橘氏人物事典

敏達天皇稜
敏達天皇稜

敏達天皇
第30代天皇で、在位は572年~585年。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)。欽明天皇の第二皇子。母は宣化天皇の皇女・石姫皇后。兄の死によって皇太子となり欽明天皇の没後即位する。欽明天皇の意思を継いで、新羅を討って任那を復興するために高句麗と国交を開いた。仏教に関連して蘇我氏と物部氏との対立が深まり、百済から届いた仏像を蘇我氏が祀り疫病が蔓延したため、物部守屋らに命じて仏像、仏塔などを焼却させた。


難波皇子
敏達天皇の第一皇子。母は春日老女子。用明天皇の死後、蘇我馬子と物部守屋の争い(丁未の乱)において、蘇我馬子につき従軍した。


栗隅王
天智天皇の時代に、筑紫率として唐と新羅の使者を送迎し、壬申の乱では外国への備えを理由に中立を保った。675年に兵政官長。676年に四位で病没。贈従二位。


美努王
橘諸兄の父。天武元年(672年)壬申の乱の際、父栗隈王・兄武家王と共に大宰府におり、近江朝廷の使者が軍兵を徴発するため大宰府に至るが、栗隈王はこれを拒絶。この時兄とともに父の傍らに剣を持って控え、父の身を守った。天武10年(681年)川島皇子らと共に「帝紀及び上古の諸事」の記録・校定に従う。天武14年(685年)京・畿内の兵器を校閲する使者。持統8年(694年)大宰帥に任ぜられ筑紫に下向。こののち、妻三千代を藤原不比等に奪われる。大宝元年(701年)正五位下で造大幣司の長官。その後左京大夫、摂津大夫、治部卿。

法隆寺 阿弥陀三尊像
法隆寺 阿弥陀三尊像

橘三千代
橘の起こりについては県犬養三千代に和銅元年(708年)11月25日元明天皇から「橘は果物の王なり。その枝は霜雪を恐れずして繁茂し、葉は寒暑を凌ぎて凋まず。しかも光は珠玉と争い色は金銀と交わりて益々美し。故に橘を氏とせよ。」と賜るのが最初である。三千代は県犬養東人の女で、長じて敏達天皇の曾孫美努王に嫁ぎ、葛城王(橘諸兄)と牟漏女王を産み、その後藤原不比等と結婚して、光明皇后を産む。奈良朝において最も注目すべき女性。橘三千代は信仰心にも厚く、法隆寺阿弥陀三尊像を念持仏として大切にし、その信仰心は光明皇后に受け継がれた。

橘諸兄(684~757)
葛城王の時代に参議まで上り、母三千代の死後三年、橘宿禰の姓を賜る。当時皇族が臣席に下るには、眞人姓を賜るのが常であったが、母家の養子の形態であるため、母の勢力の大きさを物語っている。翌年、光明皇后を介して聖武天皇と兄弟同様の関係を持ち、当時流行った天然痘により藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂、橘佐為が亡くなり、これにより中納言を経ずに大納言となり、その後右大臣、左大臣と昇進し、生前正一位に叙せられ朝臣姓を賜る。天平勝宝九年(757年)正月死去。享年74歳。井出里に住居を構えていたため井出左大臣と言い、または西院大臣と呼ばれる。

 

橘奈良麻呂(721~757)
橘諸兄の男。母は藤原多比能。天平12年(740年)5月、聖武天皇が山城国綴喜郡井出村の井出別業(諸兄別業)に行幸の際、従五位下を授けられる。その後累進して、天平勝宝年間には参議を排す。藤原不比等の子武智麻呂、その子豊成・仲麻呂(恵美押勝)等藤原一族が孝謙天皇の寵を受けて隆盛となり、橘氏は昔日の勢いを失い、そこで仲麻呂を除きかつその掌中にある皇太子大炊王を廃そうと企てたが、天平宝字元年(757年)7月謀漏れその陰謀は水泡に帰す。この陰謀に加担した、廃太子道祖王、塩焼王、安宿王、黄文王、小野東人、佐伯大成、大伴古麻呂、池主、兄人、多治比犢養、禮麿、鷹養らは、拷問の末死亡したり、流罪になったりした。首謀者である奈良麻呂の処遇がどのようになったかは記録されていない。後に従三位、大納言、太政大臣正一位を追贈される。かつて大学頭であった経歴があり、承和元年10月紀に「官に没収せし奈良麻呂の家書四百八十余巻」とあり、学問上での蘊蓄の深かった事がうかがえる。

 

橘佐為
佐為王。橘諸兄の弟。古那可智(聖武天皇の夫人)、真都我の父。和銅7年(714年)正月、無位から従五位下を授けられ、養老5年(721年)従五位上に。天平8年(736年)11月、兄の葛城王とともに臣籍に下って母の氏姓橘宿禰を賜るよう上表し、それが許された。天平9年2月正四位下を授けられたが、当時流行した天然痘により同年8月、卒した。また、長男の文成も佐為と同時期に天然痘で亡くなったと思われる。

 

牟漏女王

生年不詳。橘諸兄の妹。父は美努王、母は県犬養三千代。藤原不比等の次男藤原房前に嫁ぎ、和銅7年(714年)永手を産む。天平8年(736年)、法隆寺に花形白銅鏡1面を寄進。天平9年(737年)に藤原房前が没し、寡婦となる。天平11年(739年)、竹野女王とともに、従四位下から従三位に叙される。この時の朝廷は兄の橘諸兄が頂点にあり、母三千代と同じく宮廷に出仕し、後宮の女官になったと思われる。没時の位階は正三位。興福寺のかつての本尊であった不空羂索観音像は、天平17年(745年)、死去した藤原房前の追善のために子の真楯らと造立したもの。天平18年薨去。

 

橘綿裳

橘佐為の男。橘奈良麻呂の謀反に連座して、橘朝臣から橘宿禰に姓を貶されたが、橘氏の皇室ならびに藤原氏との深い族的関係から、この程度の軽微処置で罪を免れた。この時、正六位上。天平宝宇3年(759)6月、従五位下、翌7月左大舎人助に任じられ、その後、上野員外介、少納言、中務少輔・山背守、宝亀元年11月御鹿原行幸に際して従五位上に昇叙される。同9年9月に朝臣姓に復帰。その後なかなか昇叙せず、従五位上で20年以上とどまり、延暦16年正月正五位上へ昇叙。大同4年6月、散位従四位上を以って卒した。一部の資料によりますと、三笠姓を賜ったように書かれていますが、橘宿禰御笠と同時に朝臣姓を賜ったことであり三笠姓を賜った訳ではないという事が判りました。(デューク鷹さんからご指摘いただきました。)

 

橘古那可智(広岡古那可智)

橘佐為の女。聖武天皇の夫人。天平9年(737年)2月、無位から従三位に叙せられた。このころ聖武天皇の夫人になったと思われる。後に天平21年4月、橘夫人と記され、正三位から従二位に昇叙した。橘奈良麻呂の乱の起こった約2ヶ月後の天平宝宇元年(757年)閏8月に妹の真都我や同族と共に、本氏姓を改めて、広岡朝臣を賜わる。時に夫人正ニ位とある。天平宝宇3年7月、薨じた。仏教を篤く信じていたようで、法隆寺に「薬師経」を施入し、大仏開眼にも刀子・琥碧誦数を献じている。また大和国添上郡広岡(奈良市法蓮町)の普光寺は古那可智が聖武のために建立した寺と伝えられている。なお、聖武との間には子どもがなかったらしく、諸書に伝えられていない。

 

橘真都我(広岡真都我)

橘佐為の四女。古那可智の妹。藤原武智麻呂の子乙麻呂に嫁して許麿を生み、また乙麻呂の子是公の妾となって雄友・真友・弟友を生んだ。橘奈良麻呂の乱の起こった約2ヵ月後の天平宝宇元年(757)閏8月、姉古那可智と共に本氏姓を改めて広岡朝臣を賜わった。時に無位。天平宝宇5年正月、無位から従五位下に叙せられた。以後、累進して延暦5年(786)正月、従三位まで昇った。「公卿補任」延暦9年条に藤原雄友は「右大臣是公の三男、母は…尚蔵三位麻通我朝臣」とあり、同書延暦13年条にも藤原真友は、母は藤原雄友と同じとするが「尚侍従三位麻乙朝臣」と記す。

 

橘枝主

橘綿裳の二男。兄は百枝。承和6年正月、兄の百枝から17年遅れで正六位上を授爵。同12年12月左京亮、嘉祥2年11月、従五位上に昇叙、同3年2月、右京亮従五位上となり、百枝が卒去した斉衡元年2月には従五位上図書頭に任ぜられた。

