北海道神宮(札幌神社)
祭神は、大国魂神、大那牟遅神、少彦名神、明治天皇
社格 官幣大社、別表神社、蝦夷国新一宮、北海道総鎮守
1870年5月に北海道石狩国札幌郡の創成川河畔に仮社殿を造り、開拓神勅祭社とし、北海道一宮と称した。1871年6月14日に勅旨によって札幌神社と命名され、国幣小社に列せられ、1964年、明治天皇を増祀し、社名を現在の北海道神宮へと改めた。
太平山長勝寺
曹洞宗
本尊は釈迦如来
享禄元年、大浦盛信が父光信の菩提を弔うため、菊仙梵寿を開山として種里に創建。寺号は光信の法号による。その後、賀田大浦に移され、大浦氏が堀越城に移るにあたり堀越に移り、慶長15年、現在地に移された。江戸時代にはこの地域における曹洞宗の僧録所であった。
十和田神社
祭神は、素戔嗚尊、日本武尊
社格 村社
創建は大同2年で、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという。また、かつて十和田湖は十和田青龍権現を祀る神仏習合の霊山であり、熊野や日光に比すべき北東北最大の山岳霊場であった。明治初年の神仏分離以前は「額田嶽熊野山十灣寺」を号する神仏習合の寺院であり、十和田青龍権現を祀り、現在の拝殿の場所に観音を本地仏として安置する仏堂「十和田御堂」が建っていた。
青森縣護国神社
祭神は、護国英霊
社格 内務大臣指定護国神社・別表神社
明治2年6月6日に津軽藩12代藩主・津軽承昭の意向により、箱館戦争の戦没者慰霊のために創建される。明治43年 弘前招魂社として現在地に移築。昭和11年8月に青森招魂社と改称。昭和14年4月1日に内務大臣指定護国神社となる。
金剛山光明寺最勝院
新義真言宗真言宗智山派
本尊は金剛界大日如来
東北三十六不動尊15番、北国八十八箇所59番、津軽八十八箇所49番、津軽弘法大師霊場1番、津軽一代様(卯年)
『津軽一統志』によると、天文元年、弘信が、堀越城下に堂宇を建立したことに始まる。江戸時代初期に弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことに伴い、慶長16年に城の鬼門に当った現在地より北に3キロメートルほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮の別当寺とした。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった。明治時代の神仏分離令により最勝院以外は廃寺となり、最勝院は廃寺となった寺院の檀家衆を引き受けて現在地(旧大圓寺跡)に寺籍を移転した。
弘前天満宮
祭神は、菅原道真
社格 村社
前身は長永寺松峰山大行院という修験道当山派の寺院で、天満宮は元禄2年に植田村の橋雲寺に弘前藩4代藩主津軽信政の生母久祥院によって寄進されたのが創まりで、明治3年に大行院が廃されるに際して橋雲寺から遷したもので、一説には大行院廃寺に伴い同院境内に鎮座した若木神社を天満宮としたものともされているが、慶長15年に弘前城に遷され、 更に信政の命で橋雲寺に遷された天満宮であるとも伝える。『新選陸奥国誌』(明治9年)には明治4年に大行院が修験道を廃して神道専一の菅原神社に変じ、時の院主宇庭光海は還俗して祠掌に転じ、相殿に少彦名神を祀る若木神社を配したとしたとしている。
秋田縣護国神社
祭神は、秋田県下の戦没者、伊弉諾尊、伊弉冉尊
社格 内務大臣指定護国神社・別表神社
明治2年、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に祀った。明治26年に焼失するが、明治32年、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建され、秋田県出身の軍人・軍属を合祀して秋田招魂社と称した。昭和14年、内務大臣指定護国神社として秋田県護国神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで高清水宮と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀してこちらが主祭神とした。社殿は平成4年9月に再建された。
湯殿山多門院
天台宗
本尊は不動明王
東北三十六不動尊9番
開山は、慈覚大師・安慧。一説には元禄年間(1688年)の創建ともいう。羽黒山系天台宗から発展した寺院という説もある。
松前船・辰悦丸が航路の安全を祈願し、階の石段を寄進している。また、同船の錨は寄進され、境内に置かれている。
医王山遍照院長久寺
真言宗智山派
本尊は不動明王
東北三十六不動尊12番
慶長5年に小場義宗が常陸国小田城城主となったが、小田城近くに遍照院長久寺があった。佐竹氏が 常陸国より秋田に転封した際に、随伴した小場義成に従い長久寺も一緒に秋田入りしたとされる。慶長15年に小場義成が久保田藩大館城の初代城代となり、それにともなって大館城の東に新たに遍照院が建立された。当初の本尊は薬師如来であったが、戊辰戦争(大館城攻城戦)のおりに、大館城が落城した時に当寺の堂宇や本尊も焼失しており、以来本尊を不動明王としている。
普光山普傳寺
真言宗智山派
本尊は不動明王
東北三十六不動尊7番
