赤穂八幡宮
祭神は応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
社格 県社
元々真木村という赤穂市西部にあった村に石清水八幡宮から鎮座された八幡宮が現在の地に移ったものであり、赤穂庄の地神として敬われた。大石内蔵助も扁額や石灯籠を寄進している。現在の社殿は享保3年に再建。
大石神社
祭神は大石内蔵助良雄以下四十七士、萱野三平、浅野家三代、森家七将
社格 県社・別表神社
元禄赤穂事件以降、赤穂浪士を称揚する人々によって旧赤穂城内の大石邸内に小さな祠が設けられ密かに祀られていた。明治33年、大石神社を創建することが政府から許可され、大正元年に社殿が竣工した。昭和3年、無格社から県社に昇格された。第二次世界大戦後、城内の神社に祀られていた浅野長直・浅野長友・浅野長矩および、城外の赤穂神社に祀られていた、浅野家の後に赤穂藩主となった森氏の祖先の七武将を合祀した。
台雲山花岳寺
曹洞宗
本尊は釈迦如来、千手観世音菩薩
新西国三十三箇所31番・瀬戸内観音霊場7番
正保2年常陸国笠間藩より転封となった浅野長直が浅野家菩提寺として創建。元禄14年、浅野長矩による江戸城松之大廊下での刃傷事件が起こり、浅野家は改易となった。元禄15年赤穂浪士による吉良邸討ち入り後、赤穂藩には永井家が入り、宝永3年には森家が赤穂藩主となり、花岳寺を菩提寺と定めた。赤穂浪士37回忌にあたる元文4年には境内に有志により義士墓が建立され、遺髪が納めらた。宝暦2年の赤穂浪士50回忌に、藤江熊陽の撰による碑文が刻まれた義士塚が建立された。
明王山普門寺
天台宗
本尊は十一面千手千眼観世音菩薩
瀬戸内観音霊場8番・播州薬師霊場20番・尼寺三十六ヶ所霊場35番
聖徳太子の開創、慈覚大師の創建といわれる。元は天台宗長安寺と共に雄鷹山に建設されていたが、幾多の兵災に罹り堂宇焼失、幸いにして普門寺本尊観世音菩薩は赤穂町東組に、長安寺本尊薬師如来は西組に火災をまぬがれ安置された。慶長2年普門寺再建後に、山号も宗派も同一であった縁により両寺院は相合、現在の地に至っている。
尼崎戎神社(倉持戎大宮、ちぢみさん)
祭神は八重事代主大神
社格 村社
醍醐天皇時代以前の創建と伝承されている。菅原道真が大宰府に赴かれる途中、尼崎の海辺の神社に立ち並ぶ老松や砂浜の美しさに目を奪われ、船を止めてこの地に上陸されました。「ここは殊のほかのよき浦なり」「松は琴中の並びたるが如し」と道真が賛美したお言葉にちなんで尼崎は「琴の浦」と名付けられ、その古名の発祥源といわれている。
大島神社
祭神は須佐男命
社格 不明
荘園である大島荘の今北、東大島、西大島、などの総鎮守神として「大島神祠」の4文字が「摂津志」に記録されている。 祭神が須佐男神であるところから須佐男社とも記され、また、須佐男神と牛頭天皇の混合信仰が流行した江戸時代のある時期には、牛頭天皇社と呼ばれた。武庫川が氾濫した時代にあって、「西向きの鎮守さま」といって崇敬されてきたという説がある。
大物主神社
祭神は大物主大神、市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命
社格 村社
尼崎は、海の幸に恵まれ「海土ケ幸」・「海ケ幸」と呼ばれ、古くから形成されていた。創建は古く大田田根子の後裔、鴨部祝が奉建したとされ、早くより開けたこの大物の地にある「一の宮」に篤い信仰をささげたことと思われる。鎌倉の初め、大物ノ浦から船出した源義経主従も自分達の身に加護あれかしと祈りを捧げた。尼崎における神社の最古のもの。
貴布禰神社
祭神は高オカミ神
社格 県社
創祀は不詳であるが、平安京遷都の折、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が任務の成就を己が護神に祈願したところ予定通りに事が運び、報謝の為に吉備真備に謀りこの地を定めて社を奉建したと伝えられる。加茂の御厨の雑掌として鎌倉末期に尼崎・長洲の地に来た大覚寺が、賀茂御厨の守護神として賀茂別雷大神と賀茂御祖大神を奉斎していた。貴布禰社を京都より勧請して自寺の境内社とし賀茂社を吸収した。尼崎築城とともに城内三の丸に鎮座し、元和年間の尼崎城主・戸田氏鉄によって役人町の末へ、正徳5年に現在地に遷座した。祭神の高オカミ神は古来雨を掌る神として知られている。
月峰山大覚寺
律宗
本尊は千手十一面観世音菩薩
摂津国八十八箇所65番
寺伝では百済の僧・日羅が聖徳太子の命により剣尾山に月峰寺を創建、推古13年には長洲(尼崎市)に剣尾山を遥拝する灯炉堂を建立したのが始まりと伝えられる。建治元年に琳海上人が道場を創め、同地にあった値願上人創建の灯炉堂が嘉暦元年には寄進されて寺容を整えた。南北朝時代には両朝の将師がそれぞれ当寺を本拠とし、足利義詮などは半年にわたって在陣しました。元和年間尼崎城築城にあたって旧東本町から現在地に移転。
皇大神社
祭神は誉田別尊、天照皇大神
社格 村社
天長元年空海上人が浄光寺創設の折に勧請したと記されている。正平年中、佐々木判官秀詮がこの地に浄光寺城を築き、その後天正7年、織田信長が伊丹城主荒木村重を攻略した際、城と共に城の守護神である当社も焼失した。のちの元禄13年、村人達が合議の上代官の助力を得て社殿を造営。現在の本殿並びに北の鳥居は当時のもので、300年を経る。
櫻井神社
祭神は櫻井定信他十五柱(歴代尼崎城主)
社格 郷社
明治15年、尼崎城内に建立された。櫻井松平の祖、櫻井信定は、三河安城にその基盤を築き、7代目忠頼が、28才で亡くなり家が断絶するが、8代目忠重の努力と徳川家康のはからいで、お家再興がかなう。10代目忠喬の時、遠州掛川より尼崎城に移封。尼崎初代の城主となる。代々の城主は文芸に優れ、中でも尼崎3代目城主忠告は亀文と号して、「まづ霞む竈々や民の家」の一句を境内石柱に残している。最後の城主忠興は、明治10年の西南戦争で敵味方区別なく戦傷者を看護され、これが世界赤十字に認められ、日本赤十字社の誕生につながっている。
珠光山偏照寺如来院
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
法然上人二十五霊跡4番
天平年間、行基が神崎に釈迦の土像を祀り、偏照寺と号した。そして一堂を建立したのが起源と伝える。神崎の釈迦堂とも称された。建永2年3月、讃岐配流の際に法然が神崎に立ち寄り、5人の遊女を帰依させた。その後自らの罪を悔いて5人は念仏を唱えながら入水。法然は釈迦堂にて念仏回向した。 その後洪水で釈迦堂が流されたため、阿弥陀如来を本尊とした。それ以後如来院と号した。永正17年尼崎城主細川高国が城内に移転させ、その後城下町を整備するために現在地に移された。
出世稲荷宮(初島稲荷神社)
祭神は倉稲魂大神
享保元年、泉屋利兵衛、小山屋半六による新田開発に伴って、伏見稲荷より勧請、創祠されたと伝えらる。社殿は水害などで幾度となく被害に遭い、明治43年に再建されたものが大正、昭和には戦災を受けるも、平成まで護持されていたが、阪神大震災により倒壊した。現在の社殿は平成10年4月に復興された。
道意神社
祭神は素盞鳴尊
社格 村社
社伝では明暦元年、大阪の海老江村の牛頭天王社を移したのが始まりで、その後、寛文9年道意新田として開発が進み、延享2年道意神社として建立された。道意とは、新田開発を尼崎藩主青山幸利に進めた中野道意にちなんで名付けられた。
長洲天満神社(長洲天満宮)
祭神は菅原道真
菅公聖蹟二十五拝13番
御本殿は慶長12年創建。桃山時代の様式をよく伝える。手水舎の裏には、菅原道真が足を洗い清めたとされる菅公足洗之池があり、菅原道真が太宰府へ左遷される道中、船で淀川を下り神崎川を経て大物が浦で潮待ちの為下船し、砂浜を長洲の里に向い散策している時、菅原道真の足元が砂で汚れたので、村の老婆が見かねて池の水で足を洗い清めた池と伝えられている。
初島大神宮
祭神は天照大神
創始は不詳、正和年間(14世紀)といわれている。「尼崎志」に、近江坂本の日吉神社に属する一社が尼崎に祀られ、のち別所町と別所村に分社。別所町南浜の初嶋恵比寿が築地開発にともない寛文6年、現在地に移築された。享保年間のころ初島恵比寿を初島大神宮と改称された。
補陀洛山浄光寺
真言宗善通寺派
本尊は聖観世音菩薩
摂津国八十八箇所64番
