成田山横浜別院延命院(野毛山不動尊)
真言宗智山派
本尊は不動明王
関東三十六不動霊場3番
明治3年の横浜開港の頃、高島易断で知られる高島嘉右衛門の協力により、大本山成田山新勝寺の横浜別院として建立。明治9年、現在地に移り、成田山教会所と改め、明治26年、成田山横浜別院延命院となる。寺号の延命院は、かつて七代目市川團十郎が天保の改革の際、江戸払いを言い渡され、しばらく居住した新勝寺境内にあった延命院のゆかりある寺号を移したもの。本尊不動明王は、もと徳川家の秘蔵仏であったが、元禄年間成田山へ徳川家より累代祈願を懇願された際に賜ったもので聖宝(理源大師)の作と伝わる。
伊勢山皇大神宮(横浜総鎮守)
祭神は天照皇大神
社格 官幣国幣社等外別格・県社・別表神社
明治3年、武蔵国の国司が勅命によって伊勢神宮から勧請したと伝わる、戸部村海岸伊勢の森の山上の神明社を野毛山に遷座し、横浜総鎮守とした。天照皇大神を祭神とする神社が「皇大神宮」あるいは「大神宮」を号する例は数多いが、伊勢山皇大神宮の場合は、大教宣布の詔に合わせて県により創建され、神祇官からは官国幣社に準じ列格されたという経緯からみて、勅許により「神宮」号を与えられた例に近い。
飯盛山寛喜寺明王院(五大堂)
真言宗御室派
本尊は五大明王
鎌倉三十三観音8番・鎌倉十三仏1番(不動明王)
寛喜3年、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経によって発願された寺で、寺号の寛喜寺は発願の年号による。嘉禎元年に落慶し鶴岡八幡宮別当の定豪が開山に迎えられた。寛永年間の火災で焼失し、その後再建された。本尊は不動明王を中心とする五大明王像を安置するが、不動明王像のみが鎌倉時代のもので、他の4体は上記の火災後の造立である。不動明王像は作風から鎌倉時代の仏師・肥後別当定慶の作と推定されている。
稲荷山超世院別願寺
時宗
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音13番
弘安五年、公忍上人が真言宗能成寺を時宗に帰依し、別願寺とした。鎌倉における時宗の中心となった別願寺は、室町時代には足利一族の寺として栄え、鎌倉公方代々の菩提寺となった。天正19年には徳川家康からも寺領を寄進され寺勢を誇ったが、江戸時代から次第に衰微した。
叡昌山妙隆寺
日蓮宗
本尊は釈迦牟尼仏
鎌倉江の島七福神(寿老人)
鍋かむりで知られる日親ゆかりの寺として知られ、御家人千葉常胤の子孫千葉胤貞の別邸千葉屋敷跡に建つ。元中2年、千葉胤貞を開基、日親の叔父日英を開山として創建。日親は、生爪をはがした血で墨をすり曼荼羅を描いたという人物で、永享11年、立正治国論を足利義教に建白したが、捕らえられ灼熱の鍋を被せられた。拷問を受けても所信を曲げない人物であった。
慧雲山常栄寺(ぼたもち寺)
日蓮宗
本尊は三宝祖師
日蓮の法難のおり、処刑されることになり龍口刑場に引かれていく日蓮に、この地に住む老尼がぼたもちを捧げた。法難をのがれたことで「頸つなぎのぼたもち」と呼ばれ、後に常栄寺が創建された。常栄寺は、桟敷の尼の法名「妙常日栄」からとられた名称。開山は日詔、開基は日祐法尼。
荏柄天神社
祭神は菅原道真
社格 村社・三天神
長治元年、創建。源頼朝が鎌倉幕府開府にあたり鬼門の方向の守護社として社殿を造営、さらに徳川家康が豊臣秀吉の命で社殿の造営を行った。明治維新後の神仏分離令で衰退したが、明治6年村社となる。
円龍山向福寺
時宗
本尊は阿弥陀三尊
鎌倉三十三観音15番
弘安5年に創建。開山は時宗の開祖一遍上人同様、全国行脚をして踊念仏により教えを広めた一向俊聖上人と言われているが、詳細は不明。一向俊聖上人の一向宗は、江戸時代に幕府によって強制的に時宗に統合された。
大蔵山観音院杉本寺(杉本観音)
天台宗
本尊は十一面観音菩薩
坂東三十三箇所1番・鎌倉三十三観音1番・鎌倉二十四地蔵4番、6番
天平6年、行基が十一面観音を安置して創建したのに始まる。『吾妻鏡』によれば、中世には大倉観音堂と呼ばれ、文治5年の火災時には別当浄台房が炎の中から本尊を持ち出し無事であったという。背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害している。
海光山慈照院長谷寺(長谷観音)
浄土宗
本尊は十一面観音菩薩
坂東三十三箇所4番・鎌倉三十三観音4番・鎌倉江の島七福神(大黒天)
天平8年、大和の長谷寺の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。養老5年に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。