 

橘長盛

橘枝主の曾孫。尾張守橘秋實の男。母は秋篠氏成の女。大膳少進・少監物・兵部大丞・長門守を歴任。宇多天皇の布引滝行幸に従った。

橘直幹

橘長盛の男。母は棟良王の女。橘公統に学び、承平7年(937年)対策に及第。大内記・大学頭などを経て、天暦2年(948年)文章博士、正四位下、式部大輔。冷泉天皇の侍読を務めた。天暦8年、民部大夫兼任を願って奏上した申文は「本朝文粋」「和漢朗詠集」に採られ、その一件は「十訓抄」「直幹申文絵詞」などに説話化された。天慶4年(941年)藤原忠平の摂政辞職の表の勅答を、天暦2年忠平の致仕の表を依嘱され、天徳元年(957年)と同4年に仁王会の呪願文を作る。天慶6年「日本紀竟宴和歌」「坤元録屏風詩」天徳3年「天徳詩合」や「類聚句題抄」「新撰朗詠集」「和漢兼作集」などの作者。

 

橘忠幹

橘長盛の男。従五位下、駿河守。「拾遺集」の歌は「伊勢物語」十一段の歌。天暦9年(955年)盗賊に殺害された。

 

橘列相

橘直幹の男。母は坂上保枝の女。文章生、民部、武蔵守となる。従五位下に叙す。

 

橘島田麻呂

橘奈良麻呂の男。母は大伴古慈悲娘、妻は淡海三船娘。官位は正五位下・兵部大輔。橘氏長者。延暦16年(797年)春宮亮に任ぜられ、皇太子・安殿親王に仕える。娘で桓武天皇の女御となった常子の薨伝によると、正五位下・兵部大輔に至ったとされる。

橘廣相(837~890)

橘島田麻呂の曾孫。橘峯範の二男。母は藤原末永の女。名は初め博覧、貞観10年(868年)廣相と改名した。字を朝綾という。早熟の秀才で菅原是善に師事し、貞観2年(860年)4月、文章生となり、その後、同6年4月、蔵人に任じられ、8月に対策に及第。同9年正月、従五位下に叙せられ、2月文章博士、同11年2月、東宮学士に任命。同19年正月、東宮学士の功により、正五位上へ昇進し、同年11月にはさらに従四位下へ叙位を重ね、確実な地歩を占めた。元慶8年(884年)2月、従四位上に累進し、光孝天皇の侍読となり、5月には菅原道真とともに文章博士に再任され、12月、参議に昇進した。仁和2年(886年)6月、左大弁に進み、参議・勘解由長官・文章博士を兼ねて政界に重きをなした。仁和元年の刑部省断案に対する公卿奏文において、中納言在原行平とともに少数意見に固執して譲らず、半年後の同2年5月になって漸く加書を承諾している。広相・行平以外は藤原氏7人、源氏6人をもって構成された仁和2年初頭の廟堂の中で自説を主張し譲らない姿勢に、廣相の剛直な政治姿勢がうかがえるが、文華を好んだ宇多天皇の信任厚く、娘の義子は宇多天皇の女御となって二皇子をもうけた。仁和3年11月、宇多天皇の即位とともに藤原基経が関白となったが、命により廣相が起草した勅答に「よろしく阿衡の任をもって卿の任となすべし」の句があった。基経は家司藤原佐世の言をいれ、ここに阿衡事件が起こった。廣相は責任を問われ危機的な立場に追い込まれたが、菅原道真の奔走や宇多天皇が基経に譲歩したことにより、急転直下解決し、翌4年10月、詔によってその罪を免ぜられた。事件後1年を隔てて寛平2年(890年)5月、54歳で卒した。死後、侍読の労により、中納言従三位を追贈され、また穀倉院の絹布を賜わるという破格の厚遇を得た。「蔵人式」「橘氏文集」以下著述は多いが、いずれも散逸した。廣相の撰した「神護寺鐘銘」の序文は有名である。

 

橘義子(宇多女御)

橘廣相の女。宇多天皇皇后宮。斎世親王、斎中親王の母。

  

橘内成

橘雅文の男。長徳2年(996年)6月、去夜群盗、右大将藤原顕光の広幡家に入り、内成の曹司の雑物を捜し取る。内成は顕光の旅所にいたため難を逃れるが、子の法師は鉾で突かれ損じられた(「小右記」)。寛弘3年(1006年)8月、天変による二十一社奉幣の広田使に替任す。寛弘4年正月、藤原顕光の家人、藤原能通第に濫行あり、顕光家司の内成が召問さる(「御堂」)。寛仁元年(1017年)10月、内成宅焼亡す。顕光、堀河第の廓を与えている(「小右記」)。同年11月、梅宮祭に参入、和舞を奉仕する(「左経記」)。

 

橘孝親

橘内成の男。越中守となり、従四位下に叙す。文章博士。長和3年(1014年)12月、座主補任に奉仕する(「小右記」)など、外記として活躍し、寛仁3年(1019年)6月、天文習学の宣旨を蒙り、万寿2年(1025年)3月、出雲守として赴任の由を告げているが、在任中も大内記を兼ねており、諸宣命、勅答、位記作成等に奉仕している(「小右記」「紀略」「平行親記」「春記」)。長暦4年(1040年)の改元には、年号勘申にあたっている。大江匡房の外祖父にあたり、宮内大輔に任ずといわれる。

 

橘内位

長保2年(1000年)正月、勘解由奏を上る(「権記」)。長元2年(1029年)4月、大中臣輔親、藤原頼通に「広韻」「玉篇」等の書冊を献ずると報らす。内位の妻は大中臣輔親女であり、妻から得た情報か(「小右記」)。

 

橘成忠
橘内位の男。長元4年(1031年)3月、左馬助成忠、今年の賀茂祭使を勤仕すべきに、鎮西に下向して上道せず。替任を審議される(「左経記」)。

 

橘好古(893~972)
橘公材の男。母は橘貞樹の女。弾正大弼宮内少輔美作守。文章博士。従ニ位大納言。天祿3年(972年)4月13日大宰府において80歳で卒した。

橘公頼(877~941)

元慶元年(877年)生まれ、天慶4年(941年)2月20日没。橘廣相の男。母は左馬頭雅風王の女。昌泰2年(899年)叙爵。近江権守、右京大夫、左中将などを歴任。延長5年(927年)参議。承平5年(935年)大宰権帥を兼任。同6年、従三位。天慶2年、中納言。昌泰元年、宇多上皇の猟競に右方で参加。高麗笛に巧みであった。藤原純友の乱の時、大宰府を落として柳川に迫った純友の弟の藤原純乗の軍勢を、蒲池城で迎え撃った。

 

橘敏仲

生没年未詳。橘公頼の男。従五位下、伊賀守。承平8年、主殿頭。藤原穏子付の女房大輔との贈答歌が見える(「後撰集」)。

 

橘敏通

生没年未詳。平安時代の筑後蒲池の領主。橘公頼の三男。従五位下、式部大輔、美濃権守。藤原純友の乱の時に、大宰府に攻め寄せてきた純友の弟の藤原純乗を、父の大宰権帥橘公頼と柳川郊外の蒲池城で迎え撃ち、純乗を撃退する。その功により敏通は蒲池を領地とし、敏通の子孫は蒲池城に拠り蒲池邑の領主となる。(筑後橘氏)鎌倉時代に嵯峨源氏の源久直が筑後国三潴郡の地頭職となり、蒲池領主の橘氏の娘婿となって定住し、蒲池氏となる。

 

橘敏延(橘繁延)
生没年未詳。平安中期の官人。官中務少輔。延喜以来、藤原一族で廟堂の要路を専断していることに対して、藤原氏排斥を目的として、安和2年(969年)3月25日、前相模介藤原千晴、左兵衛大尉源連らと皇太子守平親王を廃して兄の為平親王を皇太子に立て左大臣源高明を奉じて東国で挙兵する計画を立てたが、源満仲と反目したため密告される。右大臣藤原師尹以下公卿らは直ちに宮中に参入し、諸門の出入りを禁じて警護を固める一方、密告文を太政大臣藤原実頼へ届け、橘敏延らを捕らえて土佐へ流罪に処せられた。これを安和の変という。

扶桑隠逸伝
扶桑隠逸伝

千観内供(918~984)

父は相模守橘敏貞。園城寺に入って出家、受戒。行誉(一説によれば運昭)に師事して天台教を学ぶ。後に空也の影響を受け浄土教へ傾倒。民衆教化のための和讃としてはじめての阿弥陀和讃をつくった。応和2年(962年)に摂津国箕面山に隠遁して浄土行の生活を送った。応和宗論の論者として選ばれたが辞退し、摂津国金龍寺を再興してそこに住した。970年、行誉から三部大法を伝授される。