天長6年弘法大師が創建。鎌倉時代の「像中略縁起」では、「放一浄光、句故浄光寺也」と寺号の由来が触れられ、また「紙本着色浄光寺縁起」には南北朝時代、楠木・和田連合軍と、ここ浄光寺を城とした箕浦氏との戦いが描かれている。天正7年、織田信長が荒木村重を攻めた際、堂宇・伽藍は兵火に遭い、その後太閤検地により慈眼院と改名。慶長年間には度々洪水に遭うなど衰退したが、京都智積院の僧性海は村人の協力を得て、大和郡山城主柳沢氏から本堂を寄進を受け再興を図った。
本興寺
法華宗本門流大本山
本尊は宗祖真筆三幅対本尊
法華宗四大本山の一つで、応永27年日隆上人の開基した寺院。開山堂・三光堂・方丈は室町・桃山時代のすぐれた建造物がある。本能寺が伝道の中心地であったのに対し、本興寺は教学の中心地であり、勧学院という教育機関が設置された(現・学校法人法華学園興隆学林専門学校)。塔頭が6院ある。
崑崙山昆陽寺塔頭一乗院
高野山真言宗
本尊は聖観世音菩薩
川辺西国三十三箇所12番、灘西国観音霊場23番、伊丹七福神(弁財天)
行基が建立したとされる昆陽寺塔頭の一つ。天正7年、織田信長が有岡城主荒木村重を攻略したときの兵乱時に、灰燼に帰し、その後復興した。最初は一乗坊と称していたが、後に昇格して院になったと伝えられている。平成7年の阪神淡路大震災で倒壊したが、再建された。
猪名野山願成就寺安楽院
真言宗御室派
本尊は大日如来
川辺西国三十三箇所8番、摂津国八十八箇所61番、伊丹七福神(福禄寿)
和銅6年、聖武天皇の勅願による創建。行基建立の畿内四十九院の一つ。昔は七堂伽藍を擁する古刹であったと伝えられている。行基が昆陽池を築造されたとき、大池の成就にちなみ寺名を願成就寺と号し、千人の僧侶による大法要が行われ、地名を千僧と称したといわれている。以前には十六カ院の坊舎があったが、天正7年、織田信長が有岡城主荒木村重わ攻略したときの兵乱時に灰燼に帰し、安楽院だけが残った。
有応山金剛院(野宮寺)
真言宗御室派
本尊は大日如来
川辺西国三十三箇所33番、摂津国八十八箇所60番、伊丹七福神(恵比寿)
延喜4年、宇多法皇の勅願所として山城醍醐寺の聖宝理源大師が薬師如来を本尊に開基、当初善楽寺といい別院を金剛院と称した。その後、兵乱で廃棄された。久安6年、源為朝が当寺に宿を取り、牛頭天王の霊夢によって寺社を再興した。天正7年、荒木村重の乱で炎上。寛文11年、京都御室仁和寺の末寺となる。
崑崙山昆陽寺
真言宗御室派
本尊は薬師如来
川辺西国三十三箇所10番、摂津国八十八箇所62番、西国薬師四十九霊場19番、伊丹七福神(寿老人)
天平3年、行基が貧民救済を目的とした「昆陽施院」(布施屋)を創建。 天平5年、聖武天皇の勅願寺となって伽藍が整備され、周辺を開墾、荘園化して発展した。天正7年、荒木村重と織田信長の戦火で焼失したが再興され、江戸時代は遍照院・一乗院・正覚院・成就院など9ヶ寺の塔頭を有していた。
為樂山大空寺
真言宗御室派
本尊は聖観音菩薩
川辺西国三十三箇所16番、摂津国八十八箇所63番、伊丹七福神(布袋尊)
聖武天皇の時、行基によって創建された。本堂は貞亨年間に造られ、鐘楼は鎌倉時代の建築といわれていたが、阪神淡路大震災により倒壊したが、現在は再建されている。貞亨3年の縁起書によると、織田信長の荒木村重討伐の兵火に遭い、藤原時代の本尊の聖観音菩薩を焼失したため脇侍の延命地蔵菩薩を本尊としたと記されている。後に聖観音菩薩は再興されて観音堂に安置され、その脇侍として不動明王と毘沙門天が祀られている。
猪名野神社
祭神は猪名野坐大神(素盞嗚尊)
社格 県社
延喜4年の創建。貞享3年に本殿が再建されている。伊丹郷町の氏神で、古くは「野宮」[天王宮」「牛頭天王宮」などと呼ばれていた。
明治2年の神仏分離により、観音堂、地蔵堂および仏教関係の諸記録等を金剛院に移し、野宮から猪名野神社として改称された。寛文元年、伊丹の近衛家の所領となった。
多田神社(多田院)
祭神は源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家
社格 県社
創建天禄元年、清和源氏武士団発祥の地であり、この地に居城を構えた源満仲によって天台宗寺院として建立された。鎌倉時代に幕府から造営の督励をうけた僧忍性による再建以降真言律宗に転じ、明治以前までは多田院と称し、神仏分離の際に神社となった。
神秀山満願寺
高野山真言宗 真言宗七十五名刹
本尊は千手観世音菩薩
新西国三十三箇所13番・摂津国八十八箇所68番・摂津国三十三箇所18番
奈良時代、聖武天皇の勅願により勝道上人が創建した。平安時代中期には源満仲がこの寺院に帰依し、以来源氏一門の祈願所として栄えた。室町時代末期に戦火で焼失。承応2年建立と伝えられている金堂や、寛文8年建立された観音堂などの建造物が現存。明治31年より円覚院を本坊とした。
祥雲山頼光寺
曹洞宗
本尊は地蔵願王菩薩
長保年間に源満仲の夫人法如尼の発願により、満仲四男源賢僧都を開基にして源頼光の子永寿が法如尼の念持仏であった地蔵菩薩を本尊として開山する。当時から頼光の神儀及び霊像を安置する香華院として祥雲山と号して、真言律宗に属していた。平安・鎌倉・戦国を通して寺勢は衰微していたが、寛文11年に禅僧万愚によって中興され、延享3年、丹波国千ヶ畑村の臨済宗法常寺の末寺になり、文化元年以降は尼寺となる。明治8年に廃仏毀釈の影響を受け、維持が困難になり、本寺法常寺と合併する。平成2年より曹洞宗に属する。
医王山圓満寺
高野山真言宗別格本山
本尊は薬師如来
摂津国八十八箇所79番
開山は法道仙人で康保3年に創建された。円満寺は、西宮市鷲林寺にあった、武庫山鷲林寺を現在地に移したのが始まり。武庫山鷲林寺は平安末期の源平の合戦、戦国時代には、荒木村重の乱に遭い荒廃した。また、織田信長の焼き討ちのため炎上し、灰燼に帰した。灰燼に帰したときに、南勝坊に霊夢によるお告げがあったため、鷲林寺を現在地に移した。そのため、今里鷲林寺とも称されて、現在に至っている。
岡太神社(岡司宮)
祭神は天御中主大神 、高皇産靈神、素盞嗚神、稻田姫神、大己貴神、蘇民將来
社格 県社・式内小社
創建不詳、社伝では「寛平5年に武庫郡広田の人、岡司氏がこの地を開発して、浜村と云い、 延喜元年、天御中主大神を主神に広田の大神五柱を末社として 共に鎮祭せしを起源とし、由って岡司宮と称する」としている。近くに平重盛の居館があり小松庄と呼ばれたことから、重盛の供養塔が境内にある。
甲子園素盞鳴神社
祭神は素盞鳴尊
甲子園球場に隣接した場所にあるので、阪神タイガースの神社とのイメージがあるが、歴史は古く「牛頭天王社」として記録が残っている。大正13年に甲子園球場の建設にともなって現在の位置に移る。甲子園の鎮守として高校野球の時にもお参りする方が多い。阪神タイガースのお守りなども特徴的だ。タイガースファンは必ず一度はお参りをするという噂がある。
甲子園八幡神社(四社大神宮)
祭神は誉田別尊、天照皇大神、天児屋根命、中筒之男命、甲子出世大国
社格 村社
創建不詳。拝殿両脇にある石灯籠には天和2年の刻銘がありそれ以前と考えられる。本殿には、誉田別尊、天照皇大神、天児屋根命、中筒之男命が祀られており、別名「四社大神宮」とも称されている。また、殿内には大国神像が安置されているが、これは地中より掘り出されたもので、その後御祀りされている。
慈眼山法心寺
高野山真言宗
本尊は薬師如来
摂津国八十八箇所77番
寺伝では寛文元年、清誉阿闍梨が甲山神呪寺塔頭常住院の本尊十一面観世音菩薩を当地に迎え、祀ったのが始まり。神呪寺の最盛期には70余坊が甍を並べていたが、天正年間に織田信長に焼かれ、烏有となった焼け野原に、常住院本尊の十一面観音のみが灰燼の中で遺っていたと伝わる。 当初茅葺であった本堂も、明治12年に木造瓦葺に建替えられたが、阪神淡路大震災で全壊となった。
松泰山東光寺(門戸厄神)
高野山真言宗別格本山
本尊は薬師如来
西国薬師四十九霊場20番・西国愛染十七霊場2番・摂津国八十八箇所76番
寺伝では嵯峨天皇の41歳の厄年にあたる天長6年、空海により厄除祈願が行われた。その際嵯峨天皇は愛染明王と不動明王が一体となって厄神明王となりあらゆる厄を打ち払うという霊感を得、空海に祈願を命じた。 空海は愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王像(両頭愛染明王像)を三体刻み、高野山の天野社、山城の石清水八幡宮、門戸東光寺へそれぞれ国家安泰、皇家安泰、国民安泰を願って勧請したが、現在残っているのは東光寺のもののみであるという。