鎌倉宮(大塔宮)
祭神は護良親王
社格 官幣中社
武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した護良親王の功を賛え、明治2年2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。6月14日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。
岩蔵山光触寺
時宗
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音7番・鎌倉二十四地蔵5番
開山は作阿上人で、当初山号を籐触山と称し、真言宗の寺であったが、開山の作阿が一遍上人に帰依したことから時宗に改宗したといわれる。本尊の阿弥陀如来は「頬焼阿弥陀」と呼ばれ、本尊の由来を書いたものに「頬焼阿弥陀縁起」がある。
祇園山安養院長楽寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
坂東三十三箇所3番・鎌倉三十三観音3番・鎌倉二十四地蔵24番
長楽寺は嘉禄元年、北条政子が源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷に願行を開山として創建した寺と伝えられる。山号を祇園山と号し、律宗の寺院であった。長楽寺は元弘元年、兵火により焼失し大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。安養院は政子の法号から取られたものである。田代寺は建久3年、田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷に建立したのに始まると伝えられ、江戸時代になって安養院に統合された。千手観音は田代寺にあったもので、田代観音とも称されている。
亀谷山寿福金剛禅寺(寿福寺)
臨済宗建長寺派
本尊は釈迦如来
鎌倉五山三位・鎌倉三十三観音24番・鎌倉二十四地蔵18番・鎌倉十三仏4番(普賢菩薩)
正治2年、北条政子が葉上房栄西を開山に招いて創建した。もともと現在の寿福寺のある付近は、る源氏山を背にした亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であった。創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは弘安元年頃と推定されている。寿福寺には2世退耕行勇をはじめ、心地覚心、円爾(弁円)、蘭渓道隆、大休正念など、多くの名僧が入寺した。
帰命山延命寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音11番・鎌倉二十四地蔵23番
専蓮社昌誉能公上人を開山として、元は安養院の末寺。執権北条時頼の夫人が建てたと伝えられる。地蔵菩薩像は北条時頼夫人の守り本尊で別名を「身代わり地蔵」と呼ばれる。双六の勝負で旗色の悪かった夫人を救ったといわれる。
行時山光則寺
日蓮宗
本尊は十界曼荼羅
日蓮の佐渡配流に際し北条時頼は弟子の日朗も捕らえ、家臣の宿屋左衛門尉光則邸の土牢に監禁した。しかし監視役の宿屋光則は日朗と日蓮を私淑する様になり、文永11年、日蓮の放免後自邸を寺に改め日朗を開山に迎えに創建した。これに先立ち文永元年には「立正安国論」が、宿屋光則の父宿屋行時から北条時頼に建白されている。
錦屏山瑞泉寺
臨済宗円覚寺派
本尊は釈迦如来
鎌倉三十三観音6番・鎌倉二十四地蔵7番
鎌倉幕府の重臣であった二階堂道蘊が嘉暦2年、夢窓疎石を開山として創建した寺で、当初は瑞泉院と号した。初代鎌倉公方の足利基氏は夢窓疎石に帰依して当寺を中興し、寺号を瑞泉寺と改めた。以後、鎌倉公方足利家の菩提寺となっている。禅寺として、鎌倉五山に次ぐ十刹の筆頭格の扱いを受け、以後、夢窓派の拠点として重きをなしたが、公方家4代足利持氏による永享の乱で衰亡した。
金宝山浄智寺
臨済宗円覚寺派
本尊は
三世仏(阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来)
鎌倉五山四位・鎌倉三十三観音31番・鎌倉二十四地蔵12番・鎌倉十三仏6番(弥勒菩薩)・鎌倉江の島七福神(布袋尊)
北条時頼の3男である北条宗政の菩提を弔うために、弘安6年に創建された。開基は宗政の子・北条師時としたが、当時の師時は8歳であり、実際には宗政の妻と兄・北条時宗による創建である。開山は日本人僧の南州宏海が招かれるが、宏海は尊敬する兀庵普寧と大休正念を開山にして自身は準開山になる。なお兀庵普寧は文永2年に中国に帰国し、浄智寺開山の7年前に没している。その後、高峰顕日や夢窓疎石らの名僧が住持した。
