その他系図等に表れない橘姓の人物事典(現代まで)

橘定玄(766~823)

筑前琵琶創始者。天平神護2年(766年)筑前大宰府で生まれる。17歳で失明。延暦7年(788年)比叡山延暦寺創建の際上洛し、琵琶を弾じ 「地神陀羅尼経」を読諭して、国土安穏を仏天に祈り、その法力を認められ、朝廷より「玄清」の名と「法印」の号を賜って帰国した後、成就院を建立して筑前盲僧の本山とし、盲僧を集めて「地神陀羅尼経」を唱え、琵琶を弾ずることを教えた。これが後世の筑前琵琶の源流となっている。弘仁14年(823年)10月歿す。

 

橘清子

平安中期の女官。生没年未詳。大納言橘好古の女か。藤原道隆との間に好親と娘を、道隆の子道頼との間に大納言君と称する娘を出産。三条天皇の強力な側近女官で、天皇の死に際しては、号泣し、息も消えそうに身を横たえていたという。(「栄花物語」)後に出家し、橘氏寺井手寺に居住。

 

橘吉明

生没年未詳。元慶4年(880年)大館城主公家が津軽に軍をだし、関の橘吉明を討取る。この時兵卒を引上る際、 大杉根元に弓一張矢一双を立て、是を納め置く、其の頃より矢立杉という。大館の郷の古記にありと矢立峠について菅江真澄の記述に見える。

 

皇慶(977~1049)
平安時代中期の天台宗の僧。祖父は橘広相。性空の甥にあたる。谷阿闍梨・丹波阿闍梨・池上阿闍梨とも称される。台密谷流の祖。比叡山法興院静真に師事して天台教学を学び、長徳年間伊予国国司藤原知章のために普賢延命法を修し、九州では景雲から東密の法を受けるなど諸国を遍歴した。長保5年、寂照とともに宋に渡ろうとしたが果たさず、その後丹波国桑田郡池上に隠棲した。万寿年間に十臂毘沙門法を修して阿闍梨に任じられる。晩年は比叡山東塔南谷井ノ房に移りそこで没した。

 

橘元實
生没年未詳。橘文懐の男。文懐は系図に見当たらず。天徳2年(958年)11月平時光杣地ならびに田地を沽与す(「東大寺文書」)。天延元年(973年)10月、寺家堺定四至状を奉る(「東大寺要録」)。子に輔弼があり、兄弟の元景が天禄2年(971年)5月、伊賀湯船荘立券に連署し、橘貞子充て行うを、輔弼が妨げている(「東南院文書」)。

参考系図     橘文懐 元景    
      元興    
      元方    
      元實 輔弼

 

橘親保(矢野親保)

生没年未詳。越智姓伊予橘氏の流れと推察される。系図には見当たらないが、橘遠保の子とする説もある。

参考系図

橘親保-矢野親実-親友-親秀-親国-親信-親義-親貞-親清-清貞-道貞-通家-家貞-豊貞-豊昔-豊純-豊寛-豊教-教貞-教時-時貞-教家-時家-家政-家俊-家経-家章-家成-家兼-家広-家春-家則-春常-家堯

 

橘時舒

生没年未詳。康保2年(965年)3月、豊後守(「柞原八幡宮文書」)。安和元年(968年)10月、従五位上行少納言兼侍従紀伊権介橘時舒、荷前使に定められる(「符宣抄」)。天禄2年4月、出羽守とみえる(「群載」)。長保元年(999年)藤原実資の病気を見舞っている(「小右記」)。

 

橘理信
生没年未詳。永祚元年(989年)2月、内舎人。京より尾張に来る不善の徒として告発される(「尾張国郡司百姓等解」)。

 

橘行遠

生没年未詳。正暦4年(993年)3月、手結不参により召勘あるところ、宥さる。恐懼の由を申す。長保元年(999年)8月、女院(詮子)蔵人、藤原実資の許に来り、女院の慈徳寺供養の僧膳を課すを伝う(「小右記」)。

 

橘貞理
生没年未詳。正暦4年(993年)防鴨河使判官に補せられる(「世紀」)。

 

橘師房
生没年未詳。正暦5年(994年)大和守に見任している(「栄山寺文書」)。

 

橘輔之
生没年未詳。正暦5年(994年)、祈年穀奉幣の梅宮使となる(「世紀」)。

 

橘重隣
生没年未詳。長徳2年(996年)正月、美濃権大掾を改任さる(「長徳二年大間書」)。

 

橘良家
生没年未詳。長徳3年(997年)8月、釈奠内論議の問題生となって参入す。長保3年(1001年)8月、内論議の問題生となる(「権記」)。

 

橘尹忠
生没年未詳。長徳3年(997年)正六位上、内舎人となる(「除大」)。

 

橘茂方
長徳3年(997年)、春、加賀掾に任じたが、長和元年改任さる(「除大」)。

 

橘忠範
妻は「紫日記」にみえる式部のおもと。長保元年(999年)興福寺維摩会に行成らと参会し、この日の払暁帰洛す。長保2年彰子立后に伴い、中宮少進を兼任す。寛弘3年(1006年)上野介忠範、任国の上野で卒した(「権記」)。

 

良芸子

生没年未詳。橘忠範の妻である「式部のおもと」は良芸子の妹。弁の命婦、宮の内侍とも。源経房の妻とする説もある。もとは東三条院(藤原詮子)の女房で、長保2年(1000年)2月25日の立后時より中宮彰子の掌侍を兼任した。紫式部は『紫式部日記』の中で「姿格好、とても堂々としていて、現代的な容姿でとりたてて素敵とは見えないが、とても清楚である」と評している。

 

橘斯忠
生没年未詳。長保元年(999年)左兵衛尉橘斯忠、内裏焼亡により、東宮に供奉して修理大夫曹司にいたる(「世紀」)。

 

橘輔兼
生没年未詳。長保元年(999年)大監物橘輔兼、内裏焼亡により、天皇、一条女院に行幸されるに奉仕す(「世紀」)。

 

橘御垣丸
長保元年(999年)8月、捕進犯人、未断囚人であったが免ぜられる(「北山抄裏文書」「権記」)。

 

橘正友
長保元年(999年)8月、迯去犯人のひとり(「北山抄裏文書」)。

 

橘利松
長保元年(999年)8月、迯去犯人のひとり(「北山抄裏文書」)。

 

橘公憲
生没年未詳。長保元年(999年)5月、陸奥臨時御馬交易使として、御馬二十疋とその解文を随身して参上す(「世紀」)。長保2年(1000年)正月、衛門尉に挙げられる(「権記」)。

 

橘公平女

生没年未詳。平安時代前期の歌人。大膳大夫橘公平の女。ただし、公平は橘氏系図には見えない。公平には三人の女があり、長女は、醍醐天皇中宮穏子に「少将御」として仕え、三女は源信明らと交渉をもった(「大和物語」)。県の井戸(一条北、東洞院西角)に住み、藤原治方と歌の贈答をしたことが知られる。

 

橘時夏
生没年未詳。長保2年(1000年)5月、留守官人大和介橘時夏、興福別当定澄律師の請により派遣されたる検非違使に、犯人在処を指事す(「権記」)。

 

橘守正
生没年未詳。長保3年(1001年)閏12月、荷前使の副をつとむ(「権記」)。

 

橘貞親
長保4年(1002年)11月、大判官代(「東大寺文書」)。

 

橘長任
寛弘元年(1004年)正月、正五位下に叙せられる(「権記」)。

 

橘長時
寛弘4年(1007年)、正六位上、近江少喙に任ず(「除大」)。

 

橘成武
寛弘4年(1007年)11月、霊山院釈迦堂の供養に当てられる(「平安遺文」)。

 

橘修道

生没年未詳。寛弘8年(1011年)8月、内匠助橘修道、所雑色に補せられる(「御堂」)。長和2年(1013年)3月、仁王会の装束僧房に定められる(「小右記」)。

 

橘為通
生没年未詳。長和3年(1014年)10月、試判において、補せられる九人のうちの一人。万寿元年(1024年)12月、藤原実資の子(千古)の着裳に奉仕す。長元3年(1030年)宅神祭に奉仕し、同4年7月、奉幣使賀茂次官として、春日、大和社使に遣わされる(「小右記」)。

 

橘惟成
長和5年(1016年)9月、大舎人允。内裏東廊の放火を発見、告げる(「御堂」)。

 

橘為賢
寛仁2年(1018年)11月、少内記、節会に奉仕す。万寿2年(1025年)11月、五節所の女房衝重を奉仕す(「小右記」)。

 

橘季任
右衛門尉。寛仁3年(1019年)4月、斎内親王禊日次第使を務める(「江次第」)。また、長暦元年(1037年)興福寺と東大寺の斗乱に派遣される。

 

橘為章
治安4年(1024年)3月、大和国介とみえる(「延喜式裏文書」)。

 

橘行俊
万寿元年(1024年)11月、弾正忠、駿河交替使となる(「小右記」)。

 

橘公通
長元2年(1029年)6月、正六位上橘朝臣公通、大宰権帥源道方の傔仗となる(「符宣抄」)。

 

橘光國

長元2年(1029年)、讃岐権掾に任ず(「除大」)。

 

橘信重

長元2年(1029年)、正六位上、近江大掾に任ず(「除大」)。

 

橘貞頼
生没年未詳。清原武則の甥。逆志方太郎。安倍頼時・貞任らと源頼義・義家の戦い(前九年の役)において清原一族が源頼義に味方した際、第二陣の将として登場。康平5年(1062年)8月小松の柵の戦いで活躍(「陸奥話記」)。弟の橘頼貞も第四陣の将として戦う。

 

