺」「角院」などと呼ばれている。「隅寺」の創建について、天平3年、光明皇后の発願で建立され、僧・玄昉が初代住持となった。海龍王寺という寺号は、海龍王経にちなむ。鎌倉時代には、真言律宗の宗祖である叡尊が嘉禎2年から暦仁元年まで復興を行い、貞治4年には信尊、康暦元年には興泉、長禄元年には元澄、天文7年には光淳、明和3年には高瑜と海龍王寺から5名の西大寺長老を輩出し、真言律宗の筆頭格の寺院であった。

霊園山聖林寺

真言宗室生寺派

本尊は子安延命地蔵菩薩

大和北部八十八ヶ所霊場76番

和銅5年に多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧が創建した。聖林寺の近世までの歴史は不明の部分が多いが、江戸時代には性亮玄心が三輪山平等寺の遍照院を移して再興したという。江戸中期には文春諦玄により現在の本尊・子安延命地蔵菩薩像が安置された。明治の神仏分離令の際に、三輪明神神宮寺の大御輪寺の本尊の十一面観音像が聖林寺に移管された。

氷室神社

祭神は闘鶏稲置大山主命、大鷦鷯命、額田大仲彦命

社格 式内小社(論)、村社

和銅3年、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始された。和銅4年6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝70年余りの間はこの制度は継続したが、平安遷都後は廃止され、貞観2年、現在の地に奉遷された。社殿が建立されたのは建保5年とされる。

南都鏡神社

祭神は天照皇大神、藤原広嗣、地主神

社格 村社

天平から天平神護(729年~767年)年間に、頭塔の近くにある福智院に玄昉の弟子報恩が肥前国唐津から鏡神社を勧請して祀ったのが始まり。続いて、藤原広嗣の屋敷跡ともされる現在地に移転し、新薬師寺の鎮守とされた。

崇道天皇社

祭神は崇道天皇(早良親王)

社格 村社

平城天皇の大同元年の草創と伝わる。五條市の藤井家に蔵される長禄2年の「霊安寺御霊大明神略縁起私記」によると、「又奈良ノ南里ノ紀寺ノ天王ト申スモ、崇道天皇ニテマシマスナリ」とあり、怨霊を鎮めるために祀った御霊神社の一つである。南都八所御霊の一座として御霊会が行われる。「大乗院寺社雑事記」の応仁2年10月15日の条には、春日大社の末社であり本地は弥勒菩薩であると記されている。

春日山不空院(福井之大師)

真言律宗

本尊は不空羂索観音菩薩

大和北部八十八ヶ所霊場77番

鑑真の住坊跡に建立された寺院と伝え、弘仁年間には空海が興福寺南円堂(八角円堂)建立に先立ち、その雛形を当寺に建てたという。鎌倉時代には西大寺の叡尊、興福寺の円晴、唐招提寺の覚盛、西方院の有厳が当院で戒律を講じた。室町時代には興福寺の二大院家の1つの大乗院の末寺となった。近世は本堂に弁才天が安置されていること、また院号の不空院が転じて福院とも呼ばれたことで、「かけこみ寺」として奈良町の芸妓達の信仰を集めていた。安政の大地震で堂宇が倒壊。大正年間に三谷弘厳によって再興された。

常光山璉珹寺

浄土真宗遣迎院派

本尊は女人裸形阿弥陀如来

天平年間に聖武天皇の勅願で行基により開基。平安時代に紀有常により改めて伽藍を建立され再興された。また紀寺の跡ともいわれる。慶長7年、徳川家康より肘塚村・法華寺村のうちに朱印地二十石を下賜され、江戸時代を通じて寺領とした。最初は法相宗、中頃には浄土宗誓願寺末寺、享保9年4月に天台宗に改宗し、京都養源院の末寺となったと伝わる。現在は浄土真宗遣迎院派に属し、無檀家の寺である。