金龍山釈満院円頓宝戒寺(萩の寺)
天台宗
本尊は地蔵菩薩
鎌倉三十三観音2番・鎌倉二十四地蔵1番・鎌倉江の島七福神(毘沙門天)
北条高時は元弘3年5月22日、新田義貞の軍に追い詰められて葛西ヶ谷の東勝寺で自害、鎌倉幕府は滅亡した。この慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が天台宗の円観慧鎮を開山としてこの寺を造営しようとした。実際の造営は、建武の新政が崩壊し足利尊氏らによって行われたと推定されている。「惟賢灌頂授与記」という文書によると、2世住持の惟賢によって灌頂が宝戒寺で初めて行われたのが文和3年であり、この頃にようやく寺観が整ったものと思われる。
葛原岡神社
祭神は日野俊基
明治天皇は日野俊基の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕され、明治17年の勅旨をもって従三位を追贈され、同20年に最期の地である葛原岡に神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営。
弘延山實相寺
日蓮宗
本尊は一塔両尊四士
この地は曽我兄弟に討たれた工藤祐経の屋敷跡で、文永8年に日蓮の弟子・日昭が、日蓮が佐渡にいる間に一門の教化・統率の拠点として開いた濱土法華堂がはじまりとされ、日蓮入滅後の弘安7年に濱土法華堂を寺とし、法華寺としたのが始まりである。
功臣山報国寺
臨済宗建長寺派
本尊は釈迦三尊
鎌倉三十三観音10番・鎌倉十三仏8番(観音菩薩)
建武元年、天岸慧広の開山により創建されたと伝えられ、開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれている。臨済宗における寺格は諸山に列せられていた。永享10年におきた永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃している。
巨福山建長興国禅寺(建長寺)
臨済宗建長寺派大本山
本尊は地蔵菩薩
鎌倉五山一位・鎌倉三十三観音28番・鎌倉二十四地蔵9番・10番・11番
鎌倉幕府5代執権北条時頼によって創建された禅宗寺院で、建長5年に落慶供養が営まれた。開山は宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)。正応6年に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊炎上、元から来日した一山一寧を第十世に任じて再建にあたらせる。正和4年、応永23年をはじめとするたびたびの火災で創建当初の建物を失った。江戸時代には徳川家の援助で主要な建物が新築または他所から移築されたが、関東大震災でも大きな被害を受けている。
御霊神社(鎌倉権五郎神社)
祭神は鎌倉権五郎景政
社格 村社
鎌倉江の島七福神(福禄寿)
もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。鎌倉景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した武将。
鷲峰山真言院覚園寺
真言宗泉涌寺派
本尊は薬師三尊
鎌倉二十四地蔵3番・鎌倉十三仏11番(阿閦如来)
北条義時が建立した大倉薬師堂が覚園寺の起源。建保6年、薬師如来の眷属である十二神将のうちの「戌神」が北条義時の夢に現れたことが薬師堂建立の端緒であったという。その後9代執権北条貞時の時代に正式の寺院となった。元弘3年、後醍醐天皇は覚園寺を勅願寺とし、南北朝時代に入ると、足利氏も覚園寺を祈願所とし保護した。建武4年の火災で仏殿が焼失するが、文和3年、足利尊氏により再建されている。なお、現存する薬師堂は足利尊氏再興時の部材を残しているが、江戸時代に改築に近い大修理を受けている。
随我山来迎寺
時宗
本尊は阿弥陀三尊
鎌倉三十三観音14番
建久5年、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うために建立した真言宗の寺が始まり(能蔵寺)。建武2年、開山となる音阿が時宗に改宗した。三浦一族は、治承4年の石橋山の戦いに出陣するも間に合わず、その帰路、由比ヶ浜で当時平氏方だった畠山重忠と戦い、義明の孫多々良重春が討死した。その後、衣笠城が攻められ、義明は籠城の末、討死している。頼朝は、義明が17回忌まで生きたものとみなすよう伝えたため、「百六つ義明公」と呼ばれるようになる。