橘孝忠
生没年未詳。源頼義の家臣。康平5年(1062年)8月小松の柵の戦いの際、第五陣で参戦。第五陣は源頼義の郎従の本陣で平真平、菅原行基、源真清、刑部千富、大原信助、清原貞廉、藤原兼成、源親季、藤原朝臣時経、丸子宿禰弘政、藤原光貞、佐伯元方、平経貞、紀季武、安倍師方らとともに布陣(「陸奥話記」)。

 

橘忠兼

生没年未詳。平安時代末期の人。従七位下、内膳司の典膳を務めた。天養~治承(1144~1181年)の間、補訂を重ねて「色葉字類抄」をまとめた。

 

橘高俊
生没年未詳。奥州藤原氏の家人。藤原泰衡の家臣。文治5年(1189年)9月、藤原氏滅亡後の戦後処理として、源頼朝から橘高俊兄弟に焼失した奥羽2国の絵図や土地台帳の作製を命じられる。

 

橘兼高
生没年未詳。平安時代末期の備後国大田庄の在地領主。庄内の村々に居を構える公文ら下級庄官を被官化し武士団を形成。源平の内乱の過程で大田庄全域にまで領主経営を拡大。建久元年(1190年)高野山金剛峰寺根本大塔供僧の訴えで領主制を大きく後退させる。同7年謀反の咎により失脚した

 

日興上人(橘光長)(1246~1333)
寛元4年(1246年)甲斐国鰍沢大井庄領主橘光重の男として生まれる。駿河岩本の実相寺で出家し、文永年間(1264~1274)、富士郡に来た日蓮上人に師事して、以後は佐渡流罪の時にも日蓮に従い、日蓮が身延に入ってからは出生地の鰍沢をはじめ甲斐、駿河などで布教活動に専念した。日蓮没後、正応3年(1290年)南条時光に大石ヶ原の寄進を受け、10月12日大石寺を建立。正慶2年(1333年)「日興遺誡置文」を表し、その後没す。先祖の菩提寺として、恵命山蓮華寺を弟子の日華上人に建立を命じる。

 

橘季兼
生没年未詳。大和国出身。吉野郡金峰山寺の寛元2年(1244年)古鐘銘に名前が見える。

 

日頂上人(1252~1317)
建長4年(1252年)千葉で生まれる。父は伊予守橘定時。文永4年(1267年)に日蓮上人に帰依。母は富木尼御前と呼ばれた妙常。後に常林寺を創建。

 

橘成忠(鳥羽成忠)

生没年未詳。戦国時代の国人。伊勢国鳥羽の領主。橘宗忠の父。英虞郡鳥羽城主。官途は監物。1568年、北畠具教から離反を起こした。北畠具教勢の野呂将監を打破った。南伊勢国を織田信長が領すると、織田信長勢の九鬼嘉隆に属した。 

 

橘宗忠(鳥羽宗忠)
生没年未詳。戦国時代の国人。伊勢国鳥羽の領主。官途は主水。鳥羽の地はもともと伊勢神宮の神領であったが、平安時代の末期に橘氏がこの地を領し、居館を築いて鳥羽殿と呼ばれていた。戦国時代に入って、永禄11年(1568年)伊勢波切城主であった海賊の九鬼嘉隆は織田信長を後ろ盾にして橘宗忠を攻略、宗忠の娘を妻として鳥羽城を奪い取り、志摩一円を支配した。

 

橘正豊(竜虎真人・東山隠士)
生没年未詳。江戸時代の兵学者。後陽成天皇の時、文章博士・外記として仕える。大江家伝と称する大江元綱、秦武元所伝の兵書を受け継ぎ、戦いの覚書を集め兵学書を撰し、「源家古法」と称された。近衛前久の命により「続訓閲集」を著わしたが天覧せず京都東山へ隠遁した。源家古法は元和元年(1615年)大江元氏に伝えられた。著作には「秘符略」「秘符略訓解」「秘符略口義」「秘符略拙解」「秘符略解」「輔将策句義」がある。

 

橘智正
生没年不詳。江戸時代前期の対馬島主宗義智の家臣。別名井出弥六左衛門。慶長の役の後、日朝国交回復のため、宗義智の命をうけ、慶長5年(1600年)4月朝鮮人捕虜を送還し朝鮮に和を求む。以後、国交回復折衝に務め、日本への通信使派遣を要請し、同11年4月釜山にて朴大根と協議。これを上申した結果、朝鮮側から、徳川家康から先に国書を出すことと、朝鮮国王陵墓を荒らした犯人を差し出すことの2つの条件を日本へ持ち帰った。

 

橘三喜(1635~1703)
江戸時代初期の神道家。肥前国平戸生まれ。後に江戸に出て活動した。吉田神道家宮内昌興および吉川神道吉川惟足の教えを受け、江戸浅草に住して橘神道を創唱した。本名は光義。その交友には神道学者増穂残口があり、弟子には武蔵国氷川神社神主武笠丹波(弓矢神道を興す)がある。元禄16年(1703年)4月22日没し、武蔵国足立郡三室郷向山に葬られた。著書に「一宮巡詣記」「秋津真言葉」「中臣祓集説」「神道四品縁起」がある。
父は平戸七郎宮祠官大鳥居刑部であり、立石刑部橘廣貞とも言い、平戸に移住する前は壱岐の勝本町立石の熊野神社の祠官であった。祖父は壱岐勝本立石熊野神社祠官であった堤新兵衛信貞である。先祖は和泉守橘貞兼で、勅命により高麗征伐に臨み、紀伊熊野大神に祈り成果をあげ、帰朝後、壱岐国立石村に熊野権現を奉齋、祠官を司ると記録にある。

参考系図     橘貞兼 忠兼 正兼 頼兼 堤信貞 橘廣貞 三喜    
                          堤主馬 某─ 神坂主水

橘成員

江戸中期の国学者。延宝6年(1678年)に「假名字例」を著わす。元禄8年(1695年)更にこれを増訂し「倭字古今通例全書」を著わし、下川契沖の「和字正濫抄」を批評した。弟に薄保春がおり、奇山と号し、「倭字古今通例全書」に漢文の跋を書いている。

 

橘重信(薄田重信)
生没年未詳。江戸時代初期の兵法家。美濃西郷住の橘以重の男。代々橘家神道を伝えた。重信の時に武士となり、薄田氏を称する。池田輝政に仕え、大坂の陣に輝政の子利隆に従い軍功を挙げる。なお、重信の子信秀の代に主家を去り、尾張名古屋の徳川家に仕えた。著作に「玉方陣記」がある。

参考系図     橘以重 薄田重信 信秀 以貞

 

橘以貞(薄田以貞)
生年未詳。宝永2年(1705年)9月15日没。江戸時代の兵法家・神道家。薄田信秀の男。嗣子早世のため家断絶。家学の橘家神道、軍伝・蟇目鳴弦の儀などを受ける。近江大津に浪居し、その間、親交のあった玉木正英に家学を伝えた。著作に「厳戈伝」「橘家加持祈祷伝」「橘家鳴弦巻極秘」などがある。

 

玉木正英(橘正英)
橘家神道中興の祖。医師。垂加神道・橘家神道の継承者。玉木葦斎と称する。京都聖護院出身。山崎闇斎門下。

 

玉木慎斎(橘惟一)

医家。字は五一、号は慎齋。京都聖護院村の医師玉木正英葦斎の子。鈴屋大人都日記享和六年六月三日の項に慎齋が本居宣長を訪ねたことを記し「とし六十八云々」と述べている。文化11年(1814年)3月5日没。頂妙寺に葬る。

 

橘守国(1679~1748)
絵手本画家。浮世絵師。延宝7年(1679年)大阪生まれ。京都に出て鶴沢探山に師事、狩野派の奥義を究め、土佐派を始め他流を学び知識と技法を広げる。守国の特色は「蜜画の大家」といわれるほど、構図・色彩・描線まで徹底的に緻密に模写し、それぞれの画派の秘訣を体得する。さらに粉本(えの下書き)が乏しいのを嘆き、各派の特色や秘法を分かりやすく解説した文章をつけ、絵画を志す人たちへの便宜を図った。この代表が正徳4年(1714年)「絵本古事談」で、これが原因となり破門となる。しかしながら屈せず画筆法を教えた「唐土訓蒙図彙」「扶桑画譜」等20数冊の「絵手本」を出版した。「四天王寺伽藍絵図」「唐土名所図会」「有馬山勝景図」「南都名所図会」などがある。守国の画譜は後に池大雅、与謝蕪村に強い影響を与え、独特の文人画となって発展する。寛延元年(1748年)10月69歳で没した。

参考系図     橘守国 保国 保春

 

橘保国(1717~1792)

画家。橘守国の男。享保2年(1717年)大阪生まれ。画法を父に授かり盛名父に劣らず、父との合作も多い。「絵本詠物選」「絵本野山草」等がある。寛政4年(1792年)2月没す。養子に橘保春があり家業を継ぐ。文化13年(1816年)66歳で没している。 

 

橘国雄

画家。浮世絵師橘守国の弟子。生没年未詳。活躍年代は宝暦から明和年間(1751~1772)、生家は酢屋、凡ならざる技倆を有したが、性質が括淡・寡欲で、名を顕すことを嫌い清貧に甘んじ生涯困窮した。国雄の印のあるものは稀であるため真筆かどうかは定めがたい。大阪の医師岡元鳳の「毛詩品物図攷」の挿絵があり、稲廼舎主人が「仔細を詳細に見るに、守国の筆法が禽獣の部の描写によって歴然とする。けれども草木の部などは、師より遥かに円熟しており、筆意にこそ狩野派の風を留めるも構図・形態などは全く別の写生から出たもので、守国を凌駕するどころか非凡なるこそ古今に例がない」と絶賛している。「女筆芦間鶴」「絵本様殿罵」などがある。