1600年代初頭、佐竹家の武将でもあった宥玄和上が開山。開基は秋田藩主佐竹義宣公。普く(仏法を)傳えるえる寺「普傳寺」という名称のお寺は日本でここ一ヶ寺だけである。霊験あらたかな本尊不動明王は厄除け不動でも知られ、鎌倉期の名匠運慶の作風を伝える市の重要文化財である。
永福山嶺梅院
曹洞宗
本尊は不動明王、聖観世音菩薩
東北三十六不動尊8番
無等良雄禅師(南朝の忠臣萬里小路藤房と伝えられる)の閑居寺として、現在の松原・補陀寺の場所に創建した。その後、寺風は荒廃して一宇を残していたが、寛延年中(1748年)蒼龍寺の桂岩極芳和尚が現在地に再興し、後地に補陀寺を移して曹洞禅の教化につとめたという。
古四王神社
祭神は、武甕槌神、大彦命
社格 國幣小社・別表神社
社伝によると、四道将軍の一人・大彦命が蝦夷平定の際、北門鎮護のため武甕槌神を祀り、「鰐田浦(あぎたのうら)の神」として祀ったのがはじめ。後に、阿部比羅夫征夷大将軍が下向の時、大彦命を合祀し、越王(古四王)と称したといわれている。
「続日本記」によれば、出羽の柵を当地へ移し、北方防備の本拠地とし、秋田城となった。
大平山三吉神社
祭神は、大己貴大神、少彦名大神、三吉霊神
社格 県社・別表神社
社伝によれば白鳳2年、役小角が創建したという。その後延暦20年、征夷大将軍坂上田村麻呂が戦勝を祈願して社殿を建立し、鏑矢を奉納した。中世を通じて薬師如来を本地仏とする修験道の霊場として崇敬され、近世には秋田藩主佐竹氏からも社領を寄進され、現在の里宮は8代曙山佐竹義敦の建立である。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督 九条道孝の祈願所となった。
彌高神社
祭神は、平田篤胤、佐藤信淵
社格 県社
秋田出身の国学者・神道家である平田篤胤を顕彰し崇敬するため、平田門人であった小谷部甚左衛門らの有志が、日吉八幡神社境内に平田篤胤を祀り創建した「平田神社」を母体としている。平田神社の社殿建設にあっては全国の平田門人がかかわっており、明治15年2月の県令あて嘆願書に名をつらねたのは、久保悳鄰、師岡正胤、古川豊彭、吉岡徳明、渡辺玄包、久保季茲、井上頼圀、丸山作楽、矢野玄道の9人であった。明治42年に至り秋田県教育会が中心となり久保田城内の正八幡社を購入のうえ修繕し、佐藤信淵を合祀、彌高神社と改称した。大正5年に現在地へ移築された。
八幡秋田神社
祭神は、倉稲魂命、猿田彦命、大宮売命、武甕槌命、佐竹義宣、佐竹義和、佐竹義尭
社格 県社
佐竹義昌が常陸国に居住中、山城国石清水八幡宮を太田城内に勧請し、同宮社殿下の砂石を以て神実とした。佐竹義人は永享3年、相模国鶴ヶ岡八幡宮を勧請し、又、山城国稲荷神社及び常陸国鹿島神社の大神を勧請奉斎したのを、慶長7年9月、佐竹義宣が秋田遷封の際に、当地に移転し、累代秋田城内に三社を建立して奉祀崇敬した。明治5年に三社を合祀して八幡神社と称す。 明治11年秋田城跡より秋田市東根小屋町に移転、境内に秋田神社を創建し、佐竹義宣を祀る。明治32年5月現在地に移転し、同40年12月前記八幡神社と合併して八幡秋田神社と改称した。
総社神社(三森山神社、三嶽山総社大明神)
祭神は、天照皇大神、豊受比売大神、大己貴神、八重事代主神、味鋤高彦根神
社格 県社
川尻氏の氏神として神明山(千秋公園台地)に祀られていたが、慶長8年、久保田城の築城に際して、楢山の下浜に移し、宝永4年、現在地に社殿を造影して遷宮した。藩政時代は藩主佐竹氏の崇敬が厚く、藩の守護をうけて栄えた。伊勢神宮ほか多くの神を祭神とするので総社と称された。
三皇熊野神社
祭神は、天照皇大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、須佐之男大神、八幡大神
社格 村社
創立年月日不詳。桓武天皇の延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂が竹原三皇の神に祈誓して高清水丘に向って矢を放ったと言われており、賊を討った報賽として社殿を再建したという。境内には坂上田村麻呂の杖に根がついたという大木があり、戦前まで、地上8尺位の所から、こんこんと水が流れ、霊水の大木と言われた。明治33年に本殿と拝殿が改築された。明治43年5月20日に大野中道上段無格社八幡神社、明治44年7月5日に字古川端無格社神明社、村社熊野神社を合祀し、三皇熊野神社と改称した。
関山中尊寺
天台宗 東北大本山
本尊は釈迦如来
奥州三十三観音霊場番外、四寺廻廊
嘉祥3年、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まり。貞観元年に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建とされる。文治5年、奥州藤原氏は滅亡するが、鳥羽法皇御願の寺とされ、源頼朝の庇護を得て存続した。
中尊寺塔頭金色院
天台宗
本尊は阿弥陀如来
円仁の孫弟子頼房が仁和元年に創建した。当初は竹下坊と称していたが,天和2年にこの寺の住職が金色堂の別当の位についてから、この呼称を用いるようになった。今日も金色堂は金色院の所管で,金色堂内陣,七宝荘厳巻柱 ,堂内の構造である升組 と蟇股、堂内の須弥壇 (藤原清衡,基衡,秀衡の遺体が葬られている) などの国宝ほか、多くの寺宝を有している。現在は大日堂の御朱印となっている。
大崎八幡宮
祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
