円成山霊鑑寺門跡
臨済宗南禅寺派
本尊は如意輪観音菩薩
谷の御所とも呼ばれる門跡尼寺。承応3年に、後水尾天皇の皇女、浄法身院宗澄を開基として、円成寺跡に創建。その時、後西天皇の旧殿をもらい受けたとされ、表門、玄関、書院、居間は、江戸時代の姿を今に観ることができる。明治時代まで皇女・皇孫女が住持、継承されてきた。宗諄女王が明治24年まで住持されていた寺。
大豊神社
祭神は、少彦名命・応神天皇・菅原道真
社格 村社
椿ヶ峰を御神体とした山霊崇拝の社であったが、仁和3年宇多天皇の御悩平癒祈願のため藤原淑子が勅命を奉じて少彦名命を椿ヶ峰に奉祀した。創建当初は椿ヶ峰山天神と称せられ、その後大宝大明神と呼ばれ円成寺の鎮守神となる。現在の地に後一条天皇の寛仁年間に鎮座、大豊大明神の神号を賜わった。建武の乱、応仁の兵火により社殿も焼失、文政3年の出火には貴重な古記類も灰燼に帰した。
岡崎神社
祭神は、素戔嗚尊・櫛稲田媛命・八柱御子神
社格 郷社 京都十六社
延暦13年、桓武天皇の平安京遷都の際に、王城鎮護のため平安京の四方に建てられた社の一つとされ、都の東に鎮座するころから東天王と称される。また往時、都の卯(東)の方位にある付近一帯が野兎の生息地で、うさぎが氏神様の神使いとされる。境内の御手水の所には月の力を満たしたうさぎ像があり、水をかけてお腹を擦ると祈願が叶うと信仰を集めている。
神楽岡宗忠神社
祭神は、黒住宗忠(宗忠大明神)
社格 府社
黒住教の教祖である黒住宗忠を祀る神社。黒住宗忠は嘉永3年に歿し、安永3年に朝廷から「宗忠大明神」の神号が与えられた。文久2年、宗忠の門人の赤木忠春らが、吉田神社より社地の一部を譲り受けて宗忠を祀る神社を創建した。慶応元年には朝廷の勅願所とされ、皇室や公家から篤い崇敬を受けた。明治時代には県社に列格した。
鴨河合坐小社宅神社(河合神社)
祭神は、玉依姫命
社格 賀茂御祖神社摂社
賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったという。秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたとの伝承がある。元はここより少し南の賀茂川と高野川が合流する只洲河原に祀られたことから河合神社という。鎮座の年代は不詳であるが神武天皇の御代からあまり遠くない時代と伝えられていて、『延喜式』には「鴨河合坐小社宅神社」とある。
賀茂御祖神社(下鴨神社)
祭神は、玉依姫命・賀茂建角身命
社格 式内社(名神大)・山城国一宮・二十二社・勅祭社・官幣大社・別表神社
社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したと伝える。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造が行われたとの記録がある。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受け、平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになる。大同2年には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。弘仁元年以降約400年にわたり、斎院が置かれ皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
熊野若王子神社
祭神は、国常立神・伊佐那岐神・伊佐那美神・天照皇大神・事代主神
社格 村社 京都十六社
永暦元年、後白河法皇が熊野権現を禅林寺の守護神として勧請し、祈願所とした正東山若王子の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって当社のみが今日に残った。夷川通りに鎮座していた室町時代作の恵比須を祀っている。足利尊氏・義政が、この地に花を愛で宴を開いたという。社殿は度々荒廃し、明治の修築の際、本宮・新宮・那智・若宮などがあったが、現在は一社相殿になっている。
鞍馬山鞍馬寺
鞍馬弘教総本山
本尊は尊天(毘沙門天王・千手観世音菩薩・護法魔王尊の三身一体)
新西国三十三箇所19番
延暦15年、造東寺長官を務めた藤原伊勢人という人物が毘沙門天と千手観音を安置して創建したとされる。『鞍馬蓋寺縁起』には鑑真の高弟鑑禎が宝亀元年に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。寛平年間に東寺の僧峯延が入寺したころから、真言宗寺院となるが、12世紀には天台宗に改宗し、以後長く青蓮院の支配下にあった。昭和期の住職・信楽香雲は、1947年に神智学の影響を受け鞍馬弘教を開宗。1949年には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっている。
示現山満願寺(岡崎妙見さん)
日蓮宗
本尊は釈迦如来
寺伝によると、菅原道真の乳母ともいう多治比文子が堂宇を建立したのが起源という。文子天満宮として堂がある。最珍を開山として、西ノ京に道真自作の天満自在天像を安置したとされる。元禄13年、東山天皇の勅願寺となりその後、現在地に移転した。この地はもとは白河天皇が建立した法勝寺の跡地であり、法勝寺執行であった俊寛は平家打倒の陰謀で平清盛に捕られ薩摩の鬼ヶ界島へ配流されこの地で没する。
住蓮山安楽寺(松虫鈴虫寺)
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
建永2年におこった建永の法難のきっかけとなった法然の念仏道場「鹿ヶ谷草庵」の後身の寺であり、寺宝として安楽房遵西・住蓮坊と後鳥羽上皇の女官であった松虫・鈴虫関連のものが残されている。
聖護院門跡
本山修験宗総本山
本尊は不動明王
近畿三十六不動尊第18番、役行者霊蹟札所、天台寺門派三門跡
開基は増誉。増誉は寛治4年、白河上皇の熊野詣の先達を務め、初代の熊野三山検校に任じられ、役行者が創建したとされる常光寺を下賜された。これが聖護院の創建である。嘉禎2年、熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。明治元年の神仏分離令に続き、明治5年には修験道廃止令が発布されたため、天台寺門宗に所属することになったが、第二次世界大戦後の昭和21年、修験宗を設立して天台寺門宗から独立した。
聖衆来迎山無量寿院禅林寺(永観堂)
浄土宗西山禅林寺派総本山
本尊は阿弥陀如来
洛陽六阿弥陀2番、法然上人二十五霊跡番外
空海の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源である。貞観5年、清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる永観の頃から浄土教色を強めていく。また禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。
相国寺境外塔頭東山慈照寺(銀閣寺)
臨済宗相国寺派
本尊は釈迦如来
足利義政が造立した東山殿が最初。この東山殿内に建てられた二層楼閣を銀閣と称し,それが寺全体の象徴的な建物となったことから、慈照寺は銀閣寺と通称される。延徳2年2月に義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始された。
紫雲山金戒光明寺(黒谷、白河禅房)
浄土宗大本山
本尊は釈迦如来
法然上人二十五霊跡24番、洛陽三十三所観音霊場6番
承安5年法然が比叡山の黒谷を下った後、ここに草庵を結んだのが始まりとされる。ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と白川の本房を法然に与えた。恵顗の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。運空は後光厳天皇に戒を授けて、金戒の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになった。法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因み、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。文久2年京都守護職の本陣となった。
瑞龍山太平興国南禅禅寺(南禅寺)
臨済宗南禅寺派大本山
本尊は釈迦如来
京都五山、鎌倉五山の別格上位
正応4年、亀山法皇が無関普門禅師を開山に迎えて開創された。亀山法皇が在位の頃、東アジアの情勢が緊迫し、蒙古来襲があり厳しい時代であった。父である後嵯峨天皇が帰依していた圓爾辧圓禅師に受戒・問法し、国難に対処された。国難去った正応2年、離宮禅林寺殿で落飾し、法皇となり、諱を金剛眼とした。正応4年離宮を禅寺とした。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間のことという。
南禅寺塔頭最勝院高徳庵
臨済宗南禅寺派
本尊は福徳円満大黒天、払災殖福不動尊
最勝院駒道智大僧正の霊地として知られる。駒道智大僧正は、九条道家の子に生れ、比叡山で修行し天台密教の深奥を極めた。三井寺の長更となり、禅林寺の住持に移る。晩年駒ヶ滝最勝院の地に穏棲した。それ以来滝を駒ヶ滝、僧正を駒大僧正といい、又院号をとって僧正をまつる寺を最勝院とした。
清泰山浄土院(大文字寺)
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
かつて慈照寺の場所に浄土寺という天台宗寺院があった。この浄土寺の創建年代等については不詳であるが、寛和2年、浄土寺で有明親王の妃である藤原暁子が出家し、有明親王の子明救が入寺している。室町幕府8代将軍足利義政が山荘を建てるにあたり、相国寺付近に移されその後廃絶した。その浄土寺の跡を引き継ぐにあたり享保年間に建てられたのがこの寺とされる。
善気山法然院萬無教寺(本山獅子谷法然院)
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。江戸時代になり、延宝8年に、知恩院の第38世である萬無が、法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍澂と共に再興したのが当寺であるとされる。
徳池山極楽寺
時宗
本尊は毘沙門尊天