體性山大日寺
高野山真言宗
本尊は大日如来
摂津国八十八箇所78番
寺伝では慶安元年、隆尊和尚が中興開山、堂宇を建立したとの記録が残る。享和2年に火災に遭い、灰燼に帰すも、文化13年に再建されたと伝わる。明治、大正と堂宇の拡充や、境内の拡張などが行われ、阪神大震災の影響を受けるが再建が進み現在に至っている。
津門神社
祭神は津門大明神、天照皇大神、毘沙門天神、八意思兼神
津奴港の東南に津奴の塩浜があり、北には津登。東には津門の里があり、岡一体に 老松が繁茂し、務古または津登の松原として万葉の古歌にもある。綾羽・呉羽姫が百済の国より渡来、我が国に初めて織物又は染物などを教えた地にて彼等が外来渡来の神(大日如来)を勧請し、創立したと云われている。 延喜元年、菅公が太宰府に左遷の途次、休憩した祠が津門大明神と称する津門の氏神である。祠を現神域に遷宮したのが宝暦4年11月にして旧社殿上棟札により明らかであり、当時は神仏混合の時代で、毘沙門天神を祀り、明治の代になり、天照皇大神を祭神と仰ぎ、脇殿に毘沙門天神と八意思兼神を合祀する。
鳴尾八幡神社
祭神は応神天皇、天照皇太神、砂浜大神、ほか
社格 村社
社伝では、文安年代に創建されるとされ、兵庫県神社誌には「由緒、創立年月不詳なれども鎮座地の鳴尾本郷は文明年代、既に人烟盛なる処なれば当村の創立も其以前の事なるべし。其後、本村七箇村一郷の鎮守と仰ぐ。 降って有栖川宮家は、累世当社を崇敬せられ、度々幣帛及び御歌の御寄進あり。 近くは慶応3年有栖川宮熾仁親王は御染筆の八幡宮の扁額及び白銀拾枚を奉献せられた」とある。
西宮神社
祭神は西宮大神(蛭子命)
社格 県社・別表神社・日本三大えびす
社伝では、祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命の最初の子で、不具のため流されたが、西宮に漂着し「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。西宮神社は、廣田神社を本宮と見て、その南に成立する廣田神社の摂社であった南宮神社から戎信仰が興ったとされる。『梁塵秘抄』には、諏訪大社、南宮大社、敢国神社と共に、廣田神社の末社が南宮として記載されている。西宮の起こりは諸説あり、戎神を祀った鳴尾や津門から西の方の宮という説、京都から見て廣田神社を含む神社群を西宮とし、その後、戎神信仰の隆盛で戎社を「西宮」と呼ぶようになったなどがある。
西宮成田山
本尊は不動明王
西宮神社の隣にある圓満寺に成田山新勝寺より不動明王を勧進して祀ったことによりはじまる。新車の安全祈願に訪れる人が多い。
詳細は圓満寺を参照。
廣田神社
祭神は天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)
社格 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・別表神社
神功皇后の三韓征伐の帰路神意をうかがうと、天照大神の託宣があり「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」とされ、葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建で同時に、生田神社・長田神社・住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社が鎮座した。当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座したが、水害のため、享保9年に現在の西山の地に遷座した。明治4年には官幣大社に列格した。
福應神社
祭神は八重事代主命
社格 県社
創建年代は不詳。今津の浦に神霊が降臨し、「この浦のすがすがしき地に吾を 斎き祀れ。されば万人守護し諸願成就を得さしむ」という神託があった。 そこで浦人たちが浄地を勧請して奉斎したのが始まりと伝えられる。嘉祥元年、仁和寺覚行法親王より代院室の格に列せ られ、以後代々の祈願所となった。文禄年間に後陽成天皇の名代の参拝があり福應神社の社号を賜わり、仁和寺の祈願所として別当真福寺を置くことになった。西宮神社・越木岩神社とともに「三福神」と並び称されている。
松原天満宮
祭神は、菅原道真
社格 村社
創建不詳。菅原道真が太宰府に流される道中に美しい松原を眺め上陸して休息したことから菅原道真を祀るようになったと伝えられている。向かいに北向稲荷神社と「史蹟、漢織・呉織松、染殿池」があり、日本書紀によると、応仁天皇の三十七年、呉の国に使いを出して縫工女を求めたことが書かれてており、来朝した4人の工女のうちの2人が漢織・呉織で、武庫の水門に上陸した彼女たちは、故郷を慕ってここに松を植えたと伝えられている。松の傍らにあった池の水を使って初めて染色をしたのでこの池を染殿池と呼ぶようになったといわれる。
鹿塩熊野神社
祭神は、伊邪那美之命、火迦具土之命
社格 村社
創建不詳。春日大社から一年に一度、牡鹿、牝鹿の背にお供物を負わせ参拝する慣習となっていたが、神社の近くで牝鹿の姿が見えなくなった。牡鹿は、嘆き悲しみ八方探し求めたが見あたらなかった。牡鹿は喉をうるおそうと井戸をのぞいたところ、水面に映った自分の姿を探し求める牝鹿と見誤って井戸に身を投じてしまった。
村人は牡鹿を哀れみ、鹿の屍を丁重に塩でとりまき、春日大社に送り届けた。このことにちなんで村名を「鹿塩」と名付けることになったとの伝説がある。
越木岩神社
祭神は、蛭子大神
社格 村社
創建不詳。延喜式神名帳の大国主西神社。正保年間に社殿が再建され、明暦二年に円満寺の教順が西宮神社より蛭子大神を勧請し、蛭子太神宮と称した。以後、数回社殿は修復されたましたが、現在の見事な片削破風羽流造のご本殿は昭和11年に、また、拝殿は昭和58年に御造営となったもの。ご神体は周囲約40m・高さ10mの大怪石(花崗岩)である一大霊岩で、酒米を蒸す時に使う「甑」という道具に似ていることから「甑岩」と名づけられた。
甲山神呪寺(甲山大師)
真言宗御室派別格本山
本尊は 如意輪観世音菩薩
新西国三十三箇所21番・摂津国八十八箇所75番・摂津国三十三箇所3番・仏塔古寺十八尊17番
淳和天皇の第四妃が開いたとする。「帝王編年記」には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。天長7年に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったとされる。鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建。
生田神社
祭神は稚日女尊
社格 式内社(名神大)・官幣中社・別表神社
神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れられ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。」と日本書紀に記されている。その後、朝廷より神地神戸を賜り、大同元年「生田の神封四十四戸」と古書には記されている。この神戸(かんべ)が中世、紺戸(こんべ)と変わり神戸(こうべ)となったとされる。
桂尾山勝福寺
高野山真言宗
本尊は聖観世音菩薩
摂津国八十八箇所87番・摂津国三十三箇所8番・福原西国三十三箇所10番
藤原伊尹の三男が證樂上人と称して山麓に庵を結び勧行。これが現在の證誠神社。このことに感心した一条天皇が弘法大師一刀三礼聖観世音菩薩に数多くの寺録を下賜。七堂伽藍、36坊の大寺院であったという。平清盛が寄進した金銅製密教法具が重要文化財となっている。観応の擾乱では高師泰が乱入して堂宇を焼失。明治32年再建するも昭和13年の阪神大水害で倒壊。平成20年再建。
西月山真光寺
時宗
本尊は阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩
福原西国三十三箇所33番・清盛七弁天(真野弁天)
仁明天皇のころ、恵萼が唐より観世音を持ち帰り、和田岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まり。藤沢清浄光寺の末寺となり、正応2年、時宗の開祖一遍上人は、敬慕する教信の故地である教信寺で臨終を迎えたいと願い、向かう途中、この寺の観音堂で亡くなった。弟子の他阿上人真教が寺を建立、伏見天皇の勅願により真光寺と号した。一遍廟所にある石造五輪塔は南北朝時代のものとされ、一遍の生涯からその弟子が別時念仏を行うまでを描いた、「紙本着色遊行縁起10巻」は重要文化財に指定されている。昭和20年、戦火により全焼し、多くの寺宝を失った。
浄国山金光寺(兵庫やくし)
高野山真言宗
本尊は薬師如来
摂津国八十八箇所84番・福原西国三十三箇所31番
伝承によれば、治承4年に平清盛が、都を京都から福原京へ遷都しようとした際に、まず、運河の開鑿を行おうとした。ある夜、童子が平清盛の枕元に現れて、「兵庫の海中に霊仏があるのでに探し出すように」との夢告があり、早速、兵庫大輪田の海に網を下ろしたところ、海中から黄金の薬師如来像が出現した。平清盛はその霊験に感心し、「これぞ当地の守護仏ならん。永く、地を定め、一宇を起こして安置し祈願せん。」と言い、当地に大伽藍を建立したのが金光寺の草創とされる。
證誠神社
祭神は五十猛命
社格 郷社
永延元年に紀州熊野の権現さんを勧請して妙法寺川沿岸の大手・東須磨・野田・駒ケ林の五ケ村の氏神として創祀された。寿永元年に須磨の地にご遷都されるにあたり、大手の守護神として平家一門の崇敬篤く、徳川の代に「須磨聖霊大権現」と称せられた。明治初年に證誠神社と改め、明治6年村社、明治14年郷社に加列、大正5年神饌幣帛供進神社に指定せられた。
上野山福祥寺(須磨寺)
真言宗須磨寺派大本山
本尊は聖観世音菩薩
真言宗十八本山2番・新西国三十三箇所24番・摂津国三十三箇所7番・摂津国八十八箇所88番・福原西国三十三箇所7番・神戸七福神(福禄寿)・神戸六地蔵・神戸十三仏11番
「須磨寺略歴縁起」では兵庫県和田岬海中より出現し給える、聖観世音菩薩を安置するために淳和天皇の勅命により、兵庫県の背山恵偈山北峰寺を建立する。後に、仁和2年光考天皇の勅命により開祖聞鏡上人須磨上野山福祥寺を建て本尊と祀る。 南北朝時代から江戸時代にかけて歴代住職が書継いだ「当山歴代」によれば、本尊聖観音は嘉応元年、源頼政が安置したとある。
須磨寺塔頭正覚院
真言宗須磨寺派
本尊は愛染明王
西国愛染十七霊場6番
大正14年失火により焼失し、昭和13年に現在地に再建された。
須磨寺塔頭蓮生院
真言宗須磨寺派
本尊は不動明王
塔頭三院の一つで、「蓮生」とは熊谷直実が「蓮生坊」と名乗ったことに由来し、直実は一の谷の合戦で戦死した平敦盛菩提の為、法然上人のもとで修行し、諸国行脚の途中、須磨を訪れたといわれている。大正5年、花火大会の飛火のため出火焼失したが、昭和9年不動明王を本尊として現在地に再建された。
須磨寺塔頭桜寿院
真言宗須磨寺派
本尊は阿弥陀如来
塔頭三院の一つで阿弥陀如来を本尊とし、右の脇侍に大日如来と浪切不動明王、左に弘法大師と秘鍵大師を奉祀する。本堂横には昭和9年、正岡子規三十三回忌に、弟子の一人である青木月斗により建立された、「暁や白帆過ぎ行く蚊帳の外」の句碑がある。
綱敷天満宮
祭神は菅原道真
菅公聖蹟二十五拝14番
天元2年この付近の住民が菅原道真の分霊を祀ったことに始まるという。他の綱敷天満宮と同様、菅原道真が大宰府への左遷の途上で立ち寄り、その際に里人が綱で円座を作ったという伝承を持つ。
長田神社
祭神は事代主神
社格 名神大社、官幣中社
201年、神功皇后が三韓征服後、新羅より帰還中、武庫の水門で船が進まなくなったので占ったところ、事代主の神より『吾を長田國に祀れ』と神託を受け、創祀されたという。 延喜式では名神大社、更に祈雨八十五座に列され、社に奉祀する神戸(かんべ)41戸によって護持されていた。現在まで続く「神戸(こうべ)」の地名は、この神戸職に由来している。近代社格制度のもとで明治4年に県社に列格し、その後明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、明治29年には官幣中社に昇格した。
如意山妙法寺(毘沙門山妙法寺)
高野山真言宗
本尊は毘沙門天
摂津国八十八箇所86番・福原西国三十三箇所9番
天平10年行基の開基。聖武天皇・高倉天皇の勅願所で、七堂伽藍37坊があった。治承4年の平清盛による福原遷都では乾にあたることから、新鞍馬として王城鎮護の霊場とし、寺領1000石を寄進している。足利尊氏の軍が西国に敗退した時、高師直らの兵火により全焼。元禄10年復興。
宝積山能福寺(能福護国密寺)
天台宗
本尊は薬師如来
新西国三十三箇所23番・福原西国三十三箇所32番・神戸十三仏8番
寺伝では延暦24年に最澄により能福護国密寺として創建されたとされており、日本最初の密教教化霊場と称する。平清盛所縁の寺としても知られており、治承4年には福原京遷都計画にともなって平家一門の祈願寺に定められたことで、大伽藍が建設され大いに栄えた。その後、に兵火で七堂伽藍全てを焼失したが、慶長3年に長盛法印が再興したと伝えられる。
三石神社
祭神は、神功皇后、天照皇大神、素盞嗚大神
社格 村社
推古天皇が禊をしたところを祓殿塚といい玉座にした石を三石という。天平時代、行基が和田泊を興した時、神功皇后の神霊が現れ、船の往来を守るといわれたので、祓殿塚の旧跡に祠を立て神号を往来神・雪気神とした。文禄2年雪気神を三石大神と改称。なお、神社は元々は現在地より東南約300メートルのところにあったが、享保7年に移転、さらに明治39年に移転し現在地となった。
湊川神社
祭神は、楠正成
社格 別格官幣社・別表神社
湊川の戦いで殉節した楠正成の墓は長らく荒廃していたが、元禄5年になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、慶応3年に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年5月24日、湊川神社が創建された。
和田神社
祭神は、天御中主大神、市杵嶋姫大神、蛭子大神
社格 県社
太古の昔、蛭子大神が淡路島から船で本州に到着したところを蛭子の森という。蛭子の森は、現在の神社より西南約800mのところで、元々の神社の場所である。平清盛は承安3年(1173年)、市杵嶋姫大神を勧請した。万治元年(1658年)、天御中主大神の坐す神輿が流れ着き、種々の神異をあらわし、それを知った当時の尼崎城主が天御中主大神を主神にして社殿を造営し>和田の明神>というようになった。明治34年(1902年)、造船所の建設のため現在地に神社が移転された。
海神社
祭神は、上津綿津見神、中津綿津見神、底津綿津見神
社格 式内社(名神大)・旧官幣中社・別表神社・播磨三大社
神功皇后が三韓征伐からの帰途、暴風雨のため船が進めなくなったので、綿津見三神を祀ると暴風雨が治まった。そこで綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まり。日本書紀に記される広田神社・生田神社・長田神社・住吉大社創建の記述とほぼ同様であるが、日本書紀に海神社に関する記述はなく、最も古い記述は大同元年の「新抄格勅符抄」にある播磨明石垂水神に神封戸10戸を寄進するという記述である。海上交通の要地のため古くから海上鎮護の神として崇敬を受け、「延喜式神名帳」では「播磨国明石郡 海神社三座」と記載され、名神大社に列している。
一宮神社
祭神は、田心姫命
社格 不明
創建不詳、一説には4世紀ともいわれている北野村の鎮守社。神功皇后が三韓からの帰途巡拝された一社で、生田裔神八社の一宮。元禄3年の調書に「市の宮」とある。昭和22年、山口神社(奈良県大柳生村)の境内社戸隠神社を模して社殿を再建。昭和30年、本殿再建。
佛母摩耶山忉利天上寺(天上寺)
摩耶山真言宗 大本山
本尊は仏母摩耶夫人尊
新西国三十三箇所第22番、関西花の寺二十五霊場第10番、西国愛染十七霊場第4番、摂津国八十八箇所第80番、摂津国三十三箇所第4番、神戸十三仏霊場第2番、神戸七福神(布袋尊)、福原西国三十三観音霊場客番奥之院