社格 村社
由緒によると坂上田村麻呂が東夷東征の際に、胆沢城を築きその鎮守社として宇佐八幡宮を勧請し鎮守府八幡宮を創建したのが始まり。その後、中世に一帯を支配した大崎氏に庇護され現在の場所に遷座し大崎八幡宮と称するようになる。戦国末期になると伊達家の勢力下に置かれ、岩出山城内に、米沢にあった成島八幡宮と共に祭られ、仙台開府後に城下町の町割りの一部として計画される。大崎八幡宮の社地は仙台城から見ると乾にあたり、福門(天門)と呼ばれ、蔵や、福神様を祭ると、縁起が良いと思われる方角で、社殿その他藩費で造営される伊達家の崇敬社となる。
金剛宝山輪王寺
曹洞宗
本尊は釈迦如来
仙台北山五山
嘉吉元年、9代伊達政宗の夫人、蘭庭明玉禅尼の所願により伊達持宗が太菴梵守和尚を開山として、福島県梁川に創建された。蘭庭明玉禅尼は、3代将軍足利義満の生母の妹に当たるため、6代将軍足利義教は、後花園天皇に奏請し、「金剛宝山輪王禅寺」の額を賜る。17代伊達正宗の仙台入城と共に現在の地に移った。広い境内には池泉式回遊庭園がある。
宮城縣護国神社
祭神は、護国英霊
社格 内務大臣指定護国神社・別表神社
日清戦争後の明治31年に組織された昭忠会を母体として、日露戦争中の明治37年、現在地に招魂社を建立し、大日本帝国陸軍第二師団管下および山形県の戦死者の一部を祀ったのを起源とする。昭和14年の制度改革により内務大臣指定護国神社となり、宮城縣護國神社と称した。青葉城の中にあり、仙台市内の遠望が素晴らしい。
松島青龍山瑞巌円福禅寺(松島寺・瑞巌円福寺・円福寺・延福寺)
臨済宗妙心寺派
本尊は聖観音菩薩
奥州三十三観音霊場6番、三陸三十三観音霊場番外、四寺廻廊
平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。江戸時代前期の1689年に俳人松尾芭蕉が参詣したことにちなみ、毎年11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる。境内には、「臥龍梅」と呼ばれる紅白二本の梅の木があり、伊達政宗の手植えと伝えられている。また、参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、平成23年3月11日の東日本大震災の津波に見舞われ、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。
仙臺大神宮
祭神は、天之御中主神
社格 無格社
明治4年に伊勢に神宮教院が開設され、全国を三十一教区に区分し枢要な地に本部を配置し、その第四教区宮城本部の設立にあたり、明治14年に神宮の御分霊をこの地に勧請したのが始まり。
安積國造神社
祭神は和久産巣日神・天湯津彦命・比止禰命・誉田別命・倉稲魂命
社格 県社・郡山総鎮守
成務天皇の勅命により、比止禰命が安積国造に任ぜられ、この地を開き、社稷の神として、安積国造神社が祀られた。その後、坂上田村麻呂が詣でて八幡大神を合祀。江戸時代には稲荷大神も合祀された。宮司家は比止禰命の子孫であり現在64代を数える。江戸時代、最高学府の昌平坂学問所教授となった大儒安積艮斎は、第55代宮司安藤親重の三男。
開成山大神宮
祭神は天照大御神・豊受大神・神倭伊波禮彦命
社格 県社
福島県の典事の中條政恒が伊勢神宮の分霊の奉遷を神宮司庁へ働きかけた結果、明治9年に認可がおりて創建。当時、東京や横浜でさえ遥拝所であり、神宮の許可が容易に得られないと考えた中條は旧知の仲であった大教正・西涼寺雪辰に働きかけてもらい、神宮司庁から許可を得た。「東北のお伊勢さま」とも呼ばれる。拝殿にある神号は有栖川宮熾仁親王による書。
高岳山如寶寺
真言宗豊山派
本尊は馬頭観音
仙道三十三観音2番
郡山の有力者であった虎丸長者が都に上り、平城天皇より馬頭観音像を賜って帰郷、大同2年に観音堂を建立して笹久根上人を招いて開眼供養を行ったのが始まり。境内には数多くの古碑があり、鎌倉時代の刻銘のある石造笠塔婆、板石塔婆は、重要文化財に指定されている。
総産土阿邪訶根神社
祭神は猿田毘古命・平忠道公・宇迦之御魂命
社格 村社
社伝によると康平年中、伊勢国の阿邪訶より猿田毘古命の御分霊を迎え祀り、道祖神社として創建されたのがはじまり。ニニギノミコトの道案内をしたという伝承から、道を導く神・交通安全の神として祀られた。その後、寛治3年に源義家に従って前九年の役・後三年の役に出征した平忠道が亡くなると、その御霊を合祀し、社名を「御霊宮」と改める。明治22年、社名を「阿邪訶根神社」と改め、現在に至っている。
月山神社本宮
祭神は月読命
社格 式内社(名神大)・官幣大社・別表神社
出羽三山
崇峻天皇の第3皇子、蜂子皇子が推古天皇元年に羽黒山を開山し、さらに同年、月山を開山。「新抄格勅符抄」の宝亀4年10月符では月山神に神封2戸が寄せられた。平安時代中期から明治の神仏分離まで、修験の道場となる。関ヶ原の戦い以後、庄内や由利を領有した最上義光は、出羽三山を懐柔するため羽黒山・月山の修理再建を行った。
鳥海山大物忌神社本社
祭神は大物忌大神
社格 式内社(名神大)・出羽国一宮・国幣中社・別表神社