 

實因(945-1000)

天慶8年生まれ。千観の弟。天台宗。比叡山の延昌の弟子となり,西塔具足房にすむ。長徳4年(998年)大僧都,極楽寺座主。のち河内小松寺に隠棲した。長保2年8月12日死去。56歳。通称は小松僧都、具房僧都。

橘為政

橘好古の男。蔵・策、侍読冷泉、大和守、右中弁となる。従四位上に叙す。長保5年(1003年)5月9日、源保光忌日に時物を奉る(「権記」)。

 

橘行資

橘為政の男。伊与守、従四位上に叙す。永祚元年(989年)正月、円融寺蔵人となる。長徳3年(997年)7月、任大臣の儀に奉仕、同12月道長第作文に、橘式部として参ず。寛弘8年(1011年)7月、一条天皇の御葬送に、旧侍中五位として奉仕する(「権記」)。寛仁元年(1017年)藤原道長の大饗に録事を務める(「御堂」)。

 

橘成經

橘行資の男。皇后宮亮となり従四位下に叙す。永保元年(1081年)10月、大和守に任ず(「水左記」)。

 

橘經國

橘好古の孫。生没年未詳。長徳4年(998年)11月、丹波国司の記録あり(「小目」)。寛弘8年(1011年)12月、宇治使次官となる。宇治使多米国隆が五位であるのに対して、經國は四位で次官であったため問題となる(「小右記」)。なお、「左経記」長元5年3月25日の条に、故經國朝臣宅として堀河殿を挙げている。故橘逸勢怨霊留此地の付記からして、この經國は橘と考えられる。

 

橘為經

經國の男。治安2年(1022年)5月省試を受くか。万寿元年(1024年)10月、藤原実資に中紙三百帖、小刀、魚類を献上し、同年12月、実資の子の職事となる。長元2年(1029年)9月、辛島牧の馬を与えられる(「小右記」)。

 

橘敏政

生没年未詳。橘好古の男。母は有鄰女。蔵人、駿河守、中宮亮となり、従五位下に叙す。

 

橘則光

生没年未詳。橘敏政の男。母は花山院御乳母右近。子の則長は清少納言との間の子。陸奥守にいたり、従四位上に叙す。長徳3年(997年)花山院供奉人、公任・斉信の牛童に濫行し、供奉人追捕さる(「小右記」)。寛弘元年(1004年)花山院の道長第御幸に奉仕す。長和2年(1013年)2月、叙一階を請い、藤原道長の家司に似たり(「御堂」)。その後、寛仁3年(1019年)7月、陸奥守に見任(「小右記」)し、在任中、砂金の事で辞任の後まで問題を残し、長元元年(1028年)9月、後任の平孝義が愁申している(「左経記」)。

 

橘則長(982~1034)

橘則光の男。母は清少納言。越中守にいたり、正五位下に叙す。歌人、後拾遺、新続古今、続詞花作者。寛弘8年(1011年)10月、雑色となり(「権記」)、その後、蔵人図書、修理亮、治安3年(1023年)5月、式部丞の時、太政官請申の史生奏状の手続きをなす(「小右記」)。越中守の時、任国にて死亡した事は、弟橘季通が、大江公資の妻であった相模に贈った歌にふれられており、則長と相模の特別な関係が推察される。

 

橘則季(1025~1063)

平安時代中期の官人。越中守橘則長の男。橘則光の孫。正五位下・陸奥守。天喜5年(1057年)縫殿介、康平3年(1060年)蔵人に補任。翌康平4年(1061年)に式部丞に任ぜられるが、康平6年6月28日に卒去。『枕草子』三巻本の巻末に、同書を世間に広めた人物として跋文に言及されている源経房の経歴に続けて橘則季の経歴が記載されている。三巻本の勘物を記した「耄及愚翁」を称する人物(藤原定家か)からは橘則季が作者の孫として母の兄弟である能因と同様『枕草子』の伝来に関係する人物とみなされていた可能性が有ると研究されている。(石田穣二氏:訳注『枕草子』)

 

橘季通

生没年未詳。橘則光の男。母は因幡守橘行平の女。式部大丞、蔵人、内蔵権助、従五位上、駿河守。長元8年(1035年)「賀陽院水閣歌合」に参加。「今昔物語集」等に逸話を残す。

 

橘成季

生没年未詳。鎌倉時代中期の人。橘則長の玄孫。橘清則の男。橘光季の養子。九条道家の近習。右衛門尉、伊賀守。藤原孝時に琵琶を学び、詩歌、画図も好んだ。建長6年(1254年)「古今著聞集」を編した。「擲金抄」に詩賦一絶を残す。

 

橘光朝

生没年未詳。橘則光の男。母は因幡守橘行平の女。橘行平の孫として因幡薬師堂の初代住職となる。

 

橘好任

生没年未詳。橘則光の男。長和5年(1016年)正月、三条院蔵人に補せられる。万寿2年(1025年)11月、故好任朝臣女、五節舞姫となる(「小右記」)との記録から、それ以前の卒と推察される。

 

橘則隆

橘敏政の男。蔵人、陸奥守、刑部大輔、中宮亮となり、正四位下に叙す。長者となる。寛弘5年(1008年)前美作介、敦成親王家司別当となる(「御産部類記」)。寛仁4年(1020年)、陽明門等の修理にあたるが、待賢門修理にかかり、未だ瓦を葺き終わらぬ間に卒した(「小右記」)。

 

橘以綱

橘成任の男。橘則隆の孫。主計頭、鎮守府将軍、陸奥守、相模守となり、正四位上に叙す。長者となる。「殿暦」によれば鎮守府将軍(陸奥守兼任)に任ぜられたのが永久元年(1113年)で藤原基頼の後任として赴任している。

 

橘廣房(大江廣房)

橘則隆の曾孫。橘以綱の男。大江匡房の養子。文章得業生、信濃守。天仁元年(1108年)に信濃守に任じられるが、在任中の天永2年(1111年)に、美濃国に向かう途中であった下野守源明国との間で私闘となり、同じくその場にあった源為義の郎党らと共に源明国に殺害された。天永2年(1111年)大江氏から本姓に復したというが承徳3年(1099年)以前に復姓したと考えられる。「中右記部類紙背漢詩集」に詩が残る。

因幡薬師堂
因幡薬師堂

橘行平

橘敏政の男。蔵人、因幡守に任じ、従四位上に叙す。寛弘2年(1005年)正月、因幡守に補せられる(「因幡堂縁起」)。因幡国賀留津の浜に打ち上げられた浮木は、等身代の薬師如来であったため、豆桑寺に安置し仮堂としたところ、帰洛した行平の邸(高辻烏丸の現因幡薬師堂・平等寺)に因幡から薬師如来像が飛来したため、邸内に安置し多くの人々が礼拝し、霊験があった。そのため、邸を仏閣とした(「因幡堂縁起」)。平安中期以後の霊験所として広く信仰を得たことは他の日記類からも伺える。

 

橘行頼

橘行平の男。拾遺作者。永延2年(988年)7月の「藤原実資邸歌合」にその名が見える。子孫に薬師寺あり。

 

橘輔政

橘好古の男。蔵人、越中守に任じ、従四位上に叙す。好古の子ということで、童丱の時より、雲上に候し、天元5年(982年)修理亮に叙す。寛和元年(985年)広瀬龍田使となり参社の間に御幣を奪わる(「小右記」)。その後、相模守に任じた。長保元年(999年)、子の惟頼及び郎等二人が美濃で藤原到忠により殺害される(「権記」)。

 

橘致範

橘輔政の曾孫。越中守に任じ、従五位下に叙す。新庄氏祖

橘以長

橘廣房の男。信濃守・筑後守。従五位上、橘氏長者。保延2年(1136年)頃からの出仕が知られ、当時の位階は六位であった。父から橘氏長者を継承し、久安3年(1147年)藤原頼長の奏請により学館院別当に補任。蔵人・大膳亮・筑後守を歴任して保元2年(1157年)10月に橘以政への譲りで従五位上に叙せられた。

 

橘以政

生没年未詳。橘廣房の孫。筑後守橘以長の男。嘉応元年(1169年)の父没後、橘氏の氏長者となる。永万元年(1165年)頃から嘉応元年まで筑後守。治承元年(1177年)正月、公文を勘済し、功過定が行われる予定であったが突然中止され、同年11月加階も停められ治承3年になってようやく従四位下に叙された。翌年正月、摂津守に任ず。同5年8月九条兼実の家司となった。家司としての仕事は、主に九条家の年中行事、陪膳などであった。文治2年(1186年)7月、造興福寺次官となる。著作に「橘逸勢伝」がある。