 

橘岷江

画家、縫箔師。本名は橘正敬といい、玉樹軒と号した。最初、京阪に住し西川祐信の画風を受けたが、後に江戸に住し、鈴木春信風の美人画を描いた。橘保国の門人。宝暦年間(1751~1764)に活躍した。浮世絵に堪能で、特に擦り込み彩色法を工夫し人々に賞賛された。著作に「職人部類」がある。

 

橘守行(1750~1804)

画家。寛延3年(1750年)大阪生まれ。橘保国の門下。大阪島之内に居住し、よく師風を継いだ。「浪華人名録」に三休橋古柳斎として記録がある。文化元年(1804年)2月54歳で没した。墓は善龍寺(大阪天王寺区)にある。

 

加藤枝直(橘枝直)(1692~1785)
賀茂真淵の門人にして、江戸町奉行の与力。幼名を為直、通称は又兵衛、芳宜園と号す。元禄5年(1692年)伊勢国生まれ。江戸で、与力となりて、町奉行大岡忠相に属し72歳で与力を辞した。歌を詠じ、文に優れた国学者。著書には『新撰梅曲』『東歌』などがある。細見絵図では茅場町に居。天明5年(1785年)8月10日歿す。墓所は本所回向院。

 

加藤千蔭(橘千蔭)(1735~1808)

江戸中期の歌人・国学者・能書家。橘枝直の三男で、9歳のときから父に習って歌を詠み始め、10歳のときに賀茂真淵の門に入り、以後、26年間師事した。歌人として優れており、同門の村田春海とともに、古今・新古今風の優麗典雅な歌を詠み、世に江戸流と称され、寛政元年(1789年)、55歳のときに「万葉集略解」の著述に着手し、十余年を経て完成させた。書においても流麗な仮名を得意とし、千蔭流と称され、多くに人がその書風を学んだ。回向院にある墓石の字は、生前自書して寺僧に渡しておいたものと言われている。文化5年(1808年)9月2日没す。

橘寿庵(橘晋名)

生没年未詳。江戸中期の漢学者。大阪の人。儒を以って業とし、詩文を能くした。著作に「塵史」「徂徠文集註」「読孟」「文例」「孟子千二百条紫朱辨」「蘿崖集」がある。

 

橘常樹(1704~1762)

江戸中期の歌人。最初、長谷川幸助といい、後に淡輪造酒と改めた。寶永元年(1704年)土佐で生まれる。長谷川信明の男。江戸にでて下野壬生藩主鳥居伊賀守忠意に仕えた。初め歌学を鴛氷申也に学び、後に岡部真淵の門下となる。著書に「古今集仰古解」があるが盗難にあい現存していない。寶暦12年(1762年)11月19日逝去。

 

橘實副

江戸中期の狂歌師。通称細井八郎治。初号を草屋師鯵といった。江戸京橋弥左衛門町に住み、算木有政の弟と称し、橘洲に従ってから、その師の初号をついで橘實副改めた。文化元年(1804年)11月歿す。

 

橘石峰(橘道一)

生没年未詳。江戸後期の絵師。著作に天明8年(1788年)刊行の「唐詩選画本」がある。

 

橘尚賢(橘冠峰)(1724~1794)

享保9年(1724年)生まれ、寛政6年(1794年)3月14日没。父は医師東船即。本姓、東(とう)氏5世東義胤。故あって母姓橘を名乗る。讃岐高松藩医。幼科の専門で麻疹・梅毒治療の書を執筆した。著作は「黴瘡証治秘鑑」「麻疹精要方」がある。子は橘尚貞(橘半酔)で高松藩医を引き継ぐ。

 

橘元周(橘隆庵)

幕末の医者・幕臣。享保13年(1728年)生まれ。吉田郷美(梅庵)の長男。幕府医官橘元孝の養子。子は元春。代々隆庵と称す。延享3年(1746年)家督を相続、寄合となる。宝暦3年(1753年)法眼、明和6年(1769年)奥医、天明3年(1783年)法印。同8年に著書「脚気説」を将軍に献上する。著作はほかに、「字母源流諺解」「診腹要覧」「腹心伝」がある。

参考系図     橘元孝 ─ 元周 ─ 元春

 

橘貞風

江戸時代の狂歌師。別号は夷曲庵、風斎。江戸市ヶ谷に住む。天明時代、江戸別派の狂歌を興し、その社中を二葉連という。寛政12年(1800年)12月没す。著書に「狂歌二葉草」がある。

 

橘崑崙(橘茂世)

生没年未詳。江戸後期の作家。越後三条に生まれ、詩と書画を能くした。著作に、「海府七里灘記」「飛呂非加幾」「北越奇談」がある。「北越奇談」の挿絵は、崑崙の下絵を葛飾北斎が描いた。また、亀田鵬斎と交友があった。

橘南谿像(久居市図書館蔵)
橘南谿像(久居市図書館蔵)

橘南谿(1753~1805)
医家。宝暦3年(1753年)伊勢国久居藩士宮川保永の五男として生まれる。本名は春暉。京に出て医学を志したが貧乏で師に就けず、独学で古医方を学び、特に傷寒論に通じた。安永8年(1779年)頃大阪で開業し、京町堀にいた小石元俊と知り合う。天明3年(1783年)伏見平戸で処刑者平次郎の解体の機会を得て、総指揮を小石元俊に依頼、画家吉村蘭洲に助力を求め「平次郎解剖図巻」を作成する。また南谿は広く旅行し、「東遊記」「西遊記」を刊行、その行動範囲はほぼ全国に及んでいる。長崎で吉雄耕牛の世話で顕微鏡・望遠鏡を知り、貝塚の岩橋善兵衛らと天体観測の会を催している。文化2年(1805年)4月京都で没す。

橘元景(1776~1847)

江戸中期の医家。安永5年(1776年)阿波板野郡に生まれる。京都の小林順堂に就いて医を学び、橘南谿に従学しその高弟となり、後に橘南谿の娘を娶る。帰郷し医業を創める。治療に精通し、公益心に富み、蜂須賀侯から侍医の格式を許される。弘化4年(1847年)11月10日歿す。著作に「養生小語」がある。

 

橘維嶽

江戸中期の漢学者。生没年未詳。大阪北平野町に住し。著作に安永3年(1774年)に刊行された「寄言百人一首」がある。

橘峻江(橘正盈)

生年未詳。江戸後期の書家。号は臥竜斎。備州の人。京都で書法を学び、上州藤岡・高崎で教授した。和漢仏典に通じていた。文政7年(1824年)没す。著作に「御家季寄文章」「御家青陽帖」がある。

 

橘順福(1770~1848)

江戸時代の人。非参議・梅宮神社神主。明和7年(1770年)生まれ。天保14年(1843年)従三位に叙される。嘉永元年(1848年)1月5日没。

 

橘孝家

生年未詳。江戸時代後期の盛岡藩御抱鐔師。三代続く。嘉永4年(1851年)に盛岡藩より苗字帯刀を許される。岩手県立博物館に作品がある。

 

橘泰

生没年未詳。江戸後期の国学者、書家。京都油小路二条下ルで書家を営む。国学を荒木田久老に学び、宇治五十槻にも従学した。篆刻を能くし、著作に「秋間戯鉄」「香山印譜」などがある。

橘守部(1781~1849)

江戸後期の国学者。伊勢国朝明郡小向村生まれ。父は飯田長十郎元親で大庄屋。父が国学者谷川士清の門人であった。守部が12歳の時、一家破産。16歳の時に父と死別し、17歳で江戸に下る。20歳を過ぎて学問を志し、漢学者葛西因是の門を叩いたが、その後清水浜臣に学ぶが、ほぼ独学で国学を修得した。文化6年(1809年)、29歳で武蔵幸手に引っ越し、田村清人の娘と結婚。文政12年(1829年)、49歳で江戸に出て、国語学書「山彦冊子」で名声を挙げ、以後神学・神典研究、万葉集研究、古典注釈、句格論、語学研究に実績を残した。60歳を過ぎて、「稜威道別」十二巻を著わし、本居宣長の学説に反対し、神話の解釈や古典の研究に独自の説を立て、平田篤胤・伴信友・香川景樹と並んで、天保の四大家と称されるようになる。嘉永2年(1849年)5月24日没。墓は江戸向島の長命寺。著作に「神風問答」「伊勢物語箋」「長歌撰格」「短歌撰格」「文章撰格」「稜威言別」等がある。

参考系図 飯田元親-橘守部-冬照-道守

               |

              東世子 

橘冬照(1814~1863)

国学者。橘守部の男。文化11年(1814年)武蔵幸手に生まれる。文政11年(1828年)父とともに江戸に移り、浅草に住し、後に家業を継いで平戸侯松浦家の扶持を受ける。制度の学に精通し、また南朝の歴史を究め、勤王の志が強かった。妻は橘東世子。著書に「職原抄講記」「淡海一露」「土佐日記輻註」などがある。文久3年(1863年)6月29日病没。

 

橘東世子(1806~1882)

幕末・明治初期の歌人。国学者橘守部の子冬照の妻。幼児から守部について国学、和歌を学び、書も能くした。夫亡きあとも家業の歌学に専念。明治9年(1876年)から7年をかけて、各地の歌人の歌を集め「明治歌集」を選した。

 

橘道守(1852~1902)

明治初期の歌人。吉田安平の男。橘冬照の養子。嘉永5年(1852年)桐生に生まれる。養父橘冬照の家業を継ぎ、椎本吟社を創設し橘守部の遺著を上梓、また養母橘東世子の撰した「明治歌集」を刊行。著書には「明治千人一首」「詠進歌集」「橘道守歌集」があり、「明治歌林」と称する雑誌を発行した。明治35年(1902年)4月21日歿す。