大化2年に孝徳天皇の勅願により、法道仙人が開創したと伝わる。後に空海が渡唐した際、梁の武帝自作の摩耶夫人尊像を持ち帰り、同寺に奉安したことから、この山を「摩耶山」と呼ぶようになったとされる。寺号は摩耶夫人が転生した忉利天に因むものである、江戸時代には将軍徳川家光により摂津国の鎮護寺に選定され、紀州徳川家が将軍家の代参の役をつとめた。
兵庫県神戸護国神社
祭神は、護国の英霊
社格 内務大臣指定護国神社、別表神社
戦没者の慰霊祭祀は、神戸市兵庫区会下山に於て、臨時に祭壇を設けて毎年官民合同で招魂祭がおこなわれていた。その後、灘区の関西学院跡地約3000坪に壮厳な素木流造りの本殿と社務所が建立され、昭和16年に内務大臣指定の護国神社に列せられた。昭和20年、戦災によってすべてが灰と帰した。昭和34年11月に、現在の灘区篠原の地に新社殿が復興された。
六甲八幡神社
祭神は、八幡大神、天照大神、春日大神
社格 県社
創建不詳、円融天皇の代に水原武信という者が八幡宮に祈り二子をもうけ、その二人の子も八幡宮の神助を蒙ることたびたびであり、後一条天皇の万寿3年この地に八幡大神をまつり崇敬したという。本殿は一間社春日造の檜皮葺きの社殿で、天明6年(1786年)に領主である石河氏の寄付によって、奈良県の春日大社の旧社殿を移した「春日移し」によるものと考えられる。
温泉神社
祭神は、大己貴命、少彦名命、熊野久須美命
社格 式内社(大)、郷社
大己貴命と少彦名命が赤い湯に浸かって脚の傷を癒していた三羽の烏をみて有馬温泉を発見したという故事により、この二柱の神を祭神として祀り、拝殿に三羽の鳥を彫刻する。そして建久2年(1191年)に始まる仁西上人による有馬温泉再興の時代より新たに奉られた熊野久須美命とともに「鎮護三神」と呼ばれる。
有馬山温泉禅寺
黄檗宗
本尊は薬師如来
有馬郡西国観音霊場第3番
神亀元年(724年)、薬師如来に衰退しかかっていた有馬温泉を復興するように言われた行基によって、有馬温泉郷の傍、六甲山系愛宕山の中腹に薬師如来を本尊として開かれたとされる。承徳元年(1097年)に有馬を襲った洪水によって温泉寺も壊滅するが、熊野権現のお告げによって有馬温泉を復興した仁西上人によって建久2年(1191年)に再興された。天正4年(1576年)に火災で全山焼失したが直ちに再建された。その後再び火災にあい、天正18年(1590年)に北政所によって薬師堂が再建され、江戸時代に焼失すると天明元年(1781年)に現在ある薬師堂が再建された。
寂静山伝法院極楽寺
浄土宗
本尊は 阿弥陀如来
有馬郡西国観音霊場第1番
伝承では推古天皇元年、鞍作止利が彫り上げた観音菩薩像を本尊として杖棄橋の東側にある石倉に聖徳太子が創建したとする。
承徳元年(1097年)に有馬を襲った洪水によって極楽寺は壊滅し、建久2年(1191年)に有馬温泉を復興した仁西上人に従ってきた河上維清によって現在地に移転して再興された。そして、法然上人を招いて名称を密曾寺山極楽寺と改めて念仏の道場として栄えた。後柏原天皇の時代、名称を寂静山伝法院極楽寺と改めている。
摂取山光明院念仏寺
浄土宗
本尊は 阿弥陀如来
有馬郡西国観音霊場第2番、神戸十三仏霊場第9番、神戸七福神(寿老人)
享徳5年(1532年)の創建で開山は岌誉。本尊の阿弥陀如来立像は快慶の作と伝わる。安土桃山時代の慶長年間(1596年 - 1615年)に谷之町から豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の別邸跡である現在地に移転した。古い石垣の上に建つ本堂は有馬温泉郷最古の建築物で、江戸時代中期の正徳2年(1712年)に建てられた。
敏馬神社
祭神は、素盞嗚尊、ミヌメ神(美奴売神・敏馬神)
社格 県社
神功皇后が新羅征伐に出発する際、川辺郡神前松原で戦勝祈願したとき、猪名川上流の能勢の美奴売山の神が来て、美奴売山の杉の木を切って船を作れば必ず勝利すると告げた。その通りにして勝利を納めた帰途、古代には南に突き出した岬となっていた当地の沖で船が動かなくなり、船上で占いをするとこれは美奴売山の神の意志であるとわかったので、そこに美奴売神を祀ったという。
三宮神社
祭神は、湍津姫命
社格 村社
航海の安全と商工業の繁栄を守る神として、古くから一般の崇敬厚い神社。古い記録がなく、いつ創設されたかなどについては未詳。祭神は水の神である湍津姫命。境内に「河原霊社」や「史蹟 神戸事件発生地碑」と当時の大砲が置かれている。
荒熊稲荷神社
祭神は、荒熊稲荷大神(宇迦之御魂命)
社格 不詳
詳細不明。古くからの社ではなく、昭和の時代からか。
布引山瀧勝寺
真言宗
本尊は 馬頭観音
摂津国三十三箇所5番
役行者が布引の瀧に入り修行中、馬頭観音が現れその霊感を得て創建したと伝える。元は滝寺村に有り、平清盛が福原に都を遷した際、葺屋庄内300戸を寺領として賜った。天正7年、花隈城主荒木村重の謀反に拠る滝山城落城の兵火によって悉く焼失したが、その後復興したという。
遍照山聖徳院
高野山真言宗 準別格本山
本尊は 弘法大師
摂津国八十八箇所81番
創建不詳。聖徳院、昔大和国高市郡久米村霊禅山にあったが、堂宇が破壊放置されたため本尊、脇仏を高野山南谷の大乗院に安置した。その後、藤原姓の俊恭法印が、慶長18年、高野山にて聖徳院を中興の祖となった。
筒井八幡神社
祭神は、応神天皇
社格 村社
平安時代に宇佐八幡宮から勧請された。境内には清水が湧き、井筒を設けており、地名が「筒井村」となったが、神社があることに因んで「宮本通り」と変更された。井筒は現在でも境内に残っている。後年、境内に別当の神宮寺が存在し、記録に「八幡大菩薩は当寺内陣の御尊薬師如来並びに阿弥陀如来の垂迹鎮守なり」とある。
王子神社(原田神社)
祭神は、健御名方大神、大市比売神
社格 不詳
鎌倉時代初期に、信州諏訪から松本忠一が一族を連れてこの地に移り住み豪族となった。松本一族始め村人達が元久元年に諏訪大社の分霊を勧請奉持し、約13000坪を境内地として「健御名方尊神社」を建立し、産業・農業・交通・競技等の守護神として信仰した。延元元年に、紀伊熊野より若一王子神の御分霊を勧請奉持し「王子権現」と称え信仰した。原田村には古来より、前記の御社とは別に「高林神社」があったが、明治39年に健御名方尊神社に移され一つとなり、昭和21年に「王子神社」と改称された。
観音山常福寺
高野山真言宗
本尊は 延命地蔵菩薩
摂津国八十八箇所85番、福原西国三十三所11番
創建不詳。奈良時代に行基菩薩によって開創された「蓮華寺」の法脈を受け継いでいる。元は西国街道に面した西代村内にあったが、明治晩年に山陽電車の敷設工事に伴い、村墓域のあった現在の地に移転された。
紀年山真福寺
高野山真言宗
本尊は 阿弥陀如来
摂津国八十八箇所83番
嘉祥元年(1106年)に仁和寺覚行法親王が武庫郡今津村字今津道に鎮座する福應神社を祈願所とし、延宝元年(1673年)別当として賢尊を開基に真福寺が置かれた。明治維新の廃仏毀釈で廃寺となり、これを憂いた伊達隆辯が再興。明治24年、神戸市中道通附属字文楽寺の現在地に移転、仮本堂を建立。昭和19年の空襲で焼失し、後に本堂を再建。平成7年の阪神・淡路大震災で倒壊し、鉄筋コンクリート製で本堂を再建する。
六宮神社
祭神は、天津彦根命、応神天皇
社格 村社
神功皇后三韓からの帰途、巡拝をされた一社で、現在の楠寺の前に鎮座されていたが、明治42年に、楠高等小学校の新設により、八宮神社の御社殿に合祀された。坂本村に皇別坂本臣紀朝臣の所領であったことから、祖先の武内宿弥が仕えていた応神天皇を祀ったと伝えられている。厄除の守護神として、古くから厄年の人の参詣が絶えない。旧八部郡坂本村鎮守。
八宮神社
祭神は、熊野杼樟日命、素盞鳴尊
社格 村社
神功皇后が三韓からの帰途、巡拝された一社です。橘通の旧県警庁舎の所に鎮座されていたが、明治42年に旧神戸市役所を鎮座地に新築したため、現在の楠町3丁目、大倉山南東の地に移転された。旧八部郡坂本村鎮守。
出雲大社神戸分祠
祭神は、大国主大神
社格 無格社
明治28年、島根県の出雲大社より分祀、出雲大社神戸教会所として創立。昭和15年、 阪神大水害で失われた社殿・教職舎、総檜造りにて再建。分院(大教会)に昇格。昭和25年、 分祠へと昇格。出雲大社神戸分祠となる。