 

橘以隆(薄以隆)

但馬権守橘以良の男。橘氏の氏長者。弾正少弼。刑部卿として昇殿を許される。家名は薄。

 

橘友綱(椙生友綱)

生没年未詳。橘以長の男。従五位下。椙生大夫と号する。子孫に杉生圓明の名が応永記に見える。

 

橘満定(鷹野満定)

生没年未詳。佐渡守。保元の乱に弟の井手右京進以重・高見澤刑部諸以・油井兵衛以近とともに信濃国佐久郡に落ちる。(信濃橘氏)

 

橘以保

薄以季の曾孫。橘以成の男。図書頭。足利義政に仕える。

 

橘以之

橘以保の玄孫。橘以良の男。橘左近允。豊臣秀吉に仕える。

 

橘惟以 

橘以之の孫。橘行以の男。七郎左衛門。豊臣秀頼に属し大阪の陣後備中へ移る。

 

橘惟格

橘惟以の曾孫。橘惟綱の男。次郎左衛門。頼山陽の高祖父。(頼氏)

 

橘惟季

橘惟以の末裔。橘惟盛の男。吉左衛門。大阪堂島へ住す。

 

薄以基

室町時代の官人。生年不詳。薄以隆の曾孫。大納言橘好古の13代孫。正四位下薄以季の男。応永19年(1412年)従三位に叙される。橘家を再興。同21年7月没。

 

薄以量(1436~1496)

薄以基の孫。正三位薄以盛の男。蔵人・左近少将・式部大丞・美濃守などを歴任。明応5年(1496年)に従三位。著作に「橘家神体勧請巻」「橘家神道秘伝目録伝」がある。

 

薄以緒(1494~1555)

文章博士菅原(唐橋)在数の男。薄以量の養子。法号は永秀。天文18年(1549年)従三位、同21年正三位、同24年参議。著作に「橘以緒日課詩」がある。

 

薄以清

藤原(園)基国の次男の男。橘以緒の養子。園家は羽林家で雅楽、神楽を家業としており、ここから梅宮大社神官家となる橋本氏がでる。

 

薄以継(橘諸光)(1546~1585)

山科言継の男。橘以緒の養子。天正13年(1585年)39歳で横死。薄家は断絶。深井定基が継ぐ。

 

井手以親

薄以基の孫。薄以實の男。信濃国に住す。信濃橘氏家祖

 

深井林矩(1647~1705)

橘重久の男。薄以継の末裔。深井定成の養子。宝永2年4月19日(1705年)58歳で卒す。末裔は八木氏

 

橘邦長

橘廣房の孫。橘廣仲の男。兄の橘親長を嗣ぐ。蔵人。

 

橘以邦 

橘邦長の男。兄の橘以清を嗣ぐ。蔵人。正五位下、備前守。

 

橘以持

橘邦康長の男。橘以信を嗣ぐ。蔵人。従五位下。 

 

橘邦顕

橘廣房の男である橘廣仲の末裔。対馬守橘邦氏の男。掃部助。伊勢国司に属する。

 

橘仲富

橘邦顕の末裔。橘仲隆の男。織田信長に仕える。

 

橘智宣

生没年不詳。鎌倉初期の西園寺家の家司。伯家の兼康王の三男で橘以實(橘廣房の男)の養子となる。元久2年(1205年)には西園寺実宗の前駆として名前が見える。その後西園寺公経の下で周防国目代を務めたり、公経が後院庁別当に任じられると鳥羽殿の経営をまかせられるなど、同家の所領経営にたずさわった。その子孫は代々西園寺家に仕えて力を貯え、鎌倉末期以降は公卿に列するようになる。

 

橘知仲

生年不詳。鎌倉時代の西園寺家の家司。橘知宣の男。承久の乱(1221年)後、西園寺家が安芸国沼田庄の領家職を獲得すると、正検使として同庄の検注を行い、以後、彼の子孫は同荘領所を務めることとなる。また、院の作所奉行にも任じられている。寛元4年(1246年)7月11日卒す。

 

橘知茂

生年不詳。鎌倉時代の西園寺家の家司。橘知仲の男。西園寺実氏やその娘大宮院に仕えた。、西園寺家が領家職を有する安芸国沼田庄、筑前国宗像社の預所などをつとめ、多大な富を得た。瀬戸内海の海上交通や日宋貿易に関与した可能性が高い。弘長3年(1263年)卒す。

 

橘知顕

生没年不詳。橘知茂の孫。左京大夫橘知嗣の男。鎌倉時代末期の官人。刑部卿、正四位上。著作に「学館院別当職事詩」がある。

 

橘知任(1298~1361)

鎌倉・南北朝時代の官人。従四位上橘知顕の男。従五位下から従五位上に叙され、三河守に任じられ、建武2年(1335年)木工頭、観応2年(1351年)刑部卿に任ぜられ、文和4年(1355年)正四位下、延文3年(1358年)従三位に進む。康安元年(1361年)3月27日没。

 

橘以繁(1324~1379)

鎌倉・南北朝時代の官人。従三位橘知任の男。刑部卿に任ぜられ、後にこれを辞す。応安7年(1374年)従三位に叙される。康暦元年(1379年)10月9日没。

 

橘繁

橘以繁の女。少納言内侍。後光厳天皇妾。明承法親王の母。

 

橘知尚

鎌倉時代の官人。橘知茂の孫。左京大夫橘知嗣の男。母は鎮西住人の宗像六郎入道浄恵の娘。弘安4年(1281年)蔵人・右衛門尉に任ぜられ、同7年従五位下に叙せられ丹波守に、その後、刑部権大輔、膳大夫・伯耆守、大膳大夫、左京大夫、を歴任。徳治元年(1306年)刑部卿に任ぜられ、同3年正四位下に進む。応長元年(1311年)従三位に進むが、病気となり、出家する。同2年1月没す。

橘海雄

橘島田麻呂の孫。橘長谷雄の男。承和8年(841年)2月従五位下で民部少輔となり、同年4月、右衛門権佐にうつる。同9年6月、左京采女町(平安左京北辺三坊)の西北の地四分の一を賜わる。翌7月17日同族の橘逸勢らが謀反の疑いで拷問されるなか、7月25日、刑部少輔に任ぜられた。その後も累進し、嘉祥2年(849年)正月、右少弁となり、同年5月、渤海使に勅旨と太政官牒を伝達した。斉衡3年(856年)正月、正五位下から一階こえて従四位下となり、越前守に任ぜられ、天安3年(859年)2月、右京大夫にうつる。

 

橘仲遠

橘海雄の曾孫。下総守橘佐臣の男。従四位上。播磨守。文章生。承平6年(936年)講日本紀尚復となり、天慶6年(943年)「日本紀竟宴」に出席して和歌を詠じた。康保2年(965年)「日本書紀」を講ずる。著作に「日本紀私記」がある。

 

橘為義

橘仲遠の孫。橘道文の男。生年未詳。寛仁元年(1017年)10月没。正四位下。但馬、丹波、伊賀、摂津等の国守を歴任。文章生。藤原道長の家司、また一条天皇皇子敦康親王の家司。長保5年(1003年)「左大臣道長歌合」に参加。「万代集」「玄々集」の作者。「和漢兼作集」「本朝麗藻」に詩を残す。能書でもあった。

 

橘徳子(藤原有国室)

生年未詳。一条天皇の乳母、典従。従三位。播磨守橘仲遠の女で大宰大弐藤原有国と結婚し資業を生む。長徳2年(996年)8月、夫の大宰大弐赴任に同行。その際「天皇の御乳母橘三位が大変な威勢で下向した」(「栄花物語」)。紫式部が対抗心を燃やしたとも言われる。子の資業は日野氏の祖となり、そこから親鸞本願寺大谷家に家系が続く。

 

橘惟弘

橘海雄の来孫。橘左臣の曾孫。橘道時の男。長保元年(999年)9月、監物に任ぜられる(「権記」)。寛弘2年(1005年)検非違使に補せられる(「小右記」)。同4年正月、右衛門尉、右大臣家の雑掌らを追捕する(「御堂」)。同8年10月、三条天皇の即位に奉仕している(「権記」)。

 

橘惟行

橘惟弘の男。康平5年(1062年)12月、上野介惟行の定めあり(「百錬抄」)。同7年9月、上総介橘惟行の館、源頼資により、焼亡さる(「扶略」)。

 

橘道貞

橘仲任の男。生年未詳。長和5年(1016年)4月16日没。陸奥守に任じ、正四位下に叙す。子の小式部内侍は和泉式部との間の子である。藤原道長と親交があり寛弘元年(1004年)3月陸奥に赴任時、道長より直装束、野剣、弓、馬、鞍等を餞けられる(「御堂」)和泉式部とのことは「和泉式部集」や「赤染衛門集」に、また、左京命婦のことも同集にみえる。