 

橘杜俊(金子杜俊)

江戸後期の国学者。享和2年(1802年)生まれ。石見邑智郡矢上郷出身。長門萩明倫館に学び、藩主の殊遇を受け、萩椿八幡宮祠官を務めた。のち帰郷し自適の生活を送る。明治10年(1877年)11月26日没す。著作には「石見海曾古廼伊久里」がある。

 

橘定栄

江戸時代の人。非参議・梅宮神社神主。文化10年(1813年)生まれ。慶応元年(1865年)従三位に叙される。

 

橘義天(1815~1875)

幕末明治時代の公益家。僧侶。文化12年出雲武部村理左衛門の男。10歳の時、得度し13歳にして松江永泉寺の釋天鱗の仏弟子となる。天保8年(1837年)安来の徳應寺見成の副法となった。温厚で慈悲心に富み、仏学のほか漢学、国学の造詣も深かった。公共事業や時弊矯正に務め、特に「捨子教誡の謡」は有名であった。松山藩主より度々篤行を賞されたが、明治8年(1875年)4月11日歿す。

 

橘成章(林成章)

生年未詳。江戸後期の画家。号は耕雲。石見出身で18歳で京都に出て横山清暉に絵を学び、宗像神社の神職となった。後に帰郷するが数年で京都に戻り、明治13年(1880年)歿した。著作に「口中図解」がある。

 

橘正以(1820~1880)

文政3年(1820年)紀州で生まれる。世古治良左衛門の次男。紀州藩30石田丸預同心橘為右衛門の養子。内蔵介。柳剛流の直井秀堅へ入門。その後備前の林録之助に学ぶ。天保15年(1844年)、松平忠敏の江戸道場で助教授を努める。その後田丸へ帰って、道場を開く。安政5年(1858年)、門弟9人とともに14代将軍徳川家茂の御前で剣技を披露した。明治13年(1880年)61歳で没す。

橘耕斎(1820~1885)
幕末明治期の洋学者。文政3年(1820年)生まれ。遠江国掛川藩士であったが、脱藩して伊豆戸田村の蓮華寺に寄寓。ロシア使節プーチャーチン一行が戸田村に滞在中、中国語通訳官ゴシケビィチと知り合い、随行して安政2年(1855年)ロシアへ渡航。ゴシケビィチと共編の日露辞典「和魯通言比考」を刊行。ロシア正教の洗礼を受け結婚。ヤマトフと称した。ロシア外務省アジア局通訳官、ペテルブルグ大学東洋語学部日本語教師を勤務。明治7年(1874年)帰国し、増田甲斎と改名し仏門に入る。明治18年(1885年)5月31日没す。墓は源昌寺(東京都港区)。

橘千春(1824~1862)
文政7年(1824年)大阪生まれ。安達氏に嫁ぎ、育児・家事の傍ら独学で経史を修め、広く和漢の書物を読んだ。和歌に巧みでかつて「宝玉」を詠んだ「大城にも代ふべきものか世にあはで只に涙の玉となりゆく」は評判高く、教えを乞う者が多かった。琵琶の演奏にも長じる。文久2年(1862年)5月38歳で没した。墓は南浜墓地(大阪市北区豊崎)にある。墓には弟の松生正名の碑文がつく。

 

橘雲峨(1828~1885)

文政11年(1828年)生まれ。『明治画家略伝』によれば大岡雲峰及び葛飾北斎の門人で名は新平、麹町区中六番町三番地に住み、第一共進会で褒状を得たとある。また『浮世絵師伝』は作画期を嘉永から明治とするが、現在知られる作は明治12年(1879年)刊行の『雑筆画式』と、明治13年刊行の『花鳥画譜』の2冊のみである。享年58。『雑筆画式』は明治27年(1894年)にも『万象画式』と書名を変えて再版されており、その奥付には「橘雲峨画」の署名と「仙鶴堂」の方印がある。『雑筆画式』の奥付には「画作并出版人 東京府平民 富田由次郎 四谷区南伊賀町十八番地」とあり、『花鳥画譜』にもこれとほぼ同じ奥付がある。この「富田由次郎」が雲峨と同一人かともいわれているが定かではない。

橘旭翁(1848~1919)

明治大正期の鶴崎賢定、吉田竹子と並ぶ筑前琵琶の創始者。本名橘智定。先祖は慶長の頃浮田中納言の臣であった橘定美という。安永10年(1781年)5月京都粟田口清蓮院宵に請い、盲僧都 を再興した、筑前琵琶中興の祖といわれる橘真定 は、橘智定の五代前に当たる。博多の晴眼の盲僧として荒神琵琶に携わっていた。40歳のとき鹿児島にわたり、薩摩琵琶を習い、帰郷後、筑前盲僧琵琶を基本に独自に楽器を改作。新様式の創作を試みる。50歳頃から東京に居を構え、筑前琵琶の全国普及に貢献した。主な作品に「石童丸」「扇の的」「小栗須」「菅公」等がある。

http://www.biwatachibana.or.jp/

参考系図 橘玄清―(省略)―真立院―真定―玅福―智定―真定―旭翁┬一定 ―定友―定利

                                 └ 女子        

                                                                                    │        

                                   旭宗―宗樹 

橘一定(1874~1945)

2代目旭翁。父は初代橘旭翁。幼少から父について琵琶を学び、父の没後に2代目旭翁を襲名。妹婿の旭宗と協力して五弦琵琶を考案、その普及に尽力した。昭和15年引退して、実子の定友に宗家を譲った。代表作に「橘中佐」「銀杏の樹蔭」「高松城」「五条橋」など。

 

橘定友(1902~1971)

3代目旭翁。父は2代目旭翁。幼少から父の2代目旭翁について、筑前琵琶を学ぶ。昭和15年、父の引退に伴い、3代目を襲名。舞踊曲、他楽器との合奏曲などを発表、琵琶楽の普及に努めた。主要作品に「綱館」「舞曲ト短調」など。

 

橘旭宗(1892~1967) 

筑前琵琶演奏家,作曲家。日本橘会の宗家。初名吉村六郎。本名橘知定。橘流宗家 1世橘旭翁の養子となり,幼少より筑前琵琶を学ぶ。1世創案の五弦琵琶を 2世橘旭翁とともに完成させたり,また弾法を統一して譜本に著すなどして筑前琵琶の基盤を築くのに貢献した。特に弾法に秀でていた。1世旭翁没後,1920年旭会から分離し,日本橘会を樹立した。時代の流れにそい歌謡曲風の新曲をつくって普及をはかろうとする 3世橘旭翁と折り合わず,いわば古格を守りつつ新しい節を織り込んだ曲づくりをした。『安宅』(佐藤菊南作詞),『舟弁慶』(葛生桂雨作詞),『茨木』(大坪草二郎作詞)などの作品がある。1967年没後に橘宗樹が 2世旭宗を襲名。門下より山元旭錦,1995年琵琶楽界で初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された山崎旭萃が出た。

橘常葉(1854~1927)

軍神橘中佐の実兄。安政元年(1854年)肥前国南高来郡千々石村に生まれる。父は城代季憐、通称甚右衛門。幼名は重次郎。橘家は享禄2年(1529年)和田義澄(楠木一族で和田正氏の後裔)が肥前国島原領千々石村へ移り、島原新城築城の功績に対し城代家老を賜い姓を和田から城代に換えていたのを、明治5年(1872年)17歳の時、城代重次郎から本姓橘に復し、名を常葉と改めた。明治11年(1878年)村助役となり、郷土振興に尽くす。

 

橘周太(1865~1904)

慶応元年(1865年)9月15日、橘家12代城代季憐の次男として肥前国南高来郡千々石村に生まれる。明治4年(1871年)7歳で叔父本多玄谷の寺子屋に入り漢文を学ぶ。明治14年(1881年)陸軍士官学校試験に合格し陸軍幼年生徒となる。明治20年(1887年)陸軍士官学校歩兵科卒業後陸軍歩兵少尉に任命され、青森歩兵第五連隊小隊長を皮切りに歩兵中尉、歩兵大尉、台湾守備隊を歴任。明治30年(1897年)戸山学校(明治7年創設された日本最古の術科教育学校)教官兼教育大隊中隊長、明治35年(1902年)歩兵少佐となり名古屋陸軍地方幼年学校長。明治37年(1904年)日露戦争勃発により、歩兵第三十四連隊大隊長として、8月30日午前2時30分宿営地出発。首山堡南方高地山頂めざし突撃を繰り返し、午前5時30分遼陽街道の峠から300~400メートルの高地山頂に日章旗が掲げられたが、敵の逆襲の中、銃弾にたおれる。8月31日午後6時30分頃、40歳で戦死。戦死により陸軍歩兵中佐、正六位、勲四等攻四級金鵄勲章、旭日小綬章を授けられた。軍神として称えられる。 

橘糸重(1873~1904)

音楽家、敎育者、歌人。 明治6年(1873年)、三重県生まれ。生後まもなく父を亡くし、1874年に母、姉とともに上京。東京音楽学校(現・東京芸術大学)でピアノなどを学び、1892年に卒業。卒業後は研究科に進む。1896年より同校助教授となった。1901年に教授昇進。1928年頃に教授を辞した。1937年より帝国芸術院会員。ラファエル・フォン・ケーベルを音楽上のみならず宗教上の師とした。歌人としては竹柏会に入り、佐佐木信綱に師事した。瀧廉太郎の歌曲「水のゆくへ」は、竹柏会発行の「竹柏園集」(第一編)に糸重が発表した新体詩に作曲されたものである。瀧廉太郎、高木東六は東京音楽学校の教え子。

橘樸(1881~1945)