瑞鹿山円覚興聖禅寺
臨済宗円覚寺派大本山
本尊は宝冠釈迦如来
鎌倉五山二位
北条時宗は文永の役の戦没者の菩提を弔うためと禅道を広めたいと願い円覚寺を創建。弘安5年に落慶、弘安の役での戦没者の慰霊も行う事となった。弘安2年に来日した中国僧・無学祖元(仏光国師)を開山に招いた。当寺では元寇で戦死した日本の武士と元軍の戦士が、分け隔てなく供養されている。円覚寺は弘安10年以降たびたび火災に遭っている。中でも応安7年の大火、大永6年の里見義豊の兵火、永禄6年の大火、元禄16年の震災などの被害は大きく、大正12年の関東大震災でも仏殿などが倒壊する被害を受けている。
円覚寺塔頭佛日庵
臨済宗円覚寺派
本尊は地蔵菩薩
鎌倉三十三観音33番・鎌倉二十四地蔵14番
開基は北条時宗でその時宗を祀る寺院。この場所に小さな庵をむすび禅の修業を行ったのがはじまり。北条氏滅亡後は次第に衰微し、天文年間以後に玉泉軒から入った鶴隠周音が中興して塔頭とした。
円覚寺塔頭萬年山正続院
臨済宗円覚寺派
本尊は文殊菩薩
鎌倉二十四地蔵13番
鎌倉幕府9代執権・北条貞時が弘安8年、仏舎利を納める為に建立した祥勝院。仏舎利は3代将軍・源実朝が宋の能仁寺から分けてもらったとされる。祥勝院は後に正続院と改称された。境内には舎利殿、開山堂、雲水の修行道場となっている禅堂などがある。釈迦如来の骨がまつられていると言う現在の舎利殿は、日本で最も古い唐様建築であり国宝。
銭洗弁財天宇賀福神社
祭神は、市杵島姫命
源頼朝が、巳年である文治元年の巳の月、巳の日に見た霊夢に従い、佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけ、そこに洞を穿ち社を建てて宇賀神を祀ったと伝えられる。同じく巳年の正嘉元年に、北条時頼がこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったのが銭洗の始まりだといわれる。宇賀神と弁財天が習合して弁財天と呼ばれ、相馬天王(扇ヶ谷)の末社だった。 明治時代の神仏分離により、相馬天王は八坂大神と改称、当社も祭神を市杵島姫命とし、昭和45年には末社から独立した。
扇谷山海蔵寺
臨済宗建長寺派
本尊は薬師如来
鎌倉三十三観音26番・鎌倉二十四地蔵15番・鎌倉十三仏7番(薬師如来)
建長5年に宗尊親王の命により藤原仲能が創建したが、鎌倉幕府滅亡時に焼失、応永元年に上杉氏定の開基、心昭空外を開山として再興されたと伝えられる。
泉谷山浄光明寺
真言宗泉涌寺派
本尊は阿弥陀三尊
鎌倉三十三観音25番・鎌倉二十四地蔵16番、17番・鎌倉十三仏9番(勢至菩薩)
建長3年、北条長時が開基、開山は真阿であった。永仁4年の開山譲状には北条時頼と長時が開基であると記されている。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)、36歳で死去し、浄光明寺に葬られた。元弘3年には後醍醐天皇から寺領を寄進され、成良親王の祈願所ともなっている。暦応元年以降、足利尊氏および弟の足利直義より寄進を受けている。室町時代に入り、鎌倉公方の菩提寺となった。天正19年には徳川家康より4貫800文が与えられている。
大異山高徳院清浄泉寺(鎌倉大仏)
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音23番
創建、開基は不明。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代、正徳年間に増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺の末寺となっている。鎌倉大仏で知られる長谷大仏が特に有名。
内裏山九品寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音16番
新田義貞が鎌倉幕府滅亡後に北条方で亡くなった者の菩提を弔うために、建武3年、風航順西を開山として創建したものと伝えられる。
中座山大聖院教恩寺
時宗
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音12番
北条氏康を開基とし、開山は一遍と共に念仏を説いた知阿上人である。もとは材木座の光明寺境内にあったが、延宝6年に現在地に移されたと伝えられる。本堂に安置の阿弥陀如来像は平家が滅亡し、平清盛の子重衡が捕らえられ鎌倉に送られた時、頼朝がこの阿弥陀如来像を一族の冥福を祈るようにと重衡に与えたものである。重衡は深く信仰したと伝えられている。
長慶山正覚院大巧寺(おんめさま)
日蓮宗
本尊は産女霊神