正暦元年の創建。開基は一遍上人。元禄6年、真如堂がこの地に戻った時期に洛中にあったものが移された。牡丹や曼珠沙華が美しい。陶板の七福神も有名。
長徳山功徳院知恩寺(百万遍知恩寺)
浄土宗大本山
本尊は阿弥陀如来
法然上人二十五霊跡22番
皇円阿闍梨の住房比叡山功徳院の里坊で、平安時代前期に円仁が創建したと伝えられる。法然は度々この地を訪れ、法然入滅後、弟子の源智は功徳院神宮堂とし法然の御影を安置して、法然を開山第一世とした。元弘元年、善阿空円のとき後醍醐天皇の勅により七日念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜された。文禄元年には豊臣秀吉の寺地替えにより土御門に移された。江戸時代に入り、寛文2年、現在の北白川の地に移転した。
平安神宮
祭神は、桓武天皇・孝明天皇
社格 官幣大社・勅祭社・別表神社
明治28年に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画され、岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあたる昭和15年に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。昭和51年、火災(平安神宮放火事件)が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失したが本殿や内拝殿は3年後に再建された。
鈴聲山真正極楽寺(真如堂)
天台宗
本尊は阿弥陀如来
洛陽六阿弥陀1番、京都十二薬師霊場5番
永観2年、比叡山の僧である戒算が夢告により比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子の離宮に安置したのが始まり。正暦3年一条天皇の勅許を得て本堂が創建された。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきたが、応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。その後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄6年、現在の場所に再建された。
吉田神社
祭神は春日神(建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比売神の総称)
社格 式外社、二十二社、官幣中社、別表神社
貞観元年、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。永延元年より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期、吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始。
由岐神社(靫明神)
祭神は大己貴命、少彦名命、由岐大明神
祭神は元は宮中に祀られていたが、都で大地震・天慶の乱が起き、朱雀天皇の勅により、天慶3年、北方鎮護のため鞍馬に遷宮をした。「鞍馬の火祭」は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものである。靫明神という社名は、天皇の病や国難時に神前に靫(ゆき)を献じて平穏を祈ったことによる。由岐神社と五条天神社は祭神が同じで、靫を流す神事が行なわれていたことが『徒然草』に見える。
妙泉山寂光寺
顕本法華宗本山
本尊は三宝尊
洛中法華21ヶ寺
天正6年、久遠院日淵が京都近衛町に建立。天正18年、豊臣秀吉の代に聚楽第を建てるために寺禄を山城愛宕郡一乗寺村に賜り、寺町通竹屋町に移った。境内に久成坊・実教院・実成坊・詮量院・本成坊・玄立坊・本因坊の七塔頭を建て、布教活動を行う。宝永5年、宝永の大火により焼失。その後、現在の地に移転した。本因坊算砂と号した日海は、碁技に優れ敵手無く、織田信長から名人と称揚された。以降、本因坊の名称は碁界家元の地位をもち、襲名継承される様になった。なお、本因坊道策の時に寂光寺から江戸に移った。
引接山極楽院大蓮寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
洛陽三十三所観音霊場8番
慶長5年、深誉が創建。後光明天皇の夫人である典侍庭田秀子が難産に苦しんでいたため、大蓮寺に安産祈願の勅命が下った。祈願の甲斐あって孝子内親王は無事出生。同内親王は大蓮寺を深く信仰し、後に髪を編んで名号として同寺に納めた。後光明天皇の後は有栖川宮家がその意志を継ぐ。明治初年の神仏分離に伴い廃寺となった祇園社観慶寺から薬師如来像などの仏像がこの寺に移される。当初は仏具屋通五条下る毘沙門町にあったが、五条通の拡幅に伴い、昭和に入り現在の場所にあった常念寺に統合された。
法鏡山妙傳寺
日蓮宗本山
本尊は三宝尊
洛中法華21ヶ寺
文明9年、円教院日意によって京都一条尻切屋町の地に妙伝寺を建立。開創にあたり師の日朝とはかり宗祖の日蓮の御真骨を奉安し、関西以西の信徒の願いを満たした。同時に身延七面山に勧請されている七面天女と同木同体の霊体を安置し、これをもって「西身延」と称されるようになった。天文5年、天文法難(法華一揆)により全山悉く灰燼。天文10年には再び京都西洞院に再興する。天正19年、妙伝寺第6世・慈眼院日恵の代、豊臣秀吉の命にて京極二条の地に移転する。この時、一条家・四条家の菩提寺となる。宝永の大火が起こり、全山灰燼に帰す。現在の二条川端に再興。京都日蓮宗八本山、京都十六本山のひとつ。
多宝富士山要法寺
日蓮本宗大本山
本尊は十界曼荼羅
洛中法華21ヶ寺
富士門流の久成院日尊上人の開創。日尊上人は日興上人の孫弟子にあたる。奥州、出雲の布教に功績があり、京都への上洛道中に遷化された日目上人の遺言により上洛し、上行院を創建した。やがて、同じく富士門流の日大上人も京都に別に上行院を建てた(後には住本寺と改称)。天文法難によって上行院も住本寺も焼失。再建に当って広蔵院日辰上人は両寺を合併し要法寺を建立した。
朝陽山栴檀王院無上法林寺(檀王法林寺)
浄土宗鎮西派
本尊は阿弥陀如来
元は天台宗の蓮華蔵寺(蓮華蔵院)を文久9年に望西楼了恵が浄土宗に改め、悟真寺としたのが始まり。応仁の乱や鴨川の氾濫によって衰え、永禄年間に廃絶。その後、袋中上人が再興し無上法林寺とした。主夜神尊を祀っている点でも有名で、最古の招き猫がある。
聞法山頂妙寺
日蓮宗本山
本尊は十界曼荼羅
洛中法華21ヶ寺
下総国出身の日祝の創建。檀越の細川勝益から寺地の寄進を受け、文明5年に頂妙寺を開山。その後、頂妙寺は移転を繰り返し大永4年には高倉中御門に移転。天文5年の天文法華の乱で焼失。天文11年、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、高倉中御門に伽藍を再建。天正元年、織田信長の上京焼討ちにより移転。天正7年の安土宗論には日珖が臨んだ。天正11年には豊臣秀吉の命により、高倉中御門に再度移転するが、寛文13年、禁裏に隣接していることから現在の地に移転。天明8年の天明の大火により焼失。その後再建された。
聖護院門跡塔頭積善院準提堂(栴ノ坊、準提堂、五大力さん)
本山修験宗
本尊は不動明王、準提観音
鎌倉時代初期の開創と伝えられ、聖護院門跡が支配する本山派山伏の統括事務を、門跡の代行として実施した院家で栴ノ坊とも号した。熊野神社前交差点南東角に在った準提堂と明治初年に合併して、大正3年に積善院境内へ移転し本堂とし、準提観音像と不動明王像を合祀している。このほか崇徳院地蔵堂があり崇徳上皇の怨霊の祟りに対して、上皇の霊を慰めるために庶民達が造立したのが崇徳院地蔵で「すとくいん 」が「ひとくい」と訛り「人食い地蔵」の名で呼ばれるようになった。
満足稲荷神社(満足さん)
祭神は倉稲魂命
社格 村社
豊臣秀吉が文禄の役(1592年)の戦勝を稲荷大神に祈願したところ、霊験が著しかったので、伏見城内に城の守護神として稲荷社を祀ったのが始まりと伝える。社名は秀吉が稲荷大神の霊験に満足したためという。元禄6年徳川綱吉が現在地に移し、法皇寺の鎮守社となった。明治になって法皇寺は南禅寺に吸収され、満足稲荷神社のみが残った。商売繁昌・五穀豊穣の神として崇敬を集める。
京都熊野神社
祭神は伊弉冉尊・伊弉諾尊・天照大神・速玉男尊・事解男尊
社格 郷社、京都十六社
弘仁2年、修験道の始祖役小角の十世僧日圓が、国家護持のために紀州熊野大神を勧請したのに始まる。寛治4年、白河上皇の勅願により創立された聖護院は、熊野神社を守護神として祟められ別当職を置いて管理した。平安末期後白河法皇は度々熊野詣を行われたが、当社にも厚く尊信をよせられた。応仁の乱により社殿は焼失したが、寛文6年、聖護院宮道寛法親王は、令旨を下し再興された。その後、天保6年にも大修造が行われた。現在の本殿は、この時、賀茂御祖神社から移築された代表的な流れ造りである。
御辰稲荷神社
祭神は宇迦之御魂神・猿田彦神・天宇受売神
社格 不明
宝永年間(1704-1710年)、東山天皇の側室の新崇賢門院の夢枕に白狐が現れ、「禁裏御所の辰の方角(南東)に森があるので、そこに祀ってほしい」と言って消えた。翌朝人に尋ねると、御所の辰の方角に森と言えば聖護院の森であろうということで、さっそく森の中に祠を建てた。これが今の御辰稲荷の始まりとされている。「辰」という字が「達」に通じるとして、また祀られた狐が琴が上手ということで、芸妓さんもお参りする神社となった。御辰狐は「風流狐」として相国寺の「宗旦狐」と共に童歌に歌われている。
祥光山本妙寺(赤穂義士の寺)
日蓮宗妙覚寺派
本尊は題目釈迦多宝仏
鎌倉時代末期に日像が岩倉に創建したのが始まり。その後、戦国末期に復興。宝永の大火後に、現在地に移転した。本妙寺は貝賀弥左衛門が自らの菩提寺と定めていたが、懇意であった綿屋善右衛門という赤穂藩御用商人に、妻子の行く末を頼んだ。打ち入り後、綿屋善右衛門は貝賀弥左衛門の生前の思いに従って、貝賀弥左衛門とその妻、弥左衛門の兄とその子どもの4名を祀る石碑を本妙寺に建立した。
須賀神社
祭神は素戔嗚尊・櫛稲田比売命・久那斗神・八衢比古神・八衢比売神
社格 不明
平安時代末の康治元年、美福門院の建てた歓喜光院の鎮守として創祀されたもので、もとの社地は平安神宮蒼竜楼の東北にある西天王塚辺りであった。岡崎の東天王社と相対して古くは西天王社と呼ばれた。その後、吉田神楽岡に転じ、いまの地に移ったのは大正13年のことである。 聖護院一帯の産土神とされ、縁結び、厄除け、交通安全の神として崇敬厚く、節分祭には参詣者で賑わう。