太平洋戦争前の中国問題ジャーナリスト兼中国研究者。明治14年(1881年)大分県臼杵市生まれ。同38年「北海タイムス」に入社。翌年大連に渡って「遼東新報」の記者となり、大正2年(1913年)北京へ移住し、「日華公論」主筆、その後「京津日日新聞」主筆、「済南日報」主幹を務めた。昭和6年(1931年)には「満州評論」を創刊し廃刊まで中軸として影響力を振るった。満州事変勃発後それまでの中国国民革命支持の立場から、関東軍の行動を支持する立場に方向転換したが、農村自治を重視する考えは関東軍の方針とは完全には一致しなかった。その後の日中関係にも批判をもち「東洋的共同体理論」を展開。昭和20年(1945年)10月25日奉天で死去。著書に「支那社会研究」「支那思想研究」がある。

 

橘純一(1884~1954)

東京市京橋区木挽町生まれ。児島喜三郎の五男。橘守部直系の家へ養子に入る。第二高等学校、1909年東京帝国大学文学部国文科卒。同助手、13年府立第五中学校教諭、21年『橘守部全集』を編集刊行。25年退職、各学校講師をしながら著述生活。36年国語解釈学会を創立、雑誌『国語解釈』を創刊。41年陸軍士官学校教官、50年跡見学園短期大学教授。没後、二松学舎大学名誉教授の称号を追贈。1938年、小学校教科書に掲載された『源氏物語』について、不敬の書であるから削除すべしと主張した。

 

橘瑞超(1890~1968)

 

日本の僧侶・探検家。愛知県名古屋市出身。浄土真宗本願寺派22世大谷光瑞の弟子で、大谷探検隊の第2次・第3次西域探検に参加し、楼蘭・敦煌遺跡を調査した。師の大谷光瑞から一字を受け、法名を瑞超と名乗る。18歳の時、光瑞が展開する中央アジア調査隊の一員として、第2次大谷探検隊に参加。1908年から1909年に至るこの探検では、野村栄三郎らとともに主に天山山脈北路の仏教遺跡を巡る。外モンゴル、グチェン、トルファンなどで発掘調査を実施した後、1909年に楼蘭の遺跡に史上4番目に足を踏み入れ、前涼の西域長吏・李柏による書稿の下書き(『李柏文書』)を発見。これによってロプ・ノールの移動の年代推測に貢献することとなった。20歳の時、吉川小一郎とともに第3次大谷探検隊のメンバーに選ばれ、ロンドンを出発した後シベリア経由で中央アジアに向かう。一時音信不通となるも、1912年、チェルチェンを起点にクチャ・カシュガル・ケリヤ・コータンなどを巡るタクラマカン砂漠の横断旅行を、世界で初めて成功させる。コータンより崑崙山脈を越えてチベット高原に入ったが、従者の逃亡によってここでの発掘調査は断念し、東進して敦煌に至る。そこで莫高窟を守っていた王道士に接触し、かつてオーレル・スタインやポール・ペリオが買いもらした若干の古文書類を購入。これらは後に『敦煌文書』と呼ばれたもので、中央アジア仏教史の解明に資する幾許かの古写経類を含んでいた。吉川に後事を託した後、1912年に帰国。帰国後は故郷の名古屋に戻り、ウイグル文字の研究に没頭しその解読を行った。著書に『中亜探検』がある。1963年に紫綬褒章、1966年に勲三等瑞宝章を受章。1968年11月4日、名古屋市の興善寺において死去。

橘孝三郎(1893~1974)

昭和期の農本ファシズムの指導者。明治26年(1893年)水戸市生まれ。橘市五郎の三男。大正元年(1912年)9月に一高文乙へ入学するが、一高生が抱く功利主義・立身出世主義に反発して自分の住むべきは百姓生活にありと認識し、同4年2月に中退する。12月には水戸市で農場経営を開始。昭和2年(1927年)から講演活動を開始し、同4年に大地主義・兄弟主義・勤労主義を三大原則とする「愛郷会」を設立。その後右翼革命運動へ参与を決意。「愛郷塾」を開き、井上日召と同志となり海軍青年将校と交流、「日本村治派同盟」の執行委員となるも、真の農本主義を標榜し脱退、「農村聯盟」の結成を企て、同7年「農本聯盟」を創刊するが三派に分裂する。最過激派に属し海軍青年将校とクーデターを計画し、5.15事件の際、農民決死隊により東京府下六変電所を襲撃、指名手配される。7月24日ハルピン憲兵隊に自首。無期懲役の判決を受ける。同15年に減刑により出獄、同29年に大川周明らと「救国国民総連合」を結成するが、内部分裂に嫌気して著述に専念する。昭和49年(1974年)3月30日没す。著書に「農村学前篇」「土の日本」などがある。 

橘外男(1894~1959)

作家。明治27年(1894年)生まれ。 石川県出身。第7回直木賞受賞。その他の受賞歴は文藝春秋実話募集入選(昭和11年)「酒場ルーレット紛擾記」。処女作 は「太陽の沈みゆく時」以後「白耳義の地図」「博士デ・ドウニヨールの『診断記録』」「恋と砲弾」「ナリン 殿下への 回想」など、探偵小説、怪奇小説、幻想小説、ユーモア小説など、幅広い作風の持ち主。若い頃には入獄経験があるほど波乱の生き方をしたという。昭和34年(1959年)7月9日没。

 

櫻井鐐三

明治30年(1897年)1月15日生まれ。日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍士官学校30期生。愛知県出身。父櫻井武愷宮之亟、母三保の三男として生まれる。櫻井家は元々橘氏で尾張徳川家に仕える。兄の櫻井清香は画家で、源氏物語絵巻の昭和復元模写を作成したことで有名。

参考系図 橘務右衛門-橘貞吉-櫻井佐武-政親-茂雅-亜孝-武愷喜市-武愷宮之亟-鐐三

 

橘正秀

明治32年(1899年)奥州陸前国(宮城県)に生まれる。本名青山永十郎。青山永造青龍斎橘光秀の男。昭和に活躍した刀匠。東北帝大金属材料料研究所卒、東北帝大日本刀研究部指導員嘱託、本多光太郎博士と共に金研刀(耐寒刀)制作完成。

 

橘覚勝(1900~1978)

心理学者、「老年学」の先駆者。明治33年(1900年)生まれ。大阪市出身。東京帝国大学文学部卒業。終戦後、大阪大学教授。日本社会の老齢化をいち早く予測し、老人福祉・医療制度改革、老人社会環境と生き甲斐などに優れた提言を行った。「日本老年学会」を組織化し育成と体系化に努めた。著書に「老年学」「手の心理」「老いの研究」など。昭和53年(1978年)卒す。

橘右近(1903~1995)

橘流寄席文字家元。本名椙田兼吉。明治36年(1903年)東京芝浜松町生まれ。大正10年(1921年)18歳で三代目柳家つばめに入門、柳家龍馬の名で落語家になるが、二代目ビラ辰のところへ出入りする機会に恵まれ、その独自の書体に魅せられて、ビラ字の習得に励み、昭和24年(1949年)、ビラ字の伝統を残すべく、噺家をやめて書家専業となる。以来工夫、研鑽を重ね、独自の文字、寄席文字を完成させる。昭和40年(1965年)11月、桂文楽の奨めにより橘流寄席文字家元となる。平成7年(1995年)没。

橘右京
寄席文字書家。東京都小石川出身。幼少の頃、漢学者林春海に手ほどきをうける。神奈川県立商工高の教諭を務める一方、落語会をひらきめくりも書く。寄席文字の魅力に取り付かれ、昭和38年(1963年)35年間の教員生活に終止符を打ち、橘流家元・橘右近に入門。わずか1年で橘右京の名を許される。

 

橘左近

寄席文字書家。昭和9年(1934年)生まれ。長野県出身。本名登内明人。寄席文字に興味を持ち、昭和36年(1961年)橘流家元・橘右近に弟子入り。昭和39年橘左近の名を許され、以後新宿末広亭の看板書き手になる。著書に「東都噺家系図」「古今東西落語家事典」などがある。

 

橘秋子(1907~1971)

明治40年栃木県宇都宮市に生まれる。日本バレエの母エリアナ・パブロバの舞台に感激し昭和5年(1930年)両親の反対を押し切って上京、パブロバの門下生となる。昭和8年橘バレエ研究所(現在の牧阿佐美バレヱ団)を開設。バレエ草創期の困難な状況の中で、諸外国より著名なバレリーナを呼ぴバレエの名作を次々と発表。バレエ芸術振興に奔走し、昭和46年5月に病死。門下生には牧阿佐美、大原永子、森下洋子、川口ゆり子などがでている。

 

橘清治郎(1850~1928)

明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・吉田。越中国礪波郡中田町(現高岡市)で吉田要蔵の二男として生まれる。射水郡守山村(現高岡市)の米穀商・砂紋四郎家に住み込みで奉公し、同村の農業・安右衛門の養子となり、文久2年3月(1862年3-4月)家督を相続。1872年(明治5年)橘姓で戸籍の届け出を行った。米の仲買人として成功して一代で財産を築いた。越中物産取締役、北越人造肥料取締役、高岡銀行取締役、高田共立銀行監査役なども務めた。1889年(明治22年)守山村会議員に選出され長らく在任し、同村学務委員なども務めた。1914年(大正3年)補欠選挙で立憲政友会系として貴族院多額納税者議員に選出され、同年11月20日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。二男 橘林太郎、孫 橘直治。

 

橘直治(1908~1997)
元衆議院議員。富山県出身。実業家橘林太郎の二男として生まれる。海運及び港湾運送業の経営を通じて伏木港の発展と対岸貿易の振興に貢献。

 