景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられるが、諸説があり、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているための勧請も絡んでいて、創建時期の特定は困難である。南北朝時代に入ると「鳥海山」という山名の使用がみられるようになる。
羽黒山出羽神社
祭神は伊氐波神、稲倉魂命
社格 式内社(小)、国幣小社、別表神社
出羽三山
羽黒山の山名は、蜂子皇子を導いた大烏に因んで名付けられたといわれ、現在の世を生きる人々を救う仏を祀り、出羽三山の中で里宮としての役割を持つことから「現在の世を表す山」といわれる。三山を巡る『生まれかわりの旅』の入り口で、山頂に建つ出羽神社は三神合祭殿と呼ばれる
鹿島神宮
祭神は武甕槌大神
社格 式内社(名神大)・常陸国一宮・官幣大社・勅祭社・別表神社
創建は神武天皇の御代にさかのぼり、神武天皇が東征の半ばにおいて窮地に陥いり、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われた。感謝した天皇は、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられる。その後、東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰される。また、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われた。中世から近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになる。現在の社殿は徳川秀忠により、また奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納された。
降魔山護国院経音寺
真言宗智山派
本尊は不動明王
北関東三十六不動29番
和銅元年の創建。当初は鹿島神宮の境内に建立され、「神宮不断の護摩所」との勅号を賜ったため、「護摩堂」とも呼ばれた。本尊の不動明王は「成田山新勝寺」の不動明王と同じ木で彫られたといい、「兄弟不動」とも呼ばれる。延宝2年に鹿島大宮司により現在地に遷座したが、明治3年に火災により焼失。現在の本堂は常陸太田市の「小松寺」より譲り受けたもの。
日光山輪王寺
天台宗
本尊は阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音
下野七福神(毘沙門天)
天平神護2年、下野国出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創。創建以後、平安時代には空海や天台宗の慈覚大師らの訪ねたと伝えられる。慈覚大師は嘉祥元年に三仏堂、常行堂、法華堂を創建したとされ、この頃から輪王寺は天台宗寺院としての歩みを始める。明暦元年には後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜される。なお護摩堂の本尊は五大明王。
日光山輪王寺大猷院(金閣殿)
天台宗
本尊は徳川家光、
承応2年には3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院霊廟が設けられた。荘厳な雰囲気は日光東照宮を規模を小さくした感じではあるが、見劣りしない素晴らしさがある。
日光東照宮
祭神は、徳川家康、(相殿)豊臣秀吉・源頼朝
社格 別格官幣社
元和2年徳川家康が死去した後、遺骸は久能山へ葬られ翌年に下野国日光へ改葬された。朝廷から東照大権現の神号と正一位を追贈され、改葬の際、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合により祀られることになった。寛永11年に徳川家光が日光社参し、寛永13年の21年神忌に向けて社殿の大造営に着手する。正保2年に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。
日光二荒山神社
祭神は、二荒山大神(大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命)
社格 式内社(名神大)・国幣中社・別表神社・下野国一宮
下野国の勝道上人が北部山岳地に修行場を求め、神護景雲元年、二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたのが当社の始まり。男体山山頂に奥宮、中禅寺湖畔に中宮祠、市内には本社が鎮座している。
香取神宮
祭神は、経津主大神
社格 式内社(名神大)・下総国一宮・官幣大社・勅祭社・別表神社
社伝によれば創始は神武天皇18年と言われ、「常陸国風土記」に香取神宮から分祀した社の記載があることから、これ以前に香取神宮は存在し、周辺地域に勢力を持っていたと考えられる。香取・鹿島の両神宮は、大和朝廷の東国支配の拠点として祀られた社を創始とする。天正18年に徳川家康が関東に入ると、翌年、朱印地として1000石が寄進された。その後、江戸期を通じて社領に変化はなく、明治期になると旧幕府封地は明治政府に返上されることになったため、香取神宮も明治3年に社領を政府に上地した。
成田山金剛王院神護新勝寺(成田不動・成田山)
真言宗智山派大本山
本尊は大聖不動明王
関東三十六不動36番