松崎山妙円寺(松ケ崎大黒天)
日蓮宗
本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏・大黒天
都七福神(大黒天)
元和2年、本涌寺内に建立された本覚院日英上人の隠居所で、本覚院日英上人による開基・開創。永仁2年、日蓮聖人の法孫、日像上人によって法華経が弘められ、徳治元年に松ヶ崎全村ことごとく日蓮宗に改宗したという法華信仰の流れがあり、「松ヶ崎法華」と言われる。承応3年、教蔵院日生上人によって創立された「松ヶ崎檀林」が、かつてこの近くにあり、現在は尼僧の学校である、日蓮宗尼宗学林となっている。「五山の送り火」のうち、背後の両峰に点火される「妙法」は、約600年のう歴史がある。
法華山道入寺
日蓮宗
本尊は一塔両尊
正保3年、尊眼院日長上人による開山。「修学院の妙見さん」と呼ばれ親しまれている。東北東の方角を守る「寅」を祀る。妙見坐像は1979年に見つかり、僧形で左手に数珠を持つ非常にものであり、像とともに発見された古板に「日蓮宗三十番神」と書かれている。
六六山丈山寺(詩仙堂、凹凸窠)
曹洞宗
本尊は馬郎婦観音菩薩
石川丈山が、隠居生活を送るために建てた山荘が始まり。詩仙堂の正式名称は凹凸窠。詩仙堂とは、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像(狩野探幽筆)と詩(石川丈山筆)を四方の壁に掲げたところから名付けられた詩仙の間からとられた。
瑞巌山圓光寺
臨済宗南禅寺派
本尊は千手観音菩薩
徳川家康の命により慶長6年に足利学校の第9代の庠主であった閑室元佶を招き伏見城下に建立したことに始まる。その後、京都御所北辺の相国寺内に移る。さらに寛文7年に現在地に移された。圓光寺は学校の役割も果たし、徳川家康から与えられた木活字を用いて、『孔子家語』、『貞観政要』、『三略』などの儒学・兵法関連の書物を刊行した。これらの書物は伏見版、あるいは圓光寺版と呼ばれ、そのとき使用された木製の活字が保存されている。その数は約5万個にのぼり日本最古の活字であり重要文化財となっている。
曼殊院(竹内門跡)
天台宗
本尊は阿弥陀如来
近畿三十六不動尊17番
寺伝では延暦年間、最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされ、円仁、安恵らを経て、10世紀後半の僧である是算の時、比叡山三塔のうちの西塔北谷に移り、東尾坊と称したという。是算の事績についてはあまり明らかでないが、花山法皇の弟子であったという。天仁年間、8代目の門主・忠尋の時に、北野神社近くの北山に別院を建て、寺号を「曼殊院」と改めた。現在地への移転は明暦2年のことで、現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のものである。
佛日山金福寺
臨済宗南禅寺派
本尊は聖観音菩薩
貞観6年、円仁の遺志により、安恵が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。 当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間に圓光寺の鉄舟によって再興され、臨済宗南禅寺派に改宗した。その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ、芭蕉庵と名付けられたが、荒廃したため与謝蕪村とその一門が安永5年に再興した。幕末には「村山たか」が尼として入寺し、その生涯をとじた。
赤山禅院
天台宗
本尊は泰山府君(赤山大明神)
都七福神(福禄寿)
開創は、仁和4年で「赤山」の名は、円仁に由来する。円仁は、登州で滞在した赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したが、果たせないままに没した。その遺言により安慧が、赤山大明神(泰山府君)を勧請して建立したとされる。京都御所から見て表鬼門の方角(東北)に当たるため、方除けの神として、古来信仰を集めた。
鷺森神社
祭神は素戔嗚尊
社格 村社
貞観年間の間に創建されたとされる。最初は比叡山麓、赤山明神の付近に祀られていたが応仁の乱の兵火で罹災し、今の修学院離宮の山林中に移されたが、離宮造営の為、霊元天皇の思召しにより現在の鷺の社に社地を賜り、元禄2年6月御遷座になり修学院、山端の氏神社として今日に至っている。
八大神社
祭神は素戔嗚尊・稲田姫尊・八王子尊
社格 村社
永仁2年(1294年)勧請による。京の東北「表鬼門」に位置しており、方除の神として知られている。江戸時代はじめ、一乗寺下り松で吉岡一門数十人と決闘を行った宮本武蔵が、決闘を前に当社で神頼みをすることを思い立ったが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気づき寸前にやめたという逸話も残る。社殿内には一乗寺下り松の古木が保管展示されている。
貴船神社
祭神は高龗神
社格 式内社(名神大)、二十二社(下八社)、官幣中社、別表神社
創建不詳。神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まる。社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝える。「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったともいう。白鳳6年に、最も古い社殿造替えの記録がある。日本後紀に、延暦15年、東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されている。永承元年7月、出水により社殿が流失し、天喜3年、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。
大悲山圓通寺
臨済宗妙心寺派
本尊は聖観世音菩薩
元は後水尾天皇の山荘であった幡枝御殿。枯山水庭園もその頃に造営されたものである。修学院離宮の造営に伴い、幡枝山荘は近衛家に譲渡され、延宝6年、霊元天皇の乳母であった圓光院殿瑞雲文英尼大師が開基となって寺に改め、皇室の祈願所となった。妙心寺十世の景川宗隆を勧請開山としている。
無量寿山光明寺京都本院瑠璃光院
浄土真宗
本尊は阿弥陀如来
明治から大正期の実業家で政治家としても活躍した田中源太郎が構えた庵に三条実美が「喜鶴亭」と命名した。田中の死後、京都電燈重役の個人別荘となった。数寄屋造りの建物は中村外二が手掛け、自然を借景とした庭園は佐野藤右衛門一統によるものとされる。京都電燈は、叡山電鉄や叡山ケーブルを開設し、京福電気鉄道に引き継がれ、高級料理旅館「喜鶴亭」として営業していた。料理旅館が廃業することとなり、光明寺が買収。本堂を設置し、2005年に寺院に改められた。
崇道神社
祭神は早良親王
社格 村社
平安時代初期の貞観年間(859-877)頃に創建されたと考えられ、非業の死を遂げた早良親王の祟りを鎮めるため創建されたといわれる。鎌倉時代から室町時代にかけて、周辺の廃社を合祀して高野郷総社となる。式内社の「出雲高野神社」「伊多太神社」「小野神社」が合祀されている。
帰命山蓮華寺(洛北蓮華寺)
天台宗
本尊は釈迦如来
もとは七条塩小路にあった西来院という時宗寺院で、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したもの。上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地で重直は晩年に得度し、宗二居士と号し寺院を建立することを願っていた。祖父の願いに応え、菩提を弔うため建立された。蓮華寺の造営にあたって、詩人・書家で詩仙堂を造営した石川丈山、朱子学者の木下順庵、狩野派画家の狩野探幽、黄檗宗の開祖である隠元隆琦や第二世の木庵性瑫らが協力した。
延壽山三明院
真言宗醍醐派
本尊は弘法大師
もとは山形県にあったが明治39年(1906年)に上高野出身の佐竹信光和尚がここに再建。境内の紅葉が素晴しく、特に多宝塔を取り巻く紅葉が素晴らしく、隠れた穴場となっている。
三宅八幡宮(虫八幡)
祭神は応神天皇
社格 村社
推古天皇の時代に遣隋使として隋に赴こうとしていた小野妹子が、筑紫で病気になった。しかし、近くにあった宇佐八幡宮に祈願するとたちまち病気が治って隋に渡り、無事帰国することができた。その後、聖徳太子の没後に報恩の意味を込めて自らの所領である山城国愛宕郡小野郷と呼ばれるこの地に、宇佐八幡宮を勧請して建立したのがはじまり。造営当初は伊太多神社の境内にある末社の一つとして建てられ、今の位置より南にあったとされる。愛宕郡岩倉の地に移り住んでいた南朝の忠臣・児島高徳(備後三郎三宅高徳)が八幡大神を尊崇したことから、三宅八幡宮と呼ばれるようになった。
安穏山大超寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
京都十二薬師霊場8番
1591年、西陣浄福寺3世の勝誉泰童上人の母が病になり、上人の念持仏であった薬師如来に念じたところ病平癒したため浄福寺の隣に堂宇を建て薬師如来を本尊として安置したのが始まり。後陽成天皇の母である新上東門院の帰依を受け、境内地を寄進され、江戸時代に入り、1730年に焼け再建されるが、1984年に現在の本堂が移転建立された。新しい本堂には沢山の仏様が収納されて、御厨子に納められた秘仏である善光寺式の三尊や半跏思惟の珍しい地蔵菩薩像なども安置されている。
岩倉山実相院門跡(岩倉実相院、岩倉御殿)
天台宗寺門派
本尊は不動明王
天台寺門派三門跡
寛喜元年(1229年)、静基僧正により開基。当初は紫野にあったが、今出川小川に移転。その後応仁の乱を逃れるため文明6年(1474年)、現在地に移転。室町時代末期までに多くの堂舎が戦火で焼失した。足利義昭の子義尋と古市胤子との子である義尊が入寺し門主となっている。なお、弟の常尊は円満院門主であり、また母の胤子は後陽成天皇の後宮となり子をもうけ、聖護院門主道晃法親王となった。天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡はすべてこの兄弟が門主に就任し、統括している。
真如堂新長谷寺
天台宗
本尊は十一面観音菩薩
