京都府③

宇治市

明星山三室戸寺

本山修験宗別格本山

本尊は千手観世音菩薩

西国三十三箇所10番

宝亀元年、光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建した。天智天皇の孫にあたる白壁王は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁藤原犬養なる者に命じ、その光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着き、観音像を見つけ安置した。当初は御室戸寺と称した。康和年間、三井寺の僧隆明によって中興された。その後寛正年間の火災で伽藍を失い、再興されたものの、天正元年には織田信長と争った足利義昭に加勢したため焼き討ちされる。現存する本堂は江戸時代後期の文化11年に再建された。

縣神社

祭神は木花開耶姫命

社格 村社

創建年代等については不詳。古くは大和政権下における県に関係する神社と見られている。永承7年、藤原道長が別業を寺院である平等院とする際にその鎮守としたとされる。江戸時代末までは神仏混交により三井寺の支配を受けた。

朝日山平等院

単立

本尊は阿弥陀如来

光源氏のモデルともいわれる左大臣源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。万寿4年に藤原道長が没し、その子の藤原頼通は永承7年、宇治殿を寺院に改めた。開山は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。天喜元年には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂が建立された。

雨宝山放生院常光寺(橋寺)

真言律宗

本尊は地蔵菩薩

推古天皇11年に秦河勝が宇治橋を架けた折に創建した寺と伝えられる。境内にある「宇治橋断碑」によれば、宇治橋は元興寺の僧道登によって大化2年に架けられたとされる。鎌倉時代の弘安4年、叡尊によって中興された。文明11年、兵火に遭い室町幕府の援助などにより復興されたが、江戸時代の寛永8年にも火災に遭い焼失した。

宇治上神社(離宮明神)

祭神は菟道稚郎子命、応神天皇、仁徳天皇

社格 式内社(小)、府社

創建年代等については不詳。宇治神社と二社一体の存在であった。当社の境内は「山城国風土記」に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因む。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられた。また、1052年創建の平等院との深い関連性が指摘されている。

宇治神社(離宮明神)

祭神は菟道稚郎子命

社格 式内社(小)、府社

創建年代等については不詳。宇治上神社と二社一体の存在であった。明治以前は「下社」「若宮」、宇治上神社は「上社」「本宮」と呼ばれた。

朝日山恵心院

真言宗智山派

本尊は十一面観世音菩薩

弘仁13年、空海によって開基。唐の青龍寺に似ていることから龍泉寺と称した。その後、種々の戦火にあい、寛弘2年、比叡山横川の恵心僧都が再興し、寺号を「朝日山恵心院」と改名した。江戸時代には春日局が徳川家光のために祈願をした寺で、将軍家、宇治茶師からの後援を受けた。

正覚院(開運不動尊)

高野山真言宗

本尊は開運不動明王

創建、開基など詳しいことは不明。江戸時代初期の宇治名所絵巻には載っていることから、その時代には既にあったと思われる。

黄檗山萬福寺

黄檗宗大本山

本尊は釈迦如来

都七福神(布袋尊)

1661年に中国僧の隠元隆琦によって開創された。隠元は臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺の住職であったが、日本からの招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝。宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中国の自坊と同じ黄檗山萬福寺と名付けた。当初「臨済宗黄檗派」などと称していたが幕府の政策等により、明治9年、一宗として独立し黄檗宗を公称する。日本の禅宗は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類される。

許波多神社(柳大明神)

祭神は、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、神日本磐余彦尊

社格 式内社(名神大)、郷社
大化元年(645年)、蘇我倉山田石川麻呂の奏上により、孝徳天皇が中臣鎌足に命じて、皇祖を祀る神殿を山背国菟道郡許畑、柳山に造営させたのに始まる。柳山の地に社殿があったことから、後に柳大明神と呼ばれるようになり、江戸時代までは柳神社を正式の社名としていた。明治時代、陸軍宇治火薬製造所の建設のため社地全体が官有地として召し上げられ、御旅所であった現在地に遷座し、社名を許波多神社に改称した。