走水神社
祭神は、天照大神、応神天皇、菅原道真
社格 村社
旧走水村の氏神で、社伝によると1100年以上の歴史を持つ由緒ある。明治維新までは、現在の元町通5丁目にあたる地域の山側に極楽寺と八幡神社があったため、この辺り一帯は八幡町と呼ばれていた。その後、明治7年には現在の「元町通」という地名に改称され、明治8年に現在の場所にあった天満宮とこの八幡神社を合祀した時に、現在の場所が旧走水村であったことから「走水神社」と呼ばれるようになった。
四宮神社(四の御前神)
祭神は、市杵島姫命
社格 村社
神功皇后三韓征伐の帰途、生田神社の裔神八柱の神を8ヶ所に奉斎された内の一社。永禄10年、荒木村重が織田信長の命により花隈城を築くと、当社を鬼門鎮護の神として神宝幣帛を捧ぐ。安政元年9月現在地に移転。
再度山大龍寺
東寺真言宗 別格本山
本尊は如意輪観音
近畿三十六不動尊霊場9番、西国愛染十七霊場5番、摂津国八十八箇所82番、摂津国三十三箇所6番、神戸十三仏霊場6番、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場8番、神戸七福神(大黒天)
称徳天皇の勅命により寺院を建立するのに適した地を探していた和気清麻呂が、摩尼山で道鏡の刺客に襲われた。しかし、突如現れた龍によって命を助けられた。そこで、神護景雲2年に勅許を得て自らが所有していた行基菩薩が彫り上げた聖如意輪観世音菩薩像を堂に祀り、摩尼山大龍寺と名付けた。延暦23年には空海が当寺に参詣し、帰国後も参詣したことから山号は次第に再度山と呼ばれるようになった。
柿本神社(人丸神社)
祭神は、柿本人麻呂
社格 県社
社伝によれば、仁和3年に明石の岡にあった楊柳寺(後の月照寺)の覚証という住僧が夢中に柿本人麻呂の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麻呂を祀る祠を建てて寺の鎮守としたことに創まるという。柿本人麻呂の死去から1,000年に当たるとされた享保8年に霊元上皇の執奏により正一位の神階と「柿本大明神」の神号が宣下されるとともに女房奉書が下賜され、命日とされた3月18日に盛大な一千年祭が営まれた。
稲爪神社
祭神は、大山祇神、面足神、惶根命
社格 郷社
推古天皇の頃、三韓より鉄人が8千人を率い来襲した。討伐を命じられた伊予国の越智益躬は、故郷の大山祇神社の祭神である大山祇神に祈ったところ、鉄人が明石に着いた時、稲妻とともに大山祇神が姿を現し、鉄人の唯一の弱点である足裏を射よと告げ矢で射殺した。越智益躬は大山祇神に感謝し、大山祇神社を勧請したことに始まると伝えられる。古くは稲妻大明神と呼ばれていたが、稲妻が転訛して「稲爪」となったと伝えられる。天正6年、高山右近の大蔵谷城攻めの兵火により社殿は焼失し、北方に遷座し、そこを仮宮とし、寛永14年、社殿が再建され元の地に遷座した。
明石天満宮(休天神)
祭神は、菅原道真
菅公聖蹟二十五拝15番
境内には菅原道真公が太宰府へ配流される途中に腰をかけて休んだという「腰掛石」があり、通称「休天神」と呼ばれている。菅公の左遷を嘆き悲しむ駅長を慰めるために詠まれた「歌碑」も建てられている。
尾上神社
祭神は、住吉大明神
社格 村社
神功皇后が三韓征伐の際に、この地に上陸したが長雨のために船を進めることが出来なかったため、「鏡の池」で潔斎沐浴して晴天を祈願し、住吉大明神を勧請したことが起源といわれる。神社にある尾上の鐘とも呼ばれる梵鐘は朝鮮鐘で国の重要文化財に指定されている。また、境内には高砂にも詠まれ天然記念物であった尾上の松があることでも有名。
浜宮天神社
祭神は、菅原道真・大国主命・少彦名命
社格 郷社
延喜元年、菅原道真が大宰府へ左遷の時、松を植え、その後村人の信仰の対象となり、長和元年には小祠を建てお祀りしたのが起源。文安元年に社殿を建立。天文5年、赤松政村より社領15石が寄せられた。寛文13年には大改築が行われた。
刀田山鶴林寺
天台宗
本尊は薬師如来
新西国三十三箇所27番・西国薬師四十九霊場22番・聖徳太子霊跡27番・播州薬師霊場9番
創建は崇峻天皇2年、聖徳太子が高麗僧・恵便のために建立、養老2年、身人部春則なる人物が七堂伽藍を整備したという。創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったものを、天永3年に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。戦国時代には近隣の書写山が戦火に巻き込まれたが、黒田孝高の説得で信長派となり戦に巻き込まれずに今日まで古い建築物が沢山残った。
生竹山観音寺(白旗観音寺)
曹洞宗
本尊は聖観世音菩薩
播磨西国三十三箇所28番
平安時代、阿蘇神宮の大宮司であった阿蘇友成が叙勲の御礼の為、京に上る途中、この浦に立ち寄り、高砂の松や尾上の松を見物し、出航しようとしたところ、船が動かず、観音菩薩のお告げがあった。村人に観音像を預けると、阿蘇友成は出航することが出来た。観音像を安置したお堂がこの寺の始まりという。
曽根天満宮
祭神は菅原道真、天之穂日命、菅原公達
社格 県社
菅公聖蹟二十五拝16番
社伝では延喜元年、菅原道真が大宰府に左遷される途上に伊保の港から上陸し、「我に罪なくば栄えよ」と松を手植えした。後に播磨国に流罪となった子の菅原淳茂が創建したものと伝えている。江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた。
生石神社(石の宝殿)
祭神は大穴牟遅命、少毘古那命
社格 県社
日本三奇
崇神天皇の時代、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたとしている。『播磨国風土記』の大国里の条には「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」という意味の記述がある。成務天皇11年、羽後国飽海郡平田村生石に分社が作られた。天正7年、羽柴秀吉が三木合戦の折、神吉城攻略のために貸与するよう申し出たが、拒否されたために焼き討ちに逢わせた。
射楯兵主神社
祭神は射楯大神・兵主大神
社格 播磨国総社・式内社(名神小)・県社・別表神社
欽明天皇25年に影向があり、飾磨郡伊和里水尾山に大己貴命を祀ると伝えらる。8世紀以前には射盾の神が飾磨郡因達里に祀られていたことが知られ延喜式神名帳には「射盾兵主神社二座」とある。養和元年には播磨国内大小明神174座の神々を合わせ祀って「播磨國総社」の称号を戴いて三日潮「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになった。姫路城築城で現在地に遷座してからは、池田輝政、本田忠政、榊原忠次から数々の宝物が奉献された。しかし、第二次世界大戦の戦禍によって全て焼失、現在の社殿は戦後に復興された。
書写山圓教寺
天台宗別格本山
本尊は如意輪観世音菩薩、釈迦如来、阿弥陀如来
西国三十三箇所27番・播磨西国三十三箇所1番・播州薬師霊場16番
康保3年性空上人の創建。寛和3年に花山法皇が御幸し、圓教寺の寺号が与られた。花山法皇以外にも、後白河天皇・後醍醐天皇など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立がおこなわれている。武蔵坊弁慶は一時期「書写山」で修行したとされており、机など、ゆかりの品も伝えられている。 一遍、一向俊聖、国阿ら時衆聖らが参詣したことでも知られ、一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。性空上人は橘氏の人物で、このほど遺骨が坐像の頭部に納められていることがわかった。
八徳山八葉寺
天台宗
本尊は十一面観世音菩薩
播磨西国三十三箇所3番
天平8年に行基の開創と伝えられる。平安中期に「日本往生極楽記」を著した慶滋保胤が出家して寂心と名乗り、堂舎を建てたことで知られ、寂心は書写山円教寺を開いた性空上人と親交があつく、寂心が沐浴する湯釜が欲しいと思っていたところ、ある日、それと察した性空上人から湯釜が届けられたという逸話が残っている。その湯釜は現在も本堂奥の奥の院に安置されている。