橘康太郎(1934~2012)
元衆議院議員。伏木海陸運送会長。富山県高岡市出身。元衆議院議員橘直治の男。昭和9年(1934年)生まれ。昭和52年(1977年)富山県議を1期務め同55年伏木海陸運送社長に就任。平成5年(1993年)衆議院議員に当選。三塚派を経て森派。同7年伏木海陸運送会長に就任。

 

橘慶一郎

高岡市長。昭和36年生まれ。元衆議院議員橘康太郎の長男。平成16年から地元である高岡市長就任。自由民主党所属の衆議院議員(5期)、自由民主党国会対策副委員長、自由民主党総務部会長。復興副大臣(第3次安倍第2次改造内閣、第4次安倍改造内閣)、総務大臣政務官(第2次安倍内閣)、衆議院文部科学委員長、富山県高岡市長(2期)等を務めた。

 

橘忠衛(1909~1975 

英文学者。高知県香美郡に生まれる。高知高等学校を経て、1931年東北帝国大学英文科卒業、外務省嘱託、神戸大学助教授、明治大学教授を歴任。シェイクスピア、ゲーテを研究した。

 

英雄(1912~1983)

実業家。富山県出身。1935年、読売新聞社入社。1947年に経済部長、1952年に労務厚生本部長、1963年に同社取締役、1971年に同社専務取締役を歴任した。1979年に讀賣テレビ放送へ移籍し、代表取締役副社長に就任。1980年5月に急死した­八反田角一郎に代わって、代表取締役社長に就任。この間に読売新聞大阪本社、読売ゴルフ、読売文化センター、読売連合広告社、広島テレビ放送、日本海テレビジョン放送の取締役、京阪神ケーブルビジョン、日本民間放送連盟、関西経営者協会、関西経済連合会の理事を務めた。1983年に讀賣テレビ放送社長の座を青山行雄に譲り、最高顧問に退く。1983年10月7日午前6時23分、肺炎のため東京都大田区の蒲田総合病院で死亡(享年70歳)。

 

橘博(1922~2005)
大阪市立大学名誉教授。大阪府豊中市出身。大正11年(1922年)生まれ。平成10年(1998年)勲三等瑞宝章。著書に「現代生産管理論」「工場経営と作業分析」「現代の企業経営」などがある。

 

橘敏也

医師。聖路加国際病院名誉医長。昭和22年(1947年)労働科学研究所を経て聖路加国際病院に勤務。著書に「病態生理」「常用薬の正しい使い方」「看護のための臨床薬理」「ピルブック-薬の事典」等がある。

 

橘弦一郎
作家。昭和4年(1929年)生まれ。本名橘正典。兵庫県加古川出身。著書に「異城からの旅人-川端康成論」「仄暗い部屋」「愛・空間・道行」共著に「高橋和己論」等がある。

 

礼吉
民俗学者。昭和6年(1931年)生まれ。白山麓において展開された農耕文化の全貌や、白山麓最奥の豪雪地における山の民の詳細な生態等の研究・著述がある。1953年金沢大学教育学部卒業。金沢市立工業高等学校教諭・石川県立歴史博物館副館長などを務め、退職後は加能民俗の会名誉会長、石川県立歴史博物館運営審議会審議員、白山自然保護研究会会員。1995年に「白山麓の焼畑農耕―その民俗学的生態誌」で第34回柳田賞受賞。

 

橘豊
帝京大学文学部教授。富山県出身。昭和7年(1932年)生まれ。専門は国語学。著書に「文章体の研究」「書簡作法の研究」などがある。

 

祐典(1932~2010)

本名橘裕彦、日本の映画監督。『どぶ川学級』や『にんげんをかえせ』、『東京大空襲 ガラスのうさぎ』をはじめ、反戦・労働運動を軸に社会派作品を手掛けたことで知られる。東京市牛込の出版業を営む家庭に生まれる。幼少時より映画好きが高じ、東京都立新宿高等学校を経て今井正、山本薩夫両監督の下に助監督として入り、以後独立系プロダクションを転々とする。1966年には青銅プロ設立に加わる。1972年の監督作品『どぶ川学級』でモスクワ映画祭文部大臣賞を受賞。1979年の国際児童年記念映画『東京大空襲 ガラスのうさぎ』でインド児童映画祭金の象賞、1982年の原爆被害記録映画『にんげんをかえせ』では1984年度のアメリカン・フィルムフェスティバルブルーリボン賞をそれぞれ受賞。1985年には沖縄戦開戦40周年記念映画『戦場ぬ童』で教育映画祭優秀賞。 

 

立花隆

ノンフィクション作家。本名橘隆志。昭和15年(1940年)生まれ。茨城県水戸市出身。第36回文芸春秋読者賞「特集-田中角栄研究」第5回新評賞「田中角栄研究-その金脈と人脈」第1回講談社ノンフィクション賞「日本共産党の研究」第31回菊池寛賞「宇宙からの帰還」第45回文芸春秋読者賞「田中角栄と私の9年間」新潮学芸賞「精神と物質」第2回大川出版賞「電脳進化論-ギガ・テラ・ペタ」第1回司馬遼太郎賞、第49回放送文化賞受賞。昭和49年(1974年)に発表した「田中角栄研究」で厖大な資料を駆使し田中金権政治の実態を暴き、同年11月の首相退陣の引き金となった。脳死、インターネット、エコロジー、進化学など別分野へのアプローチを試みニュージャーナリズムの旗手となる。著作にはこのほか「農協 巨大な挑戦」「中革VS革マル」「文明の逆説」「サル学の現在」「脳を究める」「環境ホルモン入門」等

 

橘芳慧
日本舞踊家。橘流家元3代目、創作舞踊展代表。東京都浅草出身。本名篠崎良子。昭和16年(1941年)生まれ。昭和47年芸術選奨文部大臣新人賞、昭和50年創作舞踊賞、平成元年花柳寿応新人賞、第27回舞踊批評家協会賞、平成10年芸術祭賞受賞。初代家元橘抱舟を父に2代目橘裕代を母に育ち、昭和35年(1960年)橘芳慧を名乗り、歌舞伎舞踊を中心に古典舞踊の修行に励む一方、日本民族舞踊団の創設に参加。代表作に「爪王」などがある。

 

橘昇
競馬研究家、夢馬券研究会主宰。昭和16年(1941年)生まれ。千葉県出身。若い時に競馬関連の業務につき、平成5年(1993年)独立し、夢馬券研究会を主宰する。著書に「家を建てた!タチバナ式馬券術」がある。

 

橘昌信
別府大学文学部文化財学科教授。昭和16年(1941年)生まれ。福岡県北九州市出身。専門は考古学。著書に「日本の古代遺跡/大分」共著に「宇佐市史」「大分県史(先史編)」「大分市史」などがある。

 

橘好硯
国学院大学文学部教授。昭和17年(1942年)生まれ。専門はドイツ語。石川県金沢市出身。共著に「ドイツ言語学辞典」訳書に「図説ドイツ語の歴史」共訳に「ドイツ18世紀の文化と社会」などがある。

 

橘英弥
和歌山大学教育学部教授。昭和17年(1942年)生まれ。専門は障害児教育学・心理学。共著に「はじめて学ぶ行動学」、共編著に「心理の仕事」などがある。

 

橘秀樹
東京大学生産技術研究所教授。昭和18年(1943年)生まれ。東京都出身。平成2年(1990年)日本建築学会賞受賞。専門は環境工学・応用音響工学。

 

橘斌
甲冑師。昭和18年(1943年)生まれ。祖父の代から続く甲冑師の家に生まれ、18歳から父のもとで修行する。父亡き後、22歳でたちばな甲冑工房を引き継ぎ、一子相伝の技を守り続け日本甲冑武具研究保存会の指定甲冑師として全て手作業で制作を続ける。福島県相馬市在住。

 

橘雅子
翻訳家。兵庫県神戸市出身。昭和19年(1944年)生まれ。本名橘政子。「週刊読書人」の編集を経て昭和60年(1985年)から翻訳業に。50歳で英国留学しその体験を「女50歳からのわたし探しのロンドン留学」にまとめる。訳書に「十年目の対決」「リトル・サイゴンの弾痕」「黒い人形遣い」共訳に「ラブレターに御用心」「ブロードウェイの探偵犬」「ハリー・ライムの回想」などがある。

 

橘一也
栗山ハロー学園理事長。香川県から北海道へ入植した寺の三代目住職。昭和61年(1986年)頃から弟が勤める札幌の知的障害者通所授産施設の園生を引受ける。昭和60年(1985年)坂本九が飛行機事故で亡くなる直前取材で栗山町を訪問、7回忌を機に地域有志で「坂本九思い出記念館」をオープン。その運営と併せてハロー学園を設立。理事長に就任。

 

橘謙蔵
王様の蔵オーナー。昭和24年(1949年)生まれ。熊本県出身。日本航空に入社し国際線客室乗務員として勤務。昭和50年(1975年)スチュワーデス養成英語塾スパルタを経営。かたわらフリーの添乗員・通訳として活躍。後に美術館「王様の蔵」のオーナーになる。訳書に「悲しみのマフィア」がある。

 

橘善男
小説家。昭和24年(1949年)生まれ。北海道静内郡出身。日教組文学賞、優駿エッセイ賞、第3回全労連文学賞、やまなし文学賞、さきがけ文学賞受賞。神奈川県立相武台高から高校教師として転勤し小田原城東高校教師に。著書に「輓馬祭」共著に「現代文」などがある。

 