佛德山觀音導利興聖寶林禪寺(佛德山興聖寶林禪寺

曹洞宗

本尊は釈迦三尊

道元は宋から安貞元年(1227年)に帰国すると、建仁寺に身を寄せ、その後、深草の安養院に閑居した。天福元年(1233年)、道元は深草に興聖寺を開創。「永平広録」によれば嘉禎2年(1236年)に開堂式が行われ、観音導利院興聖宝林禅寺と号した。その前年の嘉禎元年(1235年)の「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」によると、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。興聖寺は比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)に道元が越前国に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶。慶安元年(1648年)、淀藩主の永井尚政が万安英種を招聘して第5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に再興した。寛文4年(1664年)に畿内の触頭寺院となる。延享4年(1747年)には永平寺の末寺となっている。

南丹市

生身天満宮
祭神は、菅原道真
社格 府社
菅原氏代々の知行所園部の代官であった武部左衛門尉治定(武部源蔵)が、菅原道真左遷の時に、「松風の御硯」と八男慶能の養育の内命を受ける。延喜元年の春、日武部源蔵が菅原道真の木像を刻み、小麦山邸内にひそかに祠を建てて生祠と称し、木像を奉齋したのが始まり。承応2年園部藩初代藩主の小出吉親が小麦山に築城する際に現在地に遷座された。

亀岡市

菩提山穴太寺

天台宗

本尊は薬師如来

西国三十三箇所21番

宝徳2年成立の「穴太寺観音縁起」によれば、慶雲2年、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる。穴太寺の聖観音像は「身代わり観音」の伝説で知られる。昔、丹波国桑田郡の郡司をしていた男は、都の仏師に依頼して聖観音像を造り、仏師には褒美として自分の大切にしていた名馬を与えた。しかし、与えた名馬が惜しくなった男は、家来に命じて仏師を弓矢で射て殺してしまった。後で確認すると仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっていた。改心した男は仏道を信じるようになったという。同様の説話は「扶桑略記」にもあるが、ここでは男の名が「宇治宮成」、仏師の名が「感世」とされている。

福知山市

丹波御霊神社
祭神は、宇賀御霊大神、明智光秀

社格 不明
創祀は宝永2年。元々は宇賀御霊大神を祀る稲荷社と光秀を祀る菱屋町の常照寺と分かれていた。福知山城主である朽木氏が、かつて当地を「福智山」と命名し、福知山城を近世の城に改修するなど善政をしいた明智光秀の合祀を許したことが始まりとされ、社号もこれに由来する。

舞鶴市

青葉山松尾寺

真言宗醍醐派

本尊は馬頭観音菩薩

西国三十三箇所29番

寺伝によれば、唐から渡来した威光上人が和銅元年、双耳峰の青葉山を見て、唐の馬耳山を起想し登山したところ、大樹の下に馬頭観音を感得し、ここに草庵を結び馬頭観音像を安置したのが創始とされている。元永2年には鳥羽天皇が行幸、寺領4千石を給い、寺坊は65を数えて繁栄した。その後、度重なる火災にあったが、その都度、細川幽斎や京極家によって復興される。現代の本堂は牧野英成により享保15年に修築された。

宮津市

成相山成相

真言宗

本尊は聖観世音菩薩

西国三十三箇所28番

慶雲元年に文武天皇の勅願寺と創建されたと伝わる。開祖である真応上人が修業中、大雪のため食糧が絶えて餓死寸前となった時「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈ったところ、一頭の傷ついた鹿が現れた。真応上人は命には代えられず、その鹿の肉を煮て食べ飢えをしのいだが、鹿の肉だと思ったものは本尊の聖観世音菩薩像の腿だったので、本尊が身代わりとなって命を救ったことから、この寺が「願う事成り合う寺」成合(相)寺と名付けられたといわれる。本堂は1774年の再建とされる。

天橋山智恩

臨済宗妙心寺派

本尊は文殊菩薩

日本三文殊

大同3年の平城天皇の勅願寺として創建された。延喜年間(10世紀初頭)には、醍醐天皇から勅額を下賜されたというが、以後、中世までの歴史は判然としない。当初は真言宗の寺院で、禅宗寺院になるのは南北朝時代以降である。古くから文殊信仰の霊場として知られ、謡曲「九世戸」の題材となっている。