平将門の乱の際、天慶2年、朱雀天皇の密勅により寛朝僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山神護寺護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となった。明治維新以降、お札を通じて戦時下の人々の精神的な助けとなった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。
成田山荼枳尼天堂(成田山出世稲荷)
真言宗智山派
本尊は荼枳尼天
江戸時代に成田山を篤く信仰した佐倉藩主、稲葉正通が寄進した荼枳尼天。商売繁昌、開運成就、火伏せのご利益があると伝えられており、古くから出世稲荷と呼ばれ親しまれている。
大和田山大聖院明王寺
真言宗豊山派
本尊は大日如来
佐倉七福神(大黒天・布袋尊)
鎌倉時代の初期に開山され、真言宗豊山派の寺院として、当地方15ヶ寺の本寺。佐倉藩校成徳書院初代総裁であった儒学者、吉見南山の墓や佐倉藩刀鍛治細川忠義の墓がある。
安城山不矜院甚大寺
天台宗
本尊は十一面観世音菩薩
佐倉七福神(毘沙門天)
創建については不詳であるが、元は元和元年(1615)に慈眼大師が、天台宗比叡山延暦寺の末寺として山形城下に建立した寺で、元禄14年に山形城主であった堀田正虎が開基者となり当山を中興した。山形藩主堀田正亮が佐倉藩に移った際、佐倉に移され、堀田正俊・正睦・正倫の菩提寺となった。
久栄山妙隆寺
日蓮宗
本尊は曼荼羅
佐倉七福神(大黒天)
開創は文明3年、本山本土寺(千葉県松戸市)妙高院日意上人による。当初は、佐倉城の大手門を出た右手にあり、江戸時代初頭に佐倉藩の禄高が上がり侍屋敷を増やすにあたり、現在の地に移転した。1680年代には現在地に移転したことが確認されている。
清浄山嶺南寺
曹洞宗
本尊は釈迦牟尼佛
佐倉七福神(弁財天)
寛永19年に当時の信濃松本藩主、堀田加賀守正盛の佐倉移封と共に松本より佐倉に移り建立された。開山は陽南良雪。境内には樹齢約340年の「ヒイラギ」の保存樹があるが、これは開山当時に植えられたものといわれている。
正覺山宗圓寺
臨済宗妙心寺派
本尊は聖観世音菩薩
佐倉七福神(寿老人)
寛永16年に松本城主、堀田加賀守正盛が松本に建立した円覚山慧光院の境内に19歳で卒去した正盛の弟堀田佐兵衛安利の冥福を祈り塔頭の寺として建立。寛永19年に佐倉の現地に移しました。墓地には堀田家家老の渡辺弥一兵衛、堀田家執政の香宗我部家、順天堂創立者佐藤泰然の墓などがある。
玉寶山清光院松林寺
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
佐倉七福神(毘沙門天)
寛永7年、佐倉藩主土井利勝によって創建された。当時の境内の様子が描かれた古絵図が残されており、本堂を中心として観音堂、毘沙門堂、庫裡等が描かれ、当時はかなり大規模な寺院であった。現在の本堂は創建期の観音堂であり、この建物は佐倉城下町の形成期に立てられた寺院建築として貴重なもので、また本堂の須弥壇左側にある厨子は、扉に葵の紋が付いており、家光公より戴いたという春日局の献上物だと伝えられている。
麻賀多神社
祭神は稚産霊命
社格 村社・佐倉総鎮守
麻賀多を「まかた」と称えることについては、定かでなく、「勾玉」(まがたま)、「麻縣」(まあがた)から等諸説がある。鎮座している千葉県は古来、麻の産地であり「総国・ふさのくに」の総は麻を表しいる。印旛地方は下総国成立以前は印旛国であり、国造が派遣されていたが、その国造に多一族の伊都許利命が就任したことから、「麻の国で多氏が賀す神の社」との口伝がある。「佐倉」という地名も「麻の倉」が転じてと言われており、佐倉地方が古代物流の中心的地位を占めていたことが判る。
滑河山龍正院(滑河観音)
天台宗
本尊は十一面観世音菩薩
坂東三十三観音28番・下総七福神(毘沙門天)
承和5年、滑河城主の小田将治が発願し、慈覚大師円仁が開山したと伝えられる。本尊の体内に納められている1寸2分の観音像は、小田将治が出会った老僧が小田川よりすくい上げたものとされている。本堂は銅板葺き、方五間の宏荘な建物で、元禄9年の建立。
高岡山瑞泉寺眞城院
天台宗
本尊は阿弥陀如来
下総七福神(弁財天)
応永3年開基。天正3年、長篠の戦いで敗れた武田勝頼の妃、晴信の旧臣と落ち、現在の猿山区間敷眞城山眞城院に隠遁したといわれ、寺門菊菱はその証とされている。元禄年間に高岡藩の井上氏により堂宇が一新され、翌年境外池中に弁財堂が建てられて藩内の五穀豊穣の祈願所となった。
海光山仏現寺
日蓮宗別格本山
本尊は釈迦牟尼仏
伊東七福神(毘沙門天)
寺伝では日蓮聖人が『立正安国論』 を鎌倉幕府に奏上した事で北条執権の怒りにふれ、弘長元年、伊東に配流となった。当地の地頭である伊東八郎左衛門が奇病にかかり、祈祷により治癒したことから御礼に、同家の重宝海中出現の立像釈迦仏を贈られ、これを本尊とする。日蓮はここで3年間幽閉の身となるが、42歳で許され、鎌倉に戻ったことから、厄落としの寺としても有名。
冨士本宮浅間大社
祭神は木花之佐久夜毘売命(浅間大神)
社格 式内社(名神大社)、官幣大社、別表神社、駿河国一宮、三霊山