姫路神社
祭神は酒井正親、姫路藩酒井家歴代藩主
社格 県社
明治4年、10代120年余りに亘って姫路藩を治めてきた酒井家は、東京へ移住することとなり、旧藩臣・旧領民らは酒井家への思慕の念から明治12年1月、酒井家遠祖の新田義貞の裔、酒井正親を祀る神社を神東郡姫路本町50・51・52番地に創建した。旧社域は民家に隣接し狭隘だったため、大正14年1月、現在地に当たる姫路城内の官有地1974坪余を大蔵省から買い受け社殿を新築し、昭和2年6月に遷座した。
兵庫縣姫路護国神社
祭神は護国英霊
社格 内務大臣指定護国神社・別表神社
明治26年より兵庫県官民合同にて現護國神社鎮座地付近にて 招魂祭 が執行され、兵庫県招魂社造営奉賛会を組織し、内務大臣の創立許可を得て姫路白鷺城の麓に昭和13年竣工、昭和14年内務省令に基づき、招魂社は護國神社に改称された。終戦後、白鷺宮と改称しサンフランシスコ講和条約発効後、昭和29年再び護國神社と復称した。
男山八幡宮
祭神は八幡神、比売大神、大帯比売命
社格 無社格
貞和元年、赤松貞範が国府姫路の姫山に城を築く際に京都の岩清水八幡宮より分霊し男山に祀る。城の鎮守社として歴代城主の信仰も厚かった。延宝7年、松平直矩が社殿を修理した。正徳6年、榊原政邦が社殿を新築再建した。政邦は「男山八景」の和歌も詠んでいる。昭和62年、放火で建物を焼失した。平成2年、本殿・幣殿・拝殿を再建した。
水尾神社
祭神は大己貴命、伊和大神
社格 無社格
天平宝字8年、飾磨郡伊和里水尾山に兵主神を祭祀する。延暦6年、坂上田村麻呂が兵主神を飾磨郡国衙小野江梛本に遷座する。周辺の民が男山に祠を建てて祀った。このため水尾神社は播磨国総社の元宮といわれている。元和5年、本多忠政が姫路城を増築する際、神守岡より岡大歳社を遷座し社殿を造営する。昭和58年、屋台を新調する。
千姫天満宮
祭神は菅原道真
社格 無社格
千姫は天神を信仰しており天神の木像を祀っていた。慶長20年の大坂夏の陣で秀頼が自害し千姫は寡婦となるが、元和2年には本多忠刻と再婚。元和3年に忠刻が姫路に移封されると、千姫は本多家の繁栄を願い姫路の天門(乾・北西)の鎮めとするため元和9年に男山に天満宮を建立し6枚の羽子板を奉納した。千姫が生活していた姫路城西の丸から拝礼出来るように東向きに造営されており、千姫は長局の廊下から拝礼していたと伝わる。
大塩天満宮(天満神社)
祭神は、菅原道真、天穂日命、大己貴命
社格 郷社
菅公聖蹟二十五拝17番
菅原道真が大宰府に左遷される途上で氏子地域に立ち寄ったことを由縁に、天神山(円山)山麓、大塩村字伊屋ヶ谷の伊屋明神(天穂日命、大己貴命)に菅公を奉祀、後に菅公が主神、在来の神が配祀となって天満宮を称したと云われる。獅子は毛獅子と呼ばれるもので、胴幌(油単)一面が毛で覆われており、獅子の野性味を舞で表現する。道中舞と地舞がある。
広峰神社(広峯牛頭天王)
祭神は、素戔嗚尊、五十猛命
社格 県社、別表神社
733年吉備真備によって創建。本殿は室町中期、拝殿は江戸時代に再建された国指定の重要文化財。平成30年、本殿裏手境内に黒田孝高(官兵衛、如水)を祭神とする神社を建立。
白國神社
祭神は、木花咲耶姫命(神吾田津日売命)、稲背入彦命、阿曽武命
社格 式内社、播磨国四宮、県社
景行天皇の曽孫であるという阿曽武命が、その妃の高富媛の臨産に苦しんでいた際に、倉谷山の峰に白幣を立てて神吾田津日売命(=木花咲耶姫命)を祀って祈願したところ、神からお告げがあって無事に出産できたため、この神を祀ったのが創建。「神吾田津日売命(=木花咲耶姫命)」を古くから祀っていた。
伊和神社
祭神は大己貴神
社格 式内社(名神大社)・播磨国一宮・旧国幣中社・別表神社・播磨三大社
成務天皇14年、または欽明天皇25年(564年)の創祀と伝わる。 「延喜式神名帳」には、「伊和坐大名持魂神社」とあり、正暦2年(991年)、正一位の神階に叙せられた。播磨国一宮とされ、幾度か火災にあって焼失する度に朝廷、国司、守護赤松氏、近隣の藩主などの庇護で再建された。
紫雲山中山寺
真言宗中山寺派大本山
本尊は十一面観世音菩薩
西国三十三箇所24番・真言宗十八本山4番・摂津国八十八箇所69番・70番・71番・摂津西国三十三箇所1番・聖徳太子御遺跡26番
寺伝では聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場。「極楽中心仲山寺」と称されていた。現在の本堂や阿弥陀堂は豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建した。羅漢堂には約800体の羅漢像が並ぶ。安産祈願の霊場して皇室、源頼朝など武家、庶民より深く信仰を集めた。豊臣秀吉が祈願して豊臣秀頼を授かったとされる。また、幕末には中山一位局が明治天皇を出産する時に、安産祈願して無事出産したことから、日本唯一の明治天皇勅願所となり、安産の寺として知られる。
蓬莱山清荒神清澄寺
真言三宝宗大本山
本尊は大日如来
真言宗十八本山3番・摂津国八十八箇所72番
平安時代の初め、宇多天皇の勅願寺の一つとして創建。讃岐国の名工、定円法眼に命じて曼陀華の香木で本尊大日如来像を刻ませ、寛平8年に叡山の高僧静観僧正を迎え、開山の祖とした。伊勢内宮、外宮など十五神を勧請し鎮守神として三宝荒神社を祀り、蓬莱山七嶺七渓に荘厳な伽藍を造営し、天皇より「日本第一清荒神」の称号を与えられ栄えた。源平の兵火により灰燼に帰したが、勅命により建久4年源頼朝によって再興され、それよりまた400年の後の伊丹合戦で再び炎上したが、火の神、火防の神として霊験あらたかな荒神社のみは、いづれも難を免れている。
来迎山正念寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
摂北観音霊場2番
創建不詳。明治14年まで念仏専修道場であった。元禄時代に山本の富豪坂上輿次右衛門が、名妓吾妻太夫を寵愛。輿次右衛門没後、吾妻太夫は尼となり、菩提を弔いつつ、道ゆく人に湯茶を接待したという。庵室は茶所と呼ばれ、親しまれたが、昭和30年撤去された。
武庫山平林寺
真言宗単立
本尊は釈迦如来
摂津国八十八箇所73番・摂津国三十三箇所観音2番
飛鳥時代、用明天皇の命で聖徳太子が創建し、平安時代に如一尼が再興したという。天正6年、荒木村重の反乱に巻き込まれて焼失し、江戸時代に再興された。「武庫の七寺」の一つとして著名で、当時の有名な地誌である「摂陽群談』という書き物にも記載されている。
伊和志津神社(伊和志豆神社)
祭神は須佐之男命
社格 式内大社
創建は遅くとも9世紀以前であるが、 一帯は8世紀後半から伊蘇志臣が拠点としていた地であり 、この時期に伊蘇志臣が創建した可能性がある。安土桃山時代、加藤清正が文禄・慶長の役で朝鮮から持ち帰った虎を境内で飼育したと伝えられる。
宝塚神社
祭神は素盞嗚尊、大山咋命
社格 村社
創建不詳。平林寺が聖徳太子開基とされ同時期の創建と思われる。
行者山などが連なる山脈の端に位置し、山岳修験道から当地に白山権現を祀り、白山権現社と号していた。小林村の村社であった牛頭天王社の「東氏神」に対して、「西氏神」と呼ばれた。明治初期の廃仏毀釈により「日吉神社」へ改称、明治41年には天神社・愛宕社を神社合祀する。昭和41年「東氏神」の素盞嗚神社を合祀し、宝塚神社へ改称。
大雲山宝蔵院金龍寺
真言三宝宗
本尊は得自性清浄法性如来
摂津国八十八箇所74番
聖徳太子が「武庫の七寺」の1つとして建立されたと伝わる。天正10年、荒木村重の乱で堂宇ことごとく焼失し、資料などは残っておらず不詳である。現存の建物は、元禄年間に、赤穂義士を支援したあの天野屋利兵衛が泉州堺より、移築寄進したとの話が伝わる。
東光山菩提寺(花山院)
真言宗花山院派
本尊は薬師瑠璃光如来
西国三十三箇所番外・西国薬師四十九霊場第21番
法道仙人開基伝承をもつ寺院で、正暦3年頃、三十三の観音霊場を巡礼した花山院が、播州清水寺に登った際に東方の山上が光り輝くのを見て訪ねて隠棲の地とし、約14年間を過ごしたとされる。これに因んで東光山と呼ばれるようになった。麓の集落は尼寺と呼ばれるが、花山院の女官11名が法皇寵愛の弘徽殿の女御の位牌を奉じて訪ねて来たものの、女人禁制を理由に登山を許されなかった為、尼となって麓に住み着いたことに因む。 集落内には十二尼妃の墓と伝わる大小12基の墓が存在する。