洛陽三十三所観音霊場5番
陽成天皇の頃、西国に赴く途中で藤原高房が亀を助けた。その後、子の藤原山蔭が航海中に海に落ちたが、亀が助けてくれた。その数十年後、山蔭が後妻と先妻の子を連れて九州におもむいた際、後妻が先妻の子を海に付き落としたが大亀が現れて助けた。亀は観音様が遣わしたものと信仰し、観音像を二体製作し、一体は手元に、もう一体を後の総持寺に置いた。そして長谷寺の十一面観音像と同じ大きな観音像を作り、更に八尺の観音像を御前立として自邸に法相宗の新長谷寺を建立し、祀った。
呂律山念仏寺(大原念佛寺)
天台宗
本尊は阿弥陀如来
後醍醐天皇第3皇子大塔宮護良親王(三千院第31世尊雲法親王)の創建と伝えられ、昭和13年現在の地に移転再建された。古くから地元の回向寺として信仰されている。
清香山玉泉寺寂光院
天台宗
本尊は地蔵菩薩
寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父・用明天皇の菩提のため開創したとされる。当初の名称は玉泉寺で太子の乳母であった玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。しかし、江戸時代の地誌には空海開基説、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖・良忍が開いたとの説もある。現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。建礼門院に仕えて後に出家し、当院の住持をしていた阿波内侍(信西の息女、証道比丘尼)を第2代の住職としている。阿波内侍は「大原女」のモデルとされる。
魚山三千院門跡(梶井門跡、梨本門跡、円融院、円徳院)
天台宗
本尊は阿弥陀如来
天台宗山門派三門跡、西国薬師四十九霊場45番、近畿三十六不動尊霊場16番
8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源を持ち、後に比叡山東麓の坂本に移され、たび重なる移転の後、明治4年に現在地に移った。三千院という寺名は大原に移転して以降使われるようになったもので、それ以前は「円融院(円融房)」「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれた。境内にある往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、明治4年に梶井門跡の本坊がこの地に移転してきてからその境内に取り込まれたもので、三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院である。
魚山大原寺来迎院
天台宗
本尊は薬師如来
円仁が天台声明の道場として創建。天仁2年、融通念仏の祖とされる聖応太師良忍がこの寺に入寺して再興した。それにより勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を以て付近一帯は「魚山大原寺」と総称されるようになった。以来、大原で伝承されてきた声明は「天台声明」や「魚山声明」と呼ばれる。たびたび焼失したが、その度に再建され、現在の建物は天文2年(1533年)に再建されたものである。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられている。
魚山大原寺勝林院(問答寺、証拠堂、丈六堂、勝林院阿弥陀堂)
天台宗
本尊は阿弥陀如来
法然上人二十五霊場21番
承和2年、円仁(慈覚大師)によって開かれた。長和2年、寂源によって復興され、勝林院が建立された。寂源はここを声明研鑽の地としたので声明も復興された。聖応太師良忍が天仁2年に来迎院を創建すると、勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を以て「魚山大原寺」と総称された。文治2年には法然と顕真などによる宗論、いわゆる「大原問答」がこの寺で行われた。文和元年には禅僧である祖曇首座による押領が行われ、大原寺は衰退し僧坊は荒廃した。大原寺初の大僧正である良雄は、足利義満の後援をうけて大原寺の復興を行った。
大原寺勝林院塔頭魚山実光院
天台宗
本尊は地蔵菩薩
宝泉院とともに大原寺勝林院の塔頭の一つとして創建される。その後、後鳥羽天皇第10皇子の梶井宮門跡尊快法親王により、境内に後鳥羽天皇と順徳天皇の遺骨を安置して陵が造成された。後に廃れたが、応永年間に宗信法印によって復興された。大正8年、境内にある後鳥羽天皇と順徳天皇の陵を整備するために宮内省の命令で移転することとなった。移転先は道を挟んで正面にある同じく勝林院の塔頭であった理覚院と普賢院の地である。両院とも既に無住となっていたが、この二院を統合してこの両院の地に移転することとなった。旧地は、後鳥羽天皇大原陵と順徳天皇大原陵とされた。
大原寺勝林院塔頭魚山宝泉院
天台宗
本尊は阿弥陀如来
宗快法印によって嘉禎年間に創建され、当初は了性坊と呼ばれた。了性坊は文正年間まで記録に残るが以降は断絶したとされる。『両院僧坊歴代記』によれば宝泉坊として改めて再建をしたのは幸淵である。幸淵の名が記録にでるのは元亀2年(1571年)9月の後土御門天皇三回忌の御懺法講の記録からで、これは書院の再建年代として伝わる年代と合致する。このため、幸淵が了性坊の旧蹟に新たな坊を再興したのは元亀年間初頭であると考えられる。正徳6年(1716年)5月に宝泉院と改められた。
金光明四天王教王護国寺秘密伝法院(八幡山東寺)
弥勒八幡山総持普賢院
東寺真言宗総本山
本尊は薬師如来
真言宗十八本山9番・西国愛染十七霊場8番・洛陽三十三所観音霊場23番・京都十三仏霊場12番・京都十二薬師2番
『東宝記』によると延暦15年に藤原伊勢人が造寺長官となって建立したという。弘仁14年、真言宗の宗祖である空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。鎌倉時代からは「お大師様の寺」として、広く信仰を集めるようになる。文明18年の火災で焼失、豊臣家・徳川家などの援助により金堂・五重塔などが再建されている。
教王護国寺毘沙門堂
東寺真言宗
本尊は兜跋毘沙門天
都七福神(毘沙門天)
弘法大師が唐で入手した兜跋毘沙門天像は、天慶2年の平将門の乱の際に都の守護神として羅城門の上層に安置されたが、天元元年の台風で羅城門が倒壊した後、東寺に移された。その後、文政5年に現在の毘沙門堂を建立して安置したという。
教王護国寺塔頭観智院
東寺真言宗別格本山
本尊は五大虚空蔵菩薩
学僧であった杲宝を1世として延文4年に子院として創建された。杲宝は現在国宝となっている「東宝記」という東寺の創建から室町時代に至る寺史をまとめた。これは弟子の賢宝により補足完成された。観智院は東寺のみならず真言宗全体の勧学院と位置づけられ、多くの学僧を輩出している。経蔵である金剛蔵には膨大な文書・典籍・聖教類が所蔵されていたが、現在は東寺宝物館に移されている。客殿は、慶長10年の建立。上の間には宮本武蔵筆といわれる「鷲の図」などの襖絵がある。
吉祥院天満宮
祭神は菅原道真
社格 村社
菅公聖蹟二十五拝4番・京都十六社
菅原道真の曽祖父の土師古人が平安遷都に際し天皇の供として入京し賜った地でここに邸を構えた。祖父の代に菅原へ改姓。祖父の菅原清公が遣唐使として唐へ向かう途上、嵐に遭遇しながらも吉祥天女の霊験により難を逃れ、以降菅原家では吉祥天信仰となる。菅原道真はこの地で承和12年に誕生し、18歳で転居するまでこの地で過ごしたとされる。道真が没した後、この地で吉祥院聖廟をおきその霊を祀る。その後、怨霊鎮魂のために朱雀天皇勅願により、承平4年、道真の霊を祀ったことが始まり。
海上山吉祥院
本尊は吉祥天女
菅原道真の祖父の菅原清公が遣唐使として唐へ向かう途上、嵐に遭遇しながらも吉祥天女の霊験により難を逃れ、以降菅原家では吉祥天信仰となる。大同3年、自邸に一堂を建立して安置し、伝教大師にはかって開眼供養が行なわれた。ここを吉祥院と号して国家鎮護の祈願所・菅家守護の本尊とした。
六孫王神社
祭神は六孫王大神、天照皇大御神、八幡大神
社格 郷社
京都十六社
源経基の邸宅「八条亭」の跡地に、応和元年に経基が臨終の際に「死後は龍神となって邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」と遺言したという。応和3年に嫡子の満仲が現社地に経基の墓所を建立し、その前に社殿を造営したのが創建である。鎌倉時代には、源実朝の妻の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立し、当社はその鎮守社とされた。その後戦乱などにより社殿を失い、経基の墓所だけが残された。元禄13年からは、江戸幕府により社殿の再興が進められた。
瑞寶山城興寺(成興寺)
真言宗泉涌寺派
本尊は千手観世音菩薩
洛陽三十三所観音霊場22番
創設は応徳2年。寺地は藤原氏の邸宅の一つ九条邸があったところで、ここに藤原道長の孫藤原信長がいとなんだ九条堂を起源とする。永久元年に藤原忠実がこの堂を寺とし、保安3年に伽藍供養がおこなわれた。平安時代末期に最雲法親王の弟子であった以仁王がこの寺の寺領を領していたが、治承3年、平氏政権によってとりあげられて梨本門跡出身の天台座主明雲に与えられた。明雲が法住寺合戦で戦死した後、平氏政権の没収措置の正当性について紛糾するが、明雲の弟子承仁の領有を経て、以仁王の子で承仁の弟子の真性にうけつがれた。その後、青蓮院の支配を経て、16世紀の寺領は比叡山不動院の管理下にあった。
紫雲山頂法寺(六角堂)
天台宗単立
本尊は如意輪観世音菩薩
西国三十三箇所18番・洛陽三十三所観音霊場1番・聖徳太子霊跡25番
延暦13年の平安遷都以前の創建で、聖徳太子が四天王寺の建立のためその用材を求めてこの地を訪れた際、池で水浴中にそばの木にかけておいた持仏の如意輪観音が離れなくなり、夢告によりその観音がこの地にとどまり衆生済度を希望したので、その観音像を現在地に安置して六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりとされる。
聖徳太子が沐浴した池を管理する坊として、本坊を「池坊」といい、12世池坊専慶が立花の名手であったことから池坊華道が始まっている。
浄瑠璃山林秀院永福寺(蛸薬師)
浄土宗西山深草派
本尊は薬師如来
京都十二薬師12番
養和元年、林秀が比叡山の薬師如来へ祈願したところお告げがあり、石の薬師如来を得て薬師堂を建立したのが始まり。鎌倉時代、善光という僧が、戒めに背き、病気の母親に好物の蛸を買う孝行譚に由来し、蛸薬師と呼ばれるようになる。
新京極誓願寺
浄土宗西山深草派総本山
本尊は阿弥陀如来、聖観世音菩薩
新西国三十三箇所15番・洛陽三十三所観音霊場2番・法然上人二十五霊跡20番・洛陽六阿弥陀6番
誓願寺は今から約千三百年の昔、天智天皇の勅願により奈良に恵陰が開創したと伝えられており、後に、平安遷都に際し伏見深草に移されたといわれている。西山上人証空の弟子円空が京都の深草に寺を建て布教したのが始まり。日本各地に無住の寺を含めて400か寺余りの末寺がある。
中には扇塚があり、日本舞踊や舞妓さんが使用した古い扇を供養する塚で、京都らしい感じがある。
錦天満宮
祭神は菅原道真
菅公聖蹟二十五拝2番
長保5年、菅原道真の父・菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸「六条河原院」跡地に移築して歓喜寺が創建され、その鎮守社として天満天神を祀って創建されたのに始まる。天正15年に寺とともに錦小路東端の現在地に移転した。その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残された。
本能寺
法華宗本門流大本山
本尊は南無妙法蓮華経曼荼羅
洛中法華21ヶ寺
本能寺は、応永22年日隆上人の創建で、当初は「本応寺」という名前であったが、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却された。永享元年に小袖屋宗句の援助により再建し、永享5年には「本能寺」と改めた。「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄えたが、天文5年天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失。織田信長が日承上人に帰依し、この寺を上洛中の宿所としていた。当時の本能寺は石垣や水堀を周囲にめぐらした城郭機能を有したものであったが、天正10年6月2日、明智光秀率いる軍勢に包囲され本能寺の変により焼失した。
霊鹿山行願寺(革堂)
天台宗延暦寺派
本尊は千手観世音菩薩
西国三十三箇所19番・洛陽三十三所観音霊場4番・都七福神(寿老人)・京都七福神(寿老人)
霊鹿山行願寺は、天台宗の寺院で、通称は革堂。行円が寛弘元年に一乗小川に堂を建てたのが行願寺の創始と伝えられている。行願寺という正式名称よりも革堂とという名称の方が一般にはよく知られているのも、行円が鹿皮を身につけていたことによるといわれている。
北亀山西光寺(寅薬師)
浄土宗西山深草派
本尊は阿弥陀如来
京都十二薬師11番
寺伝によると、弘法大師が刻んだ薬師如来像が安置されており、寅の日、寅の刻に成就したので寅薬師との異名がある。もともと宮中にあったのを弘安五年(1282)、勅により下賜されものという。江戸期は、名薬師の一つとして庶民の信仰を集めた。無病息災、病気平癒のご利益があるとされ、また、寅年生まれの人の守護仏として崇敬されている。
華嶽山東北寺誠心院
真言宗泉涌寺派
本尊は阿弥陀如来
初代の住職は和泉式部で、その法名は誠心院専意法尼という。娘の小式部に先立たれた和泉式部は、性空上人に勧めで誓願寺に籠り、仏門に帰依。その後、上東門院彰子が法成寺の中の東北院の傍らに寺を建立させ、東北寺誠心院とした。天正年間に豊臣秀吉の命令で現所在地、寺町六角下ルに移転された。明治4年京都府知事の命令で、境内に新京極通りが通り境内地は二分され、山門をはじめ堂宇を失うが、平成9年山門を再建。
瑠璃光山利生院大福寺(菩提薬師)
天台宗
本尊は薬師如来
京都十二薬師10番・京都七福神(布袋尊)
創建不明、飛鳥時代の推古天皇6年、大和国宮田郷に建立され、聖徳太子自身が刻んだ薬師如来像を祀ったのが始まり。その後、平安時代末期の後三条天皇の勅願に依り鎮護国家の道場となり、室町時代初期の延文元年に勅詔により京都に移転した。代々の皇室朝廷の崇敬は極めて篤かったということですが、天明年間の火災により焼失し現在のような僅かにその面影をとどめる小さな寺院になった。
金剛山矢田寺(矢田地蔵尊)
西山浄土宗
本尊は地蔵菩薩
創建不明、白鳳4年に天武・持統両天皇の勅願所として、奈良・大和郡山市にある矢田寺の別院として建立された。開山は満慶上人。もともとは壬生にあったが、安土桃山時代の豊臣秀吉による区画整理で本能寺も同じ時期に三条河原町に移された。
八葉山華台院安養寺(倒蓮華寺)
浄土宗西山禅林寺派
本尊は阿弥陀如来
洛陽六阿弥陀仏5番
恵心僧都源信が大和国葛城郡當麻郷に建てた蓮華院が始まり。源信の妹である安養尼が2世となり安養寺と改められた。天永年間に隆暹が京都の樋ノ口六条へ移し、現在地へは天正年間に移転。寺伝によれば、本尊を作る際、台座がどうしても壊れるので、蓮華の台座を逆さにしたところ、阿弥陀如来像が無事安置できたという。
無量山如輪院宝蔵寺
浄土宗西山深草派
本尊は阿弥陀如来
弘法大師空海の創立と伝えられる。文永6年、如輪上人により元西壬生郷に開基。弘安2年に如輪上人が遷化、天正9年、玉阿律師が中興再興。天正年間、豊臣秀吉の寺町整備により寺町の裏側に当たる裏寺町に移転。 元治元年、禁門の変により全焼。 現在の本堂は昭和7年に建立された。伊藤若冲の墓がある。
長栄山正運寺
浄土宗鎮西派
本尊は阿弥陀如来
洛陽三十三所観音霊場26番
慶長5年に、肥後藩主加藤清正に仕えた武将飯田覚兵衛尉重氏直景を開基、深誉上人を開山として創建。最初、勝軍寺といったが武将が平穏を願い正運寺と名を変えたと云う。江戸時代、天明の大火で焼失、その後再建された。大和の長谷寺と同木で造られた十一面観音菩薩像がある。
心浄光院宝憧三昧寺(壬生寺)
律宗大本山
本尊は地蔵菩薩
洛陽三十三所観音霊場28番、京都十二薬師4番
三井寺の僧快賢が、正暦2年に自身の母のために建立したとされる。中世に融通念仏の円覚上人が中興。重要無形文化財の融通念仏による壬生の「大念仏狂言」は円覚上人が始めたものと伝えられる。幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれ、その縁で境内には新選組隊士の墓である壬生塚がある。
隼神社
祭神は建甕槌神
社格 式内社(大)
創建不詳。『日本三代実録』において、貞観2年(860年)から貞観16年(874年)にかけて「後院隼神」の神階が無位から従四位上まで昇叙された旨の記載がある。当時に四条に所在した後院は朱雀院(右京三条から四条)であることから、この隼神社は朱雀院の院内に祀られた神社であったと見られている。江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ)の平癒のために信仰されたという。その後大正7年(1918年)に現在地の梛神社境内に遷座した。
梛神社(元祇園社)
祭神は素戔嗚尊
貞観11年に京での疫病流行により播磨国広峰から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀という。その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会の起源であるとしている。明治までは小祠であったが、明治7年と昭和4年の復興により現在の形が整えられた。
ひでん山神泉苑
東寺真言宗
本尊は聖観世音菩薩、不動明王、弘法大師
当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500m、東西約240mの広さがあり、池を中心とした大庭園であった。延暦19年に桓武天皇の行幸や延暦21年に雅宴が催されたという記録もあり、この頃から 神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となっていた。天長元年、西寺の守敏と東寺の空海が祈雨祈願を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになった。貞観11年には神泉苑の南端に66本の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったといわれている。慶長8年、徳川家康が二条城を造営した際に神泉苑の敷地の大部分が城の敷地になり、著しく規模を縮小した。
御金神社
祭神は金山彦命
創建者田中庄吉は、現在の金光教の布教者である初代白神新一郎により、金光教に入信し、京都で布教を行い500人を越える信者が従った高徳な布教者であった。1883年10月6日に、その組織を公認のものとするため、金乃神の金にちなんだ、美濃の南宮大社の祭神金山彦命を祀る神社として、京都府知事の認可を得る。現在は、金光教との関わりはない。
医徳山薬師院(来ぬか薬師)
黄檗宗
本尊は薬師如来
京都十二薬師9番
寺伝によると、延暦元年、最澄が16歳の時に薬師仏七体を一刀三礼を尽くして彫刻、その一体が美濃国横倉の医徳堂に安置される。
寛喜2年、当時の薬師院の住職の夢枕に「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」とお告げがあり、これを知って訪れた参拝者が皆平癒したことから「来ぬか薬師」と呼ばれるようになる。上洛を果たした織田信長がそのご利益を聞き京都に勧請、元禄元年、黄檗宗の鉄面寂錬禅師が再興した。元治元年の蛤御門の変で焼失し、明治22年に再建された。
渋谷山佛光寺
浄土真宗真宗佛光寺派本山
本尊は阿弥陀如来
寺伝によると、親鸞は建暦2年に京都に帰り、山科に一宇を創建し、順徳天皇より「興隆正法」の勅願を賜り、興隆正法寺と名づけた。これが後の佛光寺で、親鸞は弟子の真仏にまかせ、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされる。その後嘉暦3年頃、了源は、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都東山に移すべく、渋谷に寺基を移した。佛光寺の寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光りが差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来する。これにより「阿彌陀佛光寺」の勅号を賜り、それを縁に山科より京都渋谷に寺基を移したともいわれる。
福聚山平等寺(因幡堂、因幡薬師)
真言宗智山派
本尊は薬師如来
洛陽三十三所観音霊場27番・京都十三仏霊場7番・京都十二薬師1番
縁起によると、少将橘行平は、長徳3年因幡国司の任を終えて帰京する前に重い病にかかった。夢に僧が現れ、「賀露津の浦の浮き木を引き上げてみよ」とお告げがあり、薬師如来像を引き上げた。行平は薬師像を祀り回復するが、いずれ京に迎えると約束して因幡を後にし、その後、長保5年行平の屋敷の戸を叩く者があり、それは因幡からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師像であった。行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀った。これが因幡薬師平等寺の起源であるという。
菅大臣社(菅大臣神社、菅大臣天満宮)
祭神は菅原道真公、尼神、大己貴命
社格 府社
菅公聖蹟二十五拝3番
紅・白梅殿という邸宅や、菅家廊下と称する学問所の跡で、菅公生誕の地と伝えられ、境内には産湯の井戸が保存されている。菅原道真の薨去の後、間もなく創建。鎌倉期には南北両社に分かれ、慶長19年に菅家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興される。天明の大火、元治の兵乱で焼失するが、天保6年(1835年)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を、明治2年に移築し、その後幣殿を建立して、八棟造をなしている。
市比賣神社
祭神は多紀理比賣命、市寸嶋比賣命、多岐都比賣命、神大市比賣命、下光比賣命
京都十六社
創建は延暦14年(795年)に、京都の左右両市場の守護神として、左大臣藤原冬嗣が両市社領内の堀川の西、七条の北に坊弐町をかこい、勅を奉じて勧請された社と伝わる。天正19年、現在の地に移転鎮座した。
文子天満宮
祭神は菅原道真、多治比文子
社格 村社
社伝によれば、大宰府に左遷された菅原道真は、延喜3年に59歳で没したが、没後、乳母であった多治比文子は「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれている。天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられている。
京都大神宮
祭神は天照皇大神、豊受大神
社格 村社
明治維新後、伊勢神宮が遥拝出来る設備を設ける事に伴い、神宮教京都教会所に由来し、神宮奉斎会京都地方本部として創建された。
明治6年、伊勢神宮の内宮・外宮より、天照皇大神、豊受大神の御分霊を迎え、明治8年、社殿を建立した。戦後、京都大神宮として、再出発しました。
若一神社
祭神は若一王子
社格 無格社
平清盛が六波羅在住の頃、このあたりは浅水の森と称し風光明媚な処で、別邸を造営し「西八条御所」と称した。仁安元年、熊野詣に向かう時「土中に隠れた御神体を世に出し奉斎せよ」と御告げがあり、邸内を探すと東方築山より夜光が放ち、土中から若一王子の御神体が現われる。社を造り鎮守し開運出世を祈ると、翌年仁安2年、太政大臣に任ぜられた。
福智山宗徳寺(粟嶋堂)
西山浄土宗
本尊は阿弥陀如来
応永年間に開山行阿上人草創の寺。粟嶋明神を祀る。粟嶋明神の乗跡医薬の祖神・小彦名命は古くより、男女共に下の病に霊験あらたかで、多くの参詣者があった。宝徳年間に南慶が紀伊国から粟嶋明神を勧請し開創。慶長7年、繁空が中興。
塩通山医王院水薬師寺
真言宗
本尊は薬師如来
京都十二薬師3番
延喜2年(902)大池の中から薬師如来の霊像が出現、醍醐天皇の崇敬篤く理源大師に命じて諸堂宇を建立され、塩通山医王院水薬師寺の勅号を賜る。元弘の兵火を蒙り、堂宇ことごとく焼失したが、板倉周防守足利氏の助力によって再建される。また、境内岩井の清泉は平清盛が熱病を癒した霊験があると伝わっている。
報國山西念寺
浄土宗西山禅林寺派
本尊は阿弥陀如来
源融の邸宅の河原院跡に16世紀に創建されたと伝わる。開基は月空珠心大和尚。その後豊臣秀吉の政策により本願寺領を設けるため現在地に移転。三寺の末寺を有し、広大な境内であったが、1943年、京都の街を戦火から守るための戦時特別政策により五条通を拡幅するため大半が接収され、3日間の内に伽藍は取り壊され現在の寺域となった。戦後、本堂や書院が再建された。
千喜満悦天満宮
祭神は菅原道真
元々は源融の屋敷内にあったもので、1945年に五条通が拡張される際西念寺に移ってきたとされ、創建などの詳細は不明。菅原道真が初めて公卿となった時、あまりの嬉しさで、この神社と列座の様子を絵に描かせた。その絵「菅家繁盛の図」が祀られている。
塩竈山上徳寺(世継地蔵)
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
慶長8年、徳川家康が阿茶局と息女の泰栄院との菩提を弔うために、伝誉一阿を開山に招請して建立したとされる。「都名所図会」によれば、境内には塩竈明神があったとされるが、現存しない。たびたび火災に罹っており、現在の本堂は、明治時代に、永観堂の祖師堂を移築したものである。正面の本堂とは別に、地蔵堂があり江戸時代より安産と子授けで知られた「世継地蔵」がある。
延命山無量壽院長圓寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
洛陽三十三所観音霊場24番
慶長13年、京都所司代板倉勝重が建立したのが起こり。天明の大火で焼失したが、十五世瑞誉上人の時に再建された。観音堂内に安置する聖観音像は、一条天皇の御代に疱瘡が流行し、これを嘆いた大納言藤原親衡は天禄3年、恵心僧都に依頼し作らせた観音像を宮中に奉安し、 二十一日間祈願法要されたところたちまち疱瘡は治まったという。それ以来疫病除けの霊験あると信じられた。
大光山眞如院
日蓮宗
本尊は日蓮聖人奠定の大曼荼羅
日蓮宗本圀寺の元塔頭。天文4年開創。開基は日映。永禄年間(1558~70)足利義昭が入洛した際、織田信長が当院で迎えたと伝える。瓜実灯籠・烏帽子石・呼子の手水鉢がある枯山水庭園は信長が義昭のために作庭したという。その特色は鱗形の石をならべて流れを表現したところにあり、極めて独創的な手法である。寺の移転とともに現在地に移し故重森三玲氏の手により復元。
満月山普照院光縁寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
慶長18年に創建されたとされる。新撰組と縁が深く、総長 山南敬助の家紋(丸に右離れ三ツ葉立葵)が寺紋と同じであったことから付き合いが始まったという由来がある。山南敬助や河合耆三郎ほか多くの隊士がここに眠っている。また御陵衛士として新撰組から袂を分かった後、暗殺された伊東甲子太郎や藤堂平助などの墓もここにあったが、後に戒光寺に改葬された。
小塩山大原院勝持寺(花の寺)
天台宗
本尊は薬師如来
西国薬師四十九霊場42番
寺伝では白鳳年間役小角の創建と伝えられ、その後延暦10年最澄が再興して小塩山大原寺と称し、仁寿年間千観によって再興されたという。応仁の乱で焼失し、天正年間に再建された。江戸時代には桂昌院の帰依を受けた。古くから桜の名所で、西行ゆかりの寺としても知らている。
西山善峯寺
天台宗系善峰観音宗
本尊は十一面千手観世音菩薩
西国三十三箇所20番
長元2年、源算が創建した。長元7年、後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。青蓮院から多くの門跡が入山したため「西山門跡」と呼ばれた。応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。境内には、樹齢約600年の五葉松で幹が横に這うように伸びていることから 「遊龍の松」と名付けられた松が有名で、天然記念物に指定されている。
法寿山正法寺(石の寺)
真言宗東寺派別格本山
本尊は三面千手観世音菩薩
西国薬師四十九霊場41番
天平勝宝6年、鑑真和上の高弟、智威大徳が隠棲した所で春日禅房と称し、その跡を伝教大師最澄が大原寺の名で寺としました。弘仁年間には弘法大師が巡錫して、本尊の三面千手観世音菩薩立像を彫刻されたと伝えらる。応仁の乱で焼失したが、元和元年に、恵雲律師、徴円律師により正法寺として再興され、元禄年間には、徳川綱吉の母、桂昌院の帰依を受けて、徳川家代々の祈願所となった。石の寺の名称は、東山連峰を望む借景式山水庭園があり、「鳥獣の石庭」と呼ばれている。
松尾大社
祭神は大山咋神、中津島姫命
社格 式内社・二十二社・官幣大社・別表神社
5世紀ごろ、秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大宝元年、勅命により秦忌寸都理が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期まで秦氏が神職を務める。平安遷都により、皇城鎮護の神として崇敬されるようになり、「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称された。
中世以降、松尾神は酒造の神としても信仰された。
智福山虚空蔵法輪寺(嵯峨虚空蔵)
真言宗五智教団
本尊は虚空蔵菩薩
京都十三仏霊場13番・日本三大虚空蔵
和銅6年、行基が元明天皇の勅願により、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺として建立したとされる。天長6年、空海の弟子の道昌が、虚空蔵菩薩像を安置し、貞観10年寺号を法輪寺と称した。室町時代、応仁の乱により罹災し、江戸時代、後陽成天皇により再建されるが、幕末、元治元年の禁門の変により、再度罹災している。
大原野神社
祭神は武御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比咩大神
社格 二十二社・官幣中社・別表神社
延暦3年に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、桓武天皇の后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。嘉祥3年、文徳天皇が社殿を造営した。奈良春日社と同じ藤原氏の氏神を祀る大原野神社はそれに準ずる扱いを受け、二十二社に列した。藤原氏の家に女の子が生まれると、その子が皇后・中宮になれるようにと当社に祈願し、祈願通りになると行列を整えて当社に参詣することが通例となっていた。