元山上鳴川山千光寺

真言宗醍醐派別格本山

本尊は千手観音

役行者霊蹟札所、仏塔古寺十八尊第14番、大和北部八十八ヶ所霊場39番

斉明~天智天皇の頃、役行者が生駒明神に参詣した際に感得した千手観音を祀るために建立された。寺名の「千光寺」は、天武天皇の時、朝廷より五百石と共に贈られたものである。役行者が、千光寺の建つ鳴神の地で日夜修行に励んでいたところ、二匹の鬼が石を投げつけてその修行を妨げるようになった。ある夜、ついに鬼達は役行者の左右から直接襲いかかったが、役行者はこれを錫杖で打ち払い、鬼達を捕縛しました。鬼らは許しを乞い、役行者もこれを許して修験道を授け、以降は役行者の弟子として「前鬼」「後鬼」と名付けたとされる。その後、役行者はこの地を去り、二上山、葛城山、金剛山、友ヶ島を経て熊野さらには大峯山に到り、山上ヶ岳を開いて修行したと伝えられる。

金剛山転法輪寺

真言宗醍醐派

本尊は法起大菩薩

役行者霊蹟札所

役小角が16歳のとき金剛山に登って苦修練行を重ねた結果、天智天皇4年、祖神一言主大神を鎮守とし、法起大菩薩を祀る金剛山寺を建立して神仏習合の霊山としたのが開創と伝承される。奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山の1つに数えられ、歴代天皇の勅願所として五堂七宇の殿堂輪煥の美を誇った。行基、鑑真、最澄も来山し、聖宝も修行したと記録される。

鎌倉時代の末、楠木正成がわずか5百の兵で金剛山中腹に築いた山城の千早城に戦陣を張って、鎌倉幕府が派遣した総勢5万といわれた関東の軍勢を寄せ付けなかったのは、金剛山寺(転法輪寺)の修験勢力の支援が大きかったと伝わる。

茅原山金剛寿院吉祥草寺

本山修験宗

本尊は五大尊

役行者霊蹟札所

茅原は修験道の開祖である役行者の出生地とされ、当寺は役行者により開基、舒明天皇により創建されたと伝わる。平安時代に理源大師により再建された。東西4キロ、南北5キロにおよぶ境内に49寺院を整え隆盛を極めたとされるが、貞和5年の兵火で伽藍を焼失するなど、南北朝時代の兵火でことごとく焼失し衰退した。現在の本堂は応永年間頃の再建である。また、外陣の護摩札に寛文5年の墨書があることからこの頃に改築されたとされる。

大峯山龍泉寺

真言宗醍醐派大本山

本尊は弥勒菩薩

役行者霊蹟札所、近畿三十六不動尊31番

 700年頃、大峰山で修行していた役小角が、この地に泉を発見し、龍の口と名づけて小堂を建て、八大龍王を祀ったのが起源とされる。龍泉寺ができてから200年ほど後、寺から1kmほど上流にある「蟷螂の岩屋」に雌雄の大蛇が住みつき、人々を襲ったため、修験者たちが訪れなくなり、寺も衰退した。そこで、当山派修験道の祖とされる聖宝理源大師が、真言の力で大蛇を退治し、寺を再興したとされる。明治時代に山上ヶ岳の蔵王堂(大峯山寺)の護持院となる。

大師山菅生

高野山真言宗

本尊は阿弥陀如来

役行者霊蹟札所、ぼけよけ二十四地蔵尊霊場13番

奈良時代、龍門寺の子院なる龍華院で義淵僧正が開いた。永正3年に火災で廃寺同然となったが、吉野山桜本坊の快済法印により、文化5年に復興した。昭和初期から再び荒廃したが、昭和55年に再び復興され、現在に至っている。