孝霊天皇の時代に富士山が噴火し国中が荒れ果てた。その後、垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年頃に富士山麓にて祀ったのが始まり。日本武尊が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭ったとき、浅間大神に祈念し難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮に浅間大神を祀った。大同元年平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在地の大宮の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷座した。源頼朝が行った富士の巻狩りの際、武将を率いて富士山本宮浅間大社に詣き、流鏑馬を行った。このことから富士山本宮浅間大社では毎年流鏑馬祭りが行われている。
冨士本宮浅間大社(奥宮)
祭神は木花之佐久夜毘売命(浅間大神)
富士山頂上奥宮は富士山村山口登山道頂上に鎮座する。元は富士山興法寺を形成する大日堂であったが、神仏分離令により仏像が取り除かれ、跡地は浅間大社奥宮として管理されることとなった。奥宮境内には「冨士山頂上淺間大社奥宮」と書かれた石碑が建てられており、山頂のシンボルとなっている。
三嶋大社
祭神は大山祇命、積羽八重事代主神
社格 式内社(名神大)、伊豆国一宮、伊豆国総社、官幣大社、
別表神社
社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。
井伊谷宮
祭神は宗良親王
社格 官幣中社・別表神社
明治維新の際、建武中興に尽力した人々を祀る神社が次々に作られた中の一つ。彦根藩の知藩事・井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治2年にその手伝いをするよう命じられた。井伊谷は井伊氏発祥の地で、宗良親王は井伊道政と井伊高顕に助けられ、この地で薨去したと伝えられていた。明治3年の春に完成した神社は、はじめ宗良親王御社といったようだが、明治5年1月23日に井伊谷宮に改称になり、2月12日に鎮座祭が神祇省の役人によって行なわれた。
万松山龍潭寺
臨済宗妙心寺派
本尊は虚空蔵菩薩
天平5年、行基によって開かれ、寺号は地蔵寺であったが寛治7年に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。
平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされる。元中年間、宗良親王がこの寺を中興した。永正4年、井伊直平が黙宗瑞淵を招いて、龍泰寺と改め、永禄3年に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。
深奥山方広萬寿禅寺
臨済宗方広寺派大本山
本尊は釈迦如来
建徳2年、井伊家の一族である奥山朝藤の開基。奥山朝藤は無文元選に深く帰依していたので、無文元選を開山として創建された寺である。 無文元選は博多聖福寺の後、元に渡って福州大覚寺で古梅正友に参じて嗣法した。その後日本に帰り、三河の広沢庵にいた時に奥山朝藤の招きに応じて方広寺に移った。永禄11年12月、徳川家康が訪れ、復興に力を注いだ。天正15年には豊臣秀吉から約50石の朱印と境内山林が寄進され、同じ年に勅願所となった。天明6年には、光格天皇から開山の無文元選に対して「大慈普応禅師」の号が下賜された。明治に入り、明治政府の廃仏毀釈の宗教政策により境内地以外の寺領が上地となって、方広寺は経済基盤を失うことになった。
秋葉山舘山寺
曹洞宗
本尊は福一万願虚空蔵菩薩
平安時代・弘仁元年(810)
弘法大師が高野山より仏道行脚の際、舘山を訪れて当地において修行し、その際に開創。文治3年、兵火により焼失したが、源頼朝が道中安全・武運長久の祈願寺として諸堂を再建した。貞治年間、堀江城の城主として赴任した大沢氏の要請により城主の祈願寺として、以後500年守られる。明治23年、再興が認められ秋葉山秋葉寺住職・牧泰禅を招請し、秋葉寺の出張所を持ってくる名目で再興した。その際に秋葉三尺坊を舘山寺でも祀ることになり、山号も「中嶺山」から「秋葉山」に改め真言宗の伝統を引き継ぎながら曹洞宗の祈願寺として今日に至る。
久能山東照宮
祭神は徳川家康
社格 別格官幣社
推古天皇の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)などが往来し、隆盛をきわめた。永禄11年、武田信玄は、久能寺を矢部に移し(今の鉄舟寺)、この地に久能城を築いた。しかし、武田氏の滅亡で徳川家康の領有となり、久能城もその支配下に入った。家康は、死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年12月には2代将軍・秀忠によって東照社の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。
草薙神社
祭神は日本武尊
社格 県社、式内社(小)
社伝では、景行天皇53年9月20日に天皇が当地に着き日本武尊の霊を奉斎したのが創建という。また、天皇は当社に神体として草薙剣を奉納したが、この草薙剣が朱鳥元年に天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとも伝えている。
神部神社・浅間神社・大歳御祖神社(静岡浅間神社)