橘和子

女優。昭和25年(1950年)生まれ。北海道札幌市出身。中学生の時、家族とともに東京都調布市にに移住。姉の影響で早くから女優を志した。1966年1月、雑誌『女学生の友』主催の「ミス・ジュニア・フラワーコンテスト」でグランプリとなり、ファッションモデルとして活動。同年6月、日活の渡哲也の相手役募集のオーディションに合格し、11月公開の渡主演の映画『続東京流れ者 海は真っ赤な恋の色』で女優デビュー。渡とは以降も、『嵐を呼ぶ男』『星よ嘆くな 勝利の男』『錆びたペンダント』などの作品で共演している。また、テレビドラマ『三姉妹』『愛妻くんこんばんは』などにも出演。1969年12月9日、プロ野球読売ジャイアンツ投手の高橋一三と結婚して引退

 

橘和夫
東京大学大学院理学系研究科教授。天然物有機化学専門。東京都出身。昭和24年(1949年)生まれ。海洋バイオテクノロジ研究所清水研究所主任研究員を経て東大教授に就任。訳書に「分取クロマトグラフィーの実際」。

 

橘遵
SP速読学院院長。昭和26年(1951年)生まれ。NHK学園高校社会科講師を経て右脳教育研究所を設立。速読法、記憶法のノウハウを研究し関西における速読指導の第一人者となる平成9年(1997年)にSP速読学院設立。著書に「SP式速読記憶トレーニング教本」などがある。

 

橘婦美子
英語教育・日本語教育者。高校教師、東京学芸大学講師を経て、ラホヤ・カントリー・デー・スクール、サンディエゴ・メサ大学などで日本語教育に携わる。詩集「To the Continent and Back」共著に「650点クリアTOEICテスト」共同執筆に「学研レインボー和英辞典」などがある。

 

橘俊光

造園系公務員。北海道出身。昭和27年(1952年)生まれ。1976年に北海道大学農学部を卒業し、兵庫県庁に入庁した。1983年には建設省都市局公園緑地課緑地対策室に出向した。県庁に戻ったのち、1996年からは都市住宅部(2003年より県土整備部まちづくり局)公園緑地課に勤務する。2010年に県土整備部兼21世紀の森室長となる(2011年より兵庫県園芸・公園協会技術参与を兼ねる)。これらの経歴において一貫して公園緑地・都市緑化行政に携わった。2012年に県土整備部参事兼兵庫県広域防災センター次長・防災公園管理部長を務めた後、2013年より兵庫県園芸・公園協会理事兼国営明石海峡公園管理センター長となる。2016年、第38回日本公園緑地協会北村賞を受賞した。

 

橘由子
フリーライター。岡山県出身。昭和28年(1953年)生まれ。秘書、院内通訳を経て翻訳業に。平成3年(1991年)から子育てに悩み子供に手を上げた経験から、同様な経験を持つ母親を取材し母親の気持ちをまとめた「子供に手を上げたくなるとき」平成4年に出版、反響を呼ぶ。その他著書に「ほんとうにこのままでいいの?-セックスレスと夫婦の関係」「アダルトチルドレン・マザー」「子育てはつらい」などがある。

 

健治
プロ野球選手(投手)。大分県出身。
昭和29年(1954年)生まれ。津久見高では2年の時、1970年の春の選抜に浜浦徹の控え投手としてベンチ入り。2回戦で千葉商に敗れ、登板機会はなかった。同年夏の甲子園予選は浜浦が故障で登板できず、チームは中九州大会決勝に進出するが、大分商の小川清一に抑えられ甲子園出場を逸する。この試合ではリリーフで登板した。翌年はエースとして選抜に連続出場、1回戦で県岐阜商に敗退。同年夏の甲子園県予選では、準決勝で鶴崎工の藤沢哲也と投げ合い、0-2で完封負け。高校同期に岩井隆之がいる。1971年ドラフト3位で近鉄バファローズに入団。本格派の大型右腕として期待されるが伸び悩み、二軍暮らしが長かった。1979年の最終戦ではロッテ・オリオンズに初完封勝利。同年の日本シリーズにもベンチ入りし、第4戦に登板を果たす。1980年には先発陣の一角として8勝をあげ、近鉄のリーグ連続優勝に貢献、同年の日本シリーズでは第6戦にリリーフとして登板した。その後もローテーション投手として活躍。スリークォーターからのスライダー、カーブ、シュートなどを武器にした。1986年限りで現役引退。

 

橘輝子
アートフラワーデザイナー。カサ・フロールたちばな主宰。昭和60年(1985年)全日本花の祭典サンセイ賞、第14回全国花材流通協会リースコンテスト日本フラワーデザイナー協会賞受賞。リボン盆栽本部教授。著書に「盆栽・季節の花たち」「RIBBON BONSAI 盆栽と季節の花々」等。

 

橘柚子
プログラマー。自動車メーカー勤務を経てソフトウェア会社に転じる。著書に「窓を便利にする驚異の魔法」がある。

 

橘京相
フリーライター。法律事務所の調査員から欧文編集者を経てフリーに。著書に「身近に起きるインターネットトラブルとその対策」。

 

橘玲

作家。昭和34年(1959年)生まれ。本名は非公開。早稲田大学第一文学部卒業。元・宝島社の編集者。日本経済新聞で連載を持っていた。海外投資を楽しむ会創設メンバーの一人。2006年「永遠の旅行者」が第19回山本周五郎賞候補となる。デビュー作は経済小説の「マネーロンダリング」。投資や経済に関するフィクション・ノンフィクションの両方を手がける。2010年以降は社会批評や人生論の著作も執筆している。著書に「不愉快なことには理由がある」「バカが多いのには理由(ワケ)がある」「橘玲の中国私論-世界投資見聞録」「言ってはいけない 残酷すぎる真実」などがある。

 

橘清孝
プロテニスプレーヤー。昭和35年(1960年)福島県伊達郡梁川町生まれ。福島市の聖光学院高校入学後に硬式テニスをはじめ、3年時に東北チャンピオンになる。日本大学へ進学後、ユニバ代表に選ばれる。卒業後、ブリヂストン所属のプロ選手としてプレー。昭和62年(1987年)デ杯代表として出場。ふくしま国体優勝。JOP最高位9位(1988年)。

 

橘恵美
ダンサー。劇団四季,劇団東宝現代劇養成所を経て東宝ミュージカルを中心に数々のミュージカル、ショウー、舞踊公演に出演。昭和56年(1981年)に渡米しニューヨーク、ブロードウェイ、アメリカンダンスセンターにてバレエジャズを学ぶ。帰国後自ら出演の傍ら橘恵美ジャズ・ダンス・スタジオを設立、平成4年(1992年)よりスタジオ公演「step by step 」vol,1vol,2vol,3[冬の夜空にダンス・ダンス・ダンス」を発表し意欲的にステージ活動を続け、現在は若手の育成にも努め子供のクラスからも多くのミュージカル出演者を輩出している。日本振付家協会理事、日本ジャズダンス芸術協会会員。

 

橘蓮二

カメラマン・演芸写真家・演芸プロデューサー。昭和36年(1961年)生まれ。埼玉県出身。カメラマンの小野麻早に師事した後、1986年フリーランスとしてカメラマンのキャリアをスタート。1989年に第一回『期待される若手写真家20人展』(パルコ)に選出。1995年から上野鈴本演芸場の楽屋に通い、1996年写真集「おあとがよろしいようで」(ちくま文庫)を発行。人物写真を中心に撮影、寄席演芸写真家として評価を得る。2015年から、落語会のプロデュースも手掛ける。2023年からは、落語協会所属者のプロフィール写真の撮影を横井洋司から引き継いだ。 

 

橘茂
声楽家。神戸フロイデのヴォイストレーナー、ドイツ語発音指導。京都市立芸術大学卒業後、ドイツ・ミュンヘン国立音楽大学に留学、大学院修了。 ヨーロッパ各地で演奏会に出演し、劇場歌手をつとめた後、帰国。テレビ、ラジオのレギュラー、オペラ、コンサート、オラトリオソロやホームコンサートにも多数出演。オペラのレパートリーはフィガロ、ドン・ジョバンニ、レポレッロ、リゴレット、エスカミーリオ、ヴォーダン等があり、その適確な役作りには定評がある。京都音楽家協会賞、日伊声楽コンソルソ金賞、ザルツブルグ国際モーツァルトコンクール第2位入賞(1位なし)、日本シューベルト協会国際歌謡曲コンクール第2位入賞および聴衆特別賞、ギャラクシー奨励賞、兵庫県新進芸術家奨励賞の各賞受賞。 関西二期会会員、日本シューベルト協会同人、神戸女学院大学音楽学部助教授。

 

橘寛基
テレビ番組、広告企画、イベント、web企画などのディレクター。昭和41年(1966年)生まれ。北海道出身。テレビ朝日の名物深夜番組であった「トゥナイト」「トゥナイト2」でディレクターを務め、番組内でゲームのコーナーを立ち上げる。その後、業界を取材し続け人気を確立。平成13年(2001年)、同番組の制作会社を退職、以後フリーとして活動中。

 

橘宣行
彫刻家・鉄鋼造形家。昭和41年(1966年)生まれ。平成5年から劇団・惑星ピスタチオの舞台装置を手掛ける。「キリンアートアワード2000」優秀賞受賞。作品に「イエロースライダー」「宇宙戦艦タチバナ」等がある。大阪府在住。

 

橘秀明
FM845のパーソナリティ。京都市出身。昭和57年(1982年)CMナレーターとして活動を始める。これまで、びわ湖放送ニュースキャスター、KBS京都ラジオカーレポーター、FM愛知DJ、ラジオ大阪報道アナウンサー等を担当。

 