籠神社
祭神は、彦火明命
社格 式内社(名神大)、丹後国一宮、旧国幣中社、別表神社

嘉祥2年に「籠神」が従五位下に叙せられたという記事で、その後六国史での神階は元慶元年の従四位上まで昇進した。延長5年成立の『延喜式』神名帳では丹後国与謝郡に「篭神社(籠神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。籠神社の西方には丹後国分寺跡もあり、当地一帯が丹後国の中心地であったことがうかがわれる。中世の籠神社境内の様子は雪舟の「天橋立図」に描かれている。

真名井神社
祭神は、豊受大神
社格 籠神社奥宮、

「下宮」とする本宮に対して、奥宮の主座は「上宮」に位置づけられる。社殿は桁行一間、梁行二間の神明造で、檜皮葺。天保3年(1831年)の造営で、京都府の有形文化財に指定されている。社殿裏に2つの磐座がある。現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地に鎮座した。その地は「匏宮(よさのみや)」と呼ばれたとし、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。

天蓋山大谷

真言宗

本尊は不動明王

籠神社別当寺

元は山城国下醍醐にあったが、養老2年に移築された。中世には籠神社の別当寺として栄え、多くの堂宇があり雪舟の「天橋立図」に描かれている。本尊の不動明王坐像は黒不動とよばれ、文政2年、丹後守護職一色義直を大檀那とし僧・智海が願主として自ら刻んだもの。

八幡市

石清水八幡宮
祭神は、八幡大神
社格 国史見在社・二十二社(上七社)・旧官幣大社・勅祭社・別表神社

平安時代前期に宇佐神宮から勧請されたもので、京都盆地南西の男山山上に鎮座する。天皇家からは遠国の宇佐神宮に代わり二所宗廟の一つとして崇敬された。また、公家には京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として鬼門(北東)の延暦寺とともに重要視された。武家では特に源氏が武神として信仰し、源氏の広がりとともに、源頼義による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鶴岡八幡宮など、当社から勧請された八幡宮が各地に建立された。

飛行神社
祭神は、饒速日命、航空殉難者の霊・航空業功績者、薬祖神・金毘羅・白龍神

二宮忠八は明治24年に日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功したものの、ライト兄弟が飛行機を開発したことを知り、研究から離れる。しかし、飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛め、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じて犠牲者の霊を祀る神社を大正4年に創建した。饒速日命は神話において天磐船にのって地上に降臨したとされることから、空の神・飛行機の神(天磐船)として結び付けられ、飛行神社の祭神に選ばれた。

泰勝寺

臨済宗妙心寺派

本尊は釈迦牟尼

大正7年に松花堂昭乗の墓所が余りにも荒れ果てていたのを、大阪の篤志家中尾かつ子の尽力によって方丈、庫裏の他青松居という茶室、閑雲軒という数寄屋を新築した。泰勝寺の寺号は熊本の細川侯菩提寺の「泰勝寺」が廃寺なったのを貰い受けたとの説がある。開基は神月撤宗。

長岡京市

長岡天満宮

祭神は菅原道真

菅公聖蹟二十五拝5番 京都十六社

長岡の地は、菅原道真が生前に在原業平らと共に、 しばしば遊んで詩歌管弦を楽しんだところで、太宰府へ左遷された時に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しまれた縁故によって、自作の木像をお祀りしたのがはじまり。 皇室の崇敬篤く度々寄進をうけ、寛永15年八条宮智仁親王によって「八条が池」が築造された。中堤両側に樹齢百数十年のきりしまつつじが多数植えられ、つつじの名所として名高い。

清巖山長法寺

天台宗

本尊は十一面観音菩薩

京都洛西観音霊場9番

天台宗延暦寺の末寺で、延喜10年、三井寺の開祖智證大師の弟子、千観上人が開基。千観上人が諸国を巡歴の途中、観世音菩薩が夢にあらわれ、「この地に留まってお寺を建てよ」とのお告げがあり、それに従ってお堂を建てたのが起こりと伝えられている。境内には、千観供養塔と伝えられる鎌倉時代の三重の石塔が現在も残り、国宝の「絹本著色釈迦金棺出現図」もかつては当寺にあった。