祭神は大己貴命、木之花咲耶姫命、大歳御祖命
社格 式内社(小)(神部・大歳)・駿河国総社(神部)・国幣小社・別表神社
神部神社は崇神天皇の時代の鎮座と伝えられ、延喜式内小社で祈年の国幣に預った。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた。浅間神社は、延喜元年、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきた。大歳御祖神社は、応神天皇の時代の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市の守護神であった。古くは「奈古屋神社」と称された。延喜式内小社で祈年の国幣に預った。
三社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきた。現在は一つの法人格となっている。
静岡縣護国神社
祭神は明治維新から大東亜戦争に至る静岡県出身の戦没者・殉死者
社格 内務大臣指定護国神社・別表神社
明治32年11月「共祭招魂社」として静岡市北番町に創建。昭和14年4月1日 に靜岡縣護國神社と改称。昭和21年 に「靜霊神社」と改称。昭和28年 に「靜岡縣護國神社」と復称した。
王滝御嶽神社
祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命
社格 県社
木曽御嶽山頂上奥社は大宝2年、信濃国司高根道基が創建し、ついで延長3年白川少将重頼が木曽御嶽山へ登山し神殿を再建した。また、一合目里宮社は文明16年再建、文亀3年再興と記録にある。 天明2年に覚明行者が木曽御嶽山黒沢口登山道を、寛政4年に普寛行者が木曽御嶽山王滝口登山道をそれぞれ開き、講社を作り軽精進潔斎による木曽御嶽山登山を奨励した。
定額山善光寺(信州善光寺、信濃善光寺)
無宗派
本尊は一光三尊阿弥陀如来
西国三十三箇所(番外)、坂東三十三箇所(番外)、秩父三十四箇所(番外)、西山国師遺跡霊場(客番)、真盛上人二十五霊場(番外)
古えより、「四門四額」と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」、北門を「北空山雲上寺」、西門を「不捨山浄土寺」と称する。特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済が挙げられる。
雄山神社(立山権現・雄山権現)
祭神は伊邪那岐神、天手力雄神
社格 式内社(小)・越中国一宮・国幣小社・別表神社・三霊山
大宝元年に景行天皇の後裔である越中国国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山。また、大宝3年に釈教興が勧請したとも伝える。万葉集の巻17には、越中国国司であった大伴家持によって天平18年4月27日詠まれた「立山の賦」が収録されている。神殿は萬延元年まで歴代の加賀藩主前田氏によって造営が行われていた。
鳳徳山大仏寺(高岡大仏)
浄土宗
本尊は阿弥陀如来
創建年や開基については不詳。銅造阿弥陀如来坐像は、高さ15.85m。「高岡大仏」として知られ、日本三大仏を称する。
谷汲山華厳寺
天台宗
本尊は十一面観世音菩薩
西国三十三所33番・東海白寿三十三観音33番・東海三十六不動尊33番
延暦17年(798年)、会津の郡司で黒河郷の大口大領が美濃国の赤坂北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、草庵を建立。延暦末年に、豊然上人の協力を得て建立。延暦20年に桓武天皇の勅願寺、延喜17年に醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。天慶7年に朱雀天皇が鎮護国家の道場として勅願所に定めた。花山法皇は徒歩で巡幸し、第三十三番札所の満願所と定め、鎌倉時代には後白河法皇が巡幸した。建武元年、堀口貞満の乱をはじめとする戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は難を逃れた。文明11年、道破拾穀により再興。
真宗大谷派高山別院光曜山照蓮寺(高山御坊・飛騨御坊)
浄土真宗 真宗大谷派 別院
本尊は阿弥陀如来
建長5年、親鸞の教えを受けた嘉念坊善俊が「正蓮寺」を建立。戦国時代、正蓮寺の僧、教信は遷化し三島将監を名乗り、弟の明教ともに勢力を拡大。やがてこの地を治める帰雲城城主内ヶ島氏は勢力争いで対立する。長享2年、内ヶ島為氏により「正蓮寺」は焼き討ちにあい、三島将監は戦死、明教はかろうじて逃げ延びる。明教の子である明心は、内ヶ島為氏と和睦し、永正元年、飛騨国白川郷中野に寺院を復興し、「正蓮寺」から「光曜山照蓮寺」と改称する。内ヶ島氏と手を結んだことにより「照蓮寺」の勢力は拡大し、飛騨高山藩初代藩主金森長近はそれを恐れ、天正16年、高山城城下の現在地に「照蓮寺」を移転させる。元禄16年、一乗は「照蓮寺」を本山に献上し、本山の掛所「高山御坊」となる。
熱田神宮
祭神は熱田大神(天叢雲剣)
社格 式内社(名神大)・官幣大社・別表神社