大巧寺はもともと大行寺と称する真言宗の寺院で当初は十二所の梶原景時の屋敷内にあった。この寺で頼朝が軍議を行った結果、大勝利を収めたため、頼朝の命により「大巧寺」という名称に改名した。文永11年、日澄により日蓮宗に改宗する。元応2年、現在地へ移転した。天文元年、五世住職の日棟が難産で死んだ女の霊を成仏させるという伝承が生まれる。この伝承が広まって以降、安産祈願に験のある寺として知られるようになる。
長興山妙本寺
日蓮宗霊跡本山
本尊は三寶尊
比企能員は、源頼朝に仕えた御家人であったが、北条氏と対立し、比企能員の変により比企一族は滅んだ。ただ能員の末子、能本は生き残り、順徳天皇に仕えた。彼の姪にあたる竹御所が4代将軍九条頼経の妻になったことから許されて鎌倉に帰った。文暦元年、竹御所は出産時に死去。自仏像であった釈迦如来像を祀るため、新釈迦堂の建立を遺言する嘉禎元年、新釈迦堂が建立し竹御所はその下に葬られた。建長5年、能本は日蓮に帰依。文応元年に屋敷を献上し法華堂を建立する。これが、妙本寺の前身である。以後、日蓮宗の重要な拠点となった。
鶴岡八幡宮(鎌倉八幡宮)
祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后
社格 国幣中社・別表神社
日本三大八幡宮
康平6年に源頼義が奥州平定の帰りに鎌倉で、源氏の氏神として京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に祀ったのが始まり。治承4年、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った源頼朝は、宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年には神宮寺が創建される。
元八幡(由比若宮)
祭神は応神天皇・比売神・神功皇后
康平6年、源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、この地に京都の石清水八幡宮を勧請し、由比若宮を建てた。源頼義の子、源義家も社殿を修復するなどして源氏と鎌倉の結び付きを強くしている。その後、鎌倉に入った源頼朝が、由比若宮を小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。
天照山蓮華院光明寺
浄土宗鎮西派大本山
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音18番・鎌倉二十四地蔵22番
寺伝によれば、開基は北条経時、開山は浄土宗三祖然阿良忠であり、仁治元年佐助ヶ谷に開創した蓮華寺を起源とし、寛元元年に移築し光明寺と改称したとされる。室町時代には中興開山とされる祐崇上人によって復興された。明応4年には後土御門天皇より勅願寺に定められている。近世には、浄土宗の関東十八檀林の第一位の寺として栄えた
光明寺塔頭天照山千手院
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音20番
関東大震災で資料を失ったため、開山、創建年ともに不明である。当初は千手観音を祀り観音堂と呼ばれていたが、のち専修院と改称し念仏道場となった。千手観音が有名なため、いつの頃からか千手院と改名して現在に至る。
光明寺塔頭天照山蓮乗院
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音19番
光明寺草創以前からあり、当時は蓮乗寺と称する真言宗の寺であった。光明寺は記主禅師良忠により創建されたが、落慶に至るまでの間、蓮乗院に居住していた。その後、新任の住職が光明寺に入山する際は、必ず蓮乗院に入り、改めて本山方丈にむかう慣例が残された。本尊の阿弥陀如来立像は、源頼朝の関東御家人、千葉常胤の守り本尊と伝えられる。
稲荷山浄妙広利禅寺(浄妙寺)
臨済宗建長寺派
本尊は釈迦如来
鎌倉五山五位・鎌倉三十三観音9番・鎌倉十三仏2番(釈迦如来)
足利義兼による文治4年の創建と伝えられる。初めは極楽寺という真言宗の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺と称した。婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされている。
南向山帰命院補陀洛寺(竜巻寺)
真言宗大覚寺派
本尊は十一面観音菩薩
鎌倉三十三観音17番