 

橘通道

橘道貞の男。寛弘8年(1011年)、一条天皇の御葬送に行障を奉仕す。文章生でもあった(「権記」)。

小式部内侍

橘道貞の女。母は和泉式部。寛弘6年(1009年)頃、母とともに中宮彰子に仕える。はじめ堀河右大臣頼宗の愛人であったらしいが、その弟二条関白藤原教通の妾となって一子を生む(後の静円)。また藤原範永との間に女子を生んだ(堀河右大臣家女房。「範永女」として後拾遺集に歌を載せる)。万寿2年(1025年)11月、藤原公成の子(後の頼忍阿闍梨)を出産後、死亡した(『栄花物語』)。二十八歳くらいか。藤原定頼との親交も知られる。後拾遺集初出。女房三十六歌仙。「大江山…」の歌が小倉百人一首にとられている。

 

静円

小式部内侍の男。父は藤原教通。長和5年生まれ。天台宗の僧侶。延久2年権僧正、翌年法成寺執行。歌は「後拾遺和歌集」などに収録されている。木幡権僧正とよばれた。延久6年5月11日卒。

 

橘俊済

橘海雄の曾孫。橘高臣の男。大和守に任じ、従四位上に叙す。長保3年(1001年)、前大和国司、申文三通を奉る(「権記」)。

 

橘俊遠

橘俊済の男。長和3年(1014年)正月、前肥前国司、申文を奉り定めらる(「小右記」)。同4年、橘元愷の間に斗争することがあり、俊遠ならびに惟兼、召し誡めらる。同年2月26日俊遠・惟兼とも免除される(「小目」)。寛仁元年(1017年)8月、蝗害による諸社奉幣の梅宮使をつとむ。治安元年(1021年)周防守に任ず。万寿2年(1025年)五節経営析として絹布二十疋を藤原実資に献ず(「小右記」)。

 

橘俊經

橘俊遠の男。母は一品偵子内親王の乳母。肥後守となり、従四位下に叙す。寛仁元年(1017年)9月、春宮侍者となる(「立坊部類記」)。万寿4年(1027年)、一日主殿允三島久頼に罵られることあり、この日、久頼に傷害を加え、下手一人を進め、除籍さる、その後、罪名を勘ずべきを命ぜられ内匠助の任を停められる(「小右記」)。永承3年(1048年)左方堂童子となる(「造興福寺記」)。

 

橘俊宗

生年未詳。永保3年(1083年)8月没。肥後守橘俊經の男。母は橘義通の女。子に待賢門院安藝。従五位下、太皇太后少進。延久5年(1073年)後三条院の天王寺御幸の歌会に出詠。「中右記部類紙背漢詩集」に詩を残す。

橘俊綱創建 光明山即成院
橘俊綱創建 光明山即成院

橘俊綱(1028~1094)

関白藤原頼通の男。母は因幡守藤原種成の女。讃岐守橘俊遠の養子。伏見修理大夫と称す。丹波、播磨、讃岐等の守を歴任。正四位上、修理大夫、近江守。永承5年(1050年)「俊綱家歌合」をはじめ自邸で歌会を主催し能因、藤原範永、藤原通俊、源経信ら多くの歌人達が参加した。「万代集」「夫木抄」の作者。天喜4年(1056年)「皇后宮寛子春秋歌合」で左方念人、承暦2年(1078年)「内裏歌合」で右方頭を務める。管弦や造園にも通じ、「作庭記」の作者と目される。「今鏡」「宇治拾遺物語」に豪奢で風雅な生活が伝えられる。

 

橘俊成

生没年未詳。讃岐守橘俊遠の男。義兄に橘俊綱。従五位下、越中守。藤原頼通邸に伺候。「後葉集」「続詞花集」の作者。

 

橘惟兼

橘俊遠の男。長和4年(1015年)正月10日、前日に俊遠と橘元愷の間に斗争することがあり、俊遠ならびに惟兼、召し誡めらる。同年2月26日俊遠・惟兼とも免除される(「小目」)。

 

橘俊孝

橘俊済の男。長元元年(1028年)、但馬百姓と呼ばわり、愁訴の体をとった。俊孝は「酔狂不善者」で、藤原実資の家人であった(「小右記」)。出雲守橘俊孝、杵築社無風顛倒す、両三度光あり、震動すと。また、託宣の趣を告ぐ(「左経記」)。長元5年(1032年)、杵築社顛倒ならびに託宣の事は無実とわかり罪科が議され、佐渡国に配流ときまる(「紀略」)。

 

橘倚平

生没年未詳。橘海雄の玄孫。飛騨守橘是輔の男。従五位下、日向守。康保2年(965年)省試に及第。勧学会の一員。応和3年(963年)「善秀才宅詩合」に出詠。「和漢朗詠集」「江談抄」「和漢兼作集」の作者。

 

橘清樹

橘島田麻呂の曾孫。橘長谷雄の孫。遠江守橘数雄の男。母は藤原浜雄の女。生年未詳、昌泰2年(999年)3月没。仁和2年(886年)叙爵。同4年肥前守、寛平8年(896年)阿波守。歌人「古今和歌集」に歌あり。

橘義通

橘為義の男。母は周防守大江清通の女。生年未詳。治暦3年(1067年)2月17日没。寛弘5年(1008年)蔵人所雑色。美濃守、因幡守、筑前守を歴任。正四位下。長元8年(1035年)「賀陽院水閣歌合」に中宮大進として方人を務める。後一条天皇に近侍し、能因と親交があった。「万代集」の作者。

 

橘為仲

橘義通の男。母は信濃守藤原挙直の女。生年未詳。応徳2年(1085年)10月没。長久4年(1043年)淡路守。以後、蔵人、越後守、陸奥守などを経て、太皇太后宮亮、正四位下に至る。能因、相模に和歌を学び、和歌六人党の一人に加わる。藤原頼通、橘俊綱邸のほか、四条宮に出入りし、「四条宮下野集」にも名が見える。「続詞花集」「万代集」「秋風集」の作者。「袋草紙」「無名抄」等に和歌に執心した逸話を残す。

 

橘資成

橘義通の男。大和入道と称す。従五位上、大和守、遠江守。応徳3年出家。永承元年(1046年)から康平3年(1060年)の間に源頼資と歌合を行う。「四条宮下野集」に為仲と共に登場する「よししげ」もこの人か。

 

橘義清

橘義通の男。橘為仲の兄。和歌六人党の一人とする場合がある。万寿3年(1025年)大学寮入学、長元5年(1032年)春宮少進、長元6年12月、六位蔵人。長元7年10月、祭主大中臣輔親が碧珠を献上するに際し主上の御前に勤仕(『左経記』)、同月20日、蔵人の労により正六位上・修理亮を拝命(『日本紀略』『魚魯愚鈔』文書標目)。長暦2年(1038年)年9月13日、 『権大納言源師房家歌合』出詠。長久元年(1040年)12月、少納言、同2年4月7日、『権大納言源師房家歌合』出詠。同3年『橘義清歌合』を主催。寛徳元年(1044年)肥後守、永承6年(1051年)勘解由次官、天喜4年(1056年)正月、丹波介を兼任(『魚魯愚鈔』巻七、「兼国勘文」)。康平2年(1059年)頃、没す。この家系から若林、田中、山中、岩室に繋がる。

 

橘資通

橘為義の男。上総介、春宮大進となる。長徳元年(1028年)2月、蔵人に補せられて、同年7月、祈雨のため貴布祢使にたてられる。長元4年(131年)10月、馨子内親王の御着袴に奉仕す(「左経記」)。

橘常主(787~826)

橘島田麻呂の六男。母は淡海真人三船娘。弘仁7年(816年)正月、蔵人に任命され、3月、式部大丞に転ずる。同8年正月、従五位下に叙せられ、2月、少納言となる。その後も順調に昇進し、弘仁13年3月、従四位下で修理大夫兼式部大輔のまま参議の列に加わる。橘氏では、奈良麻呂以来60数年ぶりの参議就任である。同15年4月、式部大輔兼弾正大弼となる。天長3年(826年)6月、40歳で卒した。時に従四位下参議弾正大弼兼下野守。「公卿補任」「尊卑分脈」は、「世に云う。件の常主は薪を積み其上に居して焼死す。勅使有りて問られる」という尋常な死に方ではなかったような風評を記録している。なお、常主の業績として、嵯峨天皇の命で藤原冬嗣らとともに「弘仁格式」の編纂に参加したことがあげられる。しかし、天長7年の撰上をみずして死去した。

 

橘安吉雄

橘常主の男。承和14年(847年)正月、従五位下に叙せられ、同15年5月、侍従となる。のち嘉祥3年(850年)正月、伊予権介、斉衡2年(855年)正月、上野介、貞観3年(861年)正月、信濃権守に任命された。同6年正月、従五位上に昇叙し、信濃守となる。同10年2月、治部大輔となり、翌11年正月、摂津守にうつる。橘良基の卒伝に「摂津守安吉雄の子なり」とある。

 

橘良殖(864~920)

橘常主の孫。橘安吉雄の次男。母は飛鳥虎継の娘。仁和3年(887年)従五位下に叙され、寛平2年(890年)伊賀守、同7年遠江守に任ぜられ従五位上に進み、昌泰2年(899年)美濃介、延喜4年(904年)播磨介、同6年越前守に任ぜられた。同14年従四位下に進み近江権守に任ぜられ、同17年従四位上、同19年参議・宮内卿、同20年美濃権守に任ぜられる。在官2年。同20年2月28日没。

 

橘忠望

橘良殖の曾孫、橘純行の男。近江守に任じ、従四位上に叙す。寛和元年(985年)4月23日、賀茂祭の内蔵寮使代官を務む(「小右記」)。その後正暦3年(992年)定子の二条第造成を行事する(「諸院宮御移徒部類記」)。

橘良基(825~887)

橘常主の孫。橘安吉雄の男。仁寿3年(853年)左京少進に任ぜられ、次いで民部少丞に移った。天安年間(857年~859年)の初め、大宰大弐であった正躬王に少監就任を請われたが応じなかった。このため、文徳天皇の怒りに触れ、官を解任された。天安2年(858年)清和天皇が即位すると、貞観元年(859年)木工少允に復活し、次いで式部大丞に昇進。同6年正月、従五位下に叙せられ、伊予権介となり、治績があがった。同11年正月、従五位上常陸介、同16年頃、越前守へと累進。元慶3年(879年)頃、丹波守にうつる。政績によって同6年正月、従四位下へと一階を越えて昇叙。同8年5月、信濃守。律令制を維持しようとする治政に評価が高く、良吏の名を欲しいままにした。しかし直情径行的な硬骨漢のためか、仁和元年(858年)4月、詔使対捍の行為にで、刑部省で訊問されたが推断が終わらない仁和3年6月、卒去した。清廉・清貧を治政の信条としたため、家に寸儲なく、中納言在原行平の賻する絹布で殯葬することができた。

 

橘澄清(861~925)

寛平9年(897年)叙爵。蔵人、伊予守などを経て、延喜13年(913年)参議、左大弁。勘解由長官を兼ねる。同21年、中納言、従三位。「延喜式」の編者の一人。甥藤原道明と共に道澄寺を建立。

 

橘巌子

平安時代中期の女性。中納言橘澄清女。摂津守藤原中正室で、安親・時姫(藤原兼家室)の母。橘氏は橘恒平を最後に公卿となる人物が出ず、氏長者として氏人より叙爵者を推挙する是定となる人物がいなかった。そこで厳子の外孫にあたる藤原道隆が橘氏以外で初めて是定の役を果たすことになった。以後、橘氏の是定は藤原氏の嫡流あるいは源氏長者が務めることになった。

 

橘恒平(922~983)

橘良殖の孫。従五位上・右少将橘敏行の三男。母は従二位下定国王の娘・和子王女。天慶9年(946年)右将監、天暦2年(948年)播磨権大掾に任ぜられ、同4年従五位下に叙された。同5年越前介、同10年玄蕃頭、応和元年(961年)豊後守、康保3年(966年)に従五位上に進み、その後も、尾張守、美濃守、木工頭、近江介、近江権守、修理大夫を歴任。天元4年(981年)正四位下に進み永観元年(983年)参議に任じられる。同年11月15日没。

談山神社 増賀上人行業記絵巻
談山神社 増賀上人行業記絵巻

増賀(917‐1003)

橘恒平の男。狂人をよそおって名利を逃れ,道心を貫いた高僧。天台宗比叡山中興の祖といわれる慈惠僧正(元三大師良源)の弟子。応和3年(963年)如覚の勧めで多武峰に住し、「摩訶止観」「法華文句」を講じ、「法華玄義鈔」「無限念仏観」などを著した。隠棲以後は人との交わりを極力避けた。宮中に汚物を落とすといった逸話が奇矯な振る舞いとして多くの説話集に語り伝えられているが,それは彼がいかに俗世を拒否したかの現れであり,古代から中世にかけての遁世者や浄土願生者にとっては,それこそが聖の理想像と考えられた。

橘惟憲

橘良殖の曾孫、橘良平の男。正暦元年(990年)8月、散位。従五位下。美濃国固関使(「世紀」)。

 

橘儀懐

橘良殖の曾孫、橘廣平の男。河内守となり、従五位下に叙す。寛仁元年(1017年)。また紀伊国司中、高野山金堂再建に尽くす(「紀伊続風土記」)。

 

橘頼平

橘儀懐の男。紀伊守、備中守、摂津守を歴任し、特に備中治国の功により寛仁4年(1020年)従四位上に叙す。また紀伊国司中、高野山金堂再建に尽くす(「紀伊続風土記」)。

 

橘元愷

橘忠望の男。長和元年(1012年)閏10月、大嘗会御禊の御前に奉仕する(「御堂」)。同2年、禎子内親王の三夜産養に貫首となり、廻粥問答する(「小右記」)。長門守、正四位下に叙す。

 

橘為愷

橘忠望の男。寛弘2年(1005年)7月8日、肥後守に在任中、妻(小槻忠臣の女)の近親にあたる小槻良材によって、殺害される。良材も自殺したため、事情は明らかでない(「小右記」)。

能因塚
能因塚

橘永愷(能因)

生没年未詳。橘忠望の男。的確な資料に乏しいが、文章生の頃、肥後進士と号し、長和2年(1013年)ごろの出家と思われる。動機については歌集によれば恋人の死と見られる。出家後は、摂津古曽部に隠棲し古曽部入道と呼ばれた。しかし、花盛りのころは上洛し大江公資の五条東洞院家に寄宿した(「三十六人伝」)。各地の歌枕を広く尋ね行脚し、代表歌「都をば」の歌は、家集に万寿2年(1025年)春「白河の関にやどりて」とみえるとおり、実際に下向したと思われる。「後拾遺」以下の勅撰集に65首入集しており、家集「能因法師集」私撰集「玄々集」、歌学集「能因歌枕」がある。所持していた「能因本枕草紙」は貴重な文献資料である。

 

橘元任

橘永愷(能因)の男。文章生、少内記を経て、永承元年(1046年)叙爵。藤原兼房、日野資業と親交があった。「後葉集」の作者。

 

橘能元

高橘太と称す。橘元任の孫、橘忠元の男。従五位下、楽所預。太鼓の奏者として「教訓抄」に名が見える。天仁2年(1109年)「修理大夫顕季歌合」に出詠。「袋草紙」「続詞花集」等に見える「橘栄職」を同一人とする説もある。

 

橘成元

橘元任の孫、橘忠元の男。五位近江掾。永保元年11月6日近江少掾。(「勅撰作者部類」)延久4年(10722年)3月19日に能登守藤原通宗により開催された「気多宮歌合」に参加。「金葉和歌集」に歌あり。

圓教寺 性空上人坐像
圓教寺 性空上人坐像

橘善行(性空)

橘島田麻呂の曾孫である従四位下美濃守橘善根の男。名は善行または方角という。母は源氏の流れをくむ保津姫。延長6年(928年)生まれ、承平六年、十歳の時元服し従五位に叙位さらに春宮大夫に任命された。書写山円教寺、弥勒寺を開基したことで有名。寛弘4年(1007年)80歳の生涯をとじるまで一心に修行に励み、大変多くの人々にその徳を慕われた。上人の弟子延昭の書いた「悉地伝」には上人の在世中の20にわたる徳行、奇特が載せられているが、その他にも高僧にありがちな超人的な伝承が多い。

 

橘眞主(熊野眞主)

橘島田麻呂の男。熊野連多賀志麿の養子となり熊野国造家を嗣ぐ。橘姓和田氏に繋がる。

 

橘廣方(熊野廣方)

橘眞主の曾孫。牟婁郡大領、熊野本宮大社神職、従五位下右衛門尉。寛平9年(897年)宇多天皇の熊野行幸時に行長として行宮に奉仕し、その功労により郡司に任ぜられる。昌泰3年(900年)従五位下に叙爵すると同時に橘良殖の猶子となり橘姓へ復す。娘が穂積姓鈴木良氏に嫁し、鈴木重氏が生まれる。この鈴木氏は熊野速玉神社神職でここから雑賀氏が発生する。

月岡芳年画 清姫
月岡芳年画 清姫

清姫

橘眞主の玄孫。眞砂清次の女。安珍・清姫のモデルとなった人物。「大日本国法華験記」で「紀伊国牟婁郡悪女」とされたが「道成寺縁起絵巻」では清姫の名は登場せず、浄瑠璃で演じられるようになって名前が定着した。

 

橘清友(758~789)

橘奈良麻呂の男。嘉智子(嵯峨天皇の皇后)の父。若くして沈厚、書籍を渉猟し、身長六尺二寸、眉目画くがごとく、挙止はなはだ雅であったという。宝亀8年(777年)20歳の若さで選ばれて接待した渤海大使史都蒙は、人相を見て子孫は繁栄するが32歳で災厄があると語った。後に田口氏の女を娶って嘉智子をもうけ、延暦5年(786年)内舎人となったが、同8年、32歳で病没す。後に太政大臣正一位を追贈される。「延喜式」に墓所は山城国相楽郡の加勢山墓(加勢山は京都府相楽郡木津町鹿背山)にありというが、定かではない。

 

橘氏公(783~847)

橘清友の男。母は粟田小松泉子。氏公の位階からみると弘仁6年(815年)正月、従五位下に叙せられて以来、同8年正月、従五位上、同10年正月、正五位下、同11年正月、従四位下、同13年正月、従四位上、同14年4月、正四位下、天長10年(833年)正月、従三位と叙位をかさね、承和12年(845年)正月には従二位に達した。特に嵯峨天皇の弘仁年間(810~824年)は2年未満に一階の早い昇叙をえている事が注目される。官歴を参議就任以前からみると、弘仁4年(813年)正月、左衛門大尉、同年11月、右近衛将監、同6年正月、左衛門佐、同7年正月、兼因幡介、同年11月、兼美作守、同8年正月、但馬守、同10年2月、右馬頭、同11年正月、右衛門督、同13年11月、右近衛中将、天長2年(825年)正月、刑部卿、同年3年7月、宮内卿、同6年正月、兼但馬守に任ぜられている。一時、武官の任を離れることもあったが、天長10年3月には非参議で右近衛大将の顕職についた。氏公はこのように武官を中心に昇進した一方、弘仁元年(810年)3月の昇殿以来、同5年正月に蔵人、同13年正月に蔵人頭(翌14年正月辞任)と終始嵯峨天皇の側近にあって重んじられた。特に藤原薬子の変直前の蔵人所設置と時期を接して昇殿を許されたことは、妹の嘉智子(嵯峨天皇皇后)の影響が大きい。氏公はその後も昇進を続け、承和11年7月右大臣に昇り、井手右大臣といわれた。同14年12月、従二位右大臣をもって65歳で薨じ、従一位を贈られた。なお、氏公は妹と図り、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立した。

 

橘峯継(804~860) 

氏公の長子。天長9年(832年)正月従五位下を授けられ、以後、累進し、斉衡2年(855年)正月、正三位に昇った。特に、仁明朝の前半における位階の上昇にめざましいものがあった。峯継が少年時代に仁明から寵幸をうけたことが、次のように伝わっている。峯継は身長6尺に余る偉丈夫であったが、幼少の頃から愚鈍で文書を好まず、仁明はこれを惜しみ嘆いたところ、ひそかにこれを聞いた峯継は深く反省し、学問に専心しその努力の結果が官歴に反映することとなった。峯継は武官を遷任する一方で、蔵人・蔵人頭を歴任して仁明の側近にあって重んじられ、参議・中納言へと昇進する出世コースをたどった。貞観2年(860年)10月、57歳で薨じた。

 

橘眞直

橘峯継の男。内舎人、左馬大允を経て、承和7年(840年)従五位下。仁明天皇の時代は、肥後介・筑後権介と地方官を務めた。その後、中務少輔、右兵衛佐、右近衛少将を歴任し、嘉祥2年(849年)従五位上、嘉祥3年(850年)正月には正五位下と続けて昇叙された。仁明天皇の崩御後間もない嘉祥3年(850年)4月に阿波守、翌嘉祥4年(851年)正月に相模権守と、文徳天皇の時代は再び地方官を務める。同年11月従四位下に叙せられるが、翌仁寿2年(852年)6月20日卒去。享年37。最終官位は相模権守従四位下。

 

橘實利

橘氏公の曾々孫。橘峯雄の曾孫。神祗伯橘春行の男。蔵人、少納言、大舎人頭、従四位上。天徳4年(960年)「内裏歌合」の後宴で歌出しを務めた「右京大夫実利」は同一人物か。

 

橘正通

橘實利の男。源順に師事し、具平親王の侍読を務めた。天六3年(972年)「女四宮歌合」、貞元2年(977年)「三条左大臣家歌合」応和3年(963年)「善秀才宅詩合」に出詠。詩巻一帙があったとされるが、現存しない。「本朝神仙伝」に伝が記されている。正通の子は田邊氏となる。

 

橘在列

橘峯継の曾孫。橘秘樹の男。若くして大学に入学。才識を称され、30歳で文章生になったが、門閥を持たぬため学問を断念、安芸介となる。後に弾正少弼に至り、天慶8年(944年)比叡山に登り出家。天暦8年、弟子の源順が、「沙門敬公集」を編み、その序に伝が見える。詩句は「扶桑集」「作文大体」「和漢朗詠集」「類聚句題抄」「新撰朗詠集」「擲金抄」などに入集し、廻文詩や離合詩などの遊戯的作品も残っている。

 

橘氏人

橘清友の男。弘仁13年(822年)11月、従五位下を皮切りに累進し、承和3年(836年)2月、大蔵大輔に任じられ同6年正月、従四位上に叙せられた。承和の変後も昇進を続け、承和9年8月、尾張守のまま、刑部卿に任ぜられた。同10年2月、尾張守兼神祇伯となり、同11年正月、正四位下に叙せられ、翌12年7月卒した。

 

橘常蔭

「尊卑分脈」「橘氏系図」などにみえず、続柄未詳。橘氏人の男か。承和15年(848年)正月、従五位下に叙せられ、嘉祥3年(8500年)4月、讃岐権介、仁寿元年(851年)4月に次侍従、同2年正月に讃岐介、同4年2月に大判事に任ぜられた。斉衡3年(856年)正月に従五位上に叙せられ、同年7月に刑部少輔となったが、翌月、縫殿頭にうつる。天安元年(857年)2月、右兵衛権佐に任じられた。

 

檀林皇后(橘嘉智子)(786~850)

嵯峨天皇の皇后。橘清友の女。母は田口氏の女。仁明天皇並びに正子内親王(淳和天皇皇后)の母。嵯峨天皇がまだ親王の時、その妃となり、嵯峨天皇即位ののち弘仁6年(815年)7月皇后となる。承和9年(842年)7月、承和の変の際は、その摘発者となる。嵯峨天皇崩御後は、太皇太后として、重きをなし、離宮朱雀院(平安右京四条一坊)を経営した。嘉智子は仏教に篤く、常に多くの宝幡・繍文袈裟などを作り、後に僧恵蕚(えがく)を唐に派遣して、これらを唐の僧侶や五台山寺に喜施した。一方、京都西郊の嵯峨野に檀林寺を創建した。嘉祥3年(850年)5月、薨じた。時に65歳。

 

仁明天皇(810~850)

54代天皇。父は嵯峨天皇。母は橘嘉智子。双子の妹に正子内親王がいる。天長10年(833年)、叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位。当初、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子に立てたが、承和9年(842年)の承和の変により、恒貞は廃せられ、代わりに仁明天皇の第一皇子道康親王(文徳天皇)が立太子した。これには自らの息子に皇位を継がせたい帝の意思と、それを利用して甥である道康を立太子させたい藤原良房の陰謀があったと言われている。承和10年(843年)、文室宮田麻呂が謀反を企てているとの告発を受け、宮田麻呂一族を流罪に処した。嘉祥3年(850年)3月19日に病により、文徳天皇に譲位。同年3月21日に崩御。

 

正子内親王(810~879)

54代天皇。父は嵯峨天皇。母は橘嘉智子。双子の兄に仁明天皇がいる。大同4年(810年)に誕生。弘仁14年(823年)頃、叔父の淳和天皇に入内、3人の皇子を産んだ。天長4年(827年)皇后に冊立。天長10年(833年)に淳和天皇が譲位、皇太后となる。同時に第一皇子の恒貞親王が仁明天皇の皇太子に立つ。承和7年(840年)、淳和上皇の崩御に伴い落飾。同9年(842年)、恒貞親王が承和の変で廃太子、正子内親王も出家。仁寿4年(854年)太皇太后。貞観2年(860年)天台座主「円仁」より受戒、法名は良祚。元慶3年(879年)崩御。