補陀洛山松尾

真言宗醍醐派別格本山

本尊は千手観音菩薩

役行者霊蹟札所、大和北部八十八ヶ所霊場54番

天武天皇の皇子、舎人親王が養老2年に42歳の厄除けと「日本書紀」編纂の完成を祈願して建立。『続日本紀』延暦元年7月21日条には、「松尾山寺」の尊鏡という当時101歳の僧についての言及がある。また、松尾山の山頂近くに位置する鎮守社の松尾山神社境内からは奈良時代にさかのぼる古瓦や建物跡が検出されており、当寺が奈良時代の創建であることは間違いないと思われる。中世以降は興福寺一乗院の支配下に属するとともに、法隆寺の別院とも称された。室町時代以降は修験道当山派の拠点としても栄えた。「当山派」とは、吉野の金峯山を主な修行の場とし、醍醐寺三宝院を本山とする真言宗系の修験道で、聖護院門跡を本山とする「本山派」に対する呼称である。

登美山鼻高霊山寺

霊山寺真言宗大本山

本尊は薬師如来

役行者霊蹟札所、西国薬師四十九霊場2番、仏塔古寺十八尊5番、大和十三仏霊場10番、大和北部八十八ヶ所霊場31・32番

 小野妹子の子である小野富人は、登美山に閑居し天武天皇12年に熊野本宮大社に参篭すると、そこに出現した薬師如来を感得し、登美山に薬師三尊を祀り、薬草を栽培し薬湯を設けた。こうして富人は登美仙人・鼻高仙人と称された。神亀5年、阿倍内親王は病に苦しんでいたが、天皇の夢枕に鼻高仙人が現われたので行基を登美山につかわして祈願させたところ、皇女の病が平癒した。天平6年、聖武天皇は行基に命じて登美山に大堂を建立させた。平安時代、空海は登美山に龍神を感得し、奥之院に龍神を大辯才天女尊として祀った。これ以来、法相宗の寺院であった霊山寺は法相宗と真言宗の2宗兼学の寺院となっている。

吉野神宮

祭神は後醍醐天皇

社格 官幣大社、別表神社

南朝の後村上天皇は、父の後醍醐天皇が延元4年に崩御した後、その像を吉水院に安置した。以降、仏教式の供養が行われていたが、明治時代に入って神仏分離により明治6年に吉水院を後醍醐天皇社という神社に改めた。2年後に吉水神社と改称して後醍醐天皇を祭神とする神社となった。このとき太政官政府は官費で別の神社を創建する考えを表明したが、そのまま棚上げになって時が経った。明治22年6月22日に、後醍醐天皇を祀る官幣中社吉野宮の創建が、明治天皇の意向で決定した。明治25年に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。明治34年に官幣大社に昇格し、大正7年に吉野神宮に改称した。

丹生川上神社

祭神は罔象女神

社格 式内社(名神大)、二十二社(下八社)、官幣大社、別表神社

社伝に因れば、白鳳4年に罔象女神を御手濯川(高見川)南岸の現摂社丹生神社の地に奉斎し、その後現在地に遷座したものと伝えるが、寛平7年の太政官符には、当時の丹生川上神社の祝や禰宜の解を引き、『名神本紀』という書に「『人声の聞こえない深山で我を祀れば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めよう』との神託により創祀した」との伝えがあることを記してる。律令制時代を通じて祈雨神祭祭神に預かり、祈止雨祈願のために貴布禰社とともに奉幣がなされた例は枚挙に遑がないが、その折には奉幣使に大和神社の神主が従う定めとされていた。慶安3年の造営の上梁文には、当初の鎮座地に丹生神社を新造するとともに、本社を金剛峯寺の鎮守神に倣って「蟻通明神」と改称した旨が記されている。大正11年に社名を「蟻通神社」から「丹生川上神社」に改称、上下2社に対して「中社」を称する。

丹生川上神社上社

祭神は高龗神

社格 式内社(名神大)、二十二社(下八社)、官幣大社、別表神社

明治初年までは高龗神社という小規模な祠で、その由緒も不詳であるが、大滝ダム建設に伴う境内の発掘調査により宮の平遺跡が発見され、本殿跡の真下から平安時代後半以前に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土し、また付近からは、縄文時代中期末から後期初めにかけての環状配石遺構が出土した。明治6年に郷社に列したが、明治29年に「口の宮」を「丹生川上下社」、当神社を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」となった。大正11年10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社、奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、上社・下社は中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。