報国山念仏三昧院光明寺

西山浄土宗総本山

本尊は阿弥陀如来

法然上人二十五霊跡16番、京都洛西観音霊場7番

法然を慕い帰依した、弟子の蓮生(熊谷直実)が、建久9年に当地に、念仏三昧堂を建立したのが始まり。のちの嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。法然の石棺から、まばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえたという。

恵解山青龍寺(勝龍寺)

真言三宝宗

本尊は十一面観音菩薩

ぼけ封じ近畿十楽観音霊場3番、京都洛西観音霊場14番

大同元年、空海の開基。大干ばつ大飢饉の年に住職千観上人の祈とうで雨が降り、龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名された。正面の右には、びんずる尊者の像が安置され、病気の人が、このお像をなでた手で自分の悪いところをさすると、病気が治ると信じられている。

大慈山乙訓寺(牡丹寺、今里の弘法さん)

真言宗豊山派

本尊は合体大師像

京都洛西観音霊場6番

寺伝では推古天皇の勅命により聖徳太子が建立したと言われている。創建未詳であるが、境内出土の瓦の年代から、長岡京造営以前、奈良時代の創建と推定されている。延暦3年、桓武天皇が長岡京を造営した際には都の地鎮として大規模に増築される。また藤原種継暗殺事件の首謀者の嫌疑をかけられた早良親王が幽閉された場所でもあるとされ、空海が一時住したともいわれる。長岡京が廃都となっても大規模な伽藍を擁し室町時代でも10を越す僧坊があったという。

延命山卒台寺

西山浄土宗

本尊は延命地蔵菩薩

京都洛西観音霊場12番

嵯峨天皇の勅命によって弘法大師が創建し、当時は兜卒台寺とよばれた。その後万治3年に荒れ果てた寺を、典空上人が中興し、真言宗から浄土宗に改めた。

立願山楊谷寺(柳谷観音)

西山浄土宗

本尊は十一面千手千眼観音菩薩

新西国三十三箇所17番、京都洛西観音霊場10番

寺伝では清水寺の開祖延鎮が大同元年(806年)に開山したとされ、延鎮が夢告によりこの地で十一面千手千眼観音菩薩像を感得し、堂を建て安置したのが始まりとされる。その後延鎮が清水寺に帰った後に空海が度々、ここで修行をした。空海に見つけられた眼病に効く独鈷水は、江戸時代に眼の悪かった霊元天皇がそれで眼病を治癒したのをきっかけとして、以後歴代の天皇へ献上されるようになり、明治時代となって皇居が東京に移るまで献上は続けられた。

乙訓郡

天王山宝積寺(宝寺)

真言宗智山派

本尊は十一面観音菩薩

寺伝では神亀元年、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。天王山の南側山麓に位置する大山崎町大山崎上ノ田の遺跡が「山崎院」跡に比定されており、宝積寺は「山崎院」の後身と考える説もある。貞永元年の火災で焼失している。長徳年間、寂昭が中興した。『続本朝往生伝』には、当寺の通称である「宝寺」の名が見える。天正10年、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。

妙音山観音寺(山崎聖天)

真言宗

本尊は十一面千手観音菩薩

寺伝では昌泰2年に寛平法皇により創建されたというが、その後衰退。江戸時代初期に摂津勝尾寺の僧・木食以空によって再興された。歓喜天(聖天)を鎮守として祀り、特に商人から信仰された。しかし、禁門の変に巻き込まれ、事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して焼失した。

離宮八幡宮

祭神は応神天皇、神功皇后、酒解大神、比売三神

社格 府社

石清水八幡宮の元社にあたる神社。貞観元年に清和天皇が、神託により宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた僧行教が、帰途山崎の津で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、勅命により「石清水八幡宮」が建立された。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とした。また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」を発明し荏胡麻油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされる。