粟田神社
祭神は、素戔嗚尊・大己貴命
社格 府社 京都十六社
京の七口の一つである粟田口に鎮座し、古くから旅立ち守護の神として崇敬を集めている。創建は貞観18年。旧社名は、「感神院新宮」「粟田天王宮」と呼ばれていたのが、明治になり「粟田神社」と改められた。
五百佛山智積院根来寺(智積院)
真言宗智山派
本尊は金剛界大日如来
真言宗十八本山7番・近畿三十六不動尊20番・京都十三仏霊場1番
もともと紀州根来山大伝法院の塔頭で、覚鑁が大治5年高野山に創建した寺院が、保延6年根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。南北朝時代、真憲坊長盛が建立し根来山内の学問所であった。近世に入って、豊臣秀吉と対立し、天正13年の根来攻めで、全山炎上した。玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。慶長6年、徳川家康は豊国神社の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、復興した。
慧日山東福禅寺(東福寺)
臨済宗東福寺派大本山
本尊は釈迦如来
京都五山四位
開基は九条道家、開山は聖一国師円爾。嘉禎2年に創建したが、建設工事は30年以上に亘って続き、法堂が完成したのは文永10年であった。元応元年の火災をはじめたびたび焼失するが、九条家、鎌倉幕府、足利家、徳川家などの援助で再建された。東福寺からは歴代多くの名僧を輩出しており、「元亨釈書」の著者である虎関師錬、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆が著名。
東福寺塔頭同聚院
臨済宗東福寺派
本尊は不動明王
近畿三十六不動尊霊場21番
創建は文安元年に、東福寺第160世・文渓元作禅師が、東福寺第129世・琴江令薫禅師を開山に勧請して創建した寺院。ここは、かつて藤原道長が建立した五大堂の遺跡付近だったといわれ、五大堂には五大明王が祀られていたが、その後火事等の災害により中尊不動明王を除く四体は失われ、不動明王像のみが同聚院の本尊として受け継がれた。
この不動明王像は、藤原時代前期の代表的な彫像で、仏師定朝の父・康尚の作品として重要文化財に指定されている。木造彩色、像高265cmの日本最大の木像不動明王像。
東福寺塔頭稲土山霊雲院
臨済宗東福寺派
本尊は文殊菩薩
京都十三仏霊場3番
明徳元年に天龍寺第64世、南禅寺第96世、東福寺第80世に歴任した岐陽方秀が開いたとされ、当初は不二庵と呼ばれていた。明徳4年に遣明船が明国から四書や詩経集伝などを舶載した時、岐陽和尚がはじめてこれらに注釈を加えて講義し、後に将軍足利義持に篤く帰依されている。前庭に著名な「九山八海の庭」がある。
東福寺塔頭毘沙門堂勝林寺
臨済宗東福寺派
本尊は毘沙門天
室町時代末期の天文19年に東福寺第205世・高岳令松によって創建された。本堂は近衛家の大玄関を移して建立。東福寺の鬼門に位置し本尊として仏法と北方の守護神として知られる毘沙門天を祀ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれている。本尊である秘仏の毘沙門天立像は平安時代の作。
東福寺塔頭楞伽山盛光院(岩上観音)
臨済宗東福寺派
本尊は岩上観音菩薩
文永11年に等福寺10世の直翁智侃の開創による。当初は光明蔵院と称し、後に盛光院に改める。文化3年に焼失。文化5年に豊後の宝勝院本堂を移築し庫裏とする。
東福寺塔頭一華院
臨済宗東福寺派
本尊は白衣観音菩薩
永徳2年に東漸禅師が創建した。一華院の名は禅宗の開祖である達磨大師が弟子の慧可大師に、詠んで与えたという伝法偈である「吾れ本と茲土に来たり、法を伝えて迷情を救う。一華五葉を開き、結果自然に成る。」が由来である。
東福寺塔頭碧玉山正覚禅庵(筆の寺)
臨済宗東福寺派
本尊は釈迦如来
正応3年に東福寺5世の山叟慧雲を開山として、鎌倉時代の武将で奥州・伊達政宗の先祖である伊達政依によって創建された。威徳堂には「渡宋大自在威徳天神」が祀られており、堂内には巨大な筆が祀られている。江戸時代の文化年間には、境内に筆塚が築かれた。「絹本著色山叟恵雲像」は国の重要文化財。毎年11月23日には「筆供養」が行われている。本堂は旧白洲屋敷を伊丹から移築したもの。
東福寺塔頭芬陀院(雪舟寺)
臨済宗東福寺派
本尊は阿弥陀如来
元亨年間、一条経通が父一条内経のため、東福寺開山の円爾の法孫にあたる定山祖禅を開山として創建。以後、今日まで摂関家の一家である一条家の菩提寺とされる。院号は内経の法号「芬陀利華院」にちなむ。元禄年間、一条兼輝によって再興された。宝暦5年の火災後、恭礼門院の旧殿を移築している。方丈の南庭と東庭は、画聖として知られる雪舟が作庭したと伝わる枯山水庭園である。
黄台山長楽寺
時宗
本尊は准胝観音菩薩
洛陽三十三所観音霊場第7番
延暦24年、勅命により最澄が延暦寺の別院として創建。文治元年には高倉天皇の中宮、建礼門院が壇ノ浦の戦いの後、この寺で出家したと伝えられる。法然の弟子、隆寛はこの寺に居住して多念義を唱えた。至徳2年、時宗の僧国阿がこの寺に入り、時宗の寺に改められた。明治41年には、時宗の道場が置かれ七条道場と称された金光寺がこの寺に統合されている。
音羽山清水寺
北法相宗大本山
本尊は千手観世音菩薩
西国三十三箇所16番・法然上人二十五霊跡13番・洛陽三十三所観音霊場10番・11番・12番・13番・14番、洛陽六阿弥陀3番
宝亀9年大和国子島寺の僧である延鎮が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、音羽山であった。そこには篭って数百年も修行を続けている行叡居士という修行者がおり、「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。延鎮は、行叡が残していった霊木に観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。その後、延暦24年に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となった。
地主神社
祭神は大国主命・素戔嗚命・奇稲田姫命・足摩乳命・手摩乳命
社格 郷社
創建は不明。平安時代には嵯峨天皇、円融天皇、白河天皇が行幸した。天禄元年、円融天皇行幸の際、勅命により臨時祭が行われた。これが今日の地主祭りの起源である。明治に入り神仏分離令により清水寺から独立。現在の社殿は、徳川家光が寛永10年に造営したもの。
華頂山知恩教院大谷寺(知恩院)
浄土宗総本山
本尊は阿弥陀如来・法然上人
法然上人二十五霊跡25番
開基は法然上人で、法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院である。知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。今の姿になったのは、江戸時代以降。国宝の三門は特に立派で、日本三大門の一つとされている。
京都ゑびす神社
祭神は、八代言代主大神・大国主大神・少彦名神
社格 日本三大えびす・都七福神(恵比須神)
建仁2年に建仁寺建立にあたり、栄西禅師が、その鎮守として最初に建立。栄西禅師は、宋の修行から日本に戻る際に嵐で遭難しかけたところ、八代言代主神が現れ、命を救われ、その出来事がきっかけとなり、えびす様を厚く信仰したと云われている。
寿福山仲源寺(目疾地蔵)
浄土宗
本尊は地蔵菩薩
洛陽三十三所観音霊場16番
寺伝では、平安時代中期の仏師定朝が開山となって開かれたとも伝えられ、当初は四条橋の東北にあったとされる。鎌倉時代の安貞2年、鴨川が大雨で洪水となり、防鴨河使となった中原氏がこの地蔵尊に止雨を祈ったところ雨がやんで洪水も治まったことから、朝廷から「仲源寺」の寺号を下賜されたという。本尊の地蔵菩薩は目疾地蔵とも称されて眼病に霊験があるとして信仰されている。
鷲峰山高台寿聖禅寺(高台寺)
臨済宗建仁寺派
本尊は釈迦如来
豊臣秀吉の正室である北政所(出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願。徳川家康は、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。開山は慶長11年で当初は曹洞宗の寺院であった。寛永元年、臨済宗寺院である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。北政所の兄・木下家定は建仁寺及び三江紹益と関係が深く、家定の七男が三江紹益のもとで出家していることも、この改宗と関連すると言われる。
高台寺塔頭圓徳院
臨済宗建仁寺派
本尊は釈迦如来
備中国足守藩主で北政所の甥にあたる木下利房が、伏見城の北政所化粧御殿をこの地に移築して自らの邸としたことに始まる。利房の死後その菩提をともらう寺となり、利房の院号「圓德院」をそのまま寺号として高台寺の塔頭となる。
高台寺天満宮
祭神は菅原道真
元々は北政所が信仰し高台寺の中にあったものを2009年に高台寺の開創400年を記念して今の場所に移され修営された。
青蓮院
天台宗
本尊は熾盛光如来
近畿三十六不動尊19番、天台山門派三門跡
三千院、妙法院などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房がその起源とされている。門跡寺院となって山下に移ったのは平安時代末期の行玄大僧正の時。覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。鎌倉時代に高台の現在地へ移った。室町時代には6代将軍足利義教となる義円が門主を務めた。また衰微期の本願寺が末寺として属し、蓮如もここで得度を受けている。
東山建仁禅寺(建仁寺)
臨済宗建仁寺派大本山
本尊は釈迦如来
京都五山三位
開山は栄西で建仁2年鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立された。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。創建当時は天台、真言、禅の3宗並立であったが、正元元年には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。
建仁寺塔頭禅居庵
臨済宗建仁寺派
本尊は聖観世音菩薩 摩利支尊天
元弘3年に信濃守護小笠原貞宗によって建仁寺第23世の清拙正澄禅師を開祖として創建され、摩利支天が祀られる。小笠原貞宗の京都における菩提寺でもあり、本堂裏には貞宗と清拙正澄の墓所がある。
豊国神社
祭神は豊臣秀吉
社格 別格官幣社・別表神社 京都十六社
豊臣秀吉の死去の翌年の慶長4年、遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られ鎮座祭が行われた。その後元和元年に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は朽ちるままにされ、神体は新日吉神社にひそかに移し祀られた。明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。
南叡山妙法院
天台宗
本尊は普賢菩薩
天台山門派三門跡
天台宗の他の門跡寺院と同様、比叡山上にあった坊がその起源とされ、初代門主は伝教大師最澄とされている。その後、平安時代末期、後白河法皇の時代に洛中に移転し、一時は綾小路小坂に所在したが、近世初期に現在地である法住寺殿跡地に移転した。青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた。
補陀洛山六波羅蜜寺
真言宗智山派
本尊は十一面観世音菩薩
西国三十三箇所17番・洛陽三十三所観音霊場15番・都七福神(弁財天)
空也が天暦5年に造立した十一面観音を本尊とする道場が起源であり、当初西光寺と称した。空也は応和3年鴨川岸で大規模な大般若経供養会を行ったが、その時を西光寺の創建とする説もある。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。その後中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。その後桃山時代に真言宗智績院の末寺となった。鴨川から少し街中に入ったところにあり、風情はあまりないが歴史的な意味のあるお寺である。
方廣寺
天台宗山門派
本尊は大日如来、大黒天
天正14年、豊臣秀吉により大仏殿の造営が開始され、文禄4年に完成した。東大寺の大仏より大きく、釘などは刀狩で没収した武器の再利用されたものも使われた。慶長元年に地震により倒壊。その後豊臣秀頼により再建されたが、寛政10年に落雷による火災で焼失した。「国家安康」「君臣豊楽」の刻まれた梵鐘が残っており、徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒とくするものとみなされて、大阪の役による豊臣家滅亡を招いたとされる。この鐘は東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。
法住寺
天台宗
本尊は不動明王
平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」がいとなまれた。法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河上皇もなくなると、法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に御陵と寺が分離され現在にいたる。本尊の身代不動明王は、寺伝では慈覚大師が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かった。義仲の放火のさいに、上皇の身代わりとなったと伝えられている。
霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量寿院(雙林寺)
天台宗
本尊は薬師如来
京都十二薬師7番
延暦24年、桓武天皇の勅願により最澄が創建。その後、平康頼、西行、頓阿などが隠棲している。至徳元年、国阿が入寺して再興し時宗の道場が置かれたが、その後衰退した。江戸時代に入り、高台寺や大谷祖廟の造営にあたって寺地を献上し、規模が縮小された。明治初年に再び天台宗の寺院となったが、本堂と西行堂のみとなった。
蓮華王院(三十三間堂)
天台宗
本尊は千手観世音菩薩
洛陽三十三所観音霊場17番
後白河上皇は長年頭痛であったが熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあり、因幡堂に参詣すると「前世は熊野の蓮花坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったという。この伝承により「頭痛山平癒寺」と俗称された。
八坂神社(祇園社)
祭神は素戔嗚尊、櫛稲田姫命、蛇毒気神、八柱御子神
社格 二十二社・官幣大社・別表神社
社伝によれば、斉明天皇2年高句麗より来日した調進副使・伊利之使主が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。貞観18年に円如が播磨国広峯の牛頭天王の分霊を遷し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名 祇園寺)と称した。祇園祭は、貞観11年に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年ごろから八坂神社の祭礼として毎年行われるようになった。
安井金毘羅宮
祭神は崇徳天皇、大物主神、源頼政
社伝によると、藤原鎌足が一堂を創建し、藤寺と号したのが始まりで、崇徳天皇が久安2年に堂塔を修造して、寵妃烏丸殿を住まわさた。崇徳上皇が崩御した時に、烏丸殿は御尊影をお祀りさた。その後、白河法王の詔によって建治年間に建立された光明院観勝寺が起こりである。さらに応仁の乱の兵火により荒廃したが、元禄8年に太秦安井にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政を祀ったことから安井の金比羅さんの名で知られるようになった。現在は縁結びの神様で有名になっている。
新熊野神社
祭神は伊弉諾尊
社格 村社 京都十六社
永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された。後白河法皇は「法住寺殿」と呼ばれ、法住寺で院政を行ったが、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建された。造営は平清盛、平重盛。応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になるが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院が修復、現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王によって修復された。
東山泉涌寺(御寺)
真言宗泉涌寺派総本山
本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来
真言宗十八本山8番・洛陽三十三所観音霊場20番・京都十三仏霊場6番・泉山七福神(楊貴妃観音)
斉衡3年、藤原緒嗣が神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めた。建保6年、宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進し、この地に大伽藍を造営し、霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという。貞応3年には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められた。後堀河天皇と四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、江戸時代には後水尾天皇以下、孝明天皇に至る歴代天皇が山内に葬られ、皇室の陵墓に対して香をたき、花を供える香華院として「御寺」と尊称されている。
泉涌寺塔頭光明山即成院
真言宗泉涌寺派
本尊は阿弥陀如来及び二十五菩薩
泉山七福神(福禄寿)
正暦3年、恵心僧都により伏見に建立された光明院を始まりとする。
寛治年間には、藤原頼通の子橘俊綱が、山荘造営にあたり当院を持佛堂として傍に移設し、伏見寺または即成就院と呼ばれた。文禄3年豊臣秀吉の伏見城築城のため、深草大亀谷に移転し、明治に至り、廃佛毀釈で廃寺となり、明治35年泉涌寺総門の現在の地で再興され、即成院と呼ばれるようになった。
泉涌寺塔頭泉山法音院
真言宗泉涌寺派
本尊は不空羂索観音菩薩
洛陽三十三所観音霊場25番・泉山七福神(寿老人)
嘉暦元年、無人如導によって泉涌寺山内に創建。応仁の乱により兵災焼亡するが、江戸時代の初期に幕府及び本多正貫らの支援を得、覚雲西堂の手により現在の地に再建される。寛文の再興以来、駿州田中城主本多家の京都における菩提寺となり本多氏の当主の位牌は幕末まで当院に安置されていた。
泉涌寺塔頭泉山善能寺
真言宗泉涌寺派
本尊は聖観音菩薩
洛陽三十三所観音霊場18番
弘仁14年に空海が八条油小路の地に創建したのに始まる。天文20年、後奈良天皇の命で現在地に移され、現在の本堂は昭和46年、ばんだい号墜落事故の遺族の寄進により、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立された。
泉涌寺塔頭泉山戒光寺
真言宗泉涌寺派準別格本山
本尊は丈六釈迦如来
泉山七福神(弁財天)
安貞2年、宋から帰朝した浄業曇照が大宮八条の東堀川の西に創建し、後堀河天皇の勅願所となった。その後一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て、正保二年、現在地に移され再興した。本尊の釈迦如来立像は一丈六尺を越え、運慶湛慶父子の合作であり、「身代わり丈六さん」の名で知られている。
泉涌寺塔頭瑠璃山雲龍院
真言宗泉涌寺派別格本山
本尊は薬師如来
西国薬師四十九霊場40番・泉山七福神(大黒天)
後光厳天皇の勅願により、竹巌聖皐を開山として応安5年に創建された。後小松天皇、称光天皇など皇室の帰依を受けて発展したとされ、江戸時代初期、如周宗師が隣接する後円融天皇縁の法雲山龍華院を併合する。
泉涌寺塔頭新那智山観音寺(今熊野観音寺)
真言宗泉涌寺派
本尊は十一面観世音菩薩
西国三十三所15番、洛陽三十三観音19番、京都七福神(恵比寿)、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場1番
大同年間(806年~810年)空海が庵を結んだのに始まる。その後、藤原緒嗣が伽藍を造営した。永暦年間、新熊野神社が建てられるとその本地仏を祀る寺とされた。
大悲山一音院法性寺
浄土宗西山禅林寺派
本尊は千手観世音菩薩
洛陽三十三観音21番
延長2年に左大臣藤原忠平が創建。以後、藤原一門の加護を受け、平安時代を通じて大いに栄えた藤原家の氏寺。法性寺の寺名は菅原道真の怨霊を鎮めたとされる天台宗13世座主・法性坊尊意から取られたと言う。
大黒山金剛寺庚申堂(八坂庚申堂)
天台宗
本尊は青面金剛
日本三庚申
平安時代、験者であった浄蔵貴所が、八坂の地に建立。以後、日本最初の庚申信仰の霊場として信仰を集めた。現在の本堂は江戸時代の延宝6年に再建。日本三庚申とは大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)で、飛鳥時代に中国より渡来した秦河勝により秦氏の守り本尊として青面金剛が祀られた。
大椿山六道珍皇寺(六道さん)
臨済宗建仁寺派
本尊は薬師如来
創建は延暦年間とされ、開基は弘法大師の師にあたる慶俊とされるが、異説として空海や小野篁などとする説のほか、かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身であるともいう。珍皇寺は承和3年に山代淡海が創建したとの記録がある。鎌倉時代までは東寺の末寺であったが、南北朝時代以降、戦乱により衰退した。貞治3年建仁寺から聞溪良聰が入寺して再興、臨済宗に改められた。明治43年に独立した。
若宮八幡宮(陶器神社・六条左女牛八幡宮)
祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、椎根津彦命
社格 郷社
天喜元年に後冷泉天皇の勅願により、源頼義が六条醒ヶ井の邸内に、石清水八幡を勧請したのが始まり。鎌倉時代には源氏をはじめ有力御家人の信仰も篤く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬も集め隆盛を極めたが、応仁・文明の乱の兵火で社殿を焼失。慶長10年にこの地に移された。
霊応山法観禅寺(八坂の塔)
臨済宗建仁寺派
本尊は五智如来
京都十三仏霊場11番
平安京遷都以前から存在した寺院で、八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。境内から出土する瓦の様式から、創建は7世紀にさかのぼるとみられる。現存する五重塔は15世紀の再建であるが、古代寺院に特有の地下式の心礎が残っている。寺号は当初は八坂寺と称された。治承3年に火災で焼失したが建久2年、源頼朝の援助により再建された。その後正応4年に焼失し、延慶2年、後宇多天皇の援助で再建。永享8年の焼失後、足利義教の援助により再建された。
常照山日體寺
日蓮宗
本尊は釈迦如来
創建年代不明。元は観音寺という浄土宗寺院。その後、江戸時代中期の享保6年に、常照院日體上人に帰依して日蓮宗に改宗し、この日體上人を開山とした。日體寺の北辰妙見尊は、元々は祇園石段下にあった妙見宮に祀られていたが、地所建物が取り払いになったため、祇園の元芸妓・藤井四十吉という女性が自宅で祀っていた。その後、四十吉が亡くなり日體寺に埋葬された縁から、妙見尊も日體寺で祀られるようになった。この妙見尊は、水火の災を除き、怨敵の難を退け、家を修めるとして「清水の鎮宅妙見」として知られる。
霊山観音
霊山観音教会
本尊は十一面観世音菩薩
第二次世界大戦の戦没者および戦争の犠牲者を追悼するため、昭和30年、帝産グループ創設者、石川博資によって建立された。
京都霊山護国神社
祭神は、護国英霊
社格 別表神社
文久2年、時衆霊山派の正法寺の朱印地のなかの神道葬祭場霊明社において有志者による神葬祭が行われた。祭神は菊理媛神・速玉男命・事解男命の3神。慶応4年、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。靖国神社より古い歴史を持つ。当初の社号を霊山官祭招魂社と称し、社格は「官祭社」に列し国費で営繕されてきた。昭和11年、日中戦争をきっかけとして国難に殉じた京都府出身者の英霊を手厚く祀ろうという運動がおき、霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たに社殿を造営した。
見性山青龍寺
浄土宗
本尊は聖観世音菩薩
洛陽三十三所観音霊場9番
桓武天皇の勅命によって長岡京近郊に創建され、平安遷都により現在地に移された。昔から「伽羅観音」の通称で広く信仰を集めてきた本尊の聖観音は、本堂正面に安置されており、身の丈約1メートル、細身の優雅な立ち姿である。寺伝によると、唐の徳宗皇帝から献上された伽羅木を、桓武天皇が伝教大師に命じて彫刻された。
秋葉山東景寺
曹洞宗
本尊は秋葉三尺坊大権現
創建不詳。天明年間に当初は洛東上岡崎村に創建されたという。祖は遠州秋葉寺。1860年に現在地に移転するが、幕末荒廃する。地元町衆の請にて天寧寺15世梵城泰仙を中興として復興。火難、盗難、家内安全の信仰が篤い。
新日吉神宮
祭神は、日吉山王七神、後白河天皇
社格 府社
社伝によれば、永暦元年、後白河上皇の命により、院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、現在より南に創建されたと伝えられる。その後、社地を転々とし、現在の社地となったのは、豊国廟が再興された明治30年になってからである。昭和33年、後白河天皇を増祀し、昭和34年に神社名を現在の新日吉神宮と改めた。
南叡山養源院(宗達寺)
浄土真宗遣迎院派
本尊は阿弥陀如来
文禄3年に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政、祖父浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建した。浅井長政・久政は天正元年、小谷城で自刃している。開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印である。元和2年5月7日に崇源院(江)が養源院で淀殿・豊臣秀頼の菩提を弔う。その後、元和5年、火災により焼失。元和7年、崇源院の願により再興された。以後、徳川氏の菩提所となった。もと天台宗で第二次大戦後に浄土真宗遣迎院派に改宗した。血天井は伏見城の戦いで鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもの。俵屋宗達の襖絵も有名。
京城山萬壽禅寺(東福寺塔頭)
臨済宗東福寺派
京都五山
本尊は阿弥陀如来
平安時代後期、白河天皇の皇女郁芳門院(媞子内親王)が永長元年に数え年21歳で亡くなり、それを悲しんだ天皇が皇女の菩提のために六条御堂を建てた。この御堂は、鎌倉時代には法然の弟子・湛空が住し、湛空から十地覚空に受け継がれた。この頃には天台系浄土教の寺であったと見られる。正嘉年間、十地覚空とその弟子の東山湛照が東福寺の円爾に帰依して臨済宗寺院となり、寺号も万寿禅寺と改めた。室町時代には当初は十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し、更に京都五山の第5位に数えられたが、永享6年の火災後、衰微した。明治19年には万寿寺が東福寺の塔頭となり、21世紀に至っている。
今宮神社
祭神は、大己貴命、事代主命、奇稲田姫命
社格 府社 京都十六社
正暦5年、船岡山で御霊会が行われた後、長保3年5月に現在の場所に神殿が造営されて3柱の神が祀られたのが始まるとされる。御霊会は今宮祭とも呼ばれ、平安時代末から鎌倉時代初期にかけて禁止された時期もあった。弘安7年には正一位の神階が与えられ、江戸時代には社領として50石が与えられた。
京都西陣の八百屋に生まれた「お玉」が徳川3代将軍家光の側室となり、5代将軍綱吉の生母・桂昌院として従一位となったことから「玉の輿」と言うことわざが出来たとの説がある。桂昌院は京都の寺社の復興に力を注いだが、氏神である今宮神社の復興にも力を入れ社殿を修復して四基の鉾を寄進したと言われている。
玄武神社(亀宮、惟喬社)
祭神は、惟喬親王
社格 別格官幣社・別表神社
元慶年間に、惟喬親王の母方の末裔で雲林院村に居住していた紀茂光が、親王の御霊を慰め、王城北面の鎮護とこの地の守護神として、紀名虎の蔵していた御剣を親王がご寵愛されていたことにより、これを御霊代として奉祀したと伝えられる。
龍寶山大徳禅寺(大徳寺)
臨済宗大徳寺派大本山
本尊は釈迦如来
開基は大燈国師宗峰妙超、正中2年に創立。境内には仏殿、法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世の雰囲気を残している。室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
大徳寺塔頭興臨院
臨済宗大徳寺派
本尊は釈迦如来
大永年間に能登の畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立、以来畠山家菩提寺となる。その後、畠山家が没落するが天正9年に加賀百万石の基礎を築いた前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となり庇護される。
大徳寺塔頭黄梅院
臨済宗大徳寺派
本尊は釈迦如来
永禄5年に織田信長が父・信秀の追善供養のため春林宗俶を迎えて創建、黄梅庵と名付けられた。本能寺の変後、その葬儀が羽柴秀吉により大徳寺で行われ、信長の塔所として黄梅庵を改築したが、主君の塔所としては小さいという理由から総見院を新たに創建。その後、春林の法嗣の玉仲宗琇が入寺し、堂宇を整備。黄梅院と改めた。
大徳寺塔頭龍源院(南派本庵)
臨済宗大徳寺派南派
本尊は釈迦如来
文亀2年に東渓宗牧を開山として、能登の畠山義元、豊後の大友義長らが創建。明治の初めに神仏分離により大阪・住吉神社内の慈恩寺と岐阜・高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院を合併した。
大徳寺塔頭総見院
臨済宗大徳寺派
本尊は織田信長坐像
本能寺の変の100日後、10月10日に大徳寺において織田政権の覇権争いの舞台として有名な大葬礼が執り行われ、喪主は信長の遺児で、秀吉養子の秀勝が務めた。その後の織田信長の一周忌に豊臣秀吉が建立した寺院。開祖は大徳寺117世の古渓宗陳。明治初年の廃仏毀釈により堂塔伽藍や多くの宝物が灰燼と化し大徳寺の修禅専門道場及び管長の住居となっていたが、大正年間に再興される。昭和36年に本山に安置されていた信長木像を再び迎え、380年忌を行った。
大徳寺塔頭高桐院
臨済宗大徳寺派北派
本尊は釈迦如来
細川忠興が細川幽斎のために慶長7年に建立した寺で、玉甫紹琮を開山とする。玉甫紹琮は幽斎の弟で、細川忠興のおじにあたる。創建については慶長6年とも言うが、創建に際して春屋宗園が与えた偈に「寅十月十七日」とあり、干支の関係から慶長7年の創建とみられる。正保2年に83歳で没した忠興は、遺言によりその遺歯が高桐院に埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護される。
相国寺山外塔頭北山鹿苑寺(金閣寺)
臨済宗相国寺派
本尊は観世音菩薩
元仁元年に西園寺公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた。鎌倉幕府滅亡直後に西園寺公宗が後醍醐天皇を暗殺を企て処刑され、所領と資産は没収された。応永4年、足利義満が河内の領地と交換に西園寺を譲り受け、北山第と呼ばれた。その後、応永26年に舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。応永27年に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、夢窓疎石を勧請開山としている。
萬年山等持院
臨済宗天龍寺派
本尊は釈迦牟尼仏
足利尊氏が暦応4年に等持寺を建立し、康永2年、現在の場所に別院北等持寺を建立したとされている。康永元年頃に等持院が諸山に叙せられ、寺号も等持寺と定められた。尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を等持院と改称した。その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になった。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
祭神は、賀茂別雷大神
社格 式内社(名神大)、山城国一宮、二十二社、官幣大社、勅祭社、別表神社
神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。国史では、文武天皇2年、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。延暦13年の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年には正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。
大田神社(恩多社)
祭神は、天鈿女命
社格 式内社(小)
賀茂における最古の神社と伝わる。賀茂県主が当地に移住する以前から先住民によって祀られたといわれるが、明らかではない。延長5年成立の「延喜式」神名帳では山城国愛宕郡に「太田神社」と記載され、式内社に列している。
建勲神社
祭神は、織田信長
社格 別格官幣社、別表神社
明治2年11月8日、日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた信長のおかげとして、戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた織田信長を賛えるための健織田社の創建が明治天皇により決定された。明治8年に別格官幣社に列格した。明治14年に織田信忠が合祀された。明治43年に社殿が現在の山頂部分に移建された。祭神・織田信長の業績にちなみ、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされる。高台にある境内からは特に大文字山・比叡山方面の眺望が良い。
平野神社
祭神は、今木皇大神・久度大神・古開大神・比売大神
社格 式内社(名神大)、二十二社、官幣大社、別表神社
桓武天皇の生母の高野新笠の祖廟として平城宮で祀られ、桓武天皇による平安京遷都に伴って大内裏近くに移し祀られたとされる。皇太子守護の性格を持つ神社で、平安時代には例祭「平野祭」に皇太子自らによって奉幣が行われた。また、多くの臣籍降下氏族から氏神としても崇敬される神社であった。
敷地神社(わら天神宮)
祭神は、木花開耶姫命
社格 村社 京都十六社
天長8年、この地に氷室が設けられ、その夫役として加賀国から移住した者が、崇敬していた菅生石部神社(敷地天神)の神を勧請し、北山の神の隣に祀り、菅生石部神の母神の木花開耶姫命を祭神に定めた。応永4年、足利義満が北山殿を造営するに当たり、参拝に不便になったことから、両社を合祀して現在地に遷座した。
昆陽山地蔵院(椿寺)
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
洛陽三十三所観音霊場30番
神亀3年、行基が摂津国昆陽野池のほとりに建立したのが始まりと伝えられ、室町時代におきた明徳の乱で焼失したのを室町幕府3代将軍足利義満によって衣笠山の麓へ移されたという。天正年間に現在地に移されて中興された。豊臣秀吉が椿を寄進したことで知られ椿寺の名で知られる。
大虚山光悦寺
日蓮宗
本尊は十界大曼荼羅
本阿弥光悦は、慶長年間(1596年 - 1615年)の初年にはこの地に別宅を構えていたが、元和元年(1615年)に徳川家康により付近一帯の土地を与えられた。元和5年(1619年)になり本格的にこの地に移り住んだ光悦は、一族や様々な工芸の職人とその家族ら100人以上を集住させて一大芸術村、いわゆる光悦村を作り上げた。また自らの屋敷の近くに法華題目堂を建立した。光悦の死後の明暦2年(1656年)、屋敷と法華題目堂は日蓮宗の日慈を開山として整備され光悦寺となった。
清雲山圓成寺(岩戸妙見宮)
日蓮宗
本尊は三宝尊、四菩薩(一塔両尊四士)
平安京の大極殿から北に位置するこの鷹ケ峰一帯の山々は「北山」と呼ばれる聖地であった。皇城北方鎮護の官寺「霊巖寺」があり、平安京総鎮守の「妙見大菩薩」が祀られてていた。中世には廃れていたこの旧跡を寛永7年(1630年)、本山本満寺二十一世円成院日任上人が一条家の懇情により、この地に当山を創し改めて法華勧請し日本第一の妙見霊場を復興された。
鷹峰山寶樹林源光庵(復古禅林)
曹洞宗
本尊は釈迦如来
貞和2年(1346年)に臨済宗の大徳寺2世・徹翁義亨国師により隠居所として創建。その後、衰退するが元禄7年(1694年)に加賀国大乗寺27代曹洞宗復古道人卍山道白禅師が当寺に住持して再興し、曹洞宗に改められた。現在の本堂は元禄7年(1694年)の建立で、加賀国の住人中田静家居士の寄進による。幕末頃までは末寺合わせ13ケ寺あったが、明治維新後の廃仏毀釈で9ケ寺が廃寺となっている。
寂光山常照寺(檀林の寺、吉野の寺)
日蓮宗
本尊は三宝尊
本阿弥光悦はこの地に別宅を構えていたが、元和元年(1615年)に徳川家康により付近一帯の土地を与えられた。元和2年(1616年)に光悦とその養子・光瑳により「法華の鎮所」がこの地に建立された。寛永4年(1627年)に光瑳の招きによって日蓮宗の中興の祖日乾が「法華の鎮所」に入ると、日乾はこれを正式に寺院として整備して寂光山常照寺と名付け、学寮である檀林(鷹峰檀林)を開いた。寛永5年(1628年)には日乾に帰依していた遊女の2代目吉野太夫により、山門(吉野門)が寄進されている。
叡昌山本法寺
日蓮宗本山
本尊は十界曼荼羅
洛中法華21ヶ寺
永享8年日親により東洞院綾小路に創建された。天文法華の乱によって一時堺に退避したが、その後京へ戻り一条堀川に再建された。再建の際には、大壇越で熱心な法華教徒である本阿弥家の協力があったとされ、以来本法寺は本阿弥家の菩提寺として機能していくこととなる。天正15年、豊臣秀吉による聚楽第の工事に伴う都市計画によって、現在地へ移転している。移転工事を監督したのが、三巴の庭を作庭した本阿弥光悦である。
下御霊神社
祭神は、八所御霊(吉備真備、早良親王、伊予親王、伊予親王母、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂、火雷天神)
社格 府社
京極の東にあった下出雲寺の鎮守として、仁明天皇が創建し、天正17年、豊臣秀吉によって現在地へ移動した。「御霊」が神社についていることからもわかるように、「八所御霊」と呼ばれる政争で無念の死を迎えた人々が祀られている。桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これを祟りとして恐れて御霊を神に祀ったのが始まり。
卯木山妙蓮寺
本門法華宗大本山
本尊は十界曼荼羅
洛中法華21ヶ寺
日蓮上人の遺命を果たすため日像上人が鎌倉から上洛した折に五条西洞院の酒屋が開山のため邸内に一宇を建立し卯木山妙法蓮華寺とした。山号の卯木山は屋号柳屋の柳を二つに分けて卯木としたという。天正15年に現在地に移転した。二十七の院を構えて興隆していたが残念ながら天明の大火によって焼失、わずかに宝蔵と鐘楼のみが残り、後に、山門を御所より拝領して、現在は塔頭八ヶ院まで有するようになっている。十六羅漢石庭の臥牛石は秀吉によって伏見城から移され、現在三宝院に在る聚楽第からの藤戸石と一対をなしていた名石であったが、聚楽第の完成で別れる運命をたどった。
岳松山大聖寺(花乃御所跡)
臨済宗相国寺派
本尊は釈迦如来
無相円尼のため足利義満が岡松殿を建て、その没後、寺に改めたのに始まる。その一方、大聖寺は無外如大を開祖とする景愛寺の伝統も受け継ぐ。創建以来、兵火に遭い転々とするが、元禄10年現在の地に戻る。その時に明正天皇の河原御殿の資材を移して造られた枯山水の庭園は,名勝として京都市指定文化財となっています
家隆山光明遍照院石像寺(釘抜地蔵)
浄土宗
本尊は地蔵菩薩
寺伝では弘法大師により弘仁10年に創建されたとされる。もともとは、真言宗の寺院であったが平安時代に浄土宗に改宗された。地蔵堂の本尊は弘法大師が唐から持ち帰った石を刻んだとされている地蔵菩薩で、 苦しみを抜き取るご利益から苦抜地蔵と呼ばれ、それがなまって釘抜地蔵と呼ばれるようになった。
北野天満宮
祭神は、菅原道真
社格 二十二社・官幣中社・別表神社・菅公聖蹟二十五拝25番・三天神
延喜3年、菅原道真が無実の罪で配流され歿した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。天慶5年右京七条に住む多治比文子に託宣があり、天暦元年北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈。永延元年に初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られた。
朝日山東向観音寺
真言宗泉涌寺派準別格本山
本尊は十一面観世音菩薩
洛陽三十三所観音霊場31番
延暦25年、藤原小黒麿及び賢璟法師、桓武天皇の勅により創建し、当初は朝日寺といった。天暦元年、菅公廟をこの地に移し、慶長元年、無人如導堂宇を再建した。本尊十一面観音は菅公自作の尊像を筑紫観世音寺より招来したものである。元、西向及び東向の二堂あったが、西向堂は既に廃絶し、東向の堂が残った。
北竜華具足山妙覚寺
日蓮宗本山
本尊は十界大曼荼羅
洛中法華21ヶ寺
永和4年妙顕寺の跡継ぎをめぐる意見の対立から妙顕寺を離れた日実上人が富商の小野妙覚の外護を受けて四条大宮の妙覚の邸宅に日像上人を開山に仰ぎ創建さた。文明15年日寮上人の時、将軍足利義尚の命で、二条通衣棚に移転した。天文法華の乱によって堺へ逃れる。天文11年日蓮宗本山の帰洛が許され、妙覚寺は天文17年日饒上人が旧地二条通衣棚に復興する。この頃から、妙覚寺は本能寺と共に織田信長の上洛時の宿所とされた。これは日饒上人が斉藤道三の子であったこと、信長の妻・濃姫が道三の娘であったためと考えられている。
具足山龍華院四海唱導妙顕寺
日蓮宗(一致派)大本山
本尊は久遠実成本師
洛中法華21ヶ寺
元亨元年に日像上人が京都における日蓮宗最初の道場として御溝傍今小路に妙顕寺を建立した。建武元年には後醍醐天皇より綸旨を得て勅願寺となる。暦応4年に四条櫛笥に移転。さらに明徳4年には三条坊門堀川に移転し妙本寺と改称するが、永正16年には元の寺名に戻っている。日蓮宗の洛中二十一本山の中心として栄えるが、天文5年の天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。帰洛を許されるのは天文11年で、二条西洞院に再建した。天正11年に豊臣秀吉の命により、現在の地に移転する。
護王神社(子育明神)
祭神は、和気清麻呂・和気広虫
社格 別格官幣社・別表神社
和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた護王善神堂に始まるが正確な創建の年代は不詳である。和気清麻呂と広虫は、道鏡事件で流刑に処せられながらも皇統を守った。その功績により嘉永4年和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という神階を授けられた。明治7年護王善神堂を神社として護王神社に改称し、別格官幣社に列格した。大正4年、大正天皇の即位の際に広虫が合祀された。広虫が孤児救済事業で知られることから、当社は子育明神と呼ばれるようになった。
御霊神社(上御霊神社)
祭神は八所御霊(吉備真備、崇道天皇、井上皇后、他戸親王、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂、火雷天神)
社格 府社 京都十六社
貞観5年5月、平安京の神泉苑で御霊会が催され、この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・伊予親王母・藤原仲成・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。当初は上出雲寺御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられた。文正2年1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われ、御霊合戦は翌年勃発の応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。
常施無畏寺護浄院(清荒神)
天台宗
本尊は清三宝大荒神
洛陽三十三所観音霊場3番・京都七福神(恵比寿)・京之七福神(福禄寿)
後小松天皇の勅願により乗厳が、摂津国勝尾山にあった開成親王が作った清三宝大荒神を醒ヶ井高辻の地に勧請し「清荒神」と称したのが由来。慶長5年に、この地に移され後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体を合祀される。元禄10年に院号「護浄院」を賜わる。
白峯神宮
祭神は崇徳天皇・淳仁天皇
社格 官幣大社・別表神社
明治天皇は孝明天皇の遺志を継承し、崇徳天皇の御霊を祀り、宮地を飛鳥井家の邸宅跡に定め、慶応4年、社殿を現在地に新造。明治6年に淳仁天皇を併祀。蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家が代々守護神とした「精大明神」が祀られ「まり」の守護神として球技特にサッカーの神様として知られる。
瑞応山大報恩寺(千本釈迦堂)
真言宗智山派
本尊は釈迦如来
新西国三十三箇所16番・京都十三仏霊場8番、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場2番
安貞元年、義空によって創建された。 本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている。 倶舎・天台・真言の三宗兼学を朝廷より許され、本堂は応仁文明の乱にも焼けることはなく創建当時のもので洛中最古の建造物で国宝となっている。
菅原院天満宮神社
祭神は菅原道真
菅公聖蹟二十五拝1番
菅原道真の曽祖父菅原古人の邸宅「菅原院」があった場所にある天満宮が、菅原院天満宮神社である。菅家発祥の地は、京都御所の西に位置し、菅原一族が有力な氏族であったことが良くわかる。菅原道真の没後、その菩提を弔うために菅原院の地に歓喜光寺が建立され、境内に菅原道真と父祖の小祠が祀られたが、歓喜光寺はその後六条河原院へ移され、太宰府天満宮への遺蹟伝承地を結ぶ菅公聖蹟二十五拝の第1番になっている。
晴明神社
祭神は安倍晴明
寛弘2年に晴明が亡くなると、一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当地の社地は広大なものであったが、戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となった。幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、昭和25年には堀川通に面するように境内地が拡張された。
大将軍八神社
祭神は大将軍(素盞嗚命)
社格 府社
平安京建設時、都の方除け守護として造営され、当初は大将軍堂と呼ばれたという。江戸期に入り大将軍社と改称、明治期に現名称へと変更された。本来の祭神は大将軍という。大将軍は陰陽道の方位神であり、とくに建築や転居、旅行などにおいて方角の吉凶を司る神であるため、長きにわたり民間の崇敬を集めた。明治の神仏分離令にて祭神は素盞鳴尊と改められた。
萬年山相国承天禅寺(相国寺)
臨済宗相国寺派大本山
本尊は釈迦如来
京都五山二位
開基は足利義満、開山は夢窓疎石。永徳2年、花乃御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年。足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、周文や雪舟は相国寺の出身である。
相国寺塔頭梵王山大光明寺
臨済宗相国寺派
本尊は普賢菩薩
京都十三仏霊場4番
暦応2年、後伏見天皇女御の広義門院西園寺寧子が天皇の菩提を弔うため、夢窓国師を開山として伏見桃山の伏見離宮の傍に草庵を建てたのが始まり。その後、伏見宮始祖の栄仁親王が亡くなられて、寺内に葬り、祀られて以来伏見宮の菩提所となる。文禄3年に豊臣秀吉が再建し、西笑承兌を住持とした。慶長19年、徳川家康により再興されたのち、元和元年に相国寺山内に移り、数度罹災して明治初年に廃絶。現在の大光明寺は、伏見宮家菩提所となっていた心華院が明治39年に改称したもの。本堂前は白砂が広がる枯山水庭園で、「峨眉山の庭」と称している。
光明山歓喜院引接寺(千本閻魔堂)
高野山真言宗
本尊は閻魔法王
寛仁年間、源信の弟弟子の定覚により開山されたと伝える。文永10年、明善律師によって中興された。天正2年に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ、洛中洛外図屏風の左隻右上に千本ゑんま堂が描かれている。その境内では銘桜普賢象桜や十重石塔とともに、ゑんま堂狂言「閻魔庁」を演じている様子が描かれている。
出町妙音堂(妙音弁財天)
臨済宗相国寺派
本尊は青龍妙音弁財天
京都七福神(弁財天)
本尊の青龍妙音辨財天画像は西園寺公衡の長女西園寺寧子(大光明院殿・広儀門院)が第93代後伏見天皇の女后に輿入れされた折に、西園寺家第二伝の念持仏として持参され、伏見離宮に祀られ、光厳、光明、祟光天皇と伝承されて来た霊像。その後享保年間、伏見宮家第14代貞建親王に至って伏見邸が河原町今出川下がる出町北鴨口に移転され、同時に本尊も奉遷された。明治初年東京へ遷座の後、京洛の旧信徒再三の請願に依って、再び現在の大光明寺飛び地に堂宇を建て奉安せられた。
日本蘆山廬山天台講寺
圓浄宗本山
本尊は阿弥陀如来
洛陽三十三所観音霊場32番、京都七福神(毘沙門天)
比叡山延暦寺の中興の祖である良源により天慶元年、京都の北山に創建。寛元元年に法然の弟子である覚瑜が船岡山の南麓に再興、中国の廬山にならい廬山天台講寺と号した。元亀3年、織田信長の比叡山焼き討ちは正親町天皇の女房奉書により免れたが、豊臣秀吉の寺町建設によって天正年間に現在地に移った。度々の火事のため、現在の堂宇は寛政6年の再建になるものである。昭和40年に考古・歴史学者角田文衞により紫式部邸跡とされた。御黒戸四箇院のうち現存する唯一の摂家門跡である。
光了山本禅寺
法華宗陣門流本山
本尊は三宝尊
洛中法華21ヶ寺
応永13年、法華宗陣門流の門祖日陣によって四条堀川に創建された。日陣はもと本圀寺に属したが、法兄の日伝との宗論の後、本圀寺を離脱し独立した。天文5年の天文法華の乱の際は他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後天文11年に後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、堺に避難した寺々も京都に戻ったが、本禅寺はこれを2年ほどさかのぼる天文9年、西陣桜井町に伽藍を再建し豊臣秀吉の命により、現在の地に移転した。宝永5年の大火と天明8年の天明の大火で焼失したが、その都度再建されている。
梨木神社(萩の宮)
祭神は、三條實萬・三條實美
社格 別格官幣社・別表神社
久邇宮朝彦親王の令旨により、三条家の邸宅跡に三條實萬を祀るための社殿を造営し、明治18年、地名からとった梨木神社の社号と別格官幣社の列格を受けて創建した。その後大正4年、大正天皇即位を記念して、子の三條實美を合祀した。境内の井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水の一つとされる。
大本山清浄華院(浄華院、浄花院、浄山)
浄土宗大本山
本尊は阿弥陀如来
法然上人二十五霊跡23番
浄土宗の七大本山の一つ。清和天皇の叡願により貞観2年頃、円仁が開基し京都御所の構内に建造され、御祈願などの清浄の業を精勤した。高倉天皇の時、法然上人に勅授され浄土宗の寺院として発展した。天正年中に至り豊臣秀吉によって御所内から現在の寺町に移された。明治維新後も数人の皇族の 位牌を供養したが、陵墓は宮内省の所管となった。浄山と略称、呼び名も普通「じょうけいん」という。
竹林山宝寿院正光坊福勝寺(瓢箪寺、桜寺)
真言宗善通寺派
本尊は薬師如来
洛陽三十三観音霊場29番、京都十二薬師霊場6番
弘法大師により河内国古市郡中村に創建されたが衰退したと伝わる。その後、正嘉年間に覚済僧正によって、京都油小路五条坊門に再建された。以降、三度の移転を経て現在地に至る。年中行事として、弘法大師が唐の国より如意宝珠と歓喜天の秘法を大寒より七日間行い祈祷された瓢箪を節分会に授与する。歴代の天皇より帰依を受け、後陽成天皇と後西天皇の勅願寺にされた。後西天皇より「観世音菩薩」の名号と紫宸殿の左近の桜の分木を下賜され、よって「桜寺」と呼ばれる。
蓮金山華光寺
日蓮宗妙顕寺派
本尊は十界曼荼羅
天正11年、妙顕寺の第十二世・日堯上人が、豊臣秀吉の援助を受け自身の隠居所として創建した。本堂には本尊の十界曼荼羅をはじめ大毘沙門天や鬼子母神等を祀り、特に、毘沙門天像は平安後期の作で、鞍馬寺の毘沙門天像と同木同作とも伝えられ、豊臣秀吉が伏見城に祀っていたものを華光寺の守護神として寄進したといわれる。江戸時代以降、この毘沙門天像は開運厄除けの神として信仰を集め、「出水の毘沙門さん」と呼ばれ親しまれている。
西山宝鏡寺(人形寺)
臨済宗
本尊は聖観世音菩薩
光厳天皇皇女の華林宮惠厳は、無外如大が五辻大宮に開いた尼五山筆頭景愛寺の6代寺持であった。室町時代の応安年間、伊勢の二見浦にて漁網に掛かった聖観世音菩薩を景愛寺子院の建福尼寺に安置し、建福寺を宝鏡寺に改めた。足利義満の時代、隣地には小川御所があり、義満母の紀良子、義満実弟の満詮の別宅だったが、応仁の乱の折、戦禍から後土御門天皇、日野富子が逃げ込んでいたため、後嗣を巡る争いで御殿は焼かれ、跡地は宝鏡寺に取り込まれた。正保3年、後水尾天皇皇女の理昌女王(久厳尼)が入寺して以降、代々の皇女が入寺する尼門跡寺院となり、百々御所と呼ばれたが、天明8年焼失。以降再建され現在に至る。
水火天満宮(水火天神)
祭神は、菅原道真
社格 村社
延長元年(923年)、醍醐天皇の勅願により水難火難除けの守護神として延暦寺の尊意僧正に勅命があり、菅原道真の神霊を勧請し建立された。以前は同じ上京区の上天神町にあったが、堀川通の拡張に伴って1952年、現在の場所に移転した。
宝珠山地福寺(日限薬師)
真言宗醍醐派
本尊は薬師如来
京都十二薬師霊場5番
もとは太秦安井の地に嵯峨天皇の勅許により開いたもので享保年間、道空和上が、時の関白鷹司公の北政所の病気を治したことにより現在地に移転。以来、道空和上の念持仏であった薬師如来が本尊となった。
河崎山清和院感應寺
真言宗智山派
本尊は地蔵菩薩
洛陽三十三観音霊場33番
もと、染殿第の南に文徳天皇が染殿后の請いにより仏心院を建てて地蔵菩薩を安置したのに始まる。清和天皇が貞観18年の譲位後、染殿の南部分を御在所としたのに伴い改称され、皇子親王の住院として定めた。清和天皇が清和源氏の祖であったことから足利氏も深く帰依し栄えたが、寛文元年の御所炎上の際、類焼し後水尾院と東福門院によって現在地に移転再興された。また、一条鴨川西岸にあった河崎観音堂が合併され観音霊場となる。
具足山立本寺
日蓮宗本山
本尊は三宝尊
洛中法華21ヶ寺
日像が元亨元年に創建した妙顕寺を起源とする。暦応4年、四条櫛笥に寺地を移した。妙顕寺は嘉慶元年、山門(延暦寺)により破却されるが、明徳4年、三条坊門堀川に再興され、妙本寺と改めた。応永20年、再度山門により破却され5世月明は丹波に逃れた。応永23年、日実は妙顕寺の旧地に寺を再興し本応寺(後に立本寺)としたが、月明は五条大宮に妙本寺を再興し(後に妙顕寺)対立した。天文5年、天文法華の乱で焼失し、天文13年新町三条に伽藍を再建。文禄3年、豊臣秀吉の命により寺町今出川に移転した。宝永5年の大火で焼失後、現在地に再建した。
北向山雨宝院大聖歓喜寺(西陣聖天)
真言宗泉涌寺派
本尊は大聖歓喜天尊
弘仁12年、弘法大師が嵯峨天皇の御脳平癒のために、玉体に御等身の歓喜天を一刀三礼し、祈願して霊験を発光させて以来、東寺とともに皇城鎮護として栄えた大伽藍であった。応仁の乱(1467年~77年)で堂宇が荒廃し、その後、天正年間(1573~93年)に再興された。現在の建物は、天明の大火(天明8年)で鳥有に帰した後に堂舎を再々興されたものである。
首途八幡宮
祭神は、誉田別尊・比咩大神・息長帯姫命
元の名を「内野八幡宮」といい、平安京の大内裏の東北(鬼門)に位置したため、王城鎮護の神とされた。桃園親王がこの地に邸宅を建て、境内地に桃の木を植えたりして、諸人の崇敬の厚い神社として、天皇家からも深い信任を得ていた。また、この地には奥州で産出される金を京で商うことを生業としていた金売吉次の屋敷があったと伝えられ、承安4年3月3日、源義経は奥州平泉に赴く際に、吉次の助けを得て、鞍馬山から当社におもむき、道中の安全を祈願して出発したといわれている。「首途」とは「出発」を意味し、この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。
仏日山光照院(常盤御所・元仙洞御所)
浄土宗
本尊は釈迦如来
延文元年、後伏見天皇の皇女進子内親王が22歳の時に泉涌寺の無人如導によって落飾、一宇を興して寺号を光照院と定めた。四宗兼学の寺院となり明治5年までは禅宗であった。応仁の乱の後、1477年後土御門天皇から持明院殿跡に寺地を賜わり、それが現在の地である。江戸時代には光格天皇より常磐御所の称号を賜った。禅堂風入母屋造り唐破風の御本堂には本尊釈迦如来立像(鎌倉時代)を中尊として、左に御開山宮御木像が右に惠聖院の本尊阿弥陀如来坐像(惠心僧都作)が奉安される。
三時知恩寺(入江御所)
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
応永年間、北朝4代後光厳天皇の皇女見子内親王が北朝3代崇光天皇の御所で一条西洞院にあった入江殿を寺に改めたのに始まる。足利義満の娘の覚窓性仙尼を開山とした。見子内親王は仏教への信仰が篤く、俊芿が宋から将来した善導大師の自作と伝える像を宮中から賜って当寺の本尊とした。後柏原天皇の代に三時知恩寺と称されるようになったが、これは宮中における六時勤行(1日6回の勤行)のうち昼間の3回をこの寺で行うようになったことによるとされる。正親町天皇の代に現在地へ移転した。
広徳山慈受院(薄雲御所、竹之御所、烏丸御所)
浄土宗
本尊は釈迦如来
正長元年、室町幕府4代将軍義持の正室である日野栄子が皇室代々の菩提を弔うために創建した。院号の由来は、日野栄子の戒名である慈受院 淨賢竹庭尼大禪師から。創建以来、皇室、将軍家、摂関家より住持が入山している。応仁の乱や宝永5年の大火によって焼失し移転を重ねた。大正8年に同じく日野栄子が開基の総持院を併合して、現在地に再興した。
尭天山報恩寺(鳴虎)
浄土宗
本尊は阿弥陀三尊
中国の画人四明陶佾が描く猛虎の絵を豊臣秀吉の所望により聚楽第の床へ飾ったところ、夜中に虎の鳴き声が聞こえ、秀吉は一晩中安眠できず、すぐに寺へ戻されたことから鳴虎として有名になった。室町時代、一条高倉に開創。法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺で、文亀元年、後柏原天皇の勅で慶譽が堀川今出川の舟橋の地に再興し、浄土宗報恩寺となる。天正13年秀吉によって現在の地に移され、享保・天明の大火に類焼した。
梅宮大社
祭神は、酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神、嵯峨天皇・仁明天皇・橘清友・橘嘉智子
社格 式内社(名神大)・二十二社・官幣中社
橘氏一門の氏神として創建されたのに始まり、平城京への遷都の際に、県犬養三千代の娘である光明皇后と牟漏女王によって奈良に遷座し、さらに木津川の上流に遷座した。平安遷都では、壇林皇后によって現在地に遷座した。摂関時代に入ってからは橘氏に代わって藤原氏が祭祀を行うようになった
小倉山常寂光寺
日蓮宗
本尊は十界大曼荼羅
平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年に日蓮宗大本山本圀寺16世日禎が隠棲の地として当山を開いた。歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。
小倉山瀧口寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
嵯峨の小倉山の麓にあり、法然の弟子念仏房良鎮が開創した往生院の子院三宝寺の旧跡。「平家物語」の平重盛の家来、斎藤時頼(出家して滝口入道と称した)と建礼門院の侍女横笛との悲恋の寺として知られる。明治維新に廃寺となったが隣接する祇王寺の再建に続いて再建された。
小倉山二尊教院華台寺(二尊院)
天台宗
本尊は釈迦如来、阿弥陀如来
法然上人二十五霊跡17番
嵯峨天皇の勅により慈覚大師が建立したと伝わる。以後荒廃するが、鎌倉時代初期に法然の高弟だった湛空らにより再興される。室町時代になると応仁の乱による延焼で堂塔伽藍が全焼するが、本堂と唐門が約30年後の永正18年に三条西実隆によって再建されている。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は紅葉の名所として知られる。また奥には百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。
華西山仏野念仏寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
弘仁2年、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされ、後に法然が念仏道場を開き、念仏寺となったという。本堂は江戸時代の正徳2年に寂道により再建されたもの。境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。
高松山往生院祇王寺
真言宗大覚寺派
本尊は大日如来
元々は浄土宗の僧良鎮が創建した往生院の跡を引き継いで今日に至る。また、『平家物語』には平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前が出家のため入寺したとしても知られている。その後往生院は衰退をたどり、明治時代の初期に一時廃寺となるが、嵯峨大覚寺の支配を受け真言宗に改宗し、明治38年に富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた。
五台山清凉寺(嵯峨釈迦堂)
浄土宗
本尊は釈迦如来
京都十三仏霊場2番
この地には、源融の別荘・栖霞観があったが、源融の一周忌に当たる寛平8年、阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。
奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたが、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。
極楽殿熊谷山法然寺
浄土宗
本尊は法然上人自作尊像
法然上人二十五霊場19番
建久8年、熊谷次郎直実が創建した。直実は寿永3年、一の谷の戦いで源義経の奇襲部隊に参加し、鵯越で平家の陣に突入しますが、このとき弱冠十六歳の平敦盛を手にかけてしまったことから、自分の人生に怒りを覚えて出家し法然上人の弟子となった。出家後は蓮生房と名乗って高野山で敦盛の供養をし、また多くの寺院を造る功績を残した。
嵯峨山大覚寺(旧嵯峨御所)
真言宗大覚寺派大本山
本尊は不動明王・五大明王
真言宗十八本山5番・近畿三十六不動13番
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建てたのが起源とされる。貞観18年、正子内親王が離宮を寺に改め、恒貞親王を開山とした。鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、院政を行ったため嵯峨御所とも呼ばれた。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた。元中9年、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
大覚寺塔頭覚勝院(嵯峨聖天)
真言宗大覚寺派別格本山
本尊は十一面観世音菩薩、大聖歓喜天
大覚寺唯一の塔頭寺院。正平年間に法皇の法流を継承する院家の住坊として建立され、天皇自らが神仏習合の祈願した寺とされる。院家とは上皇とともに出家した皇族、貴族を意味し、門跡に次ぐ特権的地位を有し門跡を補佐した。
正法山妙心寺
臨済宗妙心寺派大本山
本尊は釈迦如来
建武4年、花園法皇は、大燈国師で知られる大徳寺を開き宗峰妙超に参禅し、印可される。宗峰妙超は病に伏し、花園法皇の求めに応じて、弟子の関山慧玄を師とするよう推挙する。花園法皇は花園の離宮を禅寺にし、正法山妙心寺と命名した。応永6年、応永の乱が起こり、足利義満が妙心寺を没収。妙心寺第6世拙堂宗朴は青蓮院に幽閉され、妙心寺は龍雲寺と改名させられる。永享4年妙心寺が返され、日峰宗舜が妙心寺を中興する。寛永6年、紫衣事件が起こる妙心寺と大徳寺の禅僧が江戸幕府の寺院法度に抗議し単伝士印や沢庵宗彭など4人の僧が処罰を受ける。
妙心寺塔頭退蔵院
臨済宗妙心寺派
本尊は無因宗因禅師
応永11年に越前国の波多野重通が妙心寺第三世無因宗因を開山として千本通松原に創建し、日峰宗舜により妙心寺山内に移される。一時期衰退するが、後奈良天皇の帰依が深かった亀年禅愉により中興される。国宝に指定されている瓢鮎図は、日本の初期水墨画を代表する画僧・如拙作の絵画作品。室町幕府将軍足利義持の命により、ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いたもので、大岳周崇の序と玉畹梵芳など30人の禅僧による画賛がある。余香苑は昭和38年から3年の月日を費やして造園家の中根金作が作庭した昭和を代表する名園。
善入山宝筐院
臨済宗
本尊は千手観世音菩薩
白河天皇の勅願寺として建立され、当初の寺名は善入寺と称した。南北朝時代に夢窓国師の高弟・黙庵周諭が中興開山し、黙庵に帰依した足利義詮によって観林寺と寺名を改められるが、ほどなく善入寺に戻された。楠木正行もまた黙庵に帰依しており、正平3年に四條畷の戦いにおいて足利方の高師直・師泰と戦って敗北した後は、黙庵によってその首級を寺の敷地内に葬られた。足利義詮は、正行の埋葬を知ると「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」と遺言し、貞治5年、正行の五輪石塔の隣に葬られた。その後、足利義政の代に、寺名は義詮の院号である宝筐院に改められた。
栂尾山高山寺
真言宗御室派系単立
本尊は釈迦如来
創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基は、鎌倉時代の明恵上人である。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内には「日本最古」と伝える茶園がある。鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西上人が、当時の中国の南宋において種を得て、帰国後に明恵上人に贈ったものと伝える。明恵上人はこれを初めは栂尾山に植え、その後宇治その他の土地に広まったという。
野宮神社
祭神は野宮大神
社格 村社
伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる。天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王の中から新たな斎王が卜定され、嵯峨野の清らかな場所を選んで作られた野宮に入って一年間潔斎した後に伊勢神宮へ向かった。その時の行列を「斎王群行」といい、現在では毎年10月の例祭において「斎宮行列」としてその様子を再現している。仁子内親王のときから現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになった。
蜂岡山広隆寺(蜂岡寺、秦公寺、太秦寺)
真言宗御室派大本山
本尊は聖徳太子
聖徳太子霊跡24番
日本書紀によれば、推古天皇11年に聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、帰化人系の豪族秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたとされ、これが広隆寺のことである。御朱印にも秦公寺印と「秦公」の文字が明確に表現されている。帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院であるがあまり知られていない。国宝の弥勒菩薩半跏像の方が有名で、聖徳太子が建立した七大寺の一つでもある。
松森山宝寶閣檀林寺
真言宗大覚寺派
本尊は准胝仏母
承和年間、檀林皇后により創建、開山は唐僧義空。室町時代に廃絶、その跡地に天龍寺が建てられた。昭和39年に現在地に再興した。実質的には骨董屋であり、寺としては機能していない。
霊亀山天龍資聖禅寺(天龍寺)
臨済宗天龍寺派大本山
本尊は釈迦如来
京都五山一位
開基は足利尊氏。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。開山は夢窓疎石。足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇った。
大雲山龍安寺
臨済宗妙心寺派
本尊は釈迦如来
細川勝元が宝徳2年に創建した禅寺。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、徳大寺家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたもの。初代住職は義天玄承を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てている。応仁の乱で焼け、細川政元と特芳禅傑によって長享2年に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護している。「龍安寺の石庭」として知られる枯山水の方丈石庭で有名。
西院春日神社
祭神は、春日神(建御賀豆智命・伊波比主命・天児屋根命・比売神)
社格 村社 京都十六社
淳和天皇が退位に伴い淳和院離宮(別名西院)へ居を移すに際し、天長10年にその守護社として創建された。淳和天皇皇女崇子内親王が疱瘡を患った折、神前の石が内親王の身代りとして疱瘡を生じ、内親王が快癒した事から、病気平癒の守護神として崇めらる。
五位山法金剛院
律宗
本尊は阿弥陀如来
京都十三仏霊場10番
清原夏野(782年 - 837年)の山荘があり、夏野の死後、山荘を寺に改めたものが当寺の前身であるという。20年ほど後の天安2年、文徳天皇の発願で伽藍を建立し、天安寺と称した。大治5年(1130年)、待賢門院により再興された。最盛期の法金剛院には九体阿弥陀堂、丈六阿弥陀堂、待賢門院の御所などが立ち並んでいたというが、度重なる災害により、壮観だった当時の面影はない。なお、平安末期の浄土式庭園の遺構が1968年に発掘・復元されている。現存する阿弥陀如来像は像高2.2メートルを超える大作で、丈六阿弥陀堂の本尊と推定されている。
大内山仁和寺(旧御室御所)
真言宗御室派 総本山
本尊は阿弥陀如来
真言宗十八本山6番、京都十三仏霊場9番、近畿三十六不動尊14番
光孝天皇の勅願で仁和2年に建立したが寺の完成を見ずに翌年崩御した。宇多天皇によって、仁和4年に落成し、西山御願寺と称されたが、年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、御室御所の別称がある。明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代門跡を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。応仁の乱で伽藍は全焼した。近世になって、寛永年間、徳川幕府により伽藍が整備された。
五智山蓮華寺
真言宗御室派 別格本山
本尊は阿弥陀如来
近畿三十六不動尊15番
天喜5年に後冷泉天皇の勅願により、藤原康基が開創した。その後、応仁の乱の兵火に遭い、鳴滝音戸山の山上に移し、長い荒廃の時代が続いた。伊勢生まれの江戸の豪商出身の常信が寛永18年に再興し、仁和寺の覚深法親王から寺号を改めて安堵された。五智如来石像(大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、宝生如来)も、この際に、常信が木食僧坦称に依頼して作成させたものである。昭和3年に御室に寺地を移した。昭和33年、五智如来石像をはじめとして、離散・損傷していた石仏群を収集・修復して境内にあらためて祀った。
覚雄山大福田宝幢禅寺鹿王院
臨済宗
本尊は釈迦如来
足利義満が建立した宝幢寺の塔頭であった。宝幢寺は応仁の乱で廃絶し、その後は開山の塔頭であった鹿王院のみが残って寺籍を継いでいる。『花営三代記』『宝幢開山知覚普明国師行業実録』によると、足利義満は康暦元年のある夜、「そなたは今年中に大患をわずらうが、宝幢如来を祀る伽藍を建立すれば寿命が延びるであろう」との夢告を受けた。義満は自らの帰依する禅僧・春屋妙葩(普明国師)を開山として一寺を建立することとし、康暦2年、完成した。当初の寺号を興聖寺といい、後に宝幢寺(詳名は大福田宝幢禅寺)に改称したという。鹿王院は、嘉慶元年、開山の春屋妙葩の寿塔を守る塔頭として創建されたものである。宝幢寺は禅寺十刹の第5位に列せられる大寺であった。
瑞雲山曇華院門跡(竹の御所)
臨済宗
本尊は十一面観世音菩薩
曇華院門跡は、「竹の御所」の別名がある臨済宗の尼門跡寺院。智泉尼によって開基され、大成尼が中興の祖とされている。智泉尼が創建した尼寺五山の一つである通玄寺の東庵だった場所で、鹿王院の西隣に位置する。大聖寺門跡と宝鏡寺門跡に次いで3番目の寺格に列せられています。
車折神社(宝寿院)
祭神は、清原頼業(寶壽院殿、車折明神)
社格 村社
清原頼業が文治5年に亡くなると、清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられた。後に、頼業の法名にちなんだ「宝寿院」という寺が建立され、後に天龍寺の末寺となった。社名の「車折」については、ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所、突然車が裂けてしまったためとも、後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので、不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので、還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためともいう。
斎宮神社
祭神は、天照皇大神
社格 不明
創祀は不明。初代斎宮である垂仁天皇第二皇女倭姫命の別荘があったところで、里人が祠を建てて天照皇大神を勧請した。嘉永元年の棟札によれば、寛文9年の遷宮の記録がある。嘉永元年、改築と玉垣新造。昭和30年改築。斎宮が有栖川の辺に野宮を建て、精進潔斎をした旧跡と伝っている。
妙心寺境外塔頭河北山金臺寺
臨済宗妙心寺派
本尊は釈迦三尊(釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩)
寺歴不明。天正4年の正親天皇への綸旨が残されており、天正19年に豊臣秀吉より朱印百石の書状が残る。慶長13年に、開山に輝岳宗暾を迎えて「国泰寺」と改め、寛永4年に現在地に移り「鳳台寺」に変わり、明治9年に現在の名である「金臺寺」となる。再中興が大仙玄鶴でこの時代に再建されたと思われる。