法華山一乗寺
本尊は聖観音菩薩
西国三十三箇所26番・播磨西国三十三箇所33番
寺伝によると、孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基(創立者)は法道仙人とされる。創建時は、現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されている。笠松山の山麓には古法華石仏と称される奈良時代の三尊石仏があり、法華山一乗寺の旧地を示している。現存する一乗寺三重塔は平安時代末期の承安元年の建立である。本堂は本多忠政の寄進により、寛永5年に建てられたものである。
泉生山酒見寺
本尊は十一面観世音菩薩
新西国三十三箇所第29番・播磨西国三十三箇所第16番・加西西国三十三箇所第33番
天平17年(745年)、酒見明神の神託を受けた行基が聖武天皇に奏上し、寺号を泉生山 酒見寺として開創した。勅願寺であり、隣接する酒見明神社の別当寺となった。平安時代から毎年勅使の参詣が行われていたが、2度全山を焼失している。平治の乱での全山焼失の際は二条天皇の御朱印を賜い勅により再建されている。天正年間(1573年 - 1592年)にも兵火で全山が焼失した。江戸時代に入り、姫路城主の池田輝政が守護寺に定めて援助を行い、池田家の転封後は本多忠政の援助を受け、寛永年間に江戸幕府の命を受けた実相院隆恵によって再興された。さらに3代将軍徳川家光が朱印寺と定め、代々将軍から朱印状と所領60石を下附された。
御嶽山清水寺(播州清水寺)
天台宗
本尊は十一面観世音菩薩
西国三十三箇所25番・播磨西国三十三箇所21番・播州薬師霊場10番
寺伝によると開山は法道仙人という印度僧で今より1800年前の景行天皇の時とされる。仏教の伝来から考えると伝説といわなければならないが、兵庫県南部に同様の伝説が集中して残っていることから、渡来人の僧侶がこの地方で活躍した事実がある可能性は高い。627年、推古天皇勅願により、根本中堂建立、仙人一刀三礼の秘仏十一面観音、脇士毘沙門天王、吉祥天女の聖像を安置された。その後、神亀2年聖武天皇が行基に勅願して大講堂を建立させた。
松龍山如来寺
西山浄土宗
本尊は阿弥陀如来
1533年(天文2年)に当案賢正を開山として創建された。1672年(寛文2年)には龍野藩主脇坂氏の菩提寺となった。1730年(享保15年)に宝鏡寺門跡から山号「松龍山」を賜った。
阿宗神社
祭神は神功皇后、応神天皇、玉依姫命、息長日子王
社格 式内社、県社
欽明天皇32年に、宇佐八幡宮より勧請されて立岡山に鎮座した式内社が、鎌倉期に広山の現在地へ遷座。江戸期には弘山八幡宮と称する。立岡山の旧地には小宮がその後も存在していたが、旧阿宗神社は次第に寂れ、明治中期に現・阿宗神社に遷され、広山の八幡宮は阿宗神社へ改称した。
斑鳩寺
天台宗
本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音
新西国三十三箇所32番、西国薬師四十九霊場第23番、播州薬師霊場第18番、聖徳太子霊跡第28番
606年、聖徳太子が推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩宮から移住し当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、政所と寺院を建立した。長らく七堂伽藍と数十の坊庵を誇る大寺院であったが、室町時代後期の天文10年(1541年)、播磨国に攻め込んできた尼子氏の戦禍を受け、灰燼に帰した。後に龍野城主・赤松政秀とその子赤松広英、中興・楽々山円勝寺の円光院昌仙などの発願で徐々に復興していった。
末代山温泉寺
高野山真言宗別格本山
本尊は十一面観世音菩薩
西国薬師四十九霊場29番・西国三十三箇所番外・但馬西国三十三箇所33番
養老4年に城崎温泉を開いた道智上人により天平10年に開創された。道智上人は衆生済度の大願を発して、諸国をめぐり、養老元年に城崎の地に来て、当所鎮守・四所明神の神託により、一千日間の修行をしたところ温泉が湧出し城崎温泉が開かれる。その後、長谷寺と同木同作の由緒正しき観音像を得て開創。城崎温泉の守護寺。
養法山本住寺
法華宗真門流
本尊は大曼荼羅
室町時代後期天文7年、日壽上人による開基。承応2年伯耆守杉原重元の寄進を受け、寛政9年日軌上人の時に現在地に改築移転する。
四所神社
祭神は湯山主大神
社格 村社
和銅元年に日生下権守という者が夢中に現れた4柱の神の神託に従って創建した。養老元年に参拝した道智上人に神託があり、外湯「まんだら湯」を開湯したと伝わる。以来、城崎温泉の守護神として、道智開基の温泉寺を別当寺として崇敬を集めたが、明治の神仏判然令で明治3年に同寺と分離し、同6年に村社に列した。
出石神社
祭神は伊豆志八前大神、天日槍命
社格 式内社(名神大)、但馬国一宮、国幣中社、別表神社
古事記や日本書紀に記される渡来新羅王子の天日槍伝説の中心となる神社で、現在の祭神には天日槍が将来したという八種神宝の神霊および天日槍自身の神霊を奉斎し、地元では出石の開拓神としても信仰される。
圓覚山宗鏡寺(沢庵寺)
臨済宗大徳寺派
本尊は釈迦如来
元中9年、山名氏の菩提寺として入佐山の麓に創建。開基は山名氏清、開山は東福寺の大道似禅師。寺号は氏清の法号である宗鏡寺殿に由来するとされる。天正19年、出石城主前野長康が大徳寺から春屋宗園の弟子である薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵宗彭もこの時に薫甫の弟子として師事することになったという。山名氏滅亡後永らく荒廃していたが、出石城主小出吉英のすすめを受けた沢庵により元和2年に再興された。
亀居応挙寺大乗寺
高野山真言宗
本尊は十一面観世音菩薩
西国薬師四十九霊場28番・但馬西国三十三箇所30番・但馬七福神(弁財天)
天平17年、行基菩薩による開山。江戸時代中期、密蔵上人、密英上人による天明年間から寛政年間にかけて行われた客殿再建により現在の大乗寺の姿となる。この時、円山応挙とその門人達による障壁画165面が遺される。寛政7年に都合8年の歳月をかけた応挙一門による障壁画の制作が完了。
春日神社
祭神は天児屋根命、武甕槌命、経津主命、比売神
社格 県社
平安時代初期の876年、日置荘を領有者であった藤原基経、藤原時平父子により藤原氏の氏神である春日大社より分祀し黒岡村南部の当時は笹山と呼ばれた現在は篠山城のある小山に勧請し、祀り氏神としたのが起源とされる。1609年、篠山城築城の際に現在の地に遷された。秋の祭礼に使われる金神興は、2基を黒岡村より元禄7年6月に、他の2基は安永8年9月、篠山町より寄進されたもの。9台のちんちき山と呼ばれる山鉾は寛文3年以降に各町内より寄進されたもので、京都の祇園の山鉾を模し造られており、絢爛豪華である。
王地山まけきらい稲荷(妙長山本経寺)
日蓮宗
本尊は大曼陀羅御木像
慶長6年、高崎の城主松平安房守信吉が実母菩提の為、家臣都築和泉に奉行を命じ、茨城県土浦の地に建立した寺で、開山持経院日泉上人を派遣した大本山本門寺の末流。元和5年、松平信吉が丹波篠山城主として転封の際、本堂を解体し船に乗せ河原町の現在地に移築建立された。
王地山まけきらい稲荷の由来は藩主が青山忠裕の時に将軍様御上覧の大相撲で王地山平左衛門ほか篠山の力士が活躍したが、お稲荷様の使いであったという話から、稲荷社を丁重に祀ったとされる。
伊弉諾神宮
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊
社格 式内社(名神大)・淡路国一宮・旧官幣大社・別表神社
国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮に鎮まったとあり、当社の起源とされる。古代には、淡路島神、津名神、多賀明神などともいった。貞観元年(859年)1月27日に、無品勲八等であった当社へ神位一品が授けたと記録がある。延長5年(927年)には「延喜式神名帳」に「淡路国津名郡九座 大一座 小八座 淡路伊佐奈伎神社 名神大」と記載され、名神大社に列した。