伏見稲荷大社
祭神は稲荷大神
社格 式内社(名神大)・二十二社(上七社)・旧官幣大社
和銅年間に、伊侶巨秦公が勅命を受けて伊奈利山の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる。秦氏にゆかり深い神社である。15世紀後半には、神仏習合の下に伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺の愛染寺が神宮寺として建立されたため、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝された。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって慶応4年に愛染寺や社内の仏殿、本殿内の仏像類は廃された。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。
東丸神社
祭神は荷田春満
社格 府社
国学者の荷田春満は伏見稲荷大社の社家出身で、荷田春満の旧宅が保存されており、旧宅の一角に建てられている。伏見稲荷大社の楼門内にあるが摂末社ではなく独立した神社であり、学問の神として信仰されている。
御香宮神社(御香宮)
祭神は神功皇后
社格 式内社(小)、府社
創建不詳。貞観4年に社殿を修造した記録がある。伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。菟芸泥赴によると、「筑前国糟谷郡の香椎御宮から神功皇后を勧請し皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す」とあり筑紫の香椎宮をこの地に分霊し勧請した説の方が有力。豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とした。
深雪山醍醐寺
真言宗醍醐派総本山
本尊は薬師如来
真言宗十八本山12番・近畿三十六不動23番・西国三十三所11番・西国薬師四十九霊場39番・役行者霊跡札所
創建は貞観16年、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。
醍醐山醍醐寺塔頭三宝院
真言宗醍醐派
本尊は弥勒菩薩
永久3年源俊房の子で醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院として開き、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。康治2年に鳥羽上皇の御願寺となっている。鎌倉から南北朝時代にかけて、成賢・憲深・賢俊と高僧を輩出し、足利尊氏から厚く保護された。応仁の乱で焼失し、廃寺同然となるが、安土桃山時代に醍醐寺金剛輪院の院主であった義演は豊臣秀吉の信頼が厚かったため、同院を中心に有名な「醍醐の花見」が開かれた。義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称した。
東光山法界寺(日野薬師)
真言宗醍醐派別格本山
本尊は薬師如来
西国薬師四十九霊場38番
平安時代後期の永承6年、日野資業が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まり。薬師如来像の胎内には、日野家に伝わる伝教大師最澄自作の三寸の薬師像を納入した。また一説では日野資業の4代前の藤原家宗が弘仁13年に最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の氏寺を建てたとされる。その後、平安後期の阿弥陀信仰の高まりにともない阿弥陀堂が建てられた。浄土真宗の開祖である親鸞は、承安3年に日野有範の子として、法界寺にて生まれたとされている。
牛皮山曼荼羅寺塔頭随心院(隨心院)
真言宗善通寺派大本山
本尊は如意輪観世音菩薩
真言宗十八本山11番
仁海(真言宗小野流の祖)が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年に建立した。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、牛皮山曼荼羅寺と名付けたという。増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。親厳の時、寛喜元年に後堀河天皇の宣旨により門跡寺院となった。応仁の乱によりほとんど焼失した。
法雲山大善寺浄妙院
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
京都六地蔵・京都十三仏霊場5番
慶雲2年、定恵の開山により創建されたと伝えられ、平安時代前期に円珍が天台宗に改宗したという。また仁寿2年、小野篁が一本の桜樹から6体の地蔵菩薩像を刻んだのが起源ともいう。その後永禄年間に現在の浄土宗に改められた。
乃木神社
祭神は乃木希典
社格 府社
大正5年9月、創建。建立の中心となった村野山人は薩摩藩出身の実業家。明治天皇の大葬の際、京阪電車の会社代表として参列し、その場において乃木夫妻の殉死を聞いて強い衝撃と感銘を受けた。乃木希典の1周忌に会社の職を辞し私財を投じて、明治天皇の陵の麓に神社を建てることであった。
深草山墨染寺
日蓮宗
本尊は十界大曼荼羅
寛平3年、太政大臣藤原基経がこの地に葬られたのを哀悼して、上野岑朝臣が桜に向かって歌を詠むと、花が薄墨色に染まってしまったといわれている。豊臣秀吉はこの墨染桜の話を聞き、寺領千石を与え、日蓮宗墨染桜寺として再興した。本堂前にある御手洗鉢は明和5年に歌舞伎役者の二代目中村歌右衛門が寄進したもので「墨染井」と呼ばれています。
清涼山欣浄寺(伏見大仏)
曹洞宗
本尊は昆盧舎那仏
道元禅師によって創建された寺院。平安初期、桓武天皇は深草少将義宣に邸宅を贈った伝わる。深草少将の「百夜通い伝説」で知られる。江戸中期は浄土宗に属したが文化年間に改宗。本尊の昆盧舎那仏は伏見大仏と言われ、木造の大仏では最大級。
藤森神社
祭神は素盞嗚命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇
社格 府社
神功皇后3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが発祥としている。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であったが、その地に稲荷神が祀られたため当社は現在地に遷座した。現在地は元は真幡寸神社(城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。本殿は東・中・西殿の三座から成る。天応元年に蒙古襲来のとき早良親王が大将軍となり、祈願したことから弓兵政所の異名がつき、蒙古塚は蒙古軍大将の首を埋めたものと伝わる。
圓通山大黒寺(薩摩寺)
真言宗東寺派
本尊は大黒天
創建不詳。真如法親王の開基による名刹で当初は円通山長福寺と号した。元和元年、薩摩藩主島津義弘が伏見奉行山口駿河守に懇請し薩摩藩の祈祷所となる。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老・平田靭負の墓所がある。
金札宮
祭神は天太玉命
社格 村社
縁起には「伏見久米の里の白菊の翁という老人が、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。ある年、干ばつが続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐとたちまちそこから清水が湧き出た。」と伝わり、この翁が天太玉命(白菊明神)で天平勝宝2年に創立した。また、清和天皇の御代、橘良基によって阿波国より勧請したとも伝わる。
安養山往生院勝念寺(釜敷地蔵尊)
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
正親町天皇の勅命により、織田信長、信忠父子の菩提を弔うため、貞安上人に信忠自刃の地である御池御所を賜り、信忠の法名に因んで大雲院という寺院を開創。同時に、時の天下人豊臣秀吉公の城下町である伏見丹波橋に布教の拠点とするべく一寺を開創し、勝念寺と号した。安永7年、火災により本堂・庫裏と共に本尊・過去帳並びに貴重な文物も多く焼失。しかし山門・地蔵堂は離れていたために、幸い難を逃れ、信長公より賜った釜敷地蔵尊、閻魔法王像、他仏像や書物も今日に残り、焼失前の歴代住職の名も紙片に残さた。
地蔵堂は文禄4年創立。安永9年に本堂庫裏が再建された。
深草山宝塔寺
日蓮宗
本尊は三宝尊
藤原基経が発願した極楽寺が宝塔寺の前身とされている。極楽寺は基経の没後、嫡子の藤原時平により昌泰2年、建立されたもので、『源氏物語』「藤裏葉」帖に寺名が言及されている。鎌倉時代末期、京都で布教にあたっていた日像は当時の極楽寺の住持・良桂と法論を行った。良桂は日像に帰依し、真言律宗寺院であった極楽寺は延慶年間、日蓮宗に改宗した。康永元年、日像は妙顕寺で入寂、遺言により当寺において荼毘に付された。応仁元年の応仁の乱で焼失後、長らく再建されなかったが、天正18年、日銀が伽藍を再建した。
深草山宝塔寺塔頭西之大坊大雲寺
日蓮宗
本尊は一塔両尊
天文5年建立。日隋上人開基。深草七面山御旅所。宝塔寺塔頭六坊の一つ。
百丈山石峯寺
黄檗宗
本尊は釈迦如来
正徳3年、黄檗宗大本山萬福寺の第6世千呆性侒が開創。由来は平安時代中期に摂津国多田郷に建てられた沙羅連山石峰寺に発するとされ、兵火で焼亡したが、本尊の薬師如来像は土中から慶長元年に発見され、京都五条大橋東あたりの祠に祀られていた。この薬師如来を尊崇する千呆和尚が、正徳3年に深草の地に移したという。寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、安永年間から天明年間にかけて絵師の伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職密山修大と協力して制作したもので、若冲五百羅漢としていまも親しまれている。当時は千体以上あったが、現在四百数十体が残っている。また観音堂の格天井には若冲が天井画を描いた。しかし観音堂は幕末の安政6年以前に破却され、天井画は寺外に流出、現在は信行寺や義仲寺が所蔵している。