養和元年、源頼朝の祈願所として建立。たびたび竜巻に襲われたため、別名「竜巻寺」と呼ばれている。平家滅亡の折、総大将平宗盛が持っていたとされる「平家の赤旗」が保管され、そこには平清盛が書いたという「九万八千軍神」の文字がある。開山の文覚は、江ノ島に弁財天を勧請し奥州藤原氏の調伏祈願を行い、勝長寿院建立の際には、頼朝の父義朝の髑髏を持ってきた人物。
新居山円応寺(新居閻魔堂)
臨済宗建長寺派
本尊は閻魔王
鎌倉二十四地蔵8番・鎌倉十三仏5番(地蔵菩薩)
建長2年の創建で、開山は建長寺開山蘭渓道隆の弟子にあたる桑田道海とされる。円応寺は当初は由比郷見越岩(鎌倉大仏の東側)に建てられたようだが、ほどなく滑川の川岸へと移転した。本尊の閻魔像から新居閻魔堂と呼ばれ信仰を集めたが、元禄16年11月23日 の元禄大地震による津波被害により建物が大破し、翌年山ノ内の現在地に移転した。
旗上弁財天社
祭神は多紀理毘売命、市寸嶋比売命、多岐都比売命
鎌倉江の島七福神(弁財天)
承久3年、源頼朝がこの地で旗揚げして戦勝を祈願したといわれる。祀られている弁才天坐像は、文永3年に左近衛将監中原朝臣光氏という楽人が、鶴岡八幡宮の舞楽院に奉納するために造立したもので、髪を高く結い、裸体に布製の着物を着て横座りした姿の弁天さまです。
福源山明月院
臨済宗建長寺派
本尊は聖観音
鎌倉三十三観音30番
山内上杉家の祖、関東管領、上杉憲方は密室守厳を開山として、明月院を開創した。憲方の没年は応永元年で、それ以前の開創である。寺伝では、平治の乱で没した首藤俊通の菩提のため、永暦元年、その子の経俊が「明月庵」を建立したのが草創とされ、憲方は中興者とされているが、実際の開基は憲方とみるのが通説である。
明月院は、禅興寺という寺の塔頭であったが、本体の禅興寺は明治初年頃に廃絶し、明月院のみが残っている。
普明山法立寺成就院
真言宗大覚寺派
本尊は不動明王
鎌倉三十三観音21番・鎌倉十三仏13番(虚空蔵菩薩)
鎌倉七口の一つである極楽寺坂切通しの途中に位置する。空海が諸国巡礼の折、百日間にわたり虚空蔵求聞持法を行ったところと伝えられる。 承久元年、三代執権の北条泰時がこの寺を創建し、北条一族繁栄を祈ったという。元弘3年、新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に再建された。
松岡山東慶総持禅寺(東慶寺)
臨済宗円覚寺派
本尊は釈迦如来
鎌倉尼五山二位・鎌倉三十三観音32番
寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られた。
満光山来迎寺(西御門)
時宗
本尊は阿弥陀如来
鎌倉三十三観音5番・鎌倉二十四地蔵2番・鎌倉十三仏10番(阿弥陀如来)
来迎寺の開山は、一向といわれている。正応6年、鎌倉に大地震が起こり、その菩提を弔うために来迎寺が建てられた。来迎寺のある西御門は、鎌倉幕府の西門の前面にあたることから付けられた地名。西御門には、7つの寺があったといわれ、鎌倉尼五山第一位の太平寺、臨済宗の高僧義堂周信の開山といわれる報恩寺と保寿院などがあった。報恩寺は、宅間上杉家の能憲によって建てられ、本尊の地蔵菩薩は宅間浄宏作とされ、現在は来迎寺に安置されている。保寿院は、足利基氏の母の菩提所だった。
妙厳山本覚寺(東身延)
日蓮宗
本尊は釈迦三尊
鎌倉江の島七福神(夷神)・鎌倉十三仏3番(文殊菩薩)
現在の本覚寺の山門がある場所の前には、夷堂と呼ばれる堂があった。この夷堂は、鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の裏鬼門にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものであった。文永11年に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。その後の永享8年に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建した。後に身延山を再興した第2世の行学院日朝は、身延山への参詣が困難な老人や女性のために、日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。
八雲神社(大町)
祭神は須佐之男命・稲田比売命・八王子命・佐竹氏御霊
社格 村社
源義光が兄の源義家の助勢(後三年の役)のため奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄った際、疫病が流行っていたため、京都の祇園八坂社の祭神を勧請したのが八雲神社の始まりと伝えられる。室町時代には、佐竹屋敷の祠が合祀され、佐竹天王とも称され、江戸時代には将軍より朱印も賜り、祇園さまとして尊崇された。明治維新を迎え、鎌倉祇園社という名称から八雲神社へ改称された。