丹生川上神社下社(丹生大明神)

祭神は闇龗神 

社格 式内社(名神大)、二十二社(下八社)、官幣大社、別表神社

上古の由緒は不詳。江戸時代前期、「丹生大明神」と称し、朝廷や幕府においてもこれを認めるようになり、宝永7年に中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされ、また嘉永6年に黒船が来航すると、翌7年に孝明天皇が当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年には攘夷を祈願するなど、二十二社の1社として遇された。文久3年、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失した。明治29年に「丹生川上神社下社」、奥の宮を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。

天河大弁財天社(天河神社)

祭神は市杵島姫命

社格 吉野総社・大峯本宮(修験道)・郷社・日本三大弁財天

天河大辨財天社の草創は飛鳥時代、役行者の大峯開山の際に蔵王権現に先立って勧請され最高峰である弥山の鎮守として祀られたのに始まる。弘法大師空海が高野山の開山に先立って3年間大峯山で修行し、最大の行場が天河神社であった。天河神社が鎮座する坪ノ内は、南朝の皇居が47年間置かれた土地といわれており、そのため南朝の崇敬が特に篤かった。江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命と改められた。

廣瀬大社

祭神は若宇加能売命

社格 式内社(名神大)、二十二社(中七社)、官幣大社、別表神社

社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに始まるとしている。龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。

龍田大社

祭神は天御柱命、国御柱命

社格 式内社(名神大2座)、二十二社(中七社)、官幣大社、別表神社

「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。

片岡山達磨寺

臨済宗南禅寺派

本尊は千手観音、達磨大師、聖徳太子

聖徳太子霊跡19番

聖徳太子が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところすでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨大師の生まれ変わりに相違ないといい、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりであるという。

大安寺

高野山真言宗

本尊は十一面観音

大和十三仏霊場13番、聖徳太子霊跡23番、大和北部八十八ヶ所霊場1・2番、南都七大寺

聖徳太子の建てた「熊凝精舎」が官寺となり、その後に移転や改称を繰り返したとされる。平城京に移って大安寺を称した時の伽藍は東大寺、興福寺と並んで壮大であり、東西に2基の七重塔が立ち、「南大寺」の別名があった。この時代、菩提僊那をはじめとする歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たしてきた。平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。

法性山般若律寺(コスモス寺)

真言律宗

本尊は文殊菩薩

関西花の寺二十五霊場17番、西国薬師四十九霊場3番、大和北部八十八ヶ所霊場15番

寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したという。別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいう。治承4年(1180年)、平重衡による南都焼討の際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていた。鎌倉時代に入って再興が進められ、十三重石塔は僧・良恵らによって建立され、建長5年(1253年)頃までに完成した。

子安山帯解寺

華厳宗

本尊は帯解子安地蔵菩薩

大和北部八十八ヶ所霊場68番

寺伝では、元は霊松庵といい空海の師である勤操によって開かれた巌渕千坊の一つであったという。長らく世継ぎに恵まれなかった文徳天皇后の染殿皇后が当寺にて祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、天安2年(858年)春、文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、勅命により帯解寺と名乗るようになった。以来、安産・子授け祈願の寺として朝野を問わず篤い信仰を集めるようになった。

高橋神社

祭神は磐鹿六雁命、栲幡千千姫命

社格 式内社、村社

「日本書紀」景行天皇53年の条によると、「景行天皇、東国を巡狩し給い上総国に至り、海路、淡水水門を渡り給うとき、海中に白蛤を得給う。従い仕え給えし此の命、之れを膾に作りて献るに、天皇いたく其の美を賞し給うに膳臣を以てし給う。十世の後、更に高橋の朝臣を賜う」とある。この高橋朝臣(膳臣)の祖となった人物が磐鹿六雁命 であり、子孫は天皇の供御を主宰する内膳司を世襲し、のちに料理(割烹)の神として祀られるようになった。