橘洋子

宮城県気仙沼市出身。東京音楽大学声楽専攻オペラコースを首席で卒業。同大学研究科オペラコース修了。声楽を滝沢三重子、ジェラール・スゼー、栗林義信、福沢アクリヴィ、平山恭子の各氏に師事。第46回読売新人演奏会、NHK-FM新人演奏放送出演。二期会オペラスタジオ第24期修了、優秀賞受賞。1975年第6回イタリアコンコルソ入賞、1976年第19回フランス音楽コンクール第3位入賞および大阪日仏協会賞受賞、1977年東京文化会館推薦新進音楽家オーディション合格、1978年日本演奏家連盟推薦新人演奏会オーディション合格、48回日本音楽コンクール入選、1980年第1回日仏声楽コンクール第3位入賞。1981年渡仏、ジェラール・スゼー氏に師事、1992年パリに於いて「ダリウス・ミヨー生誕百周年記念オープニングコンサート」出演。2002年3月銀座王子ホールでのリサイタルは「音楽の友」誌より絶賛された。現在、東京音楽大学、同付属高校講師、二期会会員、二期会ロシア歌曲研究会会員。

 

橘直貴
指揮者。北海道札幌市出身。昭和43年(1968年)生まれ。平成12年(200年)第47回ブザンソン国際指揮者コンクール第2位入賞。その後フランスにてトゥールーズキャピタル国立管弦楽団、東京室内管弦楽団、札幌交響楽団、仙台フィルハーモニー、東京シティフィルハーモニー他に客演。

 

橘いずみ
ミュージシャン。兵庫県神戸市出身。昭和43年(1968年)生まれ。平成4年(1992年)6月「君なら大丈夫だよ!Highschool Band」でデビュー。全国でアコースティック・ライブを行い、メッセージ性の強い歌詞が指示されている。「またかけるから」「失格」「バニラ」「上海バンドネオン」「GOLD」等。 

 

橘記子
フェルト作家。北海道出身。昭和44年(1969年)生まれ。ユザワヤ芸術学院講師を経てフリーのフェルト作家として活動。著作に「原毛から作るフェルトのバッグと小物」がある。

 

秀徳

政治家。元衆議院議員。東京都出身。昭和45年(1970年)生まれ。中央大学法学部政治学科卒業。大学卒業後、内閣法制局に事務官として勤務。その後、田中甲衆議院議員の議員秘書に転身する。2002年、松下政経塾に入塾。第23期生。特に少子高齢化問題を研究する(同期に三日月大造など)。2005年に卒塾し、原口一博衆議院議員の政策秘書となる。民主党の公募に応募し、合格。神奈川13区の候補者となる。2009年の第45回衆議院議員総選挙に民主党公認で神奈川13区から出馬し、自由民主党の甘利明らを破って初当選した。2010年の民主党代表選挙では小沢一郎を支持した。2012年の消費増税をめぐる政局では、6月26日の衆議院本会議で行われた消費増税法案の採決で、党の賛成方針に反して反対票を投じた。民主党は7月3日の常任幹事会で党員資格停止2カ月の処分とする方針を決定し、7月9日の常任幹事会で正式決定した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では神奈川13区に出馬したが、選挙区は4位で敗れ比例復活もならず落選した。2015年4月、大和市長選挙に出馬したが、次点で落選。2016年より電気自動車用充電器設置事業などを行う日本充電インフラ株式会社の代表取締役を務める。

 

立花理佐
女優・歌手。昭和46年(1971年)生まれ。大阪府大阪市出身。本名橘理佐。第29回日本レコード大賞新人賞、第25回ゴールデンアロー賞音楽新人賞、第18回日本歌謡大賞優秀音楽新人賞を「キミはどんとくらい」で受賞。昭和61年(1986年)ロッテのCMアイドルコンテストで大賞を受賞し、芸能界入り。翌年テレビ「毎度おさわがせします」の主役を演じ、歌手としては「疑問」でデビュー。以後歌手と女優の両面で活躍。

 

橘かおる

小説家。山口県在住。著書に「秘密のプリンス」等がある。

 

橘省吾

惑星科学者。昭和48年(1973年)生まれ。専門は、宇宙化学・宇宙鉱物学。東京大学大学院理学系研究科教授。博士(理学)。石川県出身。はやぶさ2 サンプリング装置[理学]・サンプル初期分析担当として、サンプルホーン開発に携わる。

 

橘秀樹

実業家。昭和48年(1973年)生まれ。大阪府出身。役員向け専属運転手・秘書派遣業務を中心とした業務を行う株式会社トランスアクト創業者・代表取締役社長。運転手と秘書という2つの派遣業務を一緒に扱う会社は同社以外ない(2022年6月現在)。

 

橘人成
漫才師。昭和49年(1974年)生まれ。奈良県出身。平成6年(1994年)今宮えびすマンザイ新人コンクールこども賞。翌年ABC新人お笑い大賞優秀賞受賞。松竹芸能養成所を経て平成4年(1992年)徳田晋也と「ゆんぽー」を結成。関西地区のテレビに出演するほか、舞台「楽天劇場-ゆんぽーライブ」も務める。

 

橘春香
イラストレーター。北海道出身、横浜育ち。平成9年(1997年)武蔵野美術大学視覚伝達デザイン科卒業。平成12年(2000年)恵比須zazouで初めての個展。PINPOINTギャラリー絵本コンペに入選。同年7月10日より原画展を開催。2001年、y+contactイメージキャラクター制作、SKY PerfecTVのso-netチャンネル、casio端末アイコン等イラスト、シンシアローリー、リサージBB広告など雑誌を中心にイラストで活動。また、アーティスト集団OASIS.magに参加する。現在雑誌(sweet,spring,an-an,frau,cancam,oz magazine等)広告、書籍などイラストで活動すると同時に、ラッシュ株式会社からオリジナルブランド『happalucca』を立ち上げる。

 

橘恭介
小説家。昭和50年(1975年)生まれ。第3回スニーカー大賞(金賞)を「ダーク・ディズ」で受賞。

 

橘正紀

アニメ監督。昭和51年(1976年)生まれ。千葉県出身。東映アニメーションで演出助手を務めた後、Production I.Gにて『攻殻機動隊 S.A.C.』シリーズや『精霊の守り人』などの絵コンテ・演出を数多く担当する。その後、2009年『東京マグニチュード8.0』でテレビシリーズ初監督。この作品で第13回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞した。

 

橘有未
作家。昭和54年(1979年)生まれ。平成8年(1996年)「SILENT VOICE」でコバルトノベル大賞受賞。著書に「銀の刻印」「幻想懐古店-時の末裔」がある。

 

佳宏

プロバスケットボール選手。昭和57年(1982年)生まれ。愛知県豊田市出身。両親は共にバスケットボールの実業団選手で、本人も小学2年次よりミニバスケットボールを始めた。2005年に日本リーグ所属の大塚商会アルファーズに入部し、2007年にアルファーズが解散した後はbjリーグの富山グラウジーズと契約し、プロ選手となった。以後仙台89ERS、大阪エヴェッサ、つくばロボッツ、和歌山トライアンズ、アースフレンズ東京Zに所属し、その間2007年から2013年までbjリーグオールスターゲーム・ダンクコンテストに連続して出場、2010年と2011年には優勝も果たした。NBLのつくばに移籍した2014年にも、NBLオールスターゲームのダンクコンテストに出場した。アースフレンズに所属していた2016年に引退し、教員に転身した。

 

橘もも(立花もも)

日本の小説家、翻訳家。現在は立花もも名義で編集者・フリーライターも務める。昭和59年(1984年)生まれ。愛知県名古屋市出身。中学3年生の時に書き上げた投稿作「翼をください」が、講談社文芸図書第四出版部主催の「第7回ティーンズハート大賞」の〈佳作〉に入選し、私立愛知淑徳高等学校 1年生在学中の2000年に、同作でデビューした。以後ティーンズ向けに執筆を続け、現在に至る。また大学卒業後は、『ダ・ヴィンチ』編集部にて雑誌や書籍の編集者として勤務し、現在はフリーライター・編集業(立花もも名義)と作家業(橘もも名義)の二足のわらじを履く。小説のほかにも、映画やゲーム作品のノベライズや、絵本や海外映画ノベライズ作品の翻訳なども手掛けている。

 

橘慶太
歌手、ダンサー、作曲家、音楽プロデューサー、俳優。昭和60年(1985年)生まれ。福岡県出身。緒方龍一、千葉涼平と3人でダンスボーカルユニットw-indsを結成。ボーカルを担当。平成12年(2000年)から渋谷で路上ライブを行い若い女性を中心に人気を集める。翌年「Forever Memories」でデビュー。妻は歌手の松浦亜弥。女優の橘美緒は実妹。

 

橘公司

日本の小説家。 昭和61年(1986年)生まれ。『蒼穹のカルマ』で第20回ファンタジア大賞の準入選を受賞。代表作『デート・ア・ライブ』。

 

麻美

作曲家、編曲家、ウッドベース奏者。神奈川県出身、レジェンドア所属。 昭和62年(1987年)生まれ。幼少期よりピアノを始め、中学校では吹奏楽部でホルンを、高校ではジャズ部でウッドベースを担当する。高校卒業後一般の大学に進学するが、音楽の道を諦めきれずに中退、以降本格的に作曲やアレンジの勉強に取り組むようになる。主にテレビドラマ、テレビアニメの音楽・サウンドトラックなどを制作。

 

章斗

プロサッカー選手。兵庫県明石市出身。 昭和63年(1988年)生まれ。滝川第二高校を経て、大阪産業大学に進学。2010年4月7日に清水エスパルスへの入団が発表された。2012年8月から松本山雅FCへ期限付き移籍。2013年シーズン終了後、契約満了により清水を退団。

 

橘美緒

女優。モデル。1990年生まれ。九州・沖縄スターライトオーディションにて審査員特別賞を受賞し芸能デビュー。間もなく、雑誌「ラブベリー」で専属モデルに抜擢され、更には連載も担当するなど精力的に活動。