妙法蓮華山安国論寺
日蓮宗
本尊は南無久遠実成本師釈迦牟尼仏
日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年に、日蓮が北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した法窟の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。
江島神社
祭神は多紀理比賣命・市寸島比賣命・田寸津比賣命
社格 県社・別表神社
欽明天皇13年、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まる。神仏習合により当社は金亀山与願寺と称する寺となった。『吾妻鏡』によれば、寿永元年、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。慶安2年、京都・仁和寺の末寺となってからは、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。明治元年の廃仏毀釈により三重塔の他多くの仏教施設や仏像などが破壊された。明治6年には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称、県社に列せられた。
児玉神社
祭神は児玉源太郎
社格 県社
読売新聞大正10年7月28日号「大観小観」欄はつぎのように伝える。日露開戦間際の頃、参謀次長となった児玉は、毎日曜日に鎌倉の別荘に静養のため出かけた。しかし、面会希望の者たちが鎌倉に押しかけてくるので、こっそり江ノ島の山中に閉じ籠もり、おもむろにシベリアの形勢を案じていた。ところが、いつの間にかこの退避先にも「陸軍の諸星や顕官の面々」が押し寄せるので、江ノ島町内ではだれであろうかと穿鑿の末、参謀次長児玉源太郎大将と知れて、町民は大いに大将を徳とした。そこで「将軍沒後江の島町民は将軍の静養の地を購つて其霊を祀つたが大正七年内務大臣から兒玉神社を公認された」という。
寂光山龍口寺
日蓮宗本山(霊蹟寺院)
本尊は日蓮上人像
文永8年9月12日に日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼ぶ。その後延元2年に日蓮の弟子、日法がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わる。
本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が慶長6年に土地を寄進して以来のこととされている。
寒川神社
祭神は寒川大明神
社格 式内社(名神大)・相模国一宮・旧国幣中社・別表神社
雄略天皇の時期に奉幣、神亀4年に社殿建立の記録があるが、『続日本後紀』にて承和13年に仁明天皇から従五位下を授る記録がある。『延喜式神名帳』では「相模国高座郡 寒川神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国の一宮とされたことがわかる。戦国時代には武田信玄が行軍中に参拝し、自身の纏っていた兜と太刀を安全祈願に奉納した。
報徳二宮神社
祭神は二宮尊徳
社格 県社・別表神社
二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、尊徳が安政3年に亡くなった後も報徳社は存続し、関東・東海地方を中心に活動を行っていた。明治24年に尊徳に従四位が贈られると、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起き、明治27年4月15日、尊徳の生地である小田原の小田原城址内に鎮座した。
大雄山最乗寺
曹洞宗通幻派
本尊は釈迦如来
関東三十六不動霊場2番
応永8年峨山五哲である通幻寂霊門下の了庵慧明によって開山され、東国における通幻派の拠点となる。通幻門下は各地で公共事業を行い民心をつかむが、最乗寺にもこの地で土木工事を行ったという了庵法嗣の妙覚道了が祀られている。足柄山の登山口に位置し天狗の下駄が印象的であった。
海雲山岩殿寺(岩殿観音)
曹洞宗
本尊は十一面観音菩薩
坂東三十三観音第2番、関東百八地蔵霊場89番
養老5年(721年)徳道上人が創建し、行基が十一面観音像を造立して安置したという。また、鎌倉時代には源頼朝によって寺領が寄進されたという。『吾妻鏡』には源実朝らがしばしば当寺に参詣したことが記される。その後衰退するが、天正19年(1591年)徳川家康によって再興。明治時代の廃仏毀釈で再び衰退した。