 

橘安麻呂(739~821)

橘奈良麻呂の第一子。母は大原真人明娘。延暦6年(787年)正月、従五位下に叙せられ、以後甲斐守、少納言、内蔵頭などを歴任。同24年正月、従四位下に至り、同月、左中弁となる。更に同年9月常陸守に転じるも、母の病により同年10月4日申請により、備前守へ同月11日播磨守となる。大同2年(802年)伊予親王の外戚という理由で伊予親王事件に巻き込まれ解任。のち弘仁元年(810年)11月従四位上、さらに同年10年正月、正四位上に叙せられたが、同12年7月、卒去。

橘遠保

生年未詳。越智玉守の後裔で橘姓を名乗っていた橘実保の孫(諸説がある)。橘貞保の子。橘安麻呂の後裔である橘成行の養子。天慶2年(939年)、東国で平将門が乱を起こし、時を同じくして西国では藤原純友が乱を起こしたため朝廷は小野好古らに追討を命じた。その際、天慶4年、敗兵をまとめて逃れようとする純友を討った。この功により、村上天皇から天徳4年(960年)河内国・備中国を賜る。

 

<参考系図>

越智玉守-越智益興-越智益連-越智実連-橘実遠-橘実幸-橘実保-橘貞保-橘遠保

 

橘実遠の時、伊予国司橘清正から橘姓を賜るとの記録がある。但し、伊予国司橘清正は見当たらない。

橘保氏(井堤保氏)

橘遠保の男。保氏が井堤氏家祖となる(諸説がある)。正六位下、院判官代。摂河泉三州押領使。井堤の家名は橘ゆかりの井手の堤からの呼名と思われる。この家系から楠氏・和田氏に繋がる。

 

橘行順

生没年未詳。橘遠保の男。長徳4年(998年)3月、石清水臨時祭の舞人であったが、障りを申す。長保3年御潅仏に祗候す(「権記」)。寛弘8年(1011年)2月、兵部丞。同年8月、式部少丞。大嘗会の悠紀行事となる(「小右記」)。寛仁2年(1018年)3月、斎部正賢の土地四段を買う(「東文書」)。

 

橘貞高(矢野貞高)

橘行順の男。伊予国生まれ。伊予矢野氏家祖。

 

井堤安基(井堤保基) 

橘保氏の孫。井堤諸隆の男。井堤切山大夫判官代。また赤坂郡司と号す。子に兼行がある。安基の名で記されているが保基ではなかったか。父も諸高ではないか。

 

公範(橘義範・橘氏範) 

生没年未詳。康平年間、奥州衣川への遠征に源頼義に申従し軍功をたて、義の字を賜る。この時、源家弓法張子房軍法を伝授される。河内源氏との関係から河内を基盤としていたと考えられる。

 

 

橘公光(橘公満) 

生没年未詳。橘則光の子である橘季通の孫の橘光綱の養子となった可能性がある。子の橘公長が平知盛の家人であったが、源頼朝に就く経緯にち仲介となった加々美長清(小笠原長清)であるが、その父は加々美遠光で河内源氏の中で勢力を持っていた源義光の子孫であり、また滝口の武士として朝廷との接点があった人物である。橘光綱は河内守ではあったが、平家全盛期でもあり経済的な基盤を求めて養子を受け入れたと考えられる。

 

橘公盛

生没年未詳。橘公光の男。讃岐国司藤原季能の目代。右馬太夫。後に下野国目代か。

 

橘公清

生没年未詳。橘公盛の男。讃岐国目代。妻は八田宗綱の女。

 

橘公頼(氏家公頼)

生没年未詳。橘公清の男。右兵衛尉。八田宗綱の子である宇都宮朝綱の猶子になり、氏家の地を領して、氏家を名乗った。

 

橘公長

生没年未詳。橘公光の男。右馬允。元は左兵衛督平知盛の家来であったが治承4年(1180)12月蔵人頭平重衡が関東を攻めようとした時に従軍することとなっていたが、平家の衰運を感じ、また先年、源爲義の家来の長井斎藤別当実盛、片桐小八郎と喧嘩をした時に、廷尉爲義がそれを怒りもせず許し、むしろ自分の家来の斎藤と片桐を叱責したことへの恩を忘れることなく源氏へ忠誠し鎌倉へ下る。(「吾妻鏡」)子孫に小鹿島、渋江、中村、牛島などがある。

 

橘公忠

生没年未詳。鎌倉初期の武士。橘公長の長男。源範頼の家人。建久4年(1193年)8月源範頼の配流先の伊豆国、浜の館にて討たれる。

 

橘公高(楠木四郎) 

生没年未詳。橘公忠の男。「楠氏研究」を著した藤田精一によると、楠木四郎は「ならの橘四郎公高」ではないかと推測されている。「承久軍物語」に承久の役の勢多合戦において鎌倉方の勇士として登場する。

 

橘公仲(奈良五郎) 

生没年未詳。橘公長の五男。

 

橘遠茂

生没年未詳。平安時代末期の武士。駿河国目代。治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵すると、平家方として源氏に敵対。同年10月、甲斐源氏攻略のため、長田入道父子とともに戦うが、武田勢に生虜された。遠茂の男為茂は文治3年(1187年)に北条時政の計によって、富士郡田所職に安堵された。(「吾妻鏡」)駿河橘氏家祖。

 

橘清野(750~830)

橘奈良麻呂の男。弘仁3年(812年)従五位下に叙爵。嵯峨朝末の弘仁13年(822年)従五位上。次いで従四位下と1年間に4階の昇叙を受けた。天長2年(825年)従四位上。天長6年(830年)12月19日卒去。「日本後記」によると、質素な性格で、欲が少なかったとされ、交野に隠棲し朝廷に出仕しようとしなかったが、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子の伯父であったことから高位に昇ったと記している。

喜撰

橘奈良麻呂の男か。僧・歌人・六歌仙の一人。宇治山に住んでいた僧であることと、下に掲げる二首の歌以外は詳細は不明。「わが庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」(古今和歌集)「木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも」(玉葉和歌集)

 

橘入居

橘奈良麻呂の男。延暦2年(783年)正月、従五位下に叙せられ、同年5月、近江介に任ぜられた。のち同4年10月に中衛少将、同7年6月に遠江守となる。同14年7月、左兵衛佐で若狭・近江両国の駅路を調査する。同15年3月、従五位上で左少弁兼左兵衛佐にあった時、斎王を迎えるために派遣される。同年8月、従五位上左兵衛佐で右中弁を兼ねる。同16年2月、正五位下播磨守(左兵衛佐・右中弁はもとのまま)となり、同18年4月に正五位下で左京大夫に任命された。同19年(800年)2月、従四位下右中弁で度二人を賜わる。その7日後の2月10日、卒した。

 

橘永名(780~866)

橘入居の男。天長2年(825年)正月、46歳で従五位下に叙せられ、大蔵少輔に任じられた。同3年、春宮大進兼丹波権介にうつる。そののち、同9年、従五位上、同10年3月、正五位下、同年11月、従四位下という早さで昇叙され、翌12月には刑部大輔となる。承和のはじめ頃、播磨守となり、承和4年12月、右兵衛督を兼ね、同8年11月、従四位上となる。しかし、承和9年7月、弟の逸勢が承和の変で逮捕されたため、自首し解任され、京外に配された。のちに逸勢の復権過程と歩調を合わせて弾正大弼・神祇伯を歴任、貞観2年(860年)11月、従三位に昇叙。貞観8年5月、87歳で卒した。

橘逸勢

橘入居の男。延暦23年(804年)空海・最澄らとともに遣唐使に従って留学したが、唐の文人はその才をほめて橘秀才とよんだという。帰国後、従五位下に叙せられが、老病を理由に出仕しなかった。承和7年(840年)4月、但馬権守となる。同9年7月、嵯峨太上天皇が重態の折、伴健岑とともに皇太子恒貞親王を擁して東国に入ろうと謀ったという理由で7月17日、逮捕され拷問されたが罪に服することを拒否した。同月28日死を減じて伊豆へ遠流となったが、配流の途中、遠江国板築駅(静岡県引佐郡)で8月13日病没した。嘉祥3年(850年)5月、正五位下、仁寿3年(853年)5月、従四位下を追贈、貞観5年(863年)5月の神泉苑(平安左京三条一坊にあった。)での御霊会では祟道天皇・伊予親王らとともに祭られた。書をよくし、嵯峨天皇・空海とともに三筆と称せられる。