景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命の娘宮簀媛命と結婚した。草薙剣を妃の手許へ留め置いた。日本武尊が能褒野で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斉鎮守したのが始まりと言われる。そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に常に置かれるようになり、伊勢神宮に次ぐ権威のある神社として栄えることとなった。明治元年に熱田神社から熱田神宮に改める。
亀岳林萬松寺
曹洞宗
本尊は十一面観世音菩薩
天文9年、織田家の菩提寺として織田信秀が開基。信秀の叔父にあたる雲興寺八世・大雲永瑞和尚を開山に迎え、那古野城の南側に建立された。慶長15年名古屋城を築く際に小林邑に移建した。移転後も尾張徳川家朱印寺として篤く信仰され、「故亜相源敬公大夫人霊廟」(徳川義直室高原院の廟)が置かれるなどしていたが、幕末頃から徐々に衰退。
徳川家康は6歳で人質として今川義元の元に送られる途中で信秀に捕えられ、この寺で9歳まで過ごしたと伝わる。
北野山真福寺宝生院(大須観音)
真言宗智山派別格本山
本尊は聖観音
日本三大観音・東海三十六不動尊10番・尾張三十三観音1番・名古屋七福神(布袋尊)
元亨4年に後醍醐天皇が大須郷に北野天満宮を創建。元弘3年に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺が始まり。その後、慶長17年に徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正茂によって現在地に移転、明治25年の大須の大火と第二次世界大戦の空襲による2度の焼失を被り、昭和45年に再建した。
若宮八幡社
祭神は仁徳天皇、応神天皇、武内宿禰命
社格 県社・別表神社・名古屋総鎮守
文武天皇の時代、大宝年間に現在の名古屋城三の丸の地に創建と伝わり、延喜年間に再興されたという。天文元年の合戦で社殿を焼失したが、天文8年織田信秀により再建された。慶長15年の名古屋城築城の際に現在地に遷座し、名古屋総鎮守とされ現在に至っている。
砥鹿神社
祭神は大己貴命
社格 式内社(小)・三河国一宮・国幣小社・別表神社
国史では、「砥鹿神」の神階が嘉祥3年に従五位下、仁寿元年に従五位上、貞観6年に正五位下、貞観12年に正五位上、貞観18年に従四位上に昇叙されたと見える。嘉祥3年条以外はいずれの記事でも知立神と併記された。延長5年の延喜式で「砥鹿神社」と記載され、式内社に列している。三河国内神名帳では正一位 砥鹿大明神と記載されている。戦国時代の永禄年間には、付近に徳川家康の命を受けた本多信俊が一宮砦を構えて今川軍に包囲されたが、家康が寡勢で救援に駆けつけて多勢の今川軍を蹴散らし、砥鹿神社に宿陣したとも伝わる。また慶長7年には、家康より朱印領として百石の寄進を受けた。
圓福山豐川閣妙嚴寺
曹洞宗
本尊は千手観音
東海三十六不動尊17番・東海百観音 結願寺・三河新四国八十八ヶ所霊場番外
嘉吉元年、曹洞宗法王派(寒巌派)の東海義易によって創建。室町時代末期、今川義元が伽藍を整備した。当時は、豊川(河川名)の近くに広がる円福ヶ丘という高台に伽藍があったが、元禄年間までに現在地に移転した。現存する諸堂は江戸時代末期から近代の再建である。
豊川稲荷
曹洞宗
本尊は吒枳尼真天
妙厳寺鎮守
鎌倉時代の寒巌義尹が入宋し、文永4年、日本へ船で帰国の途上、吒枳尼天の加護を受けたのがきっかけとなり、この天を護法神として尊崇するようになったとされる。その後、寒巌の6代目の法孫にあたる東海義易が妙厳寺を創建するに際し、寒巌自作の吒枳尼天像を山門の鎮守として祀ったといわれる。豊川吒枳尼天の姿は、白狐の背に乗り、稲束をかついで宝珠を持ち、岩の上を飛ぶ天女の形である。江戸時代になると、大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受け、立身出世や盗難避けの神として江戸の庶民からも信仰されるようになり、文政11年には、大岡邸の一角を借りて江戸参詣所(後の東京別院)が創建された。
豊川進雄神社
祭神は進雄命
社格 郷社
大宝元年、豊川の西岸に牛頭天王を祀って雨乞いの祭祀を行ったことが創始と伝えられる。天徳元年に現在地に遷宮した。治承4年には、平維盛に仕える平忠度が参拝して戦勝祈願を行った。嘉禎4年には、征夷大将軍の藤原頼経が上洛の際に参拝してヒノキを献じたと伝えられる。慶長元年、領主の池田輝政によって刀一口と馬鞍一対が献納され、家臣の堀尾孫介が社殿を造営した。享保20年、領主の大岡忠相によって刀一口が献納され、元文5年には釣燈籠一対が寄進された。明治期以前は豊川牛頭天皇と呼ばれていたが、神仏分離によって進雄神社に改称された。大正12年には元宮が本社に合祀され、豊川進雄神社に改称された。
龍雲山妙音閣三明禅寺(豊川弁財天)
曹洞宗
本尊は千手観音
三河七福神(弁財天)
大宝2年、文武天皇が三河国に行幸の折、この地で病にかかったが、弁財天の霊験で全快したことから、大和の僧・覚淵に命じて堂宇を建立したのが始まりという。以後、真言宗の寺院として続いていたが、平安時代後期、源範頼の兵火により焼失し荒廃する。応永年間に禅僧・無文元遷が諸堂を復興し、この際に禅宗に改宗し、千手観音を本尊とした。また、三重塔を建立し、大日如来像を安置したといわれる。享禄4年、三重塔が再建され、天文23年には本願光悦により弁財天宮殿が再建される。