城南宮
祭神は城南大神(八千矛神、息長帯日売尊、国常立尊)
社格 式内社、府社
創立年代不詳。平安遷都の際に国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀って創建された。平安京の南にあることから「城南神」と称した。白河天皇が鳥羽離宮を造営してからはその一部となり、離宮の鎮守社として代々の天皇や上皇の行幸がしばしばあった。また後代になると京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになった。室町時代の頃からか、この地にあった真幡寸神社を取り込んだ。
北向山不動院
天台宗
本尊は不動明王
近畿三十六不動尊22番
大治5年、病にかかった鳥羽上皇はその病気平癒の祈祷を自らが帰依している真言宗の僧覚鑁に行わせたところ、不動明王が出現するなどして上皇は回復した。その後、上皇は勅命により覚鑁を開山として当寺院を建立し、勅願寺とした。不動明王を本尊とし、平安京を鎮護する意味もあって不動明王像は北の平安京に向けられている。それによって「北向山」の名が付けられた。久寿2年には播磨国大国庄を寺領として藤原忠実が境内の整備にあたった。
福昌山本教寺
日蓮宗
本尊は十界曼荼羅
文禄3年、日受上人により開かれた。徳川家康の娘で池田輝政の妻(督姫)に篤い帰依を受け、督姫が豊臣秀吉から贈られた牡丹が境内に植えられ、「慶長牡丹の寺」と言われる。妙見宮があり池田家伝来の「北辰妙見大菩薩像」が祀られ開運厄除けと言われる。「洛陽十二支妙見めぐり」は、京都御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に祀った妙見宮を巡って開運を祈願するが、教寺』は、午の方角に当たる。
東光山辨財天長建寺
真言宗醍醐派
本尊は八臂弁財天
元和5年に伏見城が廃城になると以後、伏見は衰退を余儀なくされた。そこで、13代目伏見奉行の建部政宇は、元禄12年に中書島の開発や新たに壕川を開拓して交通の便を良くし、伏見を復興させようとした。その際に、深草大亀谷にあった即成就院の塔頭・多聞院の建物を現在地に移転させ、新たな寺院を建立し、建部の一字「建」と長寿を願って「長」の字を採って長建寺と名付けた。以降は伏見奉行の祈願所となっている。
與杼神社
祭神は豊玉姫命、高皇産霊神、速秋津姫命
社格 式内社(小)、郷社
社伝等によると応和年間(961年 - 964年)に、愛宕念仏寺などを再興した千観内供が肥前国佐賀郡河上村の與止日女神社から淀大明神を勧請して山城国乙訓郡水垂村に建立したとされる。しかしながら、日本三代実録には貞観元年(859年)に従五位下の神位を賜ったという記述があり、延長5年(927年)に成立した延喜式神名帳では山城国乙訓郡の小社として列していることから応和年間以前には存在したと考えられる。桂川の水上運輸の守護神とされ、淀姫社や水垂社とも呼ばれていた。
慶長12年(1607年)に豊臣秀頼によって片桐且元を奉行として本殿と拝殿が再建された。しかし、本殿は慶安2年(1649年)頃には建て替えられたという。明治35年、淀城本丸跡に移転。
華頂山元慶寺(花山寺)
天台宗
本尊は薬師瑠璃光如来
西国三十三箇所番外
元慶元年、藤原高子の発願により僧正遍昭を開基として建立。寛和2年、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた。寛和の変。花山法皇の宸影を安置する寺で花山寺とも呼ばれ、大鏡では花山寺と記述されている。
大光山本圀寺
日蓮宗大本山(六条門流祖山)
本尊は三宝尊
洛中法華21ヶ寺
建長5年、日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺が起源と伝える。貞和元年、日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けた。応永5年には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている。永禄11年、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。貞享2年、徳川光圀が生母の追善供養を行い、圀の一字を下され、本圀寺と改称した。
護法山安国院出雲寺(毘沙門堂)
天台宗
本尊は毘沙門天
天台宗京都五門跡
毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年、行基が開いたという。その後、平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。
護法山出雲寺塔頭双林院(山科聖天)
天台宗
本尊は大聖天歓喜天
寛文5年、毘沙門堂再建と同時に建立された。当初、本尊には湖東三山の西明寺より迎えられた阿弥陀如来、光坊の弥陀を安置するが、のちに明治元年に聖天堂を建立し、門主の公遵法親王ご念持仏大聖天歓喜天を賜り本尊とした。そのほか武田信玄や多くの信徒や寺院から奉納された聖天像七十数体合祁し、願いの叶う霊験あらたかな「山科の聖天さん」として信仰されている。
日向大神宮
祭神は天照大御神、多紀理毘賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命、天津彦火瓊々杵尊、天之御中主神
社格 式内社(小)、村社
創建年代等については不詳。社伝によれば、第23代顕宗天皇の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建された。応仁の乱で社殿等が焼失し、祭祀が一旦途絶えた。江戸時代初期に篤志家によって旧社地に再建され、交通祈願の神社として有名になった。
弘誓山當麻寺
浄土宗西山禅林寺派
本尊は阿弥陀如来(山科大仏)
証空(西山上人)により天福2年に創建された。証空が寛喜元年に大和當麻寺に参詣し、當麻寺の曼荼羅図に感銘を受け、以後、観経曼荼羅の流布につとめ、その當麻寺の曼荼羅図と同じものが、継承されていて、そこから當麻寺と名付けられた。
諸羽神社(四ノ宮)
祭神は天児屋根命、天太玉命
社格 郷社
祭神二柱の神が山科郡柳山に降臨、座されたので楊柳大明神と奉称した。この二柱の神は天尊降臨時に左右を補佐した神であるところから両羽大明神と称した。清和天皇の御世の貞観4年に社殿が造営され、両羽大明神と唱え、裏山の名も両羽山と称した。柏原天皇の御代の永世年間より中央に八幡宮、左に伊弉諾命を、右に素盞嗚命および若宮八幡宮を配し以上六柱を合祀。よって両羽を諸羽と改称する。幾度か兵火に罹り、都度再建されている。
長唱山大立寺
日蓮宗
本尊は釈迦如来
創建は不詳。慶長5年頃、圓通院日純によって開創。日純は京都・松ヶ崎の涌泉寺の2祖であり、立本寺の第13世ともいう。山科の毘沙門堂とは親交があり関係が深い。本堂正面に掲げる「圓通殿」の額は毘沙門堂準后宮門主の真筆とされる。山門は毘沙門堂より下賜され移築されたもの。
柳谷山徳林庵(山科地蔵)
臨済宗南禅寺派
本尊は地蔵菩薩
京都六地蔵
南禅寺第260世雲英正怡が1550年に開創した。山科廻地蔵、山科地蔵、四ノ宮地蔵として地元の人々に親しまれている。六角堂に安置される本尊の地蔵菩薩は平安時代に小野篁が一本の桜の大木から作ったとされる六体の地蔵尊像のうちの一つと言われている。初めは六地蔵の名で親しまれている伏見の大善寺に六体が祀られていたが、後白河法皇の深い信仰を受け、平清盛、西光法師などの手により厄病退散、路上安全、招福結縁を祈願し、都街道の出入口六ケ所に一体ずつ分置された。
亀甲山勧修寺(山階門跡)
真言宗山階派大本山
本尊は千手観世音菩薩
真言宗十八本山10番
昌泰3年、醍醐天皇が生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益の邸宅跡を寺に改めたもので藤原定方に命じて造立させた。開山は承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、応仁の乱と文明2年兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。明治40年には当時の「真言宗」が解消されて山階派として独立。山階派本山となった。その後、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は統合されたが、戦後の昭和27年に再度山階派として独立している。
牛皮山随心院曼荼羅寺
真言宗善通寺派大本山
本尊は如意輪観世音菩薩
真言宗十八本山11番、京都十三仏霊場11番
仁海が一条天皇から小野氏邸宅の隣を寺地として下賜され、正暦2年(991年)に建立。5世増俊の時、曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。6世顕厳の時には順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となった。東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151年 - 1236年)の時、寛喜元年(1229年)に後堀河天皇の宣旨により門跡寺院となった。その後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺している。
神遊山金地院岩屋寺(大石寺)
曹洞宗
本尊は如意輪観世音菩薩
近畿三十六不動尊24番
寛平9年(897年)に宇多天皇の命により南に隣接する山科神社の神宮寺として創建。天台宗に属していたが、後に曹洞宗に改められる。大石内蔵助が当寺の境内に邸宅を建てて永住を装ったことから大石寺とも呼ばれる。本尊は秘仏で、円珍(智証大師)作と伝わる大聖不動明王像。また、内蔵助の念持仏であったともいう。内蔵助が閑居した邸宅は吉良邸討ち入り後に荒廃したが、後にその古材で茶室の「可笑庵」が作られた。
大石神社
祭神は大石内蔵助良雄
社格 府社
昭和初期、赤穂浪士を熱心に崇拝していた浪曲師の吉田大和之丞(2代目吉田奈良丸)が、良雄ゆかりの地である岩屋寺の北隣りに神社を創建することを計画した。府・市など関係方面に活動を行った結果、府知事を会長とする大石神社建設会などが設立され、募金によって1935年(昭和10年)に社殿が竣工した。なお、創立が許可されたのは1933年(昭和8年)